いにしえの【世界】 − 踊り子たち 【7】 BACK | INDEX | NEXT

2015/02/16 update
 よく見ればそれは、小柄な「男の格好をした若い娘」だった。
 小さく丸い顔にうっすら白粉がのっている。唇にも少々くすんだ色ではあるが、紅を引いていた。
 長い黒髪は後ろで丸く結いまとめ、それを黒い絹で包んであった。
 娘は、天空から目に見えぬ糸でぴぃんと吊されているような、あるいは、背筋に硬質な芯が一本通っているような、まっすぐな姿勢で立っている。
 背筋を伸ばして立ったまま、彼女は驚きに大きく目を見開いて、エルを見ている。
 黒い瞳は、エルの足下から頭のてっぺんまでを、何度も往復した。
「なにぞ、ご用か?」
 エルが穏やかな口調で声をかけると、娘は耳の先まで紅潮させ、その場に膝を折ってひれ伏した。
「お許しを。どうぞお許しを。若様のお姿がこの世のものとは思われずに、思わず見とれてしまいました」
 阿諛追従《あゆついしょう》の言葉はエルのもっとも苦手とするものだったが、目の前の娘にはへつらいのいやらしさは見えない。
 エル・クレールはため息を一つはき出し、
「確かに私はよく『この世の人ではなく、化け物の同類だ』と言われる。『世の中のことを少しも理解していない、並の人間以下だ』とも」
 ちらりとブライトを見た。
 エル・クレールらしからぬ、冗談めいた嫌みに、彼は苦笑いした。
 顔を上げた娘は、エルの白い顔をじっと見、
「わたしは……本通りの酒屋さんに姫様のように美しくて、将軍様のように強い若君様が居て、こちらに向かってきていらっしゃるはずだから、その方をこの小屋へご案内するようにと。……その方は大変な大男を子供のようにあしらったと言うので、美しいとは言っても多分とてもお強そうな方だと思っておりました。……私が顔を知らないと言ったら、マイヤーさんが、白銀色で亜麻のようにつややかな御髪だから、どこにいらしてもすぐ見つかると教えてくれたので、きっとあなた様がそうだと思いまして、お声をかけようかどうしようかと悩んでおりましたら、あなた様から急にこちらを向かれたので、とても驚きました。それにお顔が、考えていたのとは違っていましたし、足運びが上等の踊り子よりも美しくて……」
 しどろもどろに言う。赤い頬はますます赤くなり、最後にはとうとうのぼせて頭がふらつき始めた。
 あわててエルが彼女の肩に手を伸ばした途端、娘は体全体を大きく一度だけ痙攣させた。両の手を胸の前で合掌させた格好で、彼女の体は硬直している。
 男装した娘の細く軽い体は、棒のように固まった状態で、ふわりとエルの腕の中に倒れ込んだ。
 失神したのだ。
 若い娘には良くあることだ。
 ギュネイ皇帝が二代目となったころから、ウエストが細くてバストの大きいスタイルが流行しており、娘達の多くはコルセットで胴から胸をきつく締めている。
 特に、美しさを追求する者達は、端から見れば拷問とも言えるほどの強さで我が身を締め付けるものだから、人によっては肋骨や背骨の形が不自然に歪んでしまうという。
 締め上げたコルセットの中では、胃腸も肺腑も心臓も、きつい型枠に無理矢理押し込められているような格好になる。
 この状態で、緊張の度合いが極限まで高まれば、息が詰まって気を失ってしまうのも必定といえよう。
……もっとも、社交界に身を置くご婦人方の中には、倒れる方向に麗しい男の子が居るとことを確認してから失神なさる方もおられるらしいが……。
 それは兎も角。
 この娘はそれほどきついコルセットを締めているわけでもなく、打算で男性(に見えるエル・クレール)の腕の中へ倒れたのでもない。
 極度の緊張のあまり、本当に気が遠くなってしまったのだ。
 エル・クレールは白い顔をしている娘を抱え込んだまま、ブライトに視線を送って助けを求めた。
「姫若さまの毒気に当たったンでやしょう」
 ブライトは相変わらず苦笑していた。ただし、先ほどよりは笑みが大きくなっており、だいぶん楽しげではある。
「まるきり私が毒婦ででもあるかのように」
 エル・クレールは困惑し、口を尖らせたが、
「それ以上でさぁ。何しろおまえさまときたら『娘のように美しい男』に見える。こいつは見る人によっちゃぁ毒婦よりも質が悪い」
 彼はくつくつと笑うばかりで、エルに手を貸そうとはしなかった。
 エル・クレールは仕方なしに、倒れ込んだ娘を両の手で抱え上げた。
 娘の体は細く、軽かった。
 しかし、骨と筋肉はがっしりとしている。
 舞台の上で舞い踊るダンサーは、劇場の端に居る観客にも細かい所作まで見せねばならない。
 笑うにも泣くにも怒るにも、日常生活で作るそれと同じ表情を浮かべただけでは、桟敷席からはそれと見えない。
 身振り手振りも同様だ。
 だからといってただ大きく演じれば良いというのでもない。
 微笑すべきを大笑しては、笑みに隠された意味合いが違ってしまうからだ。
 よって、舞台人達は日常とは違う動作で、日常と同じに見える演技をすることになる。
 いわゆる「芝居がかった所作」というやつは、確かに不自然な動きではあるが、それを舞台の上で行えば美しく見えるし、理解もしてもらえる。
 そのために、役者も踊り子も普通の振る舞いでは使わない筋肉まで総動員して体を動かすし、そういう動作ができるように訓練し、修行する。
 おかげで、良い役者になればなるほど、その肉体は戦士並みの頑丈さに鍛え上げられることとなる。
 その上、彼らはその頑丈さを外見に出してはならない。
 役者が演じるのは丈夫だけではない。肥満体も病人もその身一つで演じなければならないからだ。
 無言の舞踏劇で主役を張るほどに優秀な踊り子はことさらだ。とぎすまされた強靱なバネが、皮膚の下にあることを観客に悟られては、妖精や姫君の装束が台無しになる。
 エル・クレールの抱いているこの娘が踊り子であることは、その体つきから間違いない。メイクや衣裳からして、女ながら男役を演じているものと見える。
 着ている男物は、舞台用の衣裳ということになる。
 つまりは、衣裳のまま使いに出されたということだが、
『そんなことがあるものなのだろうか』
 エル・クレールは首をかしげた。
 それを今考えても仕方がない。
 彼女は娘を抱えてあたりを見回した。
「楽屋口へ運んであげた方が良いでしょうね」
 エルが言うと、ブライトは
「そりゃそうだ」
 芝居小屋の裏手に向かってさっさと歩き出した。
 娘を抱えたエルがその後に続く。
 小屋の裏手では、端役と裏方をかねているらしい劇団員が二人ばかり、忙しげに小道具の修繕をしていた。
 これも男装束を着ているが遠目にも娘と解った。
 端役の踊り子たちは、小道具の上に射していた日の光が、大きな人影に遮られたことに腹を立て、声を荒げる。
「誰さ! そんなところに突っ立たれたら、手元が暗くなる! こっちはやらなくても良い手直しまで押しつけられてるんだ。邪魔するんじゃないよ! この木偶の坊め!」
 他の団員がやってきたのだと思ったのだろう。少々口汚く言い、眉をつり上げて振り仰いだ。
 そこに立っていたのは、くたびれた旅姿の、見たこともない大男だった。
 後ろには小娘を抱きかかえた誰かが立っているが、逆光の中にあって、二人とも顔かたちがはっきりしない。
 彼女たちは、さながら盗賊に出会ったかのごとく、弾けるように修繕中の小道具を投げ出し、二人肩を寄せ合って抱き合って震え出した。
 そのうち一人が、後ろの人物が抱えているのが自分たちの仲間であることに気付いた。
「このサンピン、シルヴィに何したのよぅ!」
 おそるおそるではあるが、良く響く大声だった。
 芝居小屋の中にもこの声が通ったと見える。
 常設の劇場などない場所で公演する旅回りがかける巨大なテントは、だいぶんくたびれた綿布で覆われているのみであるから、外の声もそのまま内側に聞こえているのだろう。
 何人かが、天幕の裾をそっとめくって様子をうかがう。
 頭を突き出し、あるいは顔の半分だけを覗かせるその団員達は、ことごとく女性だった。
 その内の一人が目玉を覗かせた天幕の裂け目は、ちょうど外の娘たちが言うところの「サンピン」の真横にあたった。
 まぶしい陽光の影響を受けなかったその娘が、
「きゃぁ」
 嬌声を上げた。
 中の者の大半がその「裂け目」に群がったのが、外に立つ「サンピン」……エル・クレールとブライトにもすぐに知れた。
 天幕のその一点だけがふくれ上がり、ぼろ布の表面に手や顔の型が浮かんだり引いたりしている。
 エル・クレールには何事が起きたのかさっぱり解らない。
 きょとんとした彼女の耳元でブライトが、笑いをこらえて
「姫若さまの毒気の中毒患者が、ざっと十人は増えましたぜ」
 下男の振りの口調のまま言う。
「私は……」
 不機嫌と困惑をはき出そうとする彼女に、ブライトは口調を普段に戻し、小声でささやいた。
「おまえさんという人間が悪ってンじゃぁねえよ。あいつらは、奇麗な者が綺麗な者を抱いているってぇ『絵』に中てられてるのさ。そういう、普通の暮らしン中では滅多にない、どっちかってぇと廃退的な匂いのする光景って奴が、あの中にいるような若い娘達の好みなだけさね」
 エル・クレールは小さく頭を振った。
「理解しかねます」
 彼女にとって今の状況は、単に「若党が気を失った娘を運んでいるだけのこと」だった。
 男さながらに育てられたエル・クレールが年相応の若い娘の感覚を持ち合わせていないのか、そうでなければ、
『こいつは自分のことを「女好きのする美形だ」と自覚していない』
 ブライトは苦笑いした。
 二人の即席小道具係は、二人抱き合ったまま、そっと立ち上がり、目を細めてじっと来訪者の影をにらみつけた。
 彼女たちはある種の安堵を得ていた。
 小屋の中の仲間達は、争ってその影の顔を見ようとしている。それはつまり、目の前の影が……少なくとも顔立ちに関して言えば……恐ろしい者ではなさそうだいうことを意味している。
「シルヴィは、どうしたのですか?」
 最初の一喝に比べればずいぶんとしおらしい物言いで、一人が訊ねる。
「気を失っているだけです。気付けの薬か、蒸留酒をのませてやれば良い」
 エル・クレールは声音を落とし気味にし、答えた。
 大声を張り上げては、腕の中の娘に良くないと考えてのことだ。
 その気配りが、小屋の中の娘たちには違って聞こえたらしい。
 先の言葉に続けて、
「息がしやすいように、コルセットを緩めて……」
 と付け足した途端、悲鳴に似た嬌声が、小屋の中からわっとあがった。
「コルセットを緩めてですって!」
 誰ぞの叫びと同時に、衣擦れの音がした。
「莫迦《バカ》ね、シルヴィの手当のためにっておっしゃっているんじゃないの。あんたが脱いだって、誰も喜びゃしないわよ」
 ケラケラと笑う声がいくつも湧いた。
 笑い声に混じって、複数の娘達が騒ぎ立てているのも聞こえてくる。
「あの方、なんてすてきなお声なのかしら」
「でもあんなに可愛らしい童顔よ」
「体もあんなに細くて」
「それなのにシルヴィーを苦もなく抱いて」
「ずいぶんお強い」
「ああ、きっと人の姿をした刀剣の妖精よ」
「だとしたら御髪はきっと本物の白金に違いないわ」
 等と言うことを口々にまくし立てている。
 現実的でない意見までもが漏れてくることに、エル・クレールは驚きもしたし、呆れもした。
 息を吐いて、改めて目の前の娘たちを見、訊ねる。
「どこかこの人を横にさせてあげる場所は?」
 娘らはそろって小屋の通用口を指し示した。
 同時に、見計らったかのごときタイミングの良さで、布を垂らしただけの出入り口が大きく開いた。
 件の「のぞき穴」から様子をうかがっていた娘達が開けたものだ。当然、彼女たちはその入り口に集合している。
 その様は、群雀が羽ばたきながら騒いでいるのに似ていた。声も仕草もせわしなく、騒がしく、しかし可愛らしい。
 ブライトが大きく腕を振り、
「ウチの姫若さまが病人抱えて通るンだ。あんたら、ちっとは静かにして、そこを空けねぇか」
 少々乱暴に娘達をかき分けて進む。すぐ後ろを、エル・クレールがついて行く。
 たどり着いた先は大部屋の楽屋らしき空間だった。明かりのない、ほの暗い空間には、白粉と樟脳と埃と汗の混じったむせかえる匂いが充満している。
 空間の端の小さな鏡台の前に、薄縁が一枚引かれていた。
 エル・クレールは皆から「シルヴィー」と呼ばれた踊り子をそこに寝かせると、すぐに彼女の側から離れた。
 手桶と蒸留酒の瓶を携えた年長の、これも女性の団員がとんできて、彼女の衣裳の襟元を開き始めたからだった。
 手当の様子をのぞき込むブライトの右の耳たぶをぐいと引き、彼女は元来た通用口に戻ろうとした。
「全くウチの姫若さまと来たら、オレが元よりよその娘っ子に気を取られるような不義者じゃねぇってのを、いつまで経っても信じくれないと来てやがるから」
 おどけた調子で言いながらも鼻の下を伸ばしているブライトの耳たぶを、いっそう強くつねりあげ、エル・クレールは
「下心のあるなしではありません。エチケットの問題です」
 唇を小さく尖らせる。
「ほんに可愛い焼き餅焼きだねぇ」
 ブライトはフフンと、少しばかり下品に鼻で笑ったが、耳たぶをつまむ白い指を払いもせず、通用口とは逆の方向顔を向けた。
 すなわち、芝居小屋のさらに奥、舞台のある方向だ。
 舞台袖と楽屋をつなぐ、貧相なドアが大きく開いてい、暗く四角い空間に、人影が一つ立っていた。
「ほうれ、姫若さま。あそこに大口たたきの戯作者様がご推参ですぜ」
 ブライトの顎が指す先に、確かにマイヤー=マイヨールがいた。腕を組み、足を踏み、踊り子達が騒ぎ立てている様子を、不機嫌に睥睨している。
 しばらく無言で娘達をにらんでいたが、誰一人として彼の存在に気付かないのにしびれを切らし、やがて大声で怒鳴りつけた。
「ぎゃぁぎゃあ喚いている暇があったら、少しでも稽古をしやがれ、この尻軽どもが! この掘っ立て小屋を建ててある所場代だってロハじゃねぇし、テメェらの糞を捨てるにも手数を取られるときてやがるんだ。瞬きする間だって無駄にしてみろ、タダじゃおかねぇぞ、この阿婆擦《あばず》れめらが!」
 先ほどの飲み屋での人当たりのよい口ぶりとは一転して、口汚くののしる。
 娘達の嬌声が一瞬にして止んだ。
 彼女たちはいそいそと自分に与えられた小さなスペースに舞い戻り、体を縮めて化粧直しをしたり、衣裳の埃を払ったりし始めた。
 ブライトはくつくつと笑った。
「下種《ゲス》野郎のお里が知れるってもんだ」
 声を出して笑うのはどうやらこらえているが、肩は大きく揺れている。
 エル・クレールは柳眉をひそめた。
 よほど
『あなたの普段の言葉遣いと、どこが違うというのですか』
 と言ってやりたかったが、止めた。
 代わりに呆れと嫌みをため息で表してやろうかと思いはしたが、有閑貴族のたむろうサロンよりも数倍白粉臭いこの場の空気を、そのために余計に吸うことが躊躇われて、それも止めた。
 ただ眉根を寄せて、肩を落とし、首を振る。
 マイヤーの身なりも、舞台衣裳らしい。
 修道僧が着るフード付きのローブに似たシルエットのそれは、目が覚めるほどの鮮やかな緋色に染め上げられており、大振りなフードと広がった袖口と裳裾は、金糸で縫い取られた百合の刺繍で縁取りされている。
 ゆったりとだぶついた布地が、彼の小柄を一回り大きく見せていた。
 踊り子の誰かが彼のところに走り、シルヴィーが倒れたと告げた。それに対する彼の返答も、また罵声だった。
「倒れただと!? なんてドジだ、まったく。何奴も此奴も私《あたし》の邪魔ばかりしくさって!」
 役者兼任の戯作者らしい大仰な身振りで、大きく首を振った。
 それによって動いた視線により、彼がエル・クレールとブライトの姿を見つけたことは、彼にとって良い偶然ではなかったと見える。
 隠しておいた下品さを見つかった見栄っ張りは、卑屈に、それもやはり芝居がかった作った笑顔を、二人の部外者に見せた。
「どうも、お見苦しいところを」
 軽く頭を下げ、彼は軽い足取りでエルへと駆け寄った。
 いや正確に言うと、駆け寄ろうとした、だった。
 命の恩人の若様に抱きつこうとした寸前、彼は大きな壁にぶつかって跳ね飛ばされたのだ。
 そのまま尻餅をついたマイヨールは、ローブの裾を翻しながら、大きく弾む鞠の軽快さをもって後転し、跳ね起き、つま先で着地し、二回転と半分の独楽のようなターン《ピルエット》を決めて、客人達のいる方向にむき直し、深々とお辞儀《レヴェランス》をしてみせる。
 最初から台本と振り付けによって決められていたかのではないかと思えるほど、流れるような自然な動作だった。
 エル・クレールは彼の身の軽さに素直に感心、ほう、と嘆息した。
 ほとんど同時に、彼をはじき返した壁……すなわちブライトが、ふん、と鼻息を吐き出した。
「軽業師なのか俳優なのか踊り手なのか物書きなのか、どれか一つに絞ったほうがいくらかモノになるかも知れねぇってのに」
 良く聞こえる独り言を案の定聞きつけたマイヤーは、にんまりと笑う。
「こいつは有難いお言葉だ。あんたはこの私《あたし》を、多芸多才な逸材と見てくれたってぇことだね。いやあ、さすがにクレールの若様は目の肥えたご家来をお抱えだ」
 言葉だけ聞けばブライトに話しかけているようだが、実際マイヤーの視線は最初から最後までエルにのみ注がれていた。
 あっけらかんとした、それでいて脂っこい笑顔を見たエル・クレールは、少しばかりの薄気味悪さを感じ、ほとんど本能的にブライトの背に身を隠した。
 マイヤーの団栗眼は彼女の行動をなぞって動く。
「鈍い野郎だねぇ」
 呆れ声を上げたのはブライトだった。
 マイヤーの視線を広い胸板で塞いだ。
「ウチの姫若さまは、お刀ぁ握ってるときは大丈夫でも、そうでないときは酷い人見知りでね。特にあんたみたいに口先達者のお下劣野郎とは、顔を合わせンのも金輪際御免だってのさ」
「そんなお気の弱いお人が、あんな大男をコテンパンに叩きのめしたってのかい?」
 マイヤーの言動は、どれもこれも芝居がかっている上に誇張が大きい。
 彼の事実と違う発言に踊り子達が歓声を上げ、熱い視線を送るのにエル・クレールは辟易した。
 しかしブライトは、
「そんなお気の弱いお人が、あんな大男をコテンパンに熨《の》したのさ」
 マイヤーの言葉をほとんどそのまま鸚鵡《オウム》返しにした。
「これはおもしろい。まるで、同じ顔をしたまるきり別の人間が二人いるような」
 マイヤーの手が、ローブの袖に引っ込んだ。すぐさま出てきたそれは、ぼろぼろの紙束とリボンを巻いた細い木炭を一本つかんでいた。
「一つの顔を二人が取り合うか、一人の心が二つに分かれてゆくか……。一人二役の……いや、一つ話を裏表から見たヤツを、昼と夜とに分けて、役者はダブルキャストに……」
 つぶやきつつ、木炭を紙の上に走らせて、何かを書き付けている。
「見たモノ総てを芝居のネタに結びつけないと気が済まない芝居莫迦の戯作者が本業かね。自分のトコの団員だけじゃなく、見に来た客にまでつまらないメイワクをかける、どうしようもない阿呆だ」
 ブライトは少々呆れ気味に言った。
「聞こえてる。しっかり聞こえてるよ、旦那」
 紙束に目を落としたまま、マイヤーはにやりと笑う。
「いやね、今のネタもだいぶん古びて来たので、すっぱり切り捨ててお終いにしようと思ってたところでして。それには次のハナシが必要だった訳ですが。……まったく若様との出会いは、芝居の女神のお導きに違いない」
 必要な文字を書き付け終わったらしい彼は、紙の束を丸めて無造作に袂へ押し込むと、揉み手をしながら再度エル・クレールへの接近を試みた。
 マイヤー=マイヨールとてそれほどの莫迦者ではない。己の行く手が再び「巨躯の下男」に阻まれるであろうし、「姫のような若様」が自分と視線を合わそうともしてくれないだろうことは分かり切っている。
 今度は勢いよく駆け寄ったりはしない。慎重に歩幅の狭い足取りで、ゆっくりと近づく。
 彼の予想通り、ブライトは彼の行く手を阻んだ。
 しかし、エルの行動は彼の予想とは反していた。
 彼女はブライトの背後から出てきた。
 視線はマイヤーの目に注がれている。
 マイヤーの面に愉悦の笑みが一瞬浮かび、すぐに消えた。
 エル・クレールは唇を挽き結び、鋭い眼差しでマイヤーを睨んでいる。
「私《あたし》めは、なんぞ若様のご不興をかうようなことを申したかい?」
 彼はエルにではなくブライトに問うた。
「さぁて。姫若さまはガップの殿様のことが大好きだそうだから。多分、あんたが殿様名義のお芝居を『切り捨てる』と言ったのがお気に召さないんだろうよ。当然、あんたが殿様の名を騙ったこともだがね」
 ブライトは後頭部をガリガリと掻いた。
 これは「反吐が出るほど嫌いな連中」のことを脳の片隅に思い浮かべただけでも起きる頭痛発作を誤魔化し、和らげ、忘れるための癖だったが、マイヤーはそれを知らない。
 彼はただ、『この男も不機嫌だ』と感じたに過ぎない。
 それは間違っていない。
 ブライトはエル・クレールがあくまでもヨルムンガント・フレキのイニシャルに拘泥していることが不満であり、且つ、それに立腹している自分の偏狭さが腹立たしくてならないのだ。
 そういった細かい心情など、マイヤーの知ったことではない。大体、この大柄な男に細やかな神経があるということ自体が、彼の思慮の外側にある。
 マイヤーから見れば、普段から主人に振り回されているらしい忠義な下僕は、箱入りで気難しげな田舎貴族よりも、ずっと御しやすかろう存在だった。
『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。此奴の不機嫌を何とかすれば、巡り巡って若様のお目をこっちに向けることも、あるいはできる』
 愛想良い笑顔がブライトに向けられる。
「そりゃ、言い様は悪かったけれどもね。……それにお宅の若様は誤解してなさる。私《あたし》はフレキ様の騙りなんぞしてやしないよ」
「ほう、この期に及んでまだ本物と言い通す気かね? それとも勅使に向かって切ってみせた大見得の方が嘘だったとも?」
 小柄なマイヤーの上に覆い被さるようにしてブライトが言う。エルにはそれが酷く滑稽なしぐさに見えた。
「全部が全部本物って訳じゃない。それはしかたないことで。芝居にするには脚色ってやつが必要なんだ。だから私《あたし》は大分手を加えてる。なにしろ私が殿下のところから貰ってきたのは、プロットみたいな走り書きだけだったからね」
 マイヤーは「貰って」という単語をことさら強調して言った。
 皇弟から直接手渡されたかのごとき言いぶりに、エル・クレールは驚いて目を丸く見開き、ブライトはいぶかしんで瞼を半分閉じた。
 睨まれたマイヤーは、
「ああ、これは内緒の話。どうかご内密に、ご内密に」
 いかにも白々しく慌てて、己の唇に人差し指を一本立ててあてがって見せた。
 その芝居ぶりを見て、ブライトは「偽物」との確信を抱いた。
「イイ度胸だよ。どうしようもない阿呆め」
 呆れもしたし、感心もした。
 かぶりを振る彼を見て、味方に付けた、と思ったのだろう。マイヤーは心中で
『此奴は私《あたし》を嫌っちゃいない』
 にやりと笑った。
 ところがブライトは、不満げに彼を見上げるエルに、
「姫若さま、この野郎の言うことを真に受けちゃぁなりませんぜ。何しろ人生全部がお芝居の野郎だ。どこからどこまでが本当で、どこから先が嘘っぱちなのか、本人にすら解らなくなってやがる」
 強い口調で言った。
「大方はそうであろうと思ってはおりましたけれども……」
 エル・クレールはため息を吐いた。
「もし、芥子粒ほども期待していなければ、どんなに良かったことか」
 肩を落とし、暗い顔でうつむく。
 礼拝堂に据えられた大理石の告知天使を思わせる端正な横顔の、冷え切った美しさに、マイヤーの目は奪われた。
 背筋に震えが走る、などという表現があるが、実際に彼は大きく身震した。
『あの若様の艶っぽさは、ホンモノだ』
 震えを隠すため、身振り口ぶりを大げさにし、
「ああ、非道い。非道いなあ、若様も私《あたし》を信用してくださらないなんて」
 薄めを開けてちらりと見る。エル・クレールという若い貴族が、己に向ける眼差しには不審の色が濃い。
『それがまた、艶っぽい』
 生唾を飲み込むと、マイヤーは頭をぶるっと振った。
『これ以上魅入られちゃならない』
「ええい、若様に信用してもらえるなら、構うことはない、私《あたし》の秘密を見せて差し上げましょう」
 くるりときびすを返す。
「付いてきてくださいな。こっちに証拠がございますよ」
 彼は先ほど彼自身が現れた楽屋口の向こう側に向かった。大股で、乱暴に足音を立てているが、それも芝居臭い。
 実際それは、大きな足音で自分の耳に届く己の心臓の音を消すための芝居に他ならない。
 彼の行く先にあるのは舞台だ。
「舞台《イタ》の上に真実があるか? 芝居莫迦の言いそうな台詞だ」
 ブライトが意地悪く言う。
 マイヤーの足が止まった。首だけを振り向かせた彼の顔に、険しいものが浮かんでいる。
「さっきから思ってたんですがね。……お宅、タダの下男じゃないね」
 わざとらしく背中を丸めた男の、わざとらしく伸ばした無精髭の奥から、わざとらしく砕けた言葉が飛び出る。
「ウチの姫若さまも、多分そうとは思っちゃいないだろうよ」
 マイヤーはこれを「並の下僕ではなく主君も認める優秀な家臣だという自負」と受け取った。
 家名自慢の没落貴族に付き従っているような家来は、妙にプライドが高い。プライドだけの輩も多いが、極々まれに中身の伴った者もいる。
 そういった逸材は、しかし他家からのスカウトをにべもなく、ことごとく、はっきりと断り、片田舎で埋もれる道を自ら選ぶ。
 あるいは、己の能力を持って落ちぶれた主家を持ち直させる野心を抱く者もいる。
『この大男はその口だろう』
 それがマイヤーの持つ「常識」が導き出した結論だった。
 彼はちらりと「没落貴族の子弟」を見た。
 剣を持たぬ時はすこぶる気が弱いという「彼」は、「タダの下男ではない男」に縋り付かんばかりにして、漸く立っている。……ように見える。
「似合いの主従だよ、全く」
 マイヤーは再び足を踏みならした。
 エル・クレールが不安げに立ちつくす理由は、マイヤーの思うような生来の気弱のためでは、当然ない。
 彼の向かって行く先に、なにやら妙な気配を感じ取っていたからだ。
 それは芝居小屋の外にいたときから感じていた気配だった。
『いいえ、この土地に足を踏み入れたときから、アレは私に影響を与えていたに違いない。でなければ、今朝方あのような悪夢を見るはずもない』
 それが一体何なのか、正体が知れないのが恐ろしく、そして口惜しい。
 彼女はちらりとブライトを見上げた。
 わずかな時間逡巡《しゅんじゅん》したが、
「連れて行ってください」
 小さく言った。
「野郎の後をついて行けば良いだけのこったろうに」
 ブライトは顎でマイヤーの背を指した。
「彼では……なんと説明したらよいのか解らないのですが……足りないのです」
「信用か、それとも、力か?」
「両方です。あの方は、普通の人間のようですから」
「俺は人間外ですかね?」
 ニタリと笑った。相当に自嘲が混じっている。
「お互いに」
 エル・クレールは少しばかり気恥ずかしげに答えた。
「フン」
 鼻で笑うと、彼はズイと前へ踏み出した。
 少しの足音も立たないが、先を行く戯作者の騒がしい歩き方の数十倍は頼もしい。
 エル・クレールは彼の足跡の上をなぞって進んだ。
[WEB拍手]

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