小懸 ―真田源三郎の休日―【あらすじ】 − 登場人物紹介 【2】 BACK | INDEX | NEXT

2014/09/26 update
【真田源三郎信幸】
永禄9年(1566年)生まれ。
信州の豪族「真田」の頭領・昌幸の嫡男。
幼年期は武田家に人質として預けられ、上野国で過ごす。
武田勝頼の嫡男・武田信勝と同時に元服。
武田家滅亡後は織田家に従属した父に従い、滝川一益の旗下となり、信濃と上野の境近くにある山城・岩櫃城に入る。
母(山之手殿)の縁者からもらった横笛を大切にしている。
背が高いが、それをある種「劣等感《コンプレックス》」としている。
この物語の語り手。

【前田宗兵衛利貞】
天文10年(1541年)?生まれ。
織田家家臣。滝川一益の一族衆、且つ、前田利家の「義理の甥」。
実父は滝川一益の甥(あるいは従兄弟)の滝川益氏。養父は前田利家の長兄である前田利久。
一流の武人であり、一流の文人でありながら、一流の悪戯者。
体つきは大柄。
年齢は40代だが、大変若々しく(ある意味で子供っぽく)見える。
源三郎を妙に気に入っている。

【真田昌幸】
天文16年(1547年)生まれ。
源三郎の父。前名は武藤喜兵衛。幼名は源五郎。
信濃の小豪族・真田家の頭領。
父の代から武田家に仕えていたが、その滅亡後、織田家に従属。
体つきは小柄。その風貌は、まだ30代後半であるにも関わらず老成している。
滝川一益にいたく気に入られている様子。
大層な音痴(音程調整の出来ないタイプの「調子外れ」)。
這い寄る混沌。

【真田源二郎】
永禄10年(1567年)?生まれ。
源三郎の同腹で年子の弟。(諸説有り)
初名を弁丸。元服後の名は信繁。後の世では幸村と呼ばれる……のだが、武田の滅亡などの煽りを食って、天正10年(1582年)現在まだ正式には元服せず。
体が小さく、父親似の風貌をしている。
織田家従属の証人(人質)として、木曾義昌の元(木曽福島城)へ行くことになった。
実は読書家。

【真田照】
真田昌幸の五女。源三郎の異腹の妹で、昌幸のお気に入りの娘。
羽柴秀吉配下で石田三成の義弟・宇多頼次との縁談が進んでいる。
織田家従属の証人(人質)として、滝川一益の元(厩橋城)へ行くことになった。
※ちなみに昌幸の正室・山手殿には宇多頼次の伯父である宇多頼忠(元は信濃国守護・小笠原氏の家臣)の娘という説がある。(諸説有)
 また、石田三成の正室(三成から「うた」と呼ばれていた)も宇多頼忠の娘とされる。
 つまり、三成の昌幸は義兄弟という関係にある。
※昌幸五女は「於菊姫」というお名前ですが、この物語では「於照姫」とさせていただいております。

【望月千代女】
甲賀流忍者上忍「甲賀望月氏」の出身の女忍者・くノー。
望月氏本家当主・望月盛時に嫁した。
盛時死後、ノノウ、信濃巫女などと呼ばれる歩き巫女の頭領となる。
武田家の庇護の元、ノノウを使っての諜報活動を行っていた。
武田家滅亡後、真田と手を組む。

【垂氷《つらら》】
13.4歳とおぼしきノノウの娘。
源三郎は、武家の出身と見ている。
自称・千代女の秘蔵っ子。
昌幸と千代女の命令で「源三郎の武運長久を祈祷するため」岩櫃城に入る。
健脚を生かして他のノノウや草(忍者)などとの繋ぎ役をつとめる。
若干腐女子気味。

【矢沢右馬助頼綱】
薩摩守と称する。
昌幸の叔父(父の弟)、源三郎の大叔父にあたる。
老いてなお盛んな猛将。柄物は長槍「小松明」。
滝川益氏の与力として沼田に入る。

【矢沢三十郎頼康】
頼綱の嫡子。昌幸の従兄で、源三郎にとっては従兄伯父《いとこおじ》にあたる。
一見すると線の細い優男だが、じつは父に似た豪の者。柄物は三尺三寸五分の野太刀。
木曾義昌の証人となった源二郎に従って、木曽へ赴く。

【出浦対馬守盛清】
もとは北信濃の豪族で、信濃の支配が武田家であった頃はその配下に入っていた。
武田滅亡後は織田に従属し、森長可旗下に。

【禰津(祢津)幸直】
通称名(?)式部。後に助右衛門尉、志摩守と称する。
真田信幸の乳兄弟。矢沢頼綱配下。後年、矢沢頼康の娘を妻としたので、信幸にとっては「義理の又従兄弟」でもある。
滅多に我が侭を言わない信幸の、滅多に言わない我が侭の最大の犠牲者。

【織田上総介信長】
天文3年(1534年)生まれ。数えて49歳。
第六天魔王を自称する、戦国の覇者。
宿敵であった武田を滅亡させ、その支配地を関東まで広げる。
武田討伐後、関東・信濃の運営を家臣達に任せ、本領である安土に戻る。
中国討伐に出ている羽柴秀吉から援軍要請を受けると、惟任光秀に出兵を命じた。

【滝川左近将監一益】
大永5年(1525年)生まれ。
織田信長の寵臣。「先陣も殿軍も一益」と称されるほどの猛将で、鉄砲の達人。
武田家滅亡後、その支配地であった上州を領すこととなり、厩橋城に入る。
昌幸を気に入り、「鉄兵衛」というあだ名を付ける。

【滝川儀太夫益氏】
大永7年(1527年)生まれ。
滝川一門の武将。一益の甥、あるいは従兄弟とされている。
前田利貞の実父。(利貞の実父とされる人物には諸説あり)
武田家滅亡後、沼田城に入る。

【滝川三九郎一積】
滝川一益の長男一忠の嫡男。

【木曾伊予守義昌】
天文9年(1540年)生まれ。
南信濃の豪族。居城は木曽福島城。
武田信玄の娘・真理姫を正室に迎えることによって、武田家の一族衆となる。
信玄の死後、武田勝頼に反旗を翻して織田信長に付く。
この時、証人に取られていた母親と子供たちを処刑されている。

【森武蔵守長可】
永禄元年(1558年)生まれ。
織田信長の寵臣。
苛烈な武者振りから「鬼武蔵」と呼ばれ、畏れられている。
武田滅亡後は北信濃を領することとなり、海津城(後の松代城)を居城とする。
成利(蘭丸/乱法師)、長隆(坊丸)、長氏(力丸)、忠政(千丸)、という弟がいる。

【北条氏政】
天文7年(1538年)生まれ。
後北条氏当主。正室は武田信玄の娘・黄梅院。
当初武田家とは同盟しており、信玄存命中は両家の関係は良好であった。
しかしその死後、織田信長が武田領攻略に乗り出すと、これに呼応して武田領に侵攻。
武田家滅亡に多大な影響力を及ぼすものの、これに対する織田からの報奨が無いに等しく、不満を抱えている。

【徳川三河守家康】
天文11年(1543年)生まれ。
三河の豪族・松平氏の出身。(良く調べたら、天正10年あたりの官位は「右近衛少将」だったんらしいですが、とりあえず「三河殿」で統一します)
織田信長と同盟を結んで(事実上は客将として仕えて)おり、「共同」で武田攻めを行う。
武田の親族衆であった穴山信君を調略して謀反させるなどして、武田に多大な損害を与える。
武田滅亡後、駿河国を拝領。甲斐の仕置を終えて安土城へ戻る途中の信長を駿府で接待する。
信長はこの接待の返礼として、家康と穴山信君を安土城へ呼び、京・大坂への遊山に誘った。

【惟任日向守光秀】
享禄元年(1528年)? あるいは永正12年(1515年)? 生まれ。(どちらにせよ、信長よりも年上)
もとは源氏の流れを組む土岐氏の一族である明智氏。通称は十兵衛。
天正3年(1575年)、朝廷より日向守の官職と惟任の氏を賜って以降、惟任日向守を名乗る。
織田信長の重臣で、主に山陰・畿内の支配を行う。
戦上手であり、また築城の名手でもある。
武田討伐後、信長に従い安土へ戻り家康を饗応。饗応役の任を解かれた後に本拠地滋賀坂本城に戻っていた。
なお、信長が付けた仇名の「キンカ頭(禿)」は光秀の漢字を分解し、秀の冠と光の足を重ねると「禿」になる、という高度で遠回しなシャレという説がある。

【羽柴筑前守秀吉】
天文6年(1537年)生まれ。
始めは木下姓を名乗る。
通称名は藤吉郎。仇名は猿。信長からは「禿鼠」とも呼ばれる。
織田信長の寵臣。
自出は謎に包まれているが、身一つで成り上がった、たぐいまれな才覚の持ち主。
城攻めの名手。
信長の命で中国討伐に出ているが、苦戦しているとして援軍を要請する。

【石田三成】
永禄3年(1560年)生まれ。
幼名は佐吉。
近江国の土豪の出身で、羽柴秀吉の子飼いの家臣。
妻は宇多頼忠の娘であり、一説に真田昌幸正室の妹とされる。
従ってその説を取れば、源三郎達にとって三成は叔父ということになる。

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小懸 ―真田源三郎の休日―【本編】

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