小懸 ―真田源三郎の休日―【本編】 − 【2】 BACK | INDEX | NEXT

2014/09/26 update
 後々弟から聞いたのですが、宗兵衛殿は握り拳を結んで、手の甲に固く盛り上がった骨の先で、私の頭を軽く小突いておられたのだそうです。
 拳骨ほど恐ろしいものは無いというのが、私の持論です。
 殴打の武器としても、他のどの道具よりも自分の思うた通りに操れますし、防御の術としても、どのような楯や鎧よりも軽く取り回せます。
 己が痛みを堪えさえすれば(そして、拳一つ潰してでも勝ちたい、生き残りたいとの思いがありさえすれば)これほど扱い易い武具はないのです。
 ただ、この時の宗兵衛殿には、拳を武器として使う気は無かったことでしょう。おそらくは、からかい半分に私の頭を小突いていただけです。
 所がそのからかい相手が、
「むぅん」
 と唸ったかと思うと、突然ゴロリと転がって、そこからぴくりともしなくなったとなれば、驚かないはずがありません。

 いえ、何分私は気を失っていたのですから、実際の所は判りかねるのですが、多分驚かれたことでしょう。
 宗兵衛殿ばかりでなく、一益様も、ご一同様も、そして我が父や弟も、皆驚いたはずです。あるいは、私の小心振りに呆れたことでしょう。
 私は気を失ったまま、我らの仮住まいの館へ戻りました。
 無論、我と我が足で歩いたわけではありません。
 私は背負われて帰ったのです……父の背に。
 そう、父は馬にも乗らず、私を負って歩いた、らしいのです。
 らしい、という遠回しな言い様なのには理由が二つあります。
 当の私がそのことにまるきり気が付かなかったからという、情けない理由が一つ。もう一つは家中の者が「そのこと」について口を閉ざしているということです。
 茶会の翌朝、私は
「どのように戻ったものでしょう?」
 という、至極当然な疑問を口にしました。
 これに答えてくれる者は一人としておりませんでした。皆口ごもったり、うつむいたり、私と目を会わそうとしません。
 ただ源二郎だけは私から目を反らさずに、生真面目くさった顔つきで、
「兄上は父上の『お背な』にぴたりと貼り付くようにして、そふわりふわりと歩いて戻られました」
 と答えてくれました。
 ただ、何度聞いても、返ってくる答えは一緒なのです。一言一句間違いなく同じ答えです。まるで子供が論語を諳んじているかのようでした。
 と、なれば、この言葉をそのままに受け止めることができましょうか。
 疑り深い私は、弟の言葉を信じることが出来ませんでした。そして考えたのです。
 確かに私は父の背中にぴたりと付いていたのでしょう。私の体は間違いなくふわふわと揺れていた筈です。しかし歩いたのは私ではない。
 父に違い有りません。
 亡き信玄公から「我が眼」とまで言われた無双の武士である父のことですから、気を失って手足に力のない者を負って歩くことぐらい、造作もないことでありましょう。
 父は小柄な男です。
 一方私は哀しいかな父に似ず背ばかり高い独活の大木です。
 小柄な父が大男の私の足を地面に引き摺りながら歩いたに違い有りません。
「そうか、私はつま先や足の甲で立って歩いていたか。道理で足袋ばかりか中の足まで塵まみれだ」
 私が少々意地悪く申しますと、源二郎は
「はい、兄上は大層器用なお方にございますれば」
 と、臆面もなく申したものでした。
 途端、私の、事の次第を父に確かめたい、という考えが消えてしまいました。
 元より、訊いたところで本当のことを教えてくれるとは思うておりませんでしたが、答えが出なくても訊くだけ訊きたいという心持ちだけは有ったのです。
 父が何を思うて「莫迦息子」を負って歩いたのか、その胸の内を聞いてみたいとも思っておりました。
 家中の者に口を噤ませたのは、おそらく嫡男の「失態」を恥じてのことでしょう。茶席で失神したなとと、しかもその失神者が親の背に負われて帰ったなどと言うことが広まれば面目が立ちません。
(失神した当人にも黙っている理由は判然としません。あるいは、父に私の口が一番軽いと思われていたのやもしれません)
 私の失態はさておいて。
 茶会が済み、私たち一族は今度こそ砥石の山城へ向かおうと準備を整えておりました。
 ところが、なかなか滝川様から出立のお許しがでないのです。
 私どもは数日厩橋の館に留め置かれました。
 暫くして、滝川様からの……厳密に申しますと、前田宗兵衛殿からの……ご使者が見えたのです。
 呼び出されたのは私一人でした。
「一勝負、お付き合いいただきたい」
 と言われて、恐々として宗兵衛殿の御屋敷に参ったところ、挨拶もそこそこに碁盤と碁石が運ばれてきたのでした。

 一度盤上を埋めた(絶対に私の四目勝ちだったはずの)黒白の石が取り払われ、更地になった「戦場」を前に、宗兵衛殿は
「滝川一益は、ああ見えて好き嫌いの激しい男でね。趣味の合わぬ者とは口も聞かぬ事があるくらい困った奴なんだが」
 ご自分の血の繋がった伯父であり、上役でもある方のことを、まるで同年配か年下の仲のよい友人のように仰いました。
 それが厭味にも増長にも聞こえないから、本当に不思議な方です。
「その伯父御が、お主の父御をたいそう気に入ったんだそうな。なんでも……」
 宗兵衛殿は私の顔をじっと見て、
「特に唄が下手なのがよいそうな」
 と仰り、ニンマリと笑われました。
「はあ、お恥ずかしいことで」
 私は顔から火が出る思いでした。紅潮した顔を伏せようとしますと、ひらひらと手を振って、
「戯れ言、戯れ言。気にするな」
 ひとしきり笑われると、
「出来るだけ自分の近くに置きたいと駄々をこねておるよ。信濃衆の取り纏めのためには、喜兵衛殿は信濃に戻った方が得策なのだがな。困った年寄りだ」
 と、何やら楽しげですらある口ぶりで仰せになりました。
 私が返答の言葉を愚図愚図と選んでおりますと、碁盤の中央に描かれた天元の星の辺りに、黒い石が一つ落ちました。
 
 今度は私が白を持って、後手となり、もう一局と云うことか、と、私は慌てて顔を上げました。すると宗兵衛殿は片目を瞑り、碁盤の一点を睨んでおられました。
 その険しい顔で、宗兵衛殿は黒い碁石を摘み、それを碁盤の端に置き、右の中指と親指とで輪を作られました。直後、中指が勢いよく起き上がり、碁石がぴしりと音を立てました。
 宗兵衛殿は幼いおなごが手慰みに遊ぶように、碁石を指で弾き飛ばしておいでたのです。
 天元の碁石めがけ、二つ三つと石を弾きながら、宗兵衛殿は私の顔などまるで見ずに、言葉をお続けになりました。
「何分、信濃者は頑固者揃いだ。“余所者”の言うことなど、さっぱり聞き入れぬから、困ったものだ」
 文字にしますれば、その時の宗兵衛殿が思案投首であったかのようですが、実際にはまるで困っていないような口ぶりでした。
 むしろ何やら楽しんでおられる風だったのです。
 何を楽しんでおいでなのかと言えば、「扱いづらい信濃の武士達を切り崩し籠絡する術を思案すること」か、あるいは「碁石のおはじき」か……。
『やはり、両方、かな』
 碁盤の上を滑る石を眺めながら、私は私自身も何やら笑っているようだと気付きました。
 私は白の碁石を一つ、碁盤の端に置きますと、指でぴしりと弾きました。
 石は余りよく飛びませんでした。碁盤の半分の、そのまた半分のあたりで滑るのを止めたにも関わらず、何時までもゆらゆらと揺れ続けました。
「難しいものですね」
 何が難しいのか、私はあえてもうしませんでした。宗兵衛殿も訊ね還すようなことはなさらず、
「ああ、意外に、な」
 鉄砲の撃ち手のように片目を瞑って狙いを定め、黒石をはじき飛ばされました。
 パチリと音がして、揺らいでいた白い石は碁盤の右手の外へ弾き飛ばされました。黒い石は、さながら白い石に突き飛ばされたかのように、碁盤の左の隅へ飛んで行きました。
「父も私も、信濃者でございますれば」
 白い石が先ほどの石よりは少しばかり威勢よく碁盤を滑りました。石は天元よりも二目ばかり手前で止まりましたが、やはりゆらゆらと暫く揺れ続けました。
「うむ、頑固だな」
 黒い石がまた揺れる白い石めがけて滑って、また白い石を弾き出し、それ自身もまた奇妙な方向へ吹き飛ばされて行きました。
「お恥ずかしいことで」
 私が別の白い石を取ろうとすると、宗兵衛殿が
「お主、何処で生まれた?」
 唐突な問い掛けに思えました。顔を上げると、宗兵衛殿は碁盤でも碁石でもなく、私の顔をしげしげと眺めておいででした。
「甲府ですが?」
「甲州生まれの、信濃者か?」
 宗兵衛殿の顔の上には、まるで子供が同輩の揚げ足を取るような、少々意地悪な笑顔が浮かんでいました。
 私は中っ腹になって、
「己が何者であるのかは、生まれ在所によってではなく、周りの者達からの影響で決まるのではありませんか? 私は甲府で生まれましたし、今まで甲州から殆ど出たことがありませんが、父祖が故郷と呼んで懐かしんでいる所こそが我が故郷と思うております」
 口を尖らせて申しましたが、すぐにその言い振りが、あまりに生意気に過ぎたと感じ、座ったまま後ずさって、
「出過ぎたことを申しました」
 畳に額をすりつけました。
 頭の上から、爆ぜるような笑い声が致しました。
 私は頭を伏せたままでおりました。顔を上げずとも、宗兵衛殿が立ち上がり、碁盤をぐるりと避けて私の背中側に回り込む気配は、ひしひしと感じられました。
「全く信濃者は、頑固よな」
 声と一緒に、どすんという衝撃が両の肩に落ちて参りました。
「その上、お主は面白いと来ている」
 私の体は、両肩を掴む宗兵衛殿の両の腕によって前後に大きく揺すられました。私は声も上げられず、ただ宗兵衛殿のなすがままに揺すぶられておりました。
「伯父貴は親を欲しがっているが、儂はやはり倅を連れて行った方が良いと思うと、進言することにする」
「宗兵衛殿?」
 私は漸くそれだけの声を出しますと、殆ど必死の思いで首をねじり、どうやら宗兵衛殿のお顔を拝見いたしました。
 宗兵衛殿はニタリと笑い、
「それからな、源三郎。以後儂のことは『慶次郎』でよい。これはな、儂が『親父殿』が儂に付けてくれた特別な名だ」

 その時から、宗兵衛殿は私がその名でお呼よびすると、酷くお怒りになるようになりました。
 それも口でお叱りになるだけではなく、本気で殴りかかってくるのです。
 拳が風を切って飛んでくる度に寿命が縮む気がいたしますので、私はこの後は慶次郎殿と呼ぶように努めることにしました。
 それでもまだ宗兵衛殿……いえ、慶次郎殿は
「お前は友に対して他人行儀に『殿』付けをするのか」
 などと文句を仰りましたが、どうやら殴られずに済むようにはなりました。
 前田慶次郎殿が、織田の大殿様や滝川一益様にどのような進言をなさったのか、正確なところは判りません。
 進言の如何も、その進言が可否も、私には判らぬことですが、ただ我が家の人々の行き先について、先方から細かい「指示」が出されたのは確かなことです。
 真田昌幸、即ち我が父と主立った家臣達は、希望通り砥石城へ移ることとなりました。妻子を伴っての「帰還」も許されました。
 父は、妻達と子供たち、つまり、元服していない男子二人、私には姉に当たる娘「国《くに》」と「楽《らく》」、私と同い年の「菊《きく》」を連れて砥石へ行くこととしました。国姉の夫、詰まり私の義理の兄である小山田茂誠も同行します。
 私から見て大叔父にあたる矢沢源之助頼綱は、滝川義太夫殿の下について沼田城へ入ることとなりました。
 矢沢の大叔父殿は家中でも一番の武辺者です。滝川様としてはこれを真田の本体から切り離し、且つ、万一の時の人質にとするおつもりなのでしょう。
 人質は大叔父殿だけではありません。
 まず、私のすぐ下の弟の源二郎信繁は、遠く南の木曾義昌殿の元へ行くことになりました。
 父は口に出すことはしませんでしたが、源二郎を出すことに反対だったようです。
 木曾殿を嫌っていたためです。
 木曾殿は元々武田と敵対する勢力でした。
 木曾殿に限りません。信濃衆は大抵武田勢と敵対していたのです。武田信玄公が版図を広げるために信濃へ攻め入ってきたから、です。
 木曾殿も当初は「侵略者」と戦っていました。しかし、圧倒的とも言える武力差を見せつけられ、お家存続と所領安堵のためにお降りになったのです。
 その後、義昌殿は信玄公の旗下で数々の武勲をお立てになりました。やがて信玄公の姫君を娶られ、ご一族衆に名を連ねらるに至ります。
 ここまでの経緯は、我が真田家も似たようなものです。(木曾殿の方が元の家勢も後のご身分も上ではありますが)
 真田の家も曾祖父・頼昌の頃までは東信濃の小県の小豪族として、武田家と争っておりました。
 結果として僅かばかりの所領を失い、祖父・幸綱は信濃から逃げ出し、関東を放浪することとなります。
 放浪の果てに祖父は、信玄公に仕えることを決めたのです。それが失地を回復する尤も良い手段だと考えてのことでした。
 祖父の考えは正しかったと言うより他にありません。
 信玄公の元で存分に働かせていただいた御蔭で、真田の家は旧領を含む小県を得ることが出来たのです。
 私の父は一時、信玄公のご母堂の系譜である武藤の姓を与えられました。私の母になる女性を妻に迎えるにあたっては、一度信玄公が養女となさったのです。
 信玄公は父を外様ではなく甲斐衆の一員として扱ってくださったのです。
 父も存分に働かせていただき、旧領の上に上州の沼田領を得るに至りました。
 信玄公がご存命の頃は、木曾殿が他家へ走るような事はあり得ないことでした。
 しかし、木曾殿の本領は甲府を遠く離れた木曽谷であり、美濃との国境でした。
 目の前に織田の軍勢が見える場所です。
 ですから信玄公がお亡くなりになったことによって、武田の勢いが弱くなるという不安に取り憑かれたに違いありません。
 武田の後ろ盾がなくなれば、織田軍攻めてくる。そうなればまたしても領地を失う。
 領地を失った侍ほど哀れな者はありません。我々は自ら耕すことも獲ることもしませんから、領地から得られる収入が無くなれば、飢えて死ぬより他にないからです
 勝頼公から無理な城普請を命じられたことも、応じればご自身の国力が削がれるという不安にを大きくさせたのでしょう。
 木曾殿は勝頼公ご存命の内に、織田様に下られました。
 対織田の最前線であった木曾義昌殿が「寝返った」がために武田は滅んだ、と申しても過言ではないでしょう。
 ですから、父は義昌殿をあまり好いておられないのです。
 と言っても、義理の弟でもある主君を売ったと不忠不幸が理由では、恐らくないでしょう。親子兄弟、あるいは主君と家臣が、時に敵対し、騙し合い、あるいは殺し合うことは、哀しいかな「良くあること」です。
 父も必要とあれば、親族を出し抜き、主家を陥れ、戦って討ちとることを躊躇しないでしょう。
 実際この度の戦が起きる前、父は水面下で織田様や北条家と接触していました。
 勝頼公には信濃へ落ち延びるように注進し、その準備を進めながら、同時に、織田様や北条家に文と名馬を贈っています。
 それが功を奏して、今我々は織田様の旗下にあるのです。
 そんなわけですから、父が道徳的な理由で木曾殿を嫌っていることは考えられません。
 勝負をする前に勝負を投げ捨てて逃げたのが気に入らない、というのが本音のはずです。
 ただし、これは私の想像です。父は何ももうしませんので、本当のところは判りません。
 判りませんが、私の想像が大きく的を外したことを行っているとは思えないのです。

 兎も角も、父は源二郎を木曽へ送ることを渋りました。しかし拒否することが出来ないことは判っています。
 そこで源二郎は若年だからと理由を付けて、矢沢頼綱の嫡子で、父の従兄(私から見たなら従伯父《いとこおじ》)である矢沢三十郎頼康を同行させることを先方に同意させました。
 三十郎伯父が随行者に選ばれたのは、いざと言うとき、包囲網を突き破って逃げ出すためです。……あまり考えたくない状況ですが、必要とあらば、血路を開くことも厭わず、です。
 三十郎伯父は父よりも二歳ばかり年上なのですが、初見でそうと解る人はまずいないでしょう。
 この人は恐ろしく若く見えるのです。
 私が「少し年の離れた兄」と言ったとして、おそらく誰も疑うことがないでしょう。
 慶次郎殿も「若く見える」方ではありますが、こちらは「若武者のように見える」若さです。しかし三十郎伯父の「若く見える」は、慶次郎殿のような頑強な若々しさではありません。
 幼顔で柔和な相貌、背はさほど高くなく、体はむしろ細く、物腰も穏やかなものですから、一見すると文人か公家のようです。
 若輩の文人風、悪く言えば、末生りの青二才じみたその風貌が、三十郎伯父の強力な武器となることがあります。
 馬上で三尺三寸五分の野太刀を振るう剛の者であるとは到底見えないからです。
 三十郎伯父は家中でも三本の指に入る剛の者です。
 因みに申しますと、三本指の筆頭は、先にも挙げましたが、頼綱大叔父です。三十郎伯父の器量はこの「筆頭」の陰に霞んでいます。
 いえ、わざと霞ませているのです。「敵対者」の警戒からは真っ先に外れるようにするためです。
 思惑通り、織田様のご家中からも、三十郎伯父はさほど警戒されませんでした。むしろ当主の血縁者である人質が二人に増えるのですから、先方からは反対意見が出なかったようです。
 そしてもう一人、厩橋城の滝川一益様の元で人質暮らしをすることになった者がいます。
 私の末の妹の「照」です。
 妹は、私の身代わりでした。
「全く、お前の父親は酷い父親だ」
 宗兵衛殿……いえ、慶次郎殿は、私共がそれぞれに出立するというその早朝に、私を御屋敷に呼び出して、茶をお立てになりながら、そう仰いました。
 私はというと、旅装のまま慶次郎殿の真正面にちんまりと座らされておりました。
「猿公ン所の佐吉の所へ嫁に出したんだろう?」
 慶次郎殿が猿公と言ったのは羽柴秀吉殿のこと、佐吉と呼んだのは石田三成殿のことです。
 私は身震いしました。
 真田家が、武田に仕えている身で、宿敵とも言える織田の家臣と縁を結ぼうとしていた、その我が家ながら卑怯、狡猾な振る舞いを、少なくとも滝川様ご一門の慶次郎殿が知っていたと言うことにです。
 秘密の、極内密な縁談だったのです。出来れば話が完全にまとまるまでは誰にも……特に甲州や上州、して信濃の人々には……知られたくないことでした。
 私は慌てて否定しました。
「石田様ではなく、石田様の御舎弟の宇多頼次様です。それに……」
 私は「まだ正式に婚礼をしたのではない」と説明しようとしたのですが、慶次郎殿は一にらみで私の口を噤ませて、
「同じ様なものだ」
 と不機嫌そうに仰せになりました。そして、大振りな茶碗を放るようにしてどすりと置かれたのです。
 茶碗の中では緑色の泡がぶつぶつと音を立てておりました。
「親の都合で、出したり戻したり。挙げ句質にまで出すとは、あまりに不憫ではないか。娘が可哀相だと思わぬのか? 下の男の子が幼いなどというのは、言い訳にもならぬ。幼くても男の子を出せばいい。全く、つくづく酷い男だ。儂ならば娘だけは出さぬぞ。あんな可愛い生き物は他にない。嫁にだって出すものか」
 初めは虎のようなお顔で怒っておいでだった慶次郎殿ですが、最後の方になるとまるで猫のような顔になっておられました。
 この時私は、慶次郎殿に娘御がおられるらしい、と理解しました。その娘御が余程に可愛いくてならないのたど言うこともまた、判った気がしました。
 というのも、この時の慶次郎殿の素振りというのが、我が父が「照の事」になったときのそれ……例えば、良縁が決まったというのにいつまで経っても婚家へ送り届けたがらないところであるとか、そういう所が殆ど同じでであったからです。
 私は妙に可笑しくなりました。そこで、顔が崩れるのを堪えようと、ものも言わず、畏まって茶碗にそっと手を伸ばしました。
 すると慶次郎殿は、
「お前の酷い父親は、可愛い娘を差し出してまで、不肖の倅を砥石へ連れて行きたいと見ゆる」
 またお顔を虎のようになさいました。
「いえ、私は父とは別の……岩櫃《いわびつ》へ参ります」
 岩櫃城は、上野国と信濃との境にある岩櫃山の急峻な斜面に囲まれた岩場の上にあります。
 私は手の内に茶碗を抱いて、じっとそれを見ました。始めは慶次郎殿のお顔を見ぬようにするためではありましたが、暫く眺める内に、この茶碗が何とも美しく思え、目がはなせなくなったのです。
「ほう……」
 慶次郎殿が不思議そうに息を吐いたのを耳にし、私はちらりと目を上げました。慶次郎殿は腕組みして天井の隅に目を向けておいででした。

「岩櫃というは、信濃か? それとも上野……関東か?」
 その問いかけに素直に、そして正確に答えるとするならば、
「岩櫃は上州であり、関東に御座候」
 と言えば事済みます。
 しかし、そのような当たり前の事を、仮にも関東管領・滝川一益様ご一門である慶次郎殿がご存じないわけがありません。
 私は茶碗を抱えたまま、慶次郎殿が見ているのと反対側の天井の隅を見上げました。
 岩櫃は、万一事あらば、関東の軍勢を信濃に入れぬ為の要害です。そして、機会あれば、信濃から関東へ討ち出るための最前線であります。信濃の玄関口ではありますが、同時に上野の裏口でもある場所です。
「さて……。沼田の支城とみれば上野に属するといえましょうが、砥石の支城とみれば信濃に属すると言えなくもありません」
「なんだ、はっきりせぬなぁ」
 慶次郎殿は視線を天井から私へお落しになると、落胆なされたような、それでいて妙に楽しげな口ぶりで仰いました。
 私も視線を天井から外して、
「そう仰せになられましても、私はあそこが信濃なのか上野なのかなどと、改めて考えたことはありませんでしたので」
 私は正直に申しました。腹の内が妙にもやもやしておりました。
 慶次郎殿は太い眉毛を片側だけ持ち上げて、
「考えたことがない?」
 本心不思議そうにお訊ねになりました。
「あえて申しますと、真田の城、と」
 そう言った途端、私は自分がなんとも大胆なことを言っていると気づき、驚きました。
「真田の城だと?」
 慶次郎殿は、私をギロリと睨まれました。眉間に縦皺が一本、深い谷を作っていました。
「はい、我らの城です」
 私は慶次郎殿の眉間の皺の一番深い一点を見つめて申しました。そう言った途端、腹の中のもやもやがすとんと霽れた気がしたものです。
 沼田も、岩櫃も、砥石も、小県の土地も、みな我らのもの。我らが手放してはならぬもの。
 私は自分の言葉が自分自身のをたぎらせるのを感じました。
 同時に、自分の首根に薄ら寒いものを感じました。
 私の言い様は、聞き方に寄れば、
『真田は誰にも従属しない』
 といった意味にも取れるものです。
 武田にも、上杉にも、北条にも、そして織田にも従わず、自立し、己等の土地を守る。
 そう宣言したととられても仕方のない言い振りでした。
 迂闊なことです。
 私は二心有りの胡乱物として、この場で前田慶次郎殿に討ち取られるかも知れません。そして私の一族は、私のきょうだい達は、滝川様に攻められ、捕らえられ、殺されるかも知れません。
 父が苦心して、八方に手を打って、ようやっと織田様の旗下に収まることができ、どうにか所領を安堵出来たというのに、私の一言で総てが水泡に帰すことになりかねない。
 大失言です。
 私の首根が寒くなったのは「失言」そのことそのものよりも、その後に起こりうる「悲劇」のためでした。
 しかし、私は確かに、自らの意思で、本心から、宣言したのです。
 私は肺腑の中に重く溜まっていたモノを総て吐き出し、手の内の茶碗と、鮮やかな緑の液体をじっくりと見つめました。
 これらが、あるいはこの世で最後に見る「美しい物」であるかも知れません。
 抹茶の緑は、萌え出た春の木の芽のように、眩しく輝いておりました。
 寒い冬を乗り越えた、小県の、故郷の山が、茶碗の中にある。そんな気がいたしました。
 茶碗の中で、緑色の泡がぷつりと弾けました。私は不意に、総ての泡が消えてなくなる前に、それを飲まねばならないという気持ちになり、まるで酒か毒杯でも煽るような勢いで、一息に、茶を飲み干しました。
「結構な、お手前で」
 私は空になった茶碗を置き、首を投げ出すようにして、深々頭を下げました。
 このときの私の心持ちと来たら、全く不思議な物でした。どうやらこの首っ玉の上に、慶次郎殿が大脇差を振り下ろしてくれることを期待し、待ち望んでいた、としか思えないのです。
 伏せた頭の上で、衣擦れの音がしました。慶次郎殿がお動きになった気配はあります。
 しかし、私の首は何時までも私の胴体にしがみついたままでした。
 私がそっと頭を上げますと、
「全く、困った高慢ちきめが」
 慶次郎殿は両の手を突き上げて背伸びをしておられました。それから大きな欠伸を一つして、
「朝駆けでもないのに早起きをするもンじゃないと、お主も思わぬか? 寝惚けた友が言わんでも良い『寝言』を言うし、その『寝言』を聞かなかったことにせねばならなくなる」
 そう仰せになると、完爾として笑われました。
 どうやら私の命も、真田の家の命運も、この場で尽きるということは無くなったようでした。
 私はすっかり安堵して、
「全く、その通りのようです」
 と苦笑うて頭を掻きました。
 すると慶次郎殿は、急に険しいお顔をなさって、
「だが、忘れぬぞ」
 酷く重い言葉でした。私は脾腹を撲たれたような心持ちになりました。
 己の顔の色が失せてゆくのが判りました。慶次郎殿は私の紙のように真っ白な顔をじっとご覧になり、仰せになりました。
「聞かなかったのだから他の誰にも言うことはない。だが、儂の胸の内には刻んでおく。お主がどれ程に故郷を愛して居るのか……。儂は忘れぬぞ」
 そう仰ると、前田慶次郎殿はすっくと立ち上がり、
「源三郎。その茶碗はな、儂が焼いた物だ。餞別だ。お前に遣るから、信濃へ持って帰れ」
 また破顔されました。
[WEB拍手]

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