江風(こうふう) − 【1】 BACK | INDEX | NEXT

2014/09/20 update
「駄目だろうかなぁ」
 鬢の白い、細身で骨太な侍が言う。
「駄目ですよ」
 紫の衣を着た、壮年の尼僧が答える。
 川風が、心地よい。
 千曲川(ちくまがわ)の岸辺、緋毛氈(ひもうせん)の上だった。
「折戟セツゲキ、沙スナに沈みて、鉄未だ銷ショウぜず。自ずから磨洗を将モって、前朝を認む……」
 老いた、だが矍鑠(かくしゃく)たる侍が、川上を見据えて吟ずる。
「駄目です。杜牧の『赤壁』など引っぱり出してきても」
 品の良い尼僧が、茶を点てながら言う。
「この間な、鏃(やじり)を拾ったのだよ……此処で」
 六十を過ぎても隠居の許しをもらえない「戦国大名」が、青磁の茶碗を手にした。
「自ずから磨洗を将って、永禄(えいろく)を認む……で、ございますか?」
 夫を二度も失い、一人娘の嫁ぎ先を頼って来た、京の都きっての才女が微笑んだ。
「うむ、だからなぁお通どの……」
「駄目ですよ」
 小野お通は静かに、厳しく、応えた。
 
 初夏、四月。寛永(かんえい)六年(一六二九)、松代。
 此処は川中島である。永禄四年(一五六一)に、武田信玄と上杉謙信が大戦をした場所だ。
 そこに、小さな茶席が設えられた。
 ……天下は、太平だった。
 
「駄目……であろうかなぁ、右近」
 老大名は、すねた子供のような目で、控えていた家臣に訊ねる。
「なりません」
 にべもない。
 鈴木右近は十八年上の主君をたしなめた。
 結局、真田信之の「計画」は、誰の賛同をも得られない形となった。
 広く意見を求めれば同意する者は多いだろう。しかし推し薦めようとする者は、まず居まい。
「良いと思うのだがなぁ」
 茶を飲み干した信之は、千曲川の流れに目を転じた。
「この辺りに碑を建てるのだ。別段、良い石を使うわけではない。むしろ、山から切り出した、素朴な物がよい。そこに我が父の名を刻む。……武田の先陣での闘い振りを讃える文を、ちょっと添えて。父の名が川上を向くようにして据える……」
 信之の耳には、小さな石碑に川風の当たる音が聞こえていた。
「良い景色になりましょうね」
 お通がにこりと笑った。
「お通どの!」
 信之の頬がにわかに赤らみ、直後その赤みが引いた。
「ですが、駄目です」
 お通は首を横に振った。
 真田信之の父は、真田信繁の父でもある。
 すなわち、徳川家に最後まで逆らった、豊臣の将・真田幸村の父である。
 そしてそれは、徳川の軍勢を二度も壊走させ、豊臣秀吉をして「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と言わしめた、真田昌幸その人なのである。
「ああ、そう言えば殿は早うに隠居なさりたいと仰せでしたな」
 鈴木右近がぽんと手を打った。そして、
「大殿の碑、お建てなさいませ。間違いなく藩政からは退くことができますぞ」
飄々とした悪戯な笑顔を、主君に向けた。
 いかに徳川の忠臣・信之が敬愛する父とは言え、そして、徳川の世とは関わりなき戦の記念とは言え、領内に真田昌幸の碑を建てようものなら、真田松代藩は改易間違いない。
「解った、解った。諦める、諦める」
 信之はがっくりと肩を落とした。
 そうしてもう一度川を眺めた。
 溯ったその先に、上田の城と、真田の庄がある。
【終】
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