いにしえの【世界】 − 開演 【10】 BACK | INDEX | NEXT

2015/02/16 update
 水を打った静けさの中、楽団溜まり《オーケストラピット》の縁を指棒が叩く硬い音が響く。
 やがて序曲が始まった。
 緞帳がゆらりと動いた。
 上手の舞台端でローブを纏った人物が一人、幕の間から首を突き出していた。目深にかぶったフードの下から、低い声がする。
「時は古。知るすべ無き昔。世界を巡るは一陣の風」
 閉ざされた幕の前、細く狭い空間を、その人物はふわりと駆け抜けた。
 右から左へ、幕が波を打って揺れる。
 語り部の姿が下手に消えるのを合図に、緞帳幕はゆっくりと上がり始めた。
 薄寒い空間があった。婦人の部屋だった。暗く、人気がない。壁も丁度もみなゆらゆらと揺らめいていた。黒子が道具幕を不規則に揺っている。
 舞台下から木材の軋む音が響いた。
 奈落の底から、丸い床が回りながらせり上がってくる。上に、白い影が乗っていた。
 白い薄衣が細長い何かを覆っている。
 透けて見えるシルエットは、うつ伏して倒れ込んでいる人間。繭にこもった蛹のようだった。ぴくりとも動かない。
 白い人物を乗せた丸い床は舞台の高さを超えてなお、せり上がり続けた。
 上手から立派な軍装を纏った踊り子のたちが、下手からは貧相な装備の踊り子たちが、それぞれ飛び跳ねつつ現れた。上昇を続ける回り舞台の前で出会った二つの集団は、入り乱れ、争うように舞った。
 戦が起きている。結果は見るまでもない。
 下手の集団はあっという間に押し戻されてゆく。彼女らは隊を乱し、てんでに逃走する格好で舞台袖に消えた。
 上手からの集団は傲慢にすら見えるほど力強い舞で鬨を表現すると、なおも勝利を求めて敗者を追走し、やはり下手に向かって走り去った。
 集団が去ったとき、舞台のせり上がりは止まっていた。
 壇上の人物が、ゆっくりと身を起こす。薄衣を頭からかぶったまま、赤子のように這い歩くと、回り舞台の縁から身を乗り出して舞台の上を覗き込んだ。
 悲しげな音楽が鳴り、下手から別の踊り手達が音もなく現れた。
 彼女らは皆真っ白な裾長の衣裳《ロマンティック・チュチュ》を着、顔を青白いドーランで塗りつぶしている。
 衣裳とメイク、そしてアンバランスなポーズを強いる静かな振り付けが、彼女たちが人でないものを演じていることを表していた。
 幽鬼達の列は回り舞台の足下を囲み、舞う。
 白い顔で舞台を仰ぎ、白い腕を壇上の人に向けて力なく伸ばす。
 回り舞台の影から古いローブを着た人物が現れた。踊り手達の間を縫って舞台の上を駆ける。
 風が吹いている。生暖かい、不穏な風だ。
 音楽が音量を上げた。低く不快な響きが舞台を包む。
 白い集団演舞《コールドバレエ》の動きが激しさをが増した。それに誘われ、回り舞台の上の人影が立ち上がる。
 薄布を被った人物の真後ろで、照明が輝いた。細いシルエットが浮かび上がる。
 影の腕が突き出され、己の頭上を覆う薄衣を掴んだ。打楽器出す破壊音と同時に、その人物は自らを覆い隠していた布きれをはぎ取り、足下遙かな舞台上に投げ捨てた。
 男の身なりをした踊り子が、高みから下界を睥睨《へいげい》する。
 再び打楽器が大音響を発する。
 細身の男が、せり上がりの上から飛んだ。
 そう、飛んだのだ。飛び降りたというのではなく、鳥がするように、大きく腕を広げて飛び立ったのだ。
 瞬間、照明が消え、黒幕が風を巻いて閉じられた。
 突如、肩に衝撃を受け、エル・クレールの神経は現実に引き戻された。いつの間にか背中がイスの背から離れている。彼女は前のめりになって舞台に見入っていた。
 肩の上に、ブライトの大きな掌が乗っている。
「頼みますよ姫若さま。やらなきゃならねぇことを忘れて貰っちゃ困ります」
 苦笑いしながらわざとらしく下男の口調で言う彼に、赤面と引きつった笑みを返すと、彼女は慌てて膝の上に広げた羊皮紙に目を落とし込んだ。
 暗闇の中に目を凝らす。闇に目が慣れるまでしばらく時間がかかった。
 読みづらい。灯りがない所為ばかりではない。
 ほとんど文章をなしていない単語の羅列が、滲んだ薄いインクで書き殴られている。断片的で、文章の体をなしていない。
 最初の一枚の中でどうやら読める部分はヨルムンガント・フレキの「文章」ではない。文字は確かに彼の物だったが、内容は別人の書いた物……正史と呼ばれる古い歴史書の引用だった。

「皇帝サフサファ山にて野営を張る。足下戦多し。平定の誓いを立て、封禅となす」

 引用された文章の「皇帝」という単語が、引用文を書いたのとは違う濃さのインクによって丸く囲まれていた。
 このインクは単語を囲むばかりでなく、その上に二重の打ち消し線を引いている。
 さらにそれは矢印を描く。太く引かれた矢柄をたどり、行き着いた矢羽の先には、単語が一つ書き留められている。

――クラリス――

 エル・クレールは息をのんだ。
 顔を上げた彼女は声を上げることができず、無言でブライトの顔色をうかがった。
 彼はうっすらと笑っている。
「『帝、人心乱れるを憂いて聖山に上る』だな。つまりお前さんの四〇〇年昔のご先祖が挙兵の表明をしたってあたりのハナシだ。音楽は官製の楽譜と寸分違わない。あの阿呆が指揮者に刺した釘が、しっかり効いていやがる。演出は少しばかり違うが、筋立てそのものは公式な物と大差ない」
「本当にあなたという方は、妙なことにばかり精通していらっしゃるのだから」
 エル・クレールはため息を吐いた。
 ブライト=ソードマンが世の中の表裏について様々な知識を持っていることは、彼女もよく知っている。
 ことさら市民の風俗についての見識は、その分野について全く疎い折り紙付きの「深窓の令嬢」にとっては計り知れぬ深さのものだった。生活能力が皆無に近い彼女が、今まで無事に生き延びてこられたのは、彼が傍らにいてくれたからこそである。
 ただし、思いもよらない部分に関して、彼は酷く無知であった。
 亜麻布《リンネル》の手触りで産地を易に言い当てる割には、その糸が青く可憐な花を咲かせる亜麻《フラックス》の茎から紡がれるのだということを知らない。(それでいて、亜麻畑の労働者達がどの様な労働歌を歌っているのかは熟知している)
 微妙に色合いの違う顔料がそれぞれどこから産する鉱石を砕いた物なのかを見分ける眼力があるにもかかわらず、全く画風が違う絵の描き手の区別が付かない。
 知識の厚みが片寄っているのだ。焼き損ないの薄焼きパンさながらに、不必要に分厚く、それでいて所々薄く、酷いところは穴が空いている。
 実をいうと、エル・クレールは彼の知識の「穴」を見つけることが好きであった。
 ブライト=ソードマンは、恐ろしく腕が立って、恐ろしく頭の回る男だ。
 彼が外道共を文字通りに粉砕するさまを見せつけられれば、人間離れしているという言葉が比喩とは思えなくなる。
 彼を心から信頼しているエル・クレールも、時折恐ろしく思うことがある。……それは、自分自身の内側から湧いてくる力にも感じる、得体の知れない恐怖でもあった。
 その恐ろしい男が時折間の抜けたことをするのを見ると、彼が普通の人間であると、ひいては自分自身も紛れもない人間であると確信でき、安堵できるのだ。
 粗探しの趣味の悪さを恥じつつも、エル・クレールは期待し、同時に不安に苛まれている。
「精通なんて大仰なモンじゃねぇだろうに。この国の人間をやっているヤツなら大概あのつまらない音楽が脳味噌にこびり付いてる」
 ブライトは呆れ声で呟いた。知らない方が可笑しいと、暗に言っている。
「仰る通りです……楽譜の通りだと断じられるほど理解しているかどうかは別として」
「突っかかりやがるな」
 エル・クレールの眉間に浅い縦皺を見つけたブライトは、腰袋を指し示し、訊ねる。
「こいつが何か悪さをしてるかね?」
 彼は相棒の不機嫌の原因に自分が含まれていようとは、つゆほどにも考えていない。もっとも、彼の言動自体が彼女に不審を与えているわけではないのだから、考えが及ばないのは当然のことだった。
 故に彼は、腰袋の中にしまい込んだ「物」が彼女に何かしらの影響を与え続けているのではないかと考えるに至った。
 エル・クレールは首を横に振った。ブライトにはそれが緩慢に見えた。
 考えが確信に変わる。彼は袋に手を突っ込んだ。
「お前さんがなんと言おうと、今朝からこいつの存在がお前さんの気を散らしているのに間違いはねぇ。押さえ込んでおいてやる」
 がらくたの中から小さな蝋の塊を探り出し、握る。
「それで、どう見たね?」
 彼は腿の上に肘をつき、背を丸めた。握り拳を顎の下に置き、頭を支える。
「初代皇帝の役、つまり男性を、あの娘が演じている」
 低く言うエル・クレールの唇は、乾ききっていた。
「お前さんを迎えに来て卒倒した娘だな。確かシルヴィーと言った。舞台に上がると人間が変わるタイプか。中々に巧いじゃねぇか。もっとちゃんとした所でも……現状じゃ主役《プリマ》はキツかろうが……第一舞踏手《ソリスト》は演れる」
 ブライトはエル・クレールが望んでいる回答を返さなかった。
「娘ばかりの劇団だから、しかたなく娘に男の役を割り当てている……?」
 エル・クレールはあえて間違いなく否定されるであろう「好意的な意見」を口にした。
「あの阿呆のことだ。件のお偉いさんにゃぁそう言い張る腹づもりでいるンだろうがね」
 ブライトは唇の端に意地の悪い微笑を浮かべた。『続きは言わなくても解る筈だ』の意である。
 エル・クレールはうなずいた。
『その人物が女であったから、当然女の踊り手に役が振り当てられている』
 彼女は膝の上の羊皮紙をじっと見た。闇の中で一つの単語が踊っている。インクの色は心もとないほどに薄いが、筆圧は高い。その女性名が強い確信を持って書かれたことの証だった。
「フレキ叔父は……なぜそう思われたのでしょう?」
 文字の上を指でなぞりつつ、エル・クレールは呟いた。
「四〇〇年の間にゃいろんな史料が作られちゃぁ捨てられるを繰り返してる。捨てたつもりが捨てきれなかった物も、中にはあらぁな」
 くぐもった声でブライトが言う。彼の視線は舞台に注がれていた。閉ざされた幕が重く揺れている。
「捨てられるはずだった物の方が、伝わっている物よりも正しいと?」
 当然ともいえる疑問を投げかけられたブライトは、深く二つ息を吐いた。
「残った物にだって正しい物はある。例えば、正史にゃクラリスって名前は書いてねぇんだぜ。かっ攫われたときにゃ『美姫』、その後は『皇后』。それっきりさ」
「え?」
 人気のない劇場の中に、エル・クレールの声が反響した。驚愕の大きさが、そのまま声の大きさとなっていた。
「『ガップの古書による。后の諱、クラリスと伝わる』ってのは、正史を書き始めたヤツがおっ死んでから百年ぐれぇ後に、別の研究家が付けた注釈だ。まあ、それくらい古い注になっちまうと、ほとんど本文と同じ扱いにされちまってるから、普通に学問するときにゃ区別もしねぇがね」
「あ……」
 エル・クレールは急速に己の記憶を十年ほど巻き戻させた。父の友であり、ミッド公国随一の学者であったセイン=クミンに師事して学んでいた幼い日のことを思い出すためだ。
 史学を学ぶに際し、師は古い書物を書写させた。物事を記憶するには、それが一番良い方法だというのが、彼の持論であった。
 ブライトが言った皇后の名前に関する記述の部分は、注釈であると明記されてはいなかったが、他の部分の文字よりは小さめに書かれていた気が、おぼろげにする。
 瞬きを二,三度する間に意識を今に引き戻したエル・クレールは、ブライトの横顔に眼差しを注いだ。
「それからさらに三百年も経っちまった。件の注釈の引用元の『ガップの古書』ってヤツは、きれいさっぱり散逸したってことになっている。初代皇帝の后だの国母だのとあがめられている女の名前がそこに間違いなく書いてあったのか、あったとしても、その女の名がクラリスだったのか、今となっては解りゃしない、と」
 ブライトのこめかみあたりが、ひくりと痙攣した。
 頭痛がする。それでも口元には薄い笑みが浮かんだ。妙におもしろい気分だった。
「フレキ叔父は散逸した古書と思わしきものを、ご領地で見いだされた。あるいはそれは書物の体をなしていない口伝であったかも知れませんが……。兎も角、そこにはクラリスという女性の名があった、ということですね」
 エル・クレールが口に出したのは、考え至った事柄の半分程度だった。残りの、核心に当たる部分を言葉として発することは憚られる。
 自分の先祖達から聞き伝えられた自分の先祖の伝を、根底から覆すようなことを、その末の身が口に出して言えるものか。
 国を興した英雄の性別が、伝わる物とは違っていた……いや、それならばまだ良い。遙か昔、女性が帝位を認められていなかった頃の詭弁の名残だと思えば、どうにか理が通る。
 エル・クレールは別の可能性を見いだしてしまった。そして、義理の叔父も自分と同じことを考えていたのではないかと思い至った。
 初代皇帝「ノアール=ハーン」は、存在しなかった、と。
 彼女の唇は堪えきれずに小さく震えた。
「だからその尊称を消して、あの名を書いた」
 かすかな声を己の耳に聞き取ったエル・クレール……いやハーンのクレール姫は、わななく掌で口元を覆った。上目遣いに男の顔色をうかがう。
「そこまで飛躍するかね?」
 ブライトの肩が小さく上下した。忍び笑いの口角に浮かんだ歪みはには、邪悪な色すら浮かんでいる。エル・クレールは彼が自分に向けた笑顔の中にこれほどの邪意を見いだしたことはかつて無かった。
 確信した。彼も同じことを考えているのだ。
 独裁者と戦うために立ち上がった英雄はいない。
 捕らわれの姫を助けた白馬の騎士はいない。
 国の礎を気付いた為政家はいない。
 ハーン家の始祖はいない。
 動悸が激しくなった。眩暈がする。大きく息を吸い込もうとした。肺腑は意に反して小刻みな荒い呼吸を繰り返す。
「それほどに畏れることか?」
 低く抑えられたブライトの声は、疑念と不審と不安に満ち、少しばかりの嘲笑を帯びている。
「私の先祖が……私に繋がる流れの最初の一点が……無いと言われては……私は塞き止められた淀みと同じです。本流もこれから行く先も判らない」
 エル・クレールの声は顫動《せんどう》していた。
 自負であった血脈が否まれた……それも自分自身と、敬愛する二人の男によって。
 確乎たるものであると信じていた足下の地面が、突如として消えた。ひたすらに沈み込んでゆくばかりの薄寒い浮遊感が彼女を包む。
 翠色の目は茫漠と開いている。開ききった瞳孔は、しかし何も見いだすことができないでいた。瞼を強く閉じた時に広がる、血潮の色を帯びた暗闇だけが眼前にある。
 呼吸の荒さは喘ぎに、動悸の激しさは破裂の寸前に、眩暈は暗黒に。皮膚が蒸発し、肉が霧散し、骨が融けて流れ、己が無に帰し、存在が感じられなくなった。
 深く、冷たく、強く、彼女は心身が堕ちてゆくのを感じていた。
 すがる物を求めて手を伸ばした。実際にそうしたのかどうかは、彼女にも解らない。肉の手か、心の内の手か知れぬ、その指先が掴んだのは空だけだった。落胆のあまりに瞼を閉ざそうとした。
 薄い隙間、仄暗い闇の奥から、赫い薄明かりを纏った逞しい拳が差し出されるのが見えた。節の太い食指がエル・クレールの胸元を指し示す。
「お前はここにいる」
 強い風のうねりのような低い声が、一点の輝きと共に頭上から降ってきた気がした。
 大きな声ではない。強い声でもない。穏やかで力のあるその響きに、クレールは耳新しさを憶え、懐かしさをも感じた。
 耳をそばだてる。声は続けた。
「源流がどこかなんてことは知ったことか。よしその一滴が無くとも、大河は時の果てから蕩々と流れ続け、お前という存在に受け継がれた。間違いなくお前はここいる。血肉と魂を持って生きている」
 瞬間、呼吸が止まった。心の臓の拍動も、闇を巻くめまいも、ぴたりと止んだ。

 静寂があった。

「戻って来たか?」
 聞き慣れた声を聞いた耳の奥に、清流の漣を感じた。それはクレールの体が発する生命の音だった。心の臓から流れ出る血潮も、肺に流れ込む呼気も、一定の拍子で強く整っている。
 エル・クレール=ノアールは大音響の中にいた。目の前にあるのは、古い田舎町の明るい風景だった。
「はっ」
 エル・クレールの肺の中に滞留していた重たい息が、塊となって口からあふれ出た。
 憶えず、左右を見回す。小さな舞台の小さな客席に彼女は座っていた。
 傍らで赤い光背を負った男が完爾として笑っている。
 エル・クレールは、彼女としては珍しい行儀の悪さだが、袖口で目を擦った。
 尖った光が二筋、彼の額からあふれ出ているかのように思えたのだ……赤く禍々しい鬼の角のように。
 再度目を開けたときに見たのは、無精髭を生やしたブライト=ソードマンの顔だった。櫛目の通らぬ前髪が隠す額に、鋭角な突起などは痕すらもあろう筈がない。
 彼は顎で舞台を指し、呟く。
「二幕が開いた」
 牧歌的な書き割りの中で、領主の娘の婚礼を祝う村人達はどこまでも陽気に、楽しげに舞い踊っている。
 規則正しく、回り、跳ねるその人の輪の中に、別の動きをする者があった。
 古びたローブの人物は、歌う村人の間を、手をつないで踊る娘達の間を、囃し立てる若者達の間を、縦横に駆けめぐっている。
 人々はそれに気付いていないかの如く振る舞っている。舞台の上の「世界の現実」においては、彼は人間の目に見えない存在なのだ。
 流れてゆく時、知ることのできない真実、未来から(あるいは観客から)見た既成事実の具象。空気。なくてはならぬが、見ることも抱くことも操ることもできぬモノ。
 彼は再び言う。
「時は古。知るすべ無き昔。世界を巡るは一陣の風」
 ローブの裾を翻し、彼は下手へと消えた。
「あの野郎は、どうやら『フレキ・ゲー』を演じているらしいな。つまり、遠い未来にこの与太話を書いて、それを芝居にかけちまった自分自身を、さ」
 ブライトはクツクツと笑っている。
「その言い様では、まるであの人がフレキ叔父その人のように聞こえてしまいます」
 エル・クレールは漸く声を絞り出した。ブライトは含み笑いをかみ殺し、
「安心しな、そう思うのはお前さんぐれぇだよ。普通の観客はそこまで莫迦な心配はしねぇさ。ただし、作者として挙がっている名前と北の海っ縁の殿様とを『同名の別人』と思って観ちゃぁくれンだろう……。流石にあの野郎を『都の玉座に座り損ねた末生り瓢箪』本人だとは思いやしないだろうが、役者がそいつを演じていると解釈する賢いのはいるだろうな」
 言い終わらぬうちに、またブライトの背中は小刻みに上下し始めた。彼は顎を支えているのとは反対の手をけだるそうに持ち上げ、舞台上を指さした。
「書き割りの、領主屋敷の窓ン中」
 指先を視線で追ったエル・クレールは、描かれた高窓に掛けられたレースのカーテンの向こうに、人影が動いているのを見た。
 官製の脚本であれば、その窓の奥は領主の娘クラリスが半ば幽閉される形で住まわっている部屋と言うことになる。中に居るのは麗しい姫君だ。
 彼女はこの幕では姿を見せることがない。見えるのは、カーテンの隙間から差し出し出される、細い腕のみだ。
 窓の下では領民達が祝いの踊りを舞っている。クラリス姫の腕は、その輪に向かって花冠を投げ落とす。
 村の娘達はそれを踊りへの褒美と認識した。そして花冠を頂くのに一番ふさわしいのは誰であるのかについて争いはじめ、奪い合いの果てに粉々に壊してしまう。
 これが二幕目の筋立てだ。
 そしてこの芝居でも、筋書き通りにカーテンの隙間から腕が突き出された。青みを帯びた貝細工《カイザイク》の花冠を掴んでいる。
 腕は花冠を踊りの輪に向かって投げるとすぐにカーテンの中に消えてしまった。同時に花冠の奪い合いの騒乱が起きる。
 元より藁のように乾いた貝細工の花は、あっという間に崩れて散る。
 そこで幕が下りる。あっという間の出来事だ。
 カーテンから出た白いドレスを着た腕のその先、花冠を掴んでいた手指が赤銅色に日焼けしていたことに気付く者は少ないだろう。
 逆に気付いた者には、強烈な印象として脳裏に焼き付くこととなる。そして彼らは、演目のタイトルからして「戦乙女クラリス」というくらいだから、国母クラリスを強く逞しい女性として描くための演出だと考えるに違いない。
 普通はそこまでしか考えが及ばないだろう。この演出の更に向こうに、何かが隠匿されていると気付く者は、おそらくいない。
「最高に可笑しい真っ黒な喜劇じゃねぇか。あの野郎、判らない奴らを小馬鹿にして、判ったヤツのことは嘲笑っていやがる。チビ助め、このネタを古びてきたから捨てるなんてもったいないことを抜かしやがったが、命のある限り演り続けるべきだ。……ま、このままじゃ明日の朝にゃ命が尽きてるかも知れンがな」
 ブライトの忍び笑いを聞きながら、エル・クレールは自分の腕を見つめていた。
 元々は色の白い方だが、旅の空の下で日に晒される袖口から先は、小麦の色に日焼けしている。
「男の振りをする……男でありたかった女……」
 無意識のつぶやきが、ブライトの嘲笑を止めた。
 膝の上の皮紙束をくり捲るエル・クレールは、目を針の如く細めてメモを睨み付けていた。
 ブライトは背筋を起こし、まじまじとその横顔を見つめた。
 彼は「何を探しているのか?」と訊ねるつもりで口を開きかけたが、その必要はないと気づき、止めた。彼女が漏らしたつぶやきが、すでに答えとなっていたからだ。
「理由を……なぜあの方が男として振るまうことを決心なさったのか、その理由を」
 メモに残る走り書きの文字は、書いた人物が「己が判ればよい」という心づもりでしたためたものだ。他人への伝達を一切考慮していない「インクの染み」は、それそのものが第三者である読み手に対する拒絶の宣言だった。
 しかも、この場所の暗さやインクの色の薄さを味方に付けている。彼女が求めているような記述は、どれほど注意を払っても見つからない。
 あきらめきれず、幾度もページを捲り直す彼女の手を、ブライトは押さえた。
「大凡は、お前さんと同じだろうよ」
 小さなため息が漏れた。
「男の衣服は、軽く息苦しくなく……戦いやすい」
 女物の、特に貴族が着るような豪奢なドレスは、幾枚も布を重ね合わせてふくらみを持たせ、金属や宝石を縫いつけて飾り立てたりするものだから、酷く重い。
 重量を支えるため、そして「ドレスを美しく見せる」ため、着る者の体は紐や金具で締め付けられることとなり、それにより呼吸の自由は制限される。
 襞のたっぷりとられたペチコートは歩行を困難にさせるし、首回りを飾るレースは視線を妨げて視野を狭くする。広がった裾や袖は身じろぎするだけで手足にまとわりつき、敵の手をはねのけることすら困難だ。
 ドレスは、着る者に自分で自分を守ることを許さない、一種の拘束具だ。それを身につけた人間は、否が応でも自分の命を他人に預けねばならない。
「でも私は誰かに身を委ねることができない。自分で戦わねばならないから、男の服を着る」
 ブライトの言うとおりであるなら、国母クラリスも自分と同じ理由で男として生きることを決意したのだろう。
 確かに今の世であれば女の為政者も珍しくはない。時代が下がるにつれ、「彼女」が「彼」として起こした帝国・ハーンでも女帝が君臨することは珍しくなくなっなってゆく。従属国であるユミルに至っては、その建国から現在に至るまで王位は第一王女が継ぐものと定められている程だ。そして漸く二代にしかならないギュネイ帝国にも、女子の即位を禁じる法はない。
 それでもまだ、女が「新しく事を起こす」ことに難色を示す人々はいる。女が「何かを率いる」ことに拒絶反応を示す人々がはいる。
 四〇〇年の昔であればなおさらだ。
「その上、女でありながら男の服を着るような『常識外れ』ですから……。普通の感覚の人間であれば、従おうとは思わないでしょう。だから身も心も雄々しく振る舞う必要があった。それも後の世の歴史書に、勇敢な男と記録されるほどの完璧さで」
 さながら真綿で体を締め付けられているかのごとく、胸が苦しくなった。エル・クレールは己の体を抱きしめていた。
「模範解答だな。まったくお前さんの頭ン中にゃ、掃除の行き届いた脳みそがきっちり詰まっていやがる」
 口ぶりは、まるきり優秀な生徒を褒める柄の悪い教師の様だ。弟子達に真理を説く哲学者か僧侶のごとく、彼の黄檗色の目が笑う。
「だがな、こういう考え方もあるンだぜ。ドレスは信頼できる誰かを見つけるための道具。力ある者に、それを纏う者を助けたいと思わせるための、弱者の武器」
 エル・クレールは自嘲気味に小さく笑った。
「……私には扱いかねる武器です」
 彼女とて「姫」と呼ばれていた身だ。ドレスを全く着たことがないというわけではない。むしろそれ故に、自分には似合わない装束だと固く信じている。
「そりゃ確かに、どんな道具でもテメェの体にしっくり来る大きさじゃなきゃ使いこなせねぇもンだ。ありきたりの、出来合いの、吊しのヤツじゃあ駄目だろうよ。だから、お前さんの体にぴったり合うヤツを誂《あつら》えれば、使いこなせる筈さ。当然、コルセットもドロワースも全部お前さん専用のヤツを、さ」
 ブライトは薄衣のドレスを着た「クレール姫」の姿を想像していた。
 彼女にしか似合わない、特別の意匠の、誂えの逸品で、襟ぐり《デコルテ》が胸元側だけでなく背中側にも大きく開いている。
「少なくとも、対俺サマ用の秘密兵器には間違いなくなる」
 頬を緩め、鼻の下をだらしなく伸ばした。
 ただし、スカートを捲り上げ、薄暗がりの中の白い足を眺める妄想は、耳朶が引き千切られるほどの強い力で捻り上げられた御蔭で、きれいさっぱり霧散した。
「あなたに武器を向けようという気は、芥子粒ほどもございませんので」
 エル・クレールは唇を突き出して怒って見せたが、目の奥には妙に穏やかな微笑が浮かんでいた。

 荘厳な音楽と共に三幕目が開いた。弱小国王宮の謁見室は、簡略化された舞台装置の所為もあり、薄暗く物寂しい空間として表現されていた。
 舞台中央に二つ並んだ玉座に、付け髭を蓄えた「王」と、真っ赤な口紅を引いた「王妃」が並んで据わっている。
 彼らは衝撃を受けていた。愛娘は新興勢力の長と「結婚」するものだと信じていたのに、事実はそうではなかった。
 質素な衣裳を纏った文官武官が数名ずつ並び立つその中心で、豪奢な衣裳を纏った第一舞踏手《ソリスト》が舞う。
 大国からの使者だ。その役目は、「王」の一人娘を「彼」の主君の後宮に入れることを促すこと。
 踊り手は、「王」と「彼」の主君が対等であるかむしろ自分側の立場を一段下に置いたようなそぶりで、「王」の領土を安置するための「良策を献案」する黙劇《マイム》を力強く舞った。
 見事な演技だった。
 踊りの型(すなわち「言葉」)は遜ったものでありながら、一挙手一投足は驕慢そのもので、大国の奢りが匂い立っている。
 大国の支配者は小国の王に、暗に命令している。己の軍門に下れ。そして、命令に背くことは許されない。
 使者は、「王」が「即答しかねる」と舞い演じるのに一瞥を送ると、冷笑し、床を踏みならしながら舞台袖に去った。
 大号《ホルン》がかすかな音を立てた。同じフレーズを幾度も繰り返し、彼方で反響する山彦を表現している。
 小さな国の城壁の外で陣を張っていた軍勢が、進軍喇叭《ラッパ》を吹いているのだ。
 武官役の一人が憤りの型で剣舞を踊るが、落胆しきりの「王」は彼の徹底抗戦案をすぐに受け入れることができない。
 文官役の一人が「王」の許可を得ずに、使者が去って言った方向へ走る。「王」は彼の先走った行動を止めることもしない。
 力なく椅子に座り込む「王」の横で、やはり力なく立ち上がった「王妃」は、肩を落としつつも、カーテンで仕切られた一隅へ向かう。
 薄いカーテンの向こうには人影が揺れている。薄絹越しに「王妃」が語りかけるような弱々しい踊りを舞った。
 するとカーテンが開き、そこから王女クラリスが登場する……のが官製のシナリオだ。国を救うために自らを犠牲とする覚悟を決めた彼女は、カーテンを押しのけて舞台中央に飛び出で、己の決心を表現する華麗な舞いで、両親を説き伏せる。
 しかし、このカーテンは開かなかった。
 クラリス役の踊り手は、カーテンを押し開かず、自室にこもったまま、舞い始めた。
 悲劇の王女が姿を見せぬまま、芝居は進む。彼女は「向こう側」で、しかし定められた通りの形の演技をしている。
 揺らめく白い布地に映る影は、儚く、悲しげに舞った。
「……違う……」
 客席から影を見つめていたエル・クレールは、小首をかしげた。
「ひねくれ戯作者の演出のことか?」
 ブライトも影の動きを眺めつつ、問う。
「いえ。そのことではありません。踊り手です。あそこで国母を演じているのは、シルヴィではないのではないかと……。つまり、最初に初代皇帝を演じ、二幕目で花冠を投げたのとは違う人物が彼女を演じている」
「何故、そう思う?」
「背格好は確かに似通っていますが、肩幅や手足の肉付きが、シルヴィならばもっとほっそりしていると思うのです」
 エル・クレールは、自身の腕の中に抱いた踊り子の体の線を思い起こしていた。
「影だけで判るかね?」
 念を押され、彼女は自信なさげに頷く。
「それともう一つ。踊りの雰囲気が違うような気がします。一幕のシルヴィは『男役』であったのに、どこかに女性らしさが残っていた。彼女が『実は女』であることを暗に表現するためにそうしていたのかも知れませんけれども」
 僅かに語尾が弱まった。しかし続く言葉は、声は小さいが、何か確信じみたモノを含んでいる。
「ですがあの影は、女性にしてはすこし……そう、硬い感がするのです。つまり、巧く説明できませんが、『女が男らしい女性を演じている』と言うよりは……『男がたおやかな女性を演じている』ような、そんな気がするのです」
 途惑いながら言うエル・クレールを見、ブライトはニタリと、少々意地悪げな笑みを浮かべた。
「全く、その観察眼をもっと別の時に発揮してほしいモンだぜ。演劇評論家なんて職じゃ、当世喰っちゃいけねぇンだからな」
 小馬鹿にされた気のしたエル・クレールだったが、抗議や反論はできなかった。彼が言葉を続けたからだ。
「カーテンの向こうに居るのは、チビ助の阿呆やろうさ。つまり『舞台の上にはいないことになっている存在』役の、な」
「え……?」
「あの場所には、誰もいない。男権の象徴である『王』も、女らしさのステレオタイプの『王妃』も、攻撃性そのものの『武官』も、事なかれの体現の『文官』も、囚われのお姫様ってぇ『幻』を見て踊っている、てぇこった」
「ですが……、囚われの美姫ではなくとも、クラリスという名の女性は、間違いなく存在した……のでしょう?」
 エル・クレールがすがるような目をした。
「なんで俺に訊く?」
 ブライトの微笑には、少々の意地悪さが混ぜ込まれていた。質問には答えないと、暗に言っているのだ。
 しかし、
「あなたより他に訊く相手がおりません。……あなたはどうやら叔父が書いた物の内容を詳しくご存じのようですし」
 まっすぐに己を突き刺す緑色の瞳に、ブライトはいささかたじろいだ。
「詳しくなんぞ知りやしないさ。ただお前さんよりちょっくら長く生きているから、お前さんが生まれる前に流れた噂話の類を聞きかじっているってだけのこった。それにしたって、流石に四〇〇年昔のハナシは知るわけがなかろうよ」
「それはそうでしょうけれども……」
 エル・クレールは羊皮紙の束を抱きかかえ、力なくうなだれた。
「お前さんが岡惚れしている末生り瓢箪も、結局は同じ事だがね。そのボロ紙に書いてあるのも、恐らくはあいつが聞きかじった噂や、心もとない史料の書き写しに過ぎん……正史とやらの引用も含めて、な。どだい、ハッキリしたことなんぞ、誰にも判りゃしないンだ。だから後の世のモンは残された『記録』から推量して、自分なりに解釈する必要がある。解釈だから、人に拠っちゃ変わりうる。だからお前さんもお前さんなりに解釈すればいい。他人の解釈を参考にしながら、な」
「他人の解釈? それは、例えばあなたの解釈ですか?」
 エル・クレールは目を輝かせて身を乗り出した。
「ひでぇなぁ、姫若と俺はもう他人なんかじゃないでしょう」
 軽口で矛先を反らそうというブライトの算段は、当然ながら通らなかった。エル・クレールは怒りゆえとも恥じらいからとも知れぬ紅色で頬を染めつつ、
「他人です。誰がなんと言おうとも」
 強く否定した後、語気を緩めて言葉を足した。
「ですから、あなたの意見を聞かせてください」
 それは懇願に近い声音だった。
 重いため息がブライトの口から漏れた。
「俺は学者でも物書きでもねぇし、学んでやろうとか探求しようとかってぇ欲もねぇ。ただ面白がってるダケの聴衆の言うことなんざ、聞いても得にゃならんよ」
「では、誰の解釈を聞けと?」
 その問いに、彼は顎で答えた。無精髭の生えた顎が指したのは、四度幕の開いた舞台の上だった。
 舞台の中心に、初代皇帝が天を仰ぎ立っている。
 男を演じる女の踊り手が、力強く大地を踏みしめ、天を掴み盗る勢いで諸手を突き上げている。
 背後では不揃いな軍装の一団が横一列に並び、踊っていた。全員が同じ振り付けに基づいているが、しかし足並みはまるで揃っていない。
 踊り手の技量が不足しているのではない。
 むしろ、型どおりでありながら不揃いという不安定なダンスを、観る側に違和感を感じさせることなく踊ってみせる彼女らの技量は、並以上と言って差し支えない。
 これは演出だ。
 軍人としての訓練などまるきりされていない、食いっぱぐれの匹夫達が、それぞれの思惑を持ちつつも一塊になって進んでいる。いずれ誰かが暴走する可能性がある。そして組織は崩壊する可能性がある。しかし今は一つの目標に向かって歩く。……それを表すために、演出家がダンスを不揃いにさせているのだ。
 無論、御上から許された演出では、義勇軍の列は一糸乱れず行軍する事になっている。
 戯作者兼出演者兼振り付け師のマイヤー=マイヨールが、危険を承知で腹をくくり、役人の目をかいくぐりながら自説を主張しているのか、あるいは役人がそれに気付かないと高をくくっているのか、さもなくば、己の演出が相当に危険な物であるということをまるで自覚していないのか、傍目にははかりかねる。
 兎も角も、舞台上では不調和の調和が演じられていた。
 皇帝役が力強くなめらかな連続ターンを決める。背後の群舞は「彼」を讃える手振りで舞う。
 背景に掛けられた風景幕が横滑りに動く。
 後の世では義勇兵と呼ばれていることとなる小さな賊の群れは、いずれかへ「進軍」しているのだ。
 行く先は、北の果ての小城。目指すは、城郭の奥に隠れる美しき姫。
 彼らの行く手に、突如としてきらびやかな甲冑を着込んだ兵士達が現れた。「大国の先兵」たちから見れば、物陰から山賊が飛び出して来たという状況に他ならない。
 有無を言わさず、戦闘が始まる。
 義勇兵たちに作戦などというものはない。大体、策を用いようにも、知略知謀を巡らせる軍師が存在しない。初期の義勇兵団で知恵があると評して良い人物は、唯一、総大将であるノアール=ハーンのみという有様だ。
 その彼にしても、小規模な戦闘を乗り切るだけの能力があるに過ぎず、戦争の玄人とは言えない。
 運の良いことに、このときの彼らは敵の数倍の人数、すなわち「数の力」を持っていた。数の有利を無理矢理に押し込み、闇雲に戦う。
 しかも彼らは捨て鉢だった。この場から逃げ出してたところで、故郷は荒廃しきっているのだ。故郷以外の土地に入り込んだとしても、いまこの大陸のどこにに流れ者に飯をくれるような余裕のある町村があるというのか。
 命を惜しんで逃走しても、結局は飢えて死ぬことになる。後退する道はない。彼らはひたすら突き進む。
 一人の兵士に数人の義勇兵が飛びかかり、なまくら刀を叩きつける。戦争と言うよりは、愚連隊の喧嘩さながらの乱闘だった。
 舞台の上で行われているのは、演劇であり舞踏であるから、斬るも殴るも形だけの事だ。
 斬りつけるように踊り、斬られたように踊り、殴るように舞い、殴られたように舞う。
 だが実際その時に行われていた戦いは、酷いものだったろう。
 敵兵が死んでも攻撃は止まない。恐怖と怒り、そして勝利の恍惚から、義勇兵達は死体を切り刻み、骨を砕いたという。
 手傷を負わされた者も戦うことを止めなかった。目を潰されても、腕をもぎ取られても、足を切断されても、彼らは前へ進んだ。首を落とされてなお剣を振るっていた「勇者」がいたという伝説さえ残っている。
 累々たる屍は、敵兵だけでなく義勇兵のそれも、人の形の名残すらない膾さながらの肉片となっていたという。
 戦争とはいえない。暴力の爆発だ。自分の身をも巻き込む、恐怖の破裂だ。
 赤一色の背景幕がすとんと降りた。
 大地が血肉の色に染まったのだ。
 敵兵役の踊り子たちは転がるように舞台袖へ消えた。義勇兵たちは肩を組んで喜びの舞いを踊る。
 その中で、初代皇帝はただ一人浮かぬ顔をしていた。
 義勇兵の数が半分程度に減っているのだ。
 舞台の上から減った人数は、失われた命の数だ。義勇兵は多く殺し、多く殺された。
 彼は服喪を意味する黒い薄布を頭から被り顔を覆った。嘆きを黙劇《マイム》で表現しながら、ゆっくりと歩く。
 人気のない観客席には、悲しげな音楽とその中に埋没している木が軋むかすかな音が聞こえた。
 回り舞台が、勝利に沸く義勇兵の一団を観客の視界の外側に押し出す。
 たった独りで北の果ての小城へ向かっているノアール=ハーンだけが舞台上に残された。
 血なまぐさい戦場を表現していた背景幕は、静まりかえった暗い城内を描いたそれに変わり、大きく波打って揺れている。
 柱を表現しているのであろう細い布が、幾枚も下がっている。黒い布をなびかせながら、初代皇帝は柱の間を縫い進んだ。
「ふふん」
 突如、鼻笑いを聞いたエル・クレールは、笑い声の主の方に目を移した。
 視線に気付いたブライトは、小声で一言、
「早変わり」
 顎で舞台の上を指す。
 エル・クレールは眼を見開き、慌てて再度舞台に目を移した。
 未熟を嘆き焦燥する若い男が、ぶつけどころのない怒りと悲しみを、力強い舞踏で表現している。
「あ……」
 エル・クレールは気付いた。
「違う。あれはシルヴィーではない」
 背格好は似ている。だが躍動する手足の筋肉は、どう見ても、
「男性です。あれは本物の男の方です」
「……さて、ここ問題です。アレは一体誰でしょう?」
 ブライトの口ぶりは大分悪童じみていた。
「マイヤー=マイヨール、ですね」
「ご名答」
「では、シルヴィーはどこへ?」
「さて、本来の姿にでも戻っているンじゃないかね」
「本来……?」
 音楽が変わった。若い男の憤りと同じメロディは、オクターブが上がり、調が変わることによって、別の人間の嘆きを表現し始める。
 舞台上に薄いカーテンが引かれた。
 逆光の照明が、カーテンに人の影を映す。
 概視感に襲われた。
 前の幕に似た演出があった。
 しかし違う。
 筋張ってはいるが、どことなく丸く柔らかな体つき。指先のその先までも神経を行き届けさせている、しなやかな仕草。
 薄布の向こうには、悲しみにくれる非力な女性が居る。
「早変わり…………いつの間にシルヴィーとマイヨールはすり替わった?」
 疑問の形で口にしたが、エル・クレールは大凡理解していた。
 三幕が終わってから今までの間に、マイヤー=マイヨールは衣裳を若き日の初代皇帝のそれに替え、回り舞台の裏側に潜む。
 無力を嘆く若者の独演《ソロ》が始まってすぐ、柱を模した細い布の後ろへ入ったシルヴィーは、観客の視線の陰を利用して舞台裏か舞台袖へ消え、入れ替わりにマイヤーが踊り出る。
 彼が黒布で顔を隠し、怒りと悲しみを爆発させながら激しく踊る、その僅かな時間に衣裳を替えたシルヴィーが、今、カーテンの裏で舞っている。
「まるで手際の良い手爪《てづま》のよう」
 エル・クレールは嘆息した。
「早変わりやら入れ替わりやら凝った仕掛け舞台が得意な連中は、大概はそこを誇張した外連味が売りの派手な興行をブつもンだが、あの阿呆は何を思ったか、手前ぇらの技量をひた隠しに隠して『普通の芝居』に見せかけてやがる。何とも厭味じゃないか。チビ助め、そうとう後ろ頭が出っ張ってるな」
 後頭部の骨に極端な突出があることを叛骨《はんこつ》と言い、こういった相の人物は生まれながらに反体制的・レジスタンス的気質を持つと言われている。
「……無駄に知識を蓄えていらっしゃるあなたもご同様でしょう。人相学など、どこで学ばれたのですか?」
 敬服と皮肉の混じったため息を聞いたブライトは、小さく舌打ちし、
「お前さんが知っているぐれぇのこった。常識の範囲ってもンだろうよ」
 己の後頭部を乱暴に掻いた。
 舞台の上では、二人の人物が背中を向けあった状態で、それぞれに己の悲しみを表現している。
 同じ音楽に乗り、同じ振り付けで、同じタイミングで踊りながら、しかし彼らは自分以外の存在に気付いていない。己と同じく、無力への怒りと悲しみに身の裂かれる苦しみを味わっている存在が、極近くにあることを知らない。
 知らぬままに、彼らは、つま先指先までぴたりと同期同調させていた。
 背中合わせの二人が、同時に振り向いたとき、鐃はち《シンバル》が轟音をたてた。
 一組の男女がカーテンを隔てて、ほとんど同じポーズを取ったまま、制止した。
 音がなくなった。
 静寂の中で、彼らは不自然ともいえる身振りのまま、人形のように体をこわばらせた。
 やがて僅かに顔が動うごいた。
 視線が重なった。
 驚き、仰け反る。
 この二人にとって、カーテンは鏡面と同意だった。鏡に映った虚像が実像とまるきり同じ動きをするように、対峙する二人は全く同じ動作で、顔をそれに近づけた。
 白い布きれは、その向こう側にある「自分でない誰か」の姿を隠している。布のこちら側の男も、向こう側の女も、相手の姿をおぼろげに見るばかりだった。
 男がカーテンの表面に手をかざした。女の指がそれと同じ場所に触れた。
 爆ぜるように、彼らは手を放した。しかしすぐに二つの掌は重なった。
 ほとんど同じ背格好の二人の人物が、カーテン越しに抱擁する。
 雷鳴に似た鐃はち《シンバル》の音が響く。
 男が引き裂き、女が突き破った。
 二人を分かっていた心もとない障壁は、悲鳴を上げて消えた。
 花嫁のヴェールで顔を覆った囚われの姫の手を、服喪のヴェールを被った無頼の男が引く。
 二人は歩を合わせて踊り出した。
 金属が触れ合うちいさな音がする。
 耳を澄ませても聞こえないその音を、エル・クレールは確かに聞いた。ブライトの耳にもそれは届いていた。
 刀帯か佩鐶《はいかん》の金具が鳴ったのだ。
 ノアール=ハーンは丸腰だった。
 剣を佩いているのは「もう一人」の側だ。
 男は強引に、しかし愛おしげに姫をリードする。姫のおびえは徐々に陶酔に変わってゆく。
 薄幸な姫を略奪する荒々しい男と、運命に翻弄され続ける非力な娘のパ・ド・ドゥは、ノアール=ハーンが主であり、愛姫クラリスがそれに従う……本来はそのような場面の筈だ。
 マイヤー=マイヨールはスタンダードな振り付けを正確に再現しているにもかかわらず、舞台上の男からは支配力が感じられない。
 シルヴィーのそれも、約束どおりの形に完全に沿っているというのに、姫には従順さが微塵もない。
「照明が絶妙だな。チビ助には必要以上に光を当てないようにぎりぎりまで絞っていやがる。御蔭で男の影の薄いこと……まるでそこに居ないみてぇじゃないか。こいつは戦乙女ってぇよりゃぁ、嬶天下《かかあてんか》だぜ」
 言いながら、ブライトは隣の席に視線を送った。
 エル・クレール=ノアールは舞台を見ていなかった。
 青白い顔はおのれの膝の上に向いている。
 背を丸め、顔を近づけ、古びた書物の残骸を凝視する。
 唇が小さく動いた。指先でかすかなインクの痕跡をなぞり、文字を読んでいる。
「大剣……相反する……逆賊……兵を率いるにおいて……烈火の如く逆上……細やかな配慮……冷徹な処置……甚だしく……波のある……二面は一つ……」
 彼女の口から漏れる音は、到底文章とはいえなかった。書かれている文字がその体裁をなしていないのだから、当然だ。
 幾ページにも渡り点在する断片的な書き込みは、エル・クレールがどう読んでみても繋がることがなく、意味なす言葉にはならなかった。
 心を残したまま、彼女が諦め、顔を上げた時、舞台の上では甘く美しい恋人達のダンスが接吻のポーズで制止していた。
 四幕目は、高らかに響く婚礼祝いの鐘の音の中閉じた。
 緞帳の裏側で舞台替えの物音がせわしなく響く。
 二人きりの観客の内の一人が、残りの一人の耳元に顔を寄せ、
「裏っ側さえ気にしなければ、なかなか『笑える』出し物だと思うが、姫若さまのご意見は如何に?」
 捻くれた讃辞の言葉を枕に問う。
 抑えた声のが導き出したのは、一層小さな声での返答だった。
「私がこの劇を裏側を気にせずに観ることができるとお思いですか?」
 エル・クレールが白い頬を剥くれさせるのを見、
「そりゃぁごもっともで」
 ブライトはおくびをかみ殺すのと同じ顔をして、失笑を押さえ込んだ。
 彼ら以外の人物が一人として居ないこの場所で、内証話めいた口ぶりで会話する必要などまるでない。しかし彼らはそうせざるを得ない心持ちでいた。
「天井知らずの剛胆か、底抜けの阿呆か。どちらにしろ、褒められたもンじゃあねぇな」
 ブライトは小さく伸びをすると、座り直し組み直した脚の上に頬杖を突いた。
「それは誰の事ですか?」
 クレールは背筋を伸ばし、閉じられた羊皮紙の束の上に両の拳を並べて置いていた。
「どこにチビ助以外の『そういうの』がいるかね?」
 間髪を入れず、彼女は答えた。
「ヨルムンガント・フレキ」
 間髪を入れず、彼は吐き捨てた。
「論外だ」
 顔を背け、ブライトは緞帳幕を睨み付けた。
 この舞台は総じて幕間が短かった。
 地面を掘り下げまでして設置した大がかりな装置の威力だ。表で踊り子達が演技している最中に裏側で次の背景を準備し、すぐさま送り出すことができる。場面転換はすこぶる付きに素早い。
 裏方達は下品で口が悪いが仕事は早くて正確だった。騒がしい踊り子達も演技が巧みな上に持久力が高い。
 彼らは休憩をする必要がないらしい。すぐに次の仕事を始め、こなす。
 それがこの演目に限ったことなのか、あるいはこれが通し稽古《ゲネプロ》だからなのか、そもそもこの劇団の特徴なのか、理由は定かで定かでない。
 間違いなく言えることは、今日の舞台においては、めまぐるしいほどにテンポ良く事が進み、幕が閉じてはすぐに再開することを繰り返しているということだ。
「小便に行く暇もありゃしねぇよ」
 ブライトは戯けて言うと、厳つい掌でエル・クレールの頭を覆うように掴み、彼女の顔を舞台の方向へ向けさせた。
 が。
 幕は上がらなかった。
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