いにしえの【世界】 − 朝影 【18】 BACK | INDEX | NEXT 2015/02/16 update |
この宿屋で「一番上等」だと、宿屋の亭主自身が胸を張る客室というのは、簡易な炊事場の付いた狭い食堂と、折り畳みの書き物机《ライティングビューロー》が一台おかれた居間、枕二つが無理矢理並べられた寝台に占拠された寝室、という続き部屋だった。 確かに部屋数だけは他の客室の三倍ある。 しかしここは小さな村の安宿だ。祭りの時期はたいそう混み合うが、普段は行商人か伝令の小役人ぐらいしか泊まり客はいない。必要最低限の備えだけを有する建物は、そのものが小振りで、従って部屋も総じて狭い。 もう少し大きな町の宿屋であったなら、この床面積を三つに仕切って続き部屋にしようなどとは、恐らくは考えもつかないだろう。 水を張った手桶を抱えて主寝室の窮屈なドアを開けたシルヴィーは、思わず手桶を落としそうになった。 窓の外に人がいる。……宿屋の最上階、四階の窓の外に、である。 人影は窓枠にかけた両腕を支えに全身を持ち上げると、音もなく、ベッド脇の狭い床に降り立った。 『どろぼう!』 シルヴィーは叫び声を上げそうになった。「賊」はベッドの中の怪我人に視線を向けている。咄嗟に手桶を投げつけて追い払ってくれようと考え至った。 思いとどまったのは、その怪我人が掠れた呆れ声を上げたからだ。 「掏摸《スリ》と強盗の次は空き巣の真似事ですか?」 「なんだお前さん、一服盛られて朦朧としている間に真ッパに剥かれたあられもない格好でベッドに縛りっ付けられてたンじゃなかったのかね?」 ブライトはベッドの上に身を起こしているエル・クレール=ノアールが、ゆったりとした夜着を羽織っていることに気付き、落胆の声を漏らした。 「誰がそのようないい加減なことを?」 「ドアの向こうっかわに陣取る薹《とう》の立った楽園の門番《ケルビム》ども」 口惜しそうにいい、ブライトは大げさに肩を落として見せた。 「方便です」 水桶をテーブルに置いたシルヴィーは、彼に椅子を勧めながらその顔色をうかがい、おずおずと言う。 「エリーザベト姐さん達は、良くない見舞客を追い返す方便に、そんなことを言っただけです。ですから旦那様、どうか姐さん達を叱らないでください」 ブライトは背もたれのない小さな椅子にどかりと座って脚を組み、窮屈そうに身をかがめて膝の上に頬杖を突いた。 「初手から解ってらぁな。マジで『若様』が服をお召しにならないままに寝ていらっしゃったのなら、中に入れた連中が皆『姫様』のことを知ってなきゃおかしい。ところが、あの門番共は、うちのかわいいオヒメサマのことを知っているのは、テメェ等自身と、プリマと、それからそこのバァさんの四人と言った」 顎を支える手の人差し指が、開け放たれていた部屋のドアを指し示す。 寝室と居間との境目に、マダム・ルイゾンがの痩躯があった。闖入者を目の当たりにした彼女だったが、まるでブライトがここにいることが当たり前のような顔をしている。 彼の横顔に怒りがないのを見たシルヴィーは、カーテンコールに応じるプリマがするような、軽く膝を曲げた礼をして見せた。 「ま、ちょいとは期待してたがね。クスリが効いてぐっすり寝込んでいるンなら、少なくとも布団をまくる前に殴り返されるよなことはないんじゃなかろうか。よしんば殴られたとしても、いつもみてぇに顎の骨が砕かれちまうよなことにはなるまいってな」 「顎の、骨!?」 シルヴィーの黒目がちな瞳が大きく見開かれた。彼女はその目玉でブライトとエル・クレールの顔を交互に見た。 ブライトの横顔は真面目そのものに見えた。一方、エル・クレールは呆れたような顔つきで苦笑いをしている。 そのはにかんだ笑顔のおかげで、シルヴィーはブライトの言うことが「いくらか」大仰に過ぎるのだろうと察することができた。 ブライトは頬杖の掌を開いて無精髭の顎をなで回し、真剣な眼差しをエル・クレールに注いでいる。 「俺は前々から、お前さんにはワルい魔法使いのヒドイ虫除けの呪いがかかってるンじゃねぇかと睨んでるんだ」 「その呪いで、自分が避けられていると?」 ため息混じりにエル・クレールが反問する。ブライトは背筋を伸ばし脚をほどき、居住まいを正すと、真顔で大きく肯いた。 「もしそんな呪いがあるとして……あなたがそれを信じていて、そう仰っているのなら、ご自分が毒虫であると自覚していると言うことになるのでは?」 重ねて訊ねるエル・クレールに、 「胡蜂《ホーネット》と蜜蜂《ビー》の区別がついていねぇから、ワルい魔法使いの呪いだっていうんだ」 ブライトは下唇を突き出した。 「その大きな体で、ご自身を小さな蜜蜂に例えますか」 呆れの口調で言いながら、エル・クレールは微笑していた。 「俺サマが蜜蜂なら、お前さんはたっぷり蜜を隠した可憐な花ってことさね。そいつはつまり、美しい綺麗だ魅力的だと褒めてやっているってことだ。乙女らしく大喜びしてホッペにチューの一つもしてくれようって気にはならんかね?」 ブライトはおのれの頬をエル・クレールの顔の前に突き出した。ただし、顔つきはあくまで真剣であった。 滑稽だった。いい年齢をした無精髭の大人が子供のような真似をするのを見たシルヴィーは、堪えかねて吹き出した。 マダム・ルイゾンに視線でとがめられ、声を上げて笑うことは耐えた。それでも肩が大きく揺れるのを押さえることはできず、抱えていた手桶の水が跳ね上がった。 慌ててルイゾンが濡れた彼女の手や衣服を拭いた。ルイゾン自身もにんまりと笑っている。 「いいえ旦那は胡蜂ですよ。だって蜜蜂は一挿ししたが最後自分も死んじまうけど、旦那は何度だってぶっ挿すおつもりでしょうから」 自称蜜蜂には彼女の言いたいことがすぐに解ったが、可憐な花は卑猥なニュアンスをくみ取れる猥雑さがない。 ブライトが解顔したわけも、ルイゾンがシルヴィーを抱えるようにして強引に部屋から出て行ったわけも、彼女には解らなかった。 ドアが閉まった。二つの足音はドアから遠ざかって止まった。二人の踊り子は、恐らく廊下側のドアの前あたりにいるだろう。 ブライトの目つきが鋭くなった。その先端は、エル・クレールの左手に突き立てられている。 青白い紅差し指の付け根を、一本の赤い筋が取り巻いていた。 それは旗竿に仕込まれていた。 元は勅使一行の先頭にいた旗手が掲げる錦の御旗をぶら下げた、細い竿だった。 旗手の腕を奪った【月】が持ち、彼女によって投げつけられたブライトが持ち替え、竿の中にそれを隠し、エル・クレールに投げ渡した。 エル・クレールが、おのれに悪夢を見せた原因だと信じたものだった。ブライトが、エル・クレールの感覚を鈍らせた元凶と推察したものだった。 かぎ爪のように尖った切っ先をもつ、赤く小さな結晶。 かつて生きていたのであろう何者かの魂の、哀しいなれの果て。 あの時、小さな【アーム】の欠片はエル・クレールの掌に突き刺さり、彼女に取り憑いた。そして彼女の左の紅差し指の付け根に、おのれの刻印《スティグマ》を焼き付けた。 「この指を……いえ、いっそ腕を根こそぎ、切り落として欲しいとお頼みしましたら、叶えてくださいますか?」 エル・クレール=ノアールの声は穏やかだった。感情を押さえ込み、平静を保とうとしている。その証拠に、翡翠色の瞳は暗く曇っていた。 「ずいぶんとしおらしい物言いをしやがるな。まるで年頃の娘みてぇで、『若様』には似合わねぇ」 文字にすれば軽口さながらの言葉ではあるが、実際は違う。ブライトの声は重く暗く沈んでいる。 「答えになっていませんよ」 エル・クレールの眼差しに、ほんの一瞬怒りの火が浮かんだ。 彼女にとって、これはブライトに「押しつけられたもの」だった。 武器を失ったエル・クレールを、敵に悟られぬように援護をすることが必要であったあの状況では、致し方のないことではあった。 そのことは理解している。 それでも不信は残る。 あれは彼自身が、自分から遠ざけたものではないか。ふれることを禁じ、見えぬように隠したのは彼自身だ。 彼がそうしたのは、自分が「それ」に恐れを抱いていたからだということを、エル・クレールも重々解っている。 自分のためにしてくれたこと。 遠ざけた理由も、託した訳も、どちらとも頭では理解できる。理解しようと努めている。 そうやって努力をしないと腑に落とせない自分が厭わしい。 エル・クレールは眼を閉じた。再び開けるときには、笑ってやろうと考えていた。 怒っている、恐れている、焦っている、不安を感じている――自分がそんな「子供っぽい感情」に支配されていることを覆い隠せる清々しい笑顔を、あの男に向けてやろう。 顔を上げた。 途端、エル・クレールの作り笑顔は吹き飛ばされた。 ブライトの顔が仮面の如く凍り付いている。 彼は表情の豊かな男だ。 何事が無くても機嫌が良ければにこやかで、不機嫌であれば眉間に皺が寄る。よからぬ企み事をしているときには、恐ろしく楽しげな思案顔になる。 作り笑いや妙に巧い小芝居も含めて、彼の顔の上に喜怒哀楽のいずれかが僅かでも表れないなどということはない。 その顔の上に、何の色も浮かんでいない。 それが何を意味するのか、エル・クレールには一つのことにしか思い至らなかった。 ブライト=ソードマンは怒っている。静かに怒っている。 不安に駆られた。見てはならない恐ろしいもの……彼の亡骸を見せつけられたような気にさえなった。 彼が何に対して怒っているのか、すぐに判ずることができなかったが、いずれ自分に対する怒りであろうと思われた。 しかし、彼がもしエル・クレールの不甲斐なさに立腹しているのであるなら、 「いくらでも叩き斬ってやる」 などという肯定の言葉は言わなかったろう。 確かに、その怒りの原因は彼女にある。だがブライトの憤りの矛先は彼自身に向けられていた。 「それでその下種をお前さんから引っ剥がせるなら、後先考えねぇこの能なしには、そうしてやらなきゃならねぇ義務がある」 彼は胸に親指を突き刺すようにしておのれの心臓を指し示した。 「あれは武器を失った私への、熟慮の上でのご配慮でしょう?」 あの時ブライトが立っていた舞台袖から、エル・クレールがいた客席の端までの距離は、瞬きの間に一足飛びで文字通りに飛んでくることができるほどには近くなかった。 しかも、ブライトの足元にはもう一人の敵……イーヴァン青年がいた。【月】に魂の残滓に取り憑かれていた反動で彼は半死半生だった。ブライトにとって敵とは言えない。だが、残った命を総てかける覚悟でいる若者の抵抗を、彼の命を奪わぬようにして躱すことは容易ではない。 ブライトはその場から動かないことを選んだ。 自ら駆けつけて助太刀をすることなく、それでも加勢をしなければならないのであれば、手近にある武器になる【もの】を投げつけるより 「……他に手立てはありません。あの場での最良の策です」 はっきりとした口調でエル・クレールは言い切った。 「お前さんにそう言わせっちまってるってことが口惜しいやな」 ブライトは顔を伏せた。エル・クレールの真っ直ぐな視線から逃れるためだった。 「俺ぁ、てめえの脳味噌はもう少し働きモンだと思ってたんだがな。とんでもねぇや。目も当てられねぇ愚者だ」 これが普段どおりの軽口なのか、あるいは本心の吐露なのか、エル・クレール=ノアールには解らなかった。 伏せられた彼の顔は、口元の小さな笑みだけを見せている。目の色は全く覗わせない。 彼の「ブライト=ソードマンに対する軽蔑」がどれほど深刻なものであるのか、判断が付きかねた。 エル・クレールは左腕を伸ばし、彼の顔の下へ手を差し入れた。 「それこそ、これの所為ではありませんか?」 薬指の付け根を取り巻く赤い一筋の痣《あざ》が、エル・クレールの心拍と同じタイミングで脈動した。 「そのはすっぱな出来損ないの【アーム】が、お前さんの感覚と俺の脳味噌を鈍らせた、ってか?」 「はい」 エル・クレールは笑った。精一杯の笑顔を作った。ブライトの視線が自分に向けられていないなことは百も承知だ。 それでも笑った。 明るく、そして深い考えのない愚かな子供の笑顔を作った。少なくとも、自分ではそういう顔をしたつもりでいた。 エル・クレールは表情を「作る」ことが苦手だった。この点だけでいえば、彼女は権力者の卵(小国の跡取り姫)としても旅人としても「不器用」であると言わざるを得ない。いや、「不適格」と断じてしまっても良い。 臣民のために尽くさねばならない為政者であれば、時として自我を殺して感情を封じ、心にもない笑みで顔を満たさねばならないことが必要となる。 おのれのことを知らぬ人ばかりの土地に旅するものであれば、自分の身を守るために人なつこい笑顔を浮かべるべき場面に遭遇することもあるだろう。 山間の、少なくとも表面上は平和な小国の幼い姫君クレール=ハーンは、幸か不幸か無理矢理に作り笑いを浮かべなければならない状況に巡り会ったことがなかった。 嬉しいときに笑い、不機嫌なときにむくれ、哀しいときに泣いた。それで不都合はなかった。 姫若様は子供だった。老王に溺愛され若い母に偏愛された幼子だった。我が侭とは呼べない小さな無邪気を、彼女は許されていた。 そのためにハーンの姫若は作り笑顔の必要性を実戦的に学ぶことができなかった。経験のないことはできようがない。 国を失って放浪するエル・クレール=ノアールが社交辞令のため努力して笑顔を浮かべても、ブライト=ソードマンによって 「児戯《じぎ》」 と小馬鹿にされてしまうできあがりにしかならない。 エル・クレールは知らないことだが、実際のところ、彼は本心では彼女の笑顔の出来を否定していなかった。 彼女の「硬い笑顔」は芸術的な美しさを持っている。普通の人間に好意を抱かせるには十二分の威力を発揮した。事実、フレイドマル一座の構成員達のほとんどが、中性的な若い貴族の笑顔に魅了されている。 その実力を認めて尚、ブライトは彼女の作り笑顔を否定する。 作られた微笑は「嘘」であるというのが、彼の考えだった。 例え人々の心を打ち、幸福感を与えるものであっても、それは「贋物」に過ぎない。 ブライト=ソードマンはクレール=ハーン姫が「嘘吐きの贋者」になって貰っては困ると思っている。手中の宝を穢したくない、可愛らしいモノに可愛らしいままでいて欲しいという、歪んだ大人の汚れた独占欲がそこにある。 兎も角。 エル・クレールには今自分がどのような顔をしているのか、客観的に判断することはできない。自分の顔を自分で見ることはできぬし、この部屋にある鏡は寝台の上を映す角度にはなかった。 彼女は、自分が相当にぎこちない顔をしているであろうと確信している。酷く醜い表情をしているに違いない。 僅かに顔を上げたブライトが、すぐに視線をそらしたことが、その思い込みを一層強くした。 窓際の寝台の上で青白い顔の上に精一杯の作り笑いを広げる、世間知らずの若い娘の背後に輝く柔らかな春の陽光は、彼にはまともに見つめられぬほどまぶしかったのだ。 「姫若サマ、ご冗談はそのお顔だけになさいな。そいつは少しばかり都合の良すぎるご解釈ってもンだ」 ブライトは軽口じみたことを少しばかりうわずった声で言った。 そうやってはぐらかしでもしなければ、エル・クレールの顔から恐ろしく妖艶な色が消えてくれないだろう。 彼の策略は図に当たった。エル・クレールは 「そんなに酷い顔をしていますか?」 小さく拗ねて、唇を尖らせた。 ブライトは答えなかった。顔を背けたまま、無言で立ち上がった。 広い歩幅で、部屋の窓から一番離れた角に向かった。エル・クレールの僅かばかりの手荷物が、整然と並べ置かれている。 小さな背負い鞄、くたびれた革長靴、真っ二つに折れた細身の剣。 「あの小僧、大した馬鹿力だ」 鞘ごと両断された模造刀の鋭利な断面を眺め、ブライトは呆れたように言う。 火山の熱波に飲み込まれたエル・クレールの故郷で、燃えることのなかった紫檀《ローズウッド》の細工物だった。木であるにもかかわらず水に沈むほどの重さがある。並の剣士がなまくら刀で打ち込めば、刃こぼれだけではでは済まないほどのダメージで「返り討ち」にされてしまう。 「イーヴァン君は【月】の……真鬼《オーガ》の影響を受けていました。普通であれば出せない、体が壊れてしまうほどの力を出してしまった」 その反動で少年はいま昏睡状態にあるという。見舞いに行ったマダム・ルイゾンが医者に聞いたところによると、全身の筋肉が肉離れのようになってい、骨も所々ヒビが入り、肋骨あたりは潰れたように折れているのだという。体のあらゆる個所で皮下出血がおきているため、顔と言わず四肢といわず赤紫に腫れ上がっている。 当然起き上がることなどできない。薬を与えられてどうにか眠ってはいるが、時折うなされ、うわごとに女の名を呼んでいるそうだ。 「『道具』に振り回されるってのは、全くおっかねぇ話だ」 ブライトは呟くように言った。柄のある方の半身を手にしている。折れた木刀を短剣を扱うように振った。 風が切れた。エル・クレールの耳に空気の悲鳴が聞こえた。 「私も、彼と同様です」 エル・クレールは左の手の甲を暗い目で見つめた。紅差し指の付け根が疼く。 「なら、俺も同類だ」 ブライトの重い声に顔を上げたエル・クレールの眼前に、尖った硬い木の棒の先端があった。 切っ先に血曇りが薄く広がっていた。イーヴァンの血潮だ。当然、刀身は拭われている。それでもエル・クレールは折れた模造刀の先端から、血の臭いを嗅ぎ取った。命の臭気を感じた。 ブライトを振り仰いだエル・クレールの顔は、青ざめていた。 「お前さんの言うとおりだ。認めたかぁねぇが、俺達はそのちっこいのに翻弄されている」 ブライトは木刀の先をエル・クレールの左手薬指に向けた。 「そいつは相当に強い魂の欠片らしい。どうやら【月】のバァさんもどうやらそいつに引き寄せられて来たようだ」 「そうなのですか?」 「座長とかいうのが、バァさんに言われて奈落の底にそいつを探しに行ったそうだ。もっとも、座長自身はそいつの正体を知らないままにバァさんの前で口を滑らしたらしい」 「これが何であるのかを知らずに?」 エル・クレールは左の掌を窓辺の光にかざした。陰となった手の甲で、赤い一筋の痣が鈍く暗く輝いている。 「末生り瓢箪《ヨルムンガント・フレキ》から『貰ってきた』モノがある、程度のことを、何の気ナシにぽろりとな。それだけのことから、【月】がそいつを何だと推察したのかまでは、もう知りようもないが」 ブライトの脳裏に、階下の机の上に放り出したままの「双龍のタリスマン」が浮かんだ。 その「裏面」には刻まれた文字とも文様とも付かぬ彫刻の中に、小さく赤い石がいくつか填められている。【月】もそこにいる。 かつて人の形をしていた存在が、無念の高まりにより自らを握り拳ほどの結晶に凝縮させた物質【アーム】。タリスマンはそれをさらに小さな枠の中に押し込めるために存在する。タリスマンに施された豪奢で細かな彫刻は、ギュネイ帝室の紋章も含めて、命の結晶を封印するための呪詛に他ならない。 同じ【月】という言葉が、エル・クレールの脳裏には別のイメージを思い浮かばせている。 痩せた、若い女性だ。親から男の名を与えられ、親に男の装いを強いられ、親により男として生きる決心をさせられた、ヨハネス=グラーヴという女性が、怒気を含んだ悲しげな眼差しをおのれに向けている。 若いヨハネスの背後に、また別の人影があるように思えた。 容姿は判然としない。男のようでもあり、女のようでもある。顔貌も解らない。ただ碧色の瞳だけが、やはり、怒気を含んだ哀しげな光を放っている。 真っ黒な闇の中で揺れる眼光は、別の心像をも想起させた。それは一つの言葉だった。 『私の【世界】』 エル・クレールの頭の中で、男の声がこの言葉を繰り返す。何を意味するのか解らなかった。 『この【アーム】の、銘《なまえ》?』 導き出した一つの回答例を、彼女自身の感覚が否定した。 彼女が普段【アーム】の正体を見抜くときに見える景色と、今自身の脳裏で繰り返される心像は、どこか異なる気がする。歴然とした違いではなかった。ただ、どこかが、何かが違うのだ。 心の耳をそばだてて、「声」を聞いた。 『私の【世界】』 ――呼びかけている。 この命の欠片は自身の正体を明かしているのではない。誰かの名を呼んでいるのだ。誰かを捜しているのだ。 『私の【世界】』 この「声」を、知っている。 夢現にその声で呼ばれた気がする。 夢幻にこの声を聞いた気がする。 尖った爪と、尖った角と、尖った視線を伴って、胸を締め付ける声音だ。 低く、落ち着いた、男の声。 エル・クレールは気付いた。 夢で聞いた声ではない。 幻に聞いた声ではない。 現実に聞いたことがある。 この声は耳に馴染んでいる。 エル・クレールは日にかざしていた左手を、指を開いたまま移動させた。彼女に向けて突き出されている折れた剣の切っ先に、紅差し指の付け根をあてがう。 剣を持つ男が、言う。 「兎も角……そいつのおかげで、俺もお前さんも狂わされちまっている」 聞き馴染んだ声に、エル・クレール=ノアールの鼓膜が振るわされた。 青白い顔を上げて、声の主を見た。 ブライト=ソードマンはローズウッドの短い棒の先端に目を落としている。 その顔は相変わらず硬く冷たく凍り付いていた。笑みも怒気も沈鬱も安慮も、大凡表情の類は一切見えない。 『この人は、こんな顔立ちだっただろうか?』 ふ、とエル・クレールは心細さを感じた。 窺うように彼の顔を覗き込んだ。 瞳が赤く光っていた。 背筋に冷たいものが走った。 エル・クレールの心臓が、一瞬、停止した。 自身の白い指の付け根に残された細い一筋の刻印が、彼の瞳の中に映り込んでいるのだと気付くまで、そして得体の知れない不安に塗れた安堵が心臓に力を与えるまで、瞬き一つの時間も掛からなかった。 頬の肉が強張り引き攣れていると感じながら、エル・クレールはようやく一言、 「本当に……」 吐き出した。 「テメェの浅慮が悪ぃってのは確かだが、幾許かはそいつの所為だってことにしてくれれるンなら、いくらか気が楽になる……。情けねぇハナシだ」 ブライトの頬がゆるむのが見えた。エル・クレールの心臓を取り巻いていた不安が、僅かに晴れた。 「そういうことにしていただければ、私も自分の不甲斐なさが幾分気にならなくなります」 強張った笑顔のまま、エル・クレールが言うと、ブライトは顔を上げ、笑みを大きくした。 どこかはにかんだところのあるその笑顔は、エル・クレールの不安を晴らすのに充分な力を持っていた。 ブライトが利き手に握っていた模造刀を左の手に持ち直したことに、他意を感じ取れなかったのはそのためだった。 単に、仕舞うつもりなのだろう、程度の認識しかなかった。彼らしく、乱暴でいて無駄のない所作で、部屋の隅に放り捨てるような格好で始末しようとしているとしか思えなかった。 鋭利に切り落とされた木切れの切っ先が、彼の手によって彼自身の右腕に突き立てられるとは、毫《ごう》も考えつかなかった。 何が起きたのか理解できなかった。何かの見間違いか、あるいは幻覚かとも思われた。 ブライトがすぐさま剣を引き抜き、乱暴でいて無駄のない所作で、部屋の隅に放り捨てるような格好で始末したものだから、余計におのれの目を疑ってしまった。 硬い木切れは床に落ち、不思議なほど澄んだ音を立てた。 エル・クレールは呆然と見開いた眼をブライトに向けた。彼は模造刀を投げ捨てるのと同様に、乱暴でいて無駄のない所作で自身のシャツの右袖を引き裂いた。 浅黒い皮膚に覆われた太い二の腕から、赤い血潮が流れ出ている。 エル・クレールは彼の腕に飛びついた。自由の利く左の掌で傷口を覆い、強く抑え付けた。出血個所を圧迫するのは血止めの基本だ。 出血はそれほど多くない。恐らくは、太い血管のないところを選んで刺したのだろう。 それでも血液はエル・クレールの指の間から滲み出した。 「何の、おつもりです?」 叫んだつもりだったエル・クレールであったが、実際に口から出たのは小さく震えた声だった。 「ん」 ブライトはくぐもった小さな声を一つ出した。顔を覗い見ると、裂いた袖口の片側を口にくわえていた。反対側の端は左の手に握られている。 彼は即席の包帯を傷口よりも上に器用に巻き付け、強く縛った。止血のためだ。エル・クレールが傷口を押さえる必要は、もうない。 だが、彼女は手を放すことができなかった。 手を放したが最後、彼の肉体が崩れ落ちるのではないかと、言い知れない、説明のできない不安に襲われている。 「これでお相子、ってことにしてくれねぇかね?」 ブライトは笑んだ。エル・クレールは彼の言わんとしていることを理解できなかった。 「え?」 彼の傷口を強く押さえたまま、不安げに首をかしげた。 「こんな程度の傷じゃあ、お前さんの怪我には及ばないがな。これ以上ヤっちまったら、さすがの俺サマも、怪我人抱えて立ち回りってのができなくなっちまう。共倒れしない程度にってぇことで、まあ、勘弁してくれ」 彼の言いたいことは、解った。 あの【月】との戦闘で、エル・クレールは右腕を砕かれた。 骨は複雑に粉砕されていたものの、肉を突き破って外にでるようなことはなかった。運がよかった、と表現するのが正しいとは思われないが、この怪我の仕方は有る意味幸いだった。 皮膚の内側への出血はあったが、外に溢れ出るようなことはなかった。血を大量に失えば、体力が落ち、回復が遅くなる。あるいはそのまま命を失うこともあり得た。 また、骨が皮膚を突き破るような怪我の場合、傷口から瘴気が入って重症化する可能性が高くなる。傷口が化膿し、肉が腐るようであれば、場合によっては腕を切り落とすような危険な「手当」をせねばならなくなる。 外科的な「手当」は諸刃の刃でもある。体力は落ち、酷く熱を発することもある。 危険な「手当」をするにせよ、しないにせよ、処置が間に合わなければ、死は免れない そうならなかっただけでも運が良かった、というのがエル・クレールの本心ではあった。ブライトも口に出しかねているが、そう感じている。 今、彼女の腕は肩から手首まで宛て木に縛り付けられている。 鍛えられた肉体は並の人間よりも快復力がつよい。それでも、真っ当に動かせるようになるまでは、一月はゆうにかかるだろう。その後に、元通りに剣を振うための恢復訓練《リハビリテーション》の期間が必要となる。 その間、彼女の自由は制限される。 ブライトの自傷は、彼女が負った不自由さへの、彼なりの謝罪であり慰藉《いしゃ》であった。 エル・クレールは、頭の中では彼のこういった独特な……独善的な……やり方を了承できたが、納得することは到底できなかった。 エル・クレールの左手が、ブライトの腕から離れた。 直後、血の滴る掌は、乾いた音を立てた。 ブライトの頬に、ひりひりと熱く、チクチクと痛い、小さな疼きが生じた。 「あなたの勝手な正義を、私に押しつけないでください」 翡翠色の双眸から涙が溢れ出た。 「私は……誰かが痛い思いをするのも、辛い思いをするのも、悲しい思いをするのも、厭です。見たくありません」 血濡れた手で顔を覆った。血と混じり合った涙が、血を洗いながら、指の隙から流れ出る。 「酷い人。当て擦りにわざとがましく怪我をしてみせるなんて……そんなことで自分を傷つけるなんて……私の大切な人に怪我負わせて……私の目の前で……酷い……本当に非道い人」 嗚咽する彼女を前に、ブライトは沈黙するより他手立てを思いつかなかった。 ある種の呵責を感じている。申し訳なく、切なく、辛く、そして面はゆい。 のぞき見る視線を感じた。居間との間のドアが僅かに開いている。隙間から、四つの声がなにやら勝手なことをささやきあっているのが、耳をそばだてる必要もなく漏れ聞こえる。 動く方の手で頭を掻いた。 やがて、エル・クレールの背中の揺れが小さくなった。しゃくり上げながら、 「何か、仰ってください……」 指の隙間から、男を睨み付けている。充血した目に恨めしげな色をしていた。さすがに返答をしないわけにゆかない。ブライトは短く、 「何を?」 「莫迦とか……泣くなとか……女々しいとか……愚鈍《のろま》とか……。不甲斐ない愚か者を叱りつける言葉はいくらでもあるでしょう?」 エル・クレールは一語ごとに鼻をすすりつつ、掛布の端で顔と手をゴシゴシと乱暴に拭いた。泣き腫らした目で、上目遣いにブライトを睨む。 暫し黙考したブライトは、不意に立ち上がり、ドアに向かった。 二人のエリーザベトとその背中に貼り付いていたシルヴィー、マダム・ルイゾンが、頬を引きつらせつつ、後ずさりする。 口を真一文字に引き結んみ、深く考え込でいるブライトの顔つきが、彼女らには途轍もなく恐ろしいモノに見えていた。 ブライトは音も立てずにドアを閉めた。ドアの向こう側で娘達が気を失わんばかりにしてへたり込んだことなどは、彼にとってはどうでも良いことだった。 エル・クレールに背を向けたまま、 「コッチがチャラにしてくれって言ってる意味を、これっぽっちも察してくれないあたりは、確かに不敏だがね……。まあ、そういう鈍いところがまた溜まらなくかわいいから、許す」 振り向きざまに、ニタリと笑った。 あっけにとられたエル・クレールだったが、内心ほっと息を吐いていた。 彼の下心のありそうな下卑たにやけ顔が、普段のとおりであったからだ。 「そうやって、私を子供扱いなさるのだから」 エル・クレール頬を膨らませた。本心から拗ねているのだが、目は笑っている。 「いつまでも子供でいてもらっちゃぁ困るンだが、いつまでも子供でいて欲しい……。男心は複雑でね」 ケラケラと笑いつつ、ブライトは窓辺に依った。 大通りの往来が激しくなっていた。 村祭りが始まる。規模の縮小は余儀のないことだったが、それでも人々は集う。 フレイドマル一座の芝居の芝居小屋は取り払われたが、舞台だけは残されている。誰かが音を鳴らせば、誰かが歌い、誰かが舞うだろう。 人の心の高まりは、止めようにも止められるものではない。 「暫くは温和《おとな》しくしていることだ」 ブライトはもう一度振り向いて、笑った。 「暇つぶしに、何か持ってきてやろう。欲しいモノがあれば、言ってみな?」 「史書を」 エル・クレールが笑顔を返した。ブライトの太い眉が小さく上下した。眼差しには、困惑と驚きと、呆れがあった。 「幼い頃に『読まされて』以来、目にしておりませんから。もう一度しっかり『読んで』おく必要があると思うのです。本当のことを考えるために」 「模範解答だ。まったくお前さんの頭蓋の中には、美しい脳味噌が詰まっているに違いない」 言い残し、ブライトは窓枠を飛び越えた。 この章、了 |
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