意外な話 或いは、雄弁な【正義】 − 【11】 BACK | INDEX | NEXT

2015/07/28 update
 力の元が何であれ、その時御子は立ち上がったのは事実。そして立ち上がった御子は、蛍火虫の小さな光を灯火代わりに、辺りを見回しました。
 幽霊屋敷の中は、御子が想像していた……つまり、君が想像しているような……ものとは、大分違っていました。
 御子は、腐った床板や、崩れた土壁や、破れた窓、抜けた天板を想像していた。室内は埃やカビの匂いのする、生暖かい空気に満ちていると思いこんでいた。
 しかし実際はと言えば、床板は綺麗に並び、壁の漆喰にはヒビもなく、窓は隙間なく閉まり、天井から空やその他の何かが見えるようなこともありませんでした。
 空気はひんやりと澄んでいて、埃も、カビの胞子も、一つたりとも舞っていません。
 ただ、鼻を利かせると、薪を焚いた後の煤の匂いが僅かに漂っているのが解りました。
 誰かが住んでいて、ほんの僅かの間留守にしているだけの、普通の百姓家そのものとしか思えませんでした。
 では、その誰かとは、一体何者なのか? 御子は考えました。
 幽霊が家を手入れして美しく保ったりするか? 物の怪が室内を埃一つない状態にするために掃除をしているというのか? 悪鬼が暖炉に火をくべたりするのか?
 否、否、否。
 ここには人間がいる。
 人間ならば、生きている者であるならば、何を怖れることがあろうか。
 先ほどまで、見えぬ何かにおびえていた幼子は、俄然元気になりました。
 生きた人間ほど恐ろしいモノはないと言うことを、この子供はまだ知らなかったのですよ。
 盗賊も、暴力主義者も、快楽殺人者も、暴君も、皆「生きた人間」であると言うことをまだ知らない、本当の愚かな子供でした。
 ドアの向こうに盗賊がいるかも知れないとも、廊下を曲がった先に乱暴者が潜んでいるかも知れないとも、毒薬を持って屋根裏をはい回る者が居るかも知れないとも、地下に無数の武器が隠されているかも知れないとも、小指の先ほども考えられない子供です。
 御子は無謀にも、何の備えも気構えもなく、歩き出しました。
 玄関ホールと呼ぶには狭く、廊下と呼ぶには短い空間でしたが、その左右両側と、突き当たりとに扉が一つずつあるのが、闇の中にボンヤリと見て取れました。
 御子はまず向かって左の扉に近寄りました。
 闇に手を伸ばし、扉に触れました。
 古い扉であることは、すぐに解りました。
 板には割れもささくれさえなく、滑らかな表面から指先が感じ取ったのは、丁寧に打たれた釘の僅かな凹凸のみでした。
 何年もの間、何人もの人間がそれを使い、それによって滑らかになった材木と、大切に修繕された古材の優しい肌触りは、新品の建材のそれとは全く別の物です。
 ……区別など簡単につく。むしろ、好き嫌いの激しい「子供」だからこそ、違いが解るのでは?
 そう思いませんか?
 それにこの貧乏殿様の御子様には、新品の尖った滑らかさよりも、使い込まれた中古の品の手にこなれた肌触りの方が好ましかったのです。
 君は、織り上がったばかりのコシのある硬い亜麻の夜具よりも、晒して叩いて使い込んだそれの方が、好ましい肌触りだと思わ……ないのですか……。みっしりと繊維の詰んだ、硬い新品がお好み、か……。
 残念ですね、どうも君とは趣味が合わないようです。私も、それから件の御子も、大切に使い込まれた古い物の手触りが、大変に好きなのですよ。
 御子はその好ましい、古き良い手触りのする扉の磨り減った板の上に指を這わせました。取っ手を捜したのです。
 扉ですからね。木か金属か、どちらにせよ、古い扉に相応しい、手にしっくりと吸い付くような突起があるに違いない。
 しかしそれは存在しなかった。
 使い込んだ戸板を板壁に再利用したのか、ここは出入り口ではないのか……。いいえ、その古い扉は、間違いなく扉だった。
 取っ手のあるべき場所に、丁度取っ手が填るのに良さそうな穴があるのが、その証拠です。
 板壁に仕立て直したというのなら、そんな穴は塞いでしまうでしょう。
 もし、元は塞がれていたものが、つい最近詰め物が落ちてしまったというのなら、その詰め物が床に転げているはずです。
 あるいは大分前に詰め物が取れてしまったのなら、代わりの物で塞ぐでしょう。
 この掃除と手入れの行き届いた館の主が、「壁」に穴が開いていることに気付かず、穴が開いたままの「壁」に手を入れないことなど、考えられません。
 だからこの穴は、必要だから開いているのだと、御子は考えました。そしてわざわざ開けてあるからには、それなりの意味がある筈だと類推しました。
 御子は知らなかったのです。殿様がこの館中の扉と言う扉全部から、引き手を全部取ってしまわれたことを。
 御子は身をかがめ、その「取っ手が填るのに丁度良さそうな穴」を覗き込みました。
 扉の向こうには薄闇が広がっていました。
 ボンヤリと「何かが置かれている」らしい影が見え、その影の向こうで、何かが揺れているのが判りました。
 その影が何であるのか、揺れている物が何であるのか、目を皿のように見開いて見ていたとき、あることに気付きました。
 そう、見えた。見えたという不可解。
 星明すらも届かない、と思っていた場所です。今までいたところでさえ、運良くそこにいた、一匹の蛍火虫の僅かな輝きの御蔭で、どうにか物の形が見えるばかりの暗闇でした。
 この虫の明かりが届かぬ「筈」の、何も見えぬ「筈」の深い闇が、そこにある「筈」でした。
 御子は慄然としました。出来うる限り冷静に物を考えようと努めました。
 蛍火虫がこの「扉」の先にもいるのか。
 いや、あの虫の光は冷たく揺らぐものだけれど、「扉」の向こうの影からはむしろ仄かな暖かみを感じる。
 つまり、別の、虫や星や月ではない、なにかしらの光源があるのだ。
 自然光でないモノがあると言うこと、それは即ち、何者かがそこにいるということを表しています。
 何者かとは「何者」か?
 この屋の「主」か? いや、このお屋形の「主」はかの殿様です。
 確かにこの幽霊屋敷は、隅の隅とは言っても、一応はお城の堀割の内側にあります。つまり「家の中」です。夜中に家の中を家の主が歩いて回ったところで、おかしな話ではありません。
 ですが、やんごとなき御方というものは大層不便な生活をしているのです。年取った、都を追われたこの殿様は、手水場に行くときでさえ、二人か三人は近侍の武官を従えて行ったものです。
 殿様は守られなければならない御方で、同時に見張られなければならない御方でしたから。
 ですから、殿様が例え自分の「家」の「お庭」であったとしても、建物から外へ出るのに誰一人お側に控える者がいないと言うことは有り得ない。
 もしもこの引き手のない「扉」の向こう側に人がいて、それがこの幽霊屋敷の主人で、即ち今その場にいる御子のお父上である殿様であったなら、御子がその場にたどり着くずっと以前に、御子は近侍の一人や二人を見かけているはずです。
 あるいはあちらの者の方が先に御子を見付けていてもおかしくはない。
 しかし御子はそのような人影は一つも見ず、また誰からも見とがめられることなく幽霊屋敷の中に入り込んでいる。
 あそこに人がいたとしても、それは御父様ではない。
 では、殿様からこの屋の管理を任されている、家来の誰ぞか?
 この離宮の掃除をし、建物の繕いをする役目を仰せつかった者が居り、主命によりここに寝泊まりしているということは、充分考えられることでした。
 御子は安堵の息を吐きました。父親である殿様の家臣であるならば、自分にとっても家来であろう。ならば、何の怖れることも無い。
 そう考えたすぐ後に、御子はにわかに不安を覚えました。
 この忠義者の家来が……。
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まろやか連載小説 1.41

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