いにしえの【世界】 − いにしえの【世界】 【15】 BACK | INDEX | NEXT 2015/02/16 update |
エル・クレールは意識を失った。深淵の底の深い闇に突き落とされたような、ひたすらに沈み込んでゆくばかりの薄寒い浮遊感が彼女を包んだ。 しかしそれは一瞬のことだった。目を開いた。 床があった。 四角く切りそろえられた石が、律儀に隙間なく組み合わされた床だ。 ならした土の上に薄い布を敷いただけの、移動式芝居小屋の床ではなかった。 長い間、日の光を浴びたことがない、燭台の灯火にすら照らされたことのない、冷え切った床。 彼女はその上に打ち倒れている。 敷き詰められた石の目地の中で、埃のような砂粒がブルブルと揺れていた。 床が、彼女のいる場所が、揺れ動いている。 床の振動の奥から聞こえるのは、人の声、足音、物が壊れる音。 『戦《いくさ》……』 直感したが、確かめられなかった。 身を起こすことができない。指の一本を動かすだけの力すら湧いてこない。 「望みは叶ったか?」 強い風のうねりのような低い声が、一点の輝きと共に頭上から降ってきた気がした。 「ここがお前の【世界《ル・モンド》】だ。この場所に君臨するが良い。お前の民は誰一人として悲しむことはなく、誰一人として苦しむことはない。餓えも貧しさも、不平等も搾取もない。お前は誰からも攻められず、憎まれず、責められず、蔑まされない」 彼女は目を閉じた。血潮の色を帯びた暗闇だけが眼前にある。 首を振った。実際にそうしたのかどうかは、彼女にも解らない。 しかし彼女の心は拒絶と否定を示していた。 「お前の言いたいことは判っている。お前が望んでいることを、こんな詭弁でごまかせるモノではないからね。だがね……」 仄暗い闇の奥から、赫い薄明かりを纏った逞しい拳が差し出されるのが見えた。 「隔絶され、閉ざされた、小さな【世界】、それがお前の【世界】なのだよ。そしてお前がここにいる限り、ここがお前の【世界】であり続ける」 「ここに、いる、限り……」 不意に体が軽くなった。 彼女は冷たい床から身を起こし、当たりを見回した。 狭い部屋だった。石を積んだ強固な壁に、丸く取り巻かれている。手の届かない高さに、一つだけ小さな窓があった。 歪んだ四角の枠の中の小さく青く澄んだ空を、白い雲と灰色の煙が流れている。 地揺れがした。 頭上から細かい土埃が舞い落ちる。 「外から崩されて、押し潰されるか。内から崩して切り開くか。お前の選ぶべき道はわかっているだろう? 勇敢なノアール……いや、賢いクレール」 大きな声ではない。強い声でもない。穏やかで力のあるその響きに、彼女は耳新しさを憶え、懐かしさをも感じた。 頭の上で、何かが壊れる音がした。 エル・クレール=ノアールは無数の椅子の残骸の中に身を横たえていた。 右の二の腕の関節のない場所が折れ曲がっている。 痛みは感じなかった。脳漿の中で沸騰する何かが、苦痛や恐怖を取り払っていた。 「右は……不要!」 跳ね起きた。 左の手に力を感じていた。使い慣れた【正義】のアームと似た、しかし別の、そして弱い力だった。 木切れを踏みつけ砕き割りながら、彼女は床を蹴った。 数歩先に【月】が倒れているのが見える。 エル・クレールがその直前に着地し、低く身構えた時、女の裸身が動いた。 腹の横から突き出た幾本もの尖った「脚」が、強張った【月】の体を床から持ち上げ、がさがさと移動させている。 割れた頭蓋が、いつの間にか元の形に戻っていた。その代わり、【月】の上半身の下にあった伝令官の頭がなくなっている。 「姿をお見せ、かわいいエル坊や! その美しい顔を、映し盗ってあげる」 叫び、腕を伸ばす。文字通りに腕が伸び、エル・クレールの喉元にからみついた。 腕はエル・クレールの首を締め付けながら縮んだ。引き寄せられるように【月】の上体が起き上がる。 このとき【月】は気付くべきだった。 エル・クレールが自身の腕を振り払おうとしなかったこと、引かれることに逆らってむしろ【月】の身を起こさせようとしていたことに。 起き上がった【月】の曇った鏡面に、白い顔が映り込んだ。 鋭い眼差しには、戦う決意が見える。 優しげな口元には、慈愛の微笑がある。 【月】の顔が歪んだ。 「お前は、誰?」 エル・クレール=ノアールの顔面は、埃で少しばかり汚れている。頬や額には血の滲む擦過傷と小さな切り傷とが出来、頬骨のあたりには打撲の痕が赤く腫れている。 しかしそれらは彼女の顔貌を他人にしてしまうほどの変容とは言えない。 彼女の顔立ちは、どこか幼さのある若者ようで、意志の強い少年のような、世間知らずな生娘のそれのままである。 エル・クレールの顔が【月】の鼻先に引き寄せられた。【月】は目玉を見開いて、彼女の顔を見た。 曇った凸面鏡に、女の顔が映った。 気の強そうな顔だった。 化粧気のない顔だった。 薄い傷跡がいくつも残る顔だった。 酷く痩せていた。 日に灼けた皮膚が髑髏の上にぴんと張られた顔の、落ちくぼんだ眼窩の奥で、灰色の瞳をぎらぎらと光っていた。 【月】の目が、針のように細く鋭く変じた。 「アタシ……」 ヨハネス=グラーヴの胸の奥に、一つの景色が浮かんだ。 酒場だった。 上等な社交場とは言い難い。薄暗い店内では、あまり身なりの良くない男達が、一人か二人ずつ席について、話もせずにちびりちびりと酒をなめている。 ただ一席、酷く騒がしいテーブルがあった。若い剣士達が数人集まって、笑い、呑んでいる。 明日とある良家の婿養子となる花婿とその友人達が、友の結婚を祝い、独身最後の日を惜しむ乱痴気騒ぎを饗しているのだ。 「――も、明日から城伯《じょうはく》サマか。出世した物だな」 友人の一人が花婿の杯に強い酒を注ぐ。口調には厭味と軽蔑と羨望とが入り交じっていた。 皆、貧乏貴族の次男や三男だった。相続権は無いに等しく、身を立てるためには武功を上げるか実力者に取り入るか、でなければどこかの家付き娘の婿になるより他ない連中である。 ハーンからギュネイへの禅譲が平穏に執り行われたほどに、表面的には平和な昨今である。武に依る出世などというものは、夢のまた夢だ。 実力者に取り入るには多くの付け届け(有り体に言えば賄賂)が要る。元より領地の無いに等しい小貴族の家にはそのような「余分の費用」をひねり出す余裕など無い。 どこかの令嬢と縁を結ぶにしても、相続権付きの花嫁などは相続権付きの花婿と同数か、むしろ少ないのだから、やはり難しい。貴族の箔が欲しい平民の金持ちの所へ転がり込めればしめたものだが、そういった口も多くあるわけではない。 そんな中、この花婿は城伯という、言わば地方都市の「王」の娘と婚姻することとなった。友人達が羨み、嫉み、妬むのも当然であり、仕方ないことだった。 木の杯にあふれるほど注がれた強い安酒をあおりつつ、花婿はニタリと嗤った。 「まあ、しばらくはおとなしく猫を被って辛抱することになるがな」 「辛抱か」 「確かに辛抱が必要だろうな。花嫁殿のあのご面相は……」 一同、笑いを堪え、肩をふるわせている。 「なんでも城伯様は男の子を欲していたとか。生まれた赤子の顔を見て、願い適ったと小躍りしたが、産婆に『姫だ』と言われて失神したそうな」 「親が気を失う顔か!」 友人達がどっと笑った。 「それでも跡取りを作らぬ訳にはゆくまい」 「――に一番の贈り物は美女の面であろうよ。明日の夜、床に入る前に女房の顔にかぶせてしまえ」 「いやいや麻の袋で充分だ」 花婿が一番の大口を開けて笑っていた。 「思えば哀れな娘ごだ。広い額に尖った鼻。眼差し鋭い三白眼。まだしも男に生まれておれば、中々に勇ましき顔と言われはしても、こうして笑われることはあるまいに」 別の友人が杯を掲げた。 「気の毒なヨハンナ嬢に乾杯」 皆がそれに応じて笑いながら杯を掲げる。 「乾杯」 そのかけ声は、直後に悲鳴に変わっていた。 彼らは考えもしなかった。 よもやこんな場末の酒場に、城伯の姫がただ一人訪れていようとは。 哀れで愚かな男達は、自分たちが「男であればまだ見られる」などと言ったその顔立ち故、彼女が男の形で酒場の暗がりにいることにまるで気がつかなかったのだ。 しかも彼女がよく斬れる剣を携えていて、それをいきなりすっぱ抜くなどと、だれが思い至るであろうか。 城伯の一人娘・ヨハンナ=グラーヴは、瞬く間に男達を斬り倒した。 男装した姫の太刀筋は、彼らの急所から微妙にずれていた。 彼らは即死しなかった――そう、不幸なことに。 城塞都市の法律執行職を司る城伯は、本来は戦争の最前線施設の司令官だった。故に戦乱の時代にはその職にふさわしい人材、すなわち特に武に優れた者や、兵法に達者な者がその称号を得、職を任じられ、城を守っていた。 大きな戦の無くなった太平の世では戦争の司令官という職務の部分は完全に形骸化している。城伯の称号だけが他の爵位同様に漫然と世襲されていた。少なくとも、他の城塞都市では。 グラーヴ家はいささか違った。 初代は武を持ってハーン帝国の始祖ノアール=ハーンに仕え、武によって取り立てられた人物とされている。 武によって与えられた領地の、武によって守り抜いた城の中で、彼を武功を讃える数多のモニュメントが人々を睥睨していた。 「武人として得た地位は、武人として守らねばならない」 肖像画が、胸像が、レリーフが、壁画が、天井画が、無言の言葉を発し続ける。 時が流れ、平和な世となっても、歴代の当主達は「武人であること、軍人の誇りを持つこと」を己と己の子孫達に強いた。 ヨハンナ=グラーヴの父親ヨハネスが、一人娘を娘として扱おうとしなかった理由も、その血の妄執にある。 「グラーヴ家の総領は、勇猛な騎士にして苛烈な戦士でなければならない」 ヨハネス=グラーヴ城伯は娘に己の名を継がせた。父も家人達も「彼」をヨハネスと呼んだ。 母親だけはヨハンナと呼んでいだ。ただし、その女名前を口にできるのは、夫の目と耳が届かぬ場所に限られていた。 兎も角。若いヨハネス=グラーヴは、父親の望む通りの剣術使いになった。城下で「彼」に敵う者は数えるほどしかいないほどの手練れになった。 父が急死するまでの間、若いヨハネスは「理想的な領主の嫡男」であり続けた。 すなわち――。 花婿の友人達が即死しなかったのは、攻撃者の技量が足らなかったためではない。ヨハンナはあえて急所を突かず、思うところあって止めを刺さなかった。 それは慈悲によるものでも憐憫《れんびん》からのことでもない。城伯の娘は彼らの命を惜しんでなどいなかった。 彼らは長い間悶え苦しみ続けた。血潮が流れ尽きるまで、彼らは生きていなければならなかった。 彼らの霞む目に、花嫁と花婿の最初で最後の儀式を見せつけること。それがヨハネスと呼ばれたヨハンナの望みだった。 友人達の血に足を取られ、花婿は汚れた床の上に尻餅をついた。 「酒の上の冗談だ。羽目を外しすぎた。許してくれ」 花婿が声を震わせる。ヨハネス=グラーヴは小さく笑った。花婿の顔に安堵の血の気が戻ったのは一瞬のことだった。 彼の妻となるはずだった娘は、微笑を湛えたまま長剣を振った。彼の胸板は薄く斬られた。 長剣の切っ先にまとわりついた花婿の血を、花嫁は左の紅差し指で拭った。鉄の匂う朱の液体が指先からどろりと流れた。 「卿が主君を弑《しい》したことについてだが……」 ヨハネス=グラーヴの声は、暗く、低い。 花婿は頬を引きつらせた。 彼の主君とは、老ヨハネス=グラーヴであった。すなわち、いま彼の眼前で抜き身をぶら下げている「若いヨハネス」の、彼が花嫁と決めた「気の毒なヨハンナ」の父親である。 彼は自分の計画を秘密裏に立て、秘密裏に実行したつもりだった。城伯殺しの犯人は誰にも知られていないと信じていた。 震え上がった。同時に疑念が生じた。 「君は、それを知った上で僕との婚礼を?」 掠れた声で反問した。 「父を謀殺した仇を探さない者がいるかえ?」 当然のこという口ぶりの答えと、血濡れた剣の切っ先が花婿の胸を指し示す。 剣先は空中で停まり、動かない。花婿は固唾を呑んだ。 「そのことだが、私は卿に謝辞を述べようと思っていた。実は私も、廃された皇帝に対する感傷を忠誠と履き違えるような人物は、新しい皇帝が治める国から取り除くべきだと、常々思っていた」 ヨハネスと呼ばれていたヨハンナの言葉は花婿を驚愕させた。彼の知る「若いヨハネス」は父親に対して忠実であり、不平不満を述べることなど微塵も無かったからだ。 「僕は、つまり、君の望みを叶えたということになる」 花婿は硬い笑顔を作った。だがヨハンナは彼の言葉に対して返答しなかった。 「私は卿のとった手段については非難している。夜陰に乗じた暗殺は、騎士道に反する」 剣の先が花婿の左胸にあてがわれた。 「老伯の側にはいつも君がいる。君はこの城下で並ぶ者のない剣士だ……僕が正面から斬り掛かって、君に勝てるはずがない」 花婿は引きつった声で弁明した。 「だから卿は、あの年寄りが愛妾の所へ忍んでゆく夜道に襲った。『悪所』通いの父親を軽蔑した『倅《せがれ》』が、その時ばかりは護衛をしないと知って……。良い作戦だと思う。私が卿であったとしたら、やはりその策をとる」 「そうしなければ……老伯を殺さねば、君と結婚できなかったからだ。あの方は、あくまで君を男として扱っていた。あの方が生きている限り、君は婿を取ることができなかった」 まくし立てる花婿の胸元から、剣先が僅かに引かれた。花婿は息を吐き出し、 「妻よ」 小さく呼びかけた。ヨハンナは灰色の目を細めて彼を見つめ返した。 「そのことを……君は誰かに調べさせたのか」 「否。我が身一つで」 「では、知っているのは、僕と君だけか?」 「他の誰にも漏らしていない」 「では、夫婦の秘密だ」 ヨハンナは頷いた。彼女の唇に浮かぶ微笑は、しかし嘲笑だった。 「卿に美しい愛人がいることも……」 花婿は息を呑んだ。その場から逃げようにも、腰が立たない。 ヨハンナ=グラーヴは血に濡れた指先が薄い唇をなぞった。 土気色の生き生きとした赤に色づく。 指先は頬骨の上を滑る。 青白い頬が赤く輝いた。 「さようなら、愛しい人。私ではなく、城伯の爵位に恋した人」 |
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