意外な話 或いは、雄弁な【正義】 − 【13】 BACK | INDEX | NEXT

2015/07/28 update
 兎も角も、御子にとっては殿様の家来は、隅々下々にいたる迄総て皆まとめて忠義者。これは疑うべきもなかったのです。
 だからその忠義者が、我が身が近寄ってはならない場所へ、近寄るばかりか入り込んだとことを両親に報告したなら、どうなるであろうか?
 御子はブルリと震えました。きっときついお叱りを受け、ひどいお仕置きを受けるに違いない。
 その恐怖よりも、しかし好奇心の強さ方がより勝っていました。
 御子はどうしてもその「扉」の向こうに行ってみたくなった。何があるのか判らない、何がいるのか判らない場所へ、どうしても行きたくなった。
 そうすれば、この館が「幽霊屋敷」と呼ばれている理由も、父母が我が身をこの館に近づけさせまいとしている訳も、きっとわかるだろう。
 それにはまず、この「扉」の開け方を考えなければなりませんでした。押したり引いたりといった「普通の方法」で開くとは考えられません。何分にも取っ手がないのですから。
 と、なれば、横へ、或いは上か下へ滑らせる事が考えられる。
 御子にとって幸いだったのは、殿様の新しいお城には、様々な工夫と珍しい家具調度品が幾つもあったことです。そこかしこに様々な扉、窓、蓋があった。
 遠国から献ぜられた戸板を横に滑らせて開ける螺鈿細工の戸棚、丈夫な帆布に細い板を幾枚も貼り並べた上蓋を巻き上げて開ける机、一度軽く持ち上げてから押すと隠し留め具が外れて開く鎧戸、といった物です。
 御子はそういった物に触れて育ちましたから、扉のと言えば押すか引くか、という観念じみた物が薄かった。あるいは、父母が目端の利く子供に育てるために、あえて様々な物を周囲においてくれていたのかも知れませんが、どちらにせよ、このような場合には、その環境は役立ったといえるでしょう。
 御子は取っ手のない「扉」の前に立つと、取っ手が付くのに丁度良さそうなあの穴に手を掛けて、右や左に横滑りさせてみようと試みました。それがうまくいかないと、上に持ち上げてみたり、下に押し込んでみたりしました。
 扉は、開いてくれませんでした。
 御子は今一度身をかがめて、件の穴の辺りを良く調べました。
 鍵がかかっているのかも知れない。あるいは扉の向こう側から心張りがあてがわれていることも考えられる。
 鍵穴らしき物は見付けられませんでした。穴そのものの周囲には何も仕掛けのような物は見あたりません。穴から見た範囲では、戸の開け閉ての障害になるような物も見えませんでした。
 ならば、見えないところに何か細工があるに違いない。自分には動かせない細工が。
 御子はため息を吐きました。
 この先には行けない。この先にある物を確かめることは出来ない。
 御子は落胆してあの「扉」に背を向け、その場に座り込んでしまいました。総身の力が皆抜けきっていました。背筋を伸ばすことさえ出来ないような気がして、御子は背中を「扉」にもたれかけました。
 それでも力はどんどん抜けて行き、ついには首さえも小さな頭を支える事を放棄しました。御蔭で、後頭部はがくりと後ろに落ち、戸板にぶつかりました。
 板と骨のぶつかるゴツリと大きな音がし、その後、ガチンという金属が何かに当たったような、耳障りな音がしました。
 先の音は自分の頭が出した物とすぐに察しが付いたものの、後の音の正体が知れなかった……。その瞬間は、音の正体などどうでも良く、探ってみようなどとは考えもしなかったのですが、直後に思い直しました。
 何分にも、自分の体が扉よりも向こうに倒れて行ったのですから。
 御子は、何が起きたのかすぐには判りませんでした。床に強か頭をぶつけてもなお、戸が開いたのだと言うことが暫く理解できなかったほどです。
 頭蓋の揺れと脳漿のそれとが収まり、鼓膜のキンキンとした震えが止まって、漸く御子は気付きました。
 扉は開いた。
 重い金属音は扉を閉じていた何かの細工が動いた音であることも察しました。
 その細工を作動させたのが自分の後頭部で、それが細工を動作させる釦になる場所と丁度同じ高さにあり、動作させるに見合った力加減でぶつかったのだろうことも、おぼろげに理解しました。
 仰向けに床に転んで、真っ暗な天井を見上げた状態で。
 御子は暫くそのまま寝ころんでいました。脳の揺れは収まっても、痛みはすぐには消えてくれませんでしたから。天井を見上げたまま、何度か強い瞬きをしまし、大きく息を吐いて、それからゆっくりと身を起こした……頭をぶつけたときにはあまり性急な動作をするべきではないと、剣術の師匠から教わって、知っていたのです。
 尻餅をついた格好で前を見ました。つまり廊下の側をです。
 蛍火虫の明かりは一所に留まって、ゆっくりと点滅していました。恐らく向かいの壁にでも止まっているのでしょう。
 御子は座り込んだまま、もう一度大きく息を吐きました。そして小さく
「嗚呼、痛い」
 と呟いてみたのです。
 何故、と? 誰かがいれば、その声に答えてくれるやも知れないと思ったからですよ。
 まあ、万一誰かが居たとしたら、扉の向こうで大きな音がして、扉の仕掛けが動いて、扉が開いて、何かが部屋の中に入り込んできたその時点で、何らかの反応をするのが当然でしょう。
 良い反応にしろ、悪い反応にしろ、何かしらの変化が起きるはずです。
 御子の声は、闇の中に吸い込まれてゆきました。
 期待した反応はなく、変化もなく、返答もない。
 この「幽霊屋敷」に居るのは、自分ただ一人。御子は漸くその事実を受け入れました。
 安堵したような、がっかりしたような、嬉しいような、寂しいような、奇妙な感情が御子の胸の中で渦巻きました。
 妙に可笑しくなって大声で笑い出しそうになるのを、御子は必死で堪えました。肩をふるわせながら立ち上がり、頭や背や尻の塵芥を払う仕草をしました。
 実際には床には塵も埃も一片たりとも落ちていませんでしたから、払う必要など無いのだということを御子は頭の中では理解していました。
 それでもそうやって恥ずかしさを誤魔化すような仕草をせずには居られなかった。誰にも見られていないのに。
 問題は、その仕草を、ずっと廊下を向いたまま行ったことでしょう。
 あれほど覗き見たい、入りたいと思っていたあの部屋の中なのに、何故かすぐには見る気分になれなかったのです。
 振り向き、見てしまうと、本当に底に誰もいないのだと言うことを「知って」しまう。
 そのことが、惜しい気がしたのです。
 いっそ後ろを見ないまま、前へ歩を進め、元来た道のりを戻ってしまおうか。
 いや、それも何やら勿体ない。折角、父母の言いつけを破ってまで「冒険」に来たというのに、たどり着いた場所で何もせずに帰っては、まるで何かを怖れて逃げたようではないか。
 御子は塵を払う動作をし続けている間、逡巡していた……いや、逡巡している間、ずっと塵を払うそぶりをしていた、と言った方がよいでしょう。
 どれ程時間が経ったか判然としませんが、おそらくは四半刻のそのまた半分ほどの長い時間過ぎた後、御子は漸く服を手で払う仕草を止めました。
 決心したのです。
 そう、決心した。
 迷いに迷って、漸く決めた。
 後ろを見る。
 後ろに、この部屋の中に何があるのか、この目で見る。
 そのためにここへ来たのだ。そのためにここにいるのだ。
 御子は何度も何度も心の内で言い、何度も何度も大きく息を吸い、何度も何度も大きく息を吐き出しました。
 そして、そっと、首を左にひねりました。
 ゆっくり、少しずつ、闇が流れてゆき、壁らしきものが見え、棚らしき影が見え、それから椅子らしき影、机らしき影が、徐々に視界に入りました。
 机らしき影の上には、小さくて丸い、うっすらと赤い色が見えました。
 途端、御子の鼻孔は菜種の油の燃える匂いを感じました。
 小さな食台の上で、金属の油壺の上の細い口金を殆ど締め切る程に絞った、小さな常夜灯の、幽かで弱々しい炎が、今まさに消え入ろうとしているところでした。
 これに気付いて、慌てふためかないでいられたら、その者は相当に剛胆だといえます。
 子供にその肝の太さを期待するべくもない。
「あっ」
 と短く声を上げ、同時に全身を灯のある方向へ向け、瞬時に足を前へ突き出して、心もとない明かりの側へ駆け寄ろうとしました。
 慌てているときと言うのは、何をやっても上手く行かないもの。しかも、いくら目が慣れたとはいえども闇の中のことです。
 御子は勢い余って食台の脚に膝頭をぶつけました。
 食台の脚が床を擦る音がしました。
 食台の周りに置かれていた、四脚の小さな椅子は、てんでバラバラの方向押し動かされ、あるいは壁に打ち付けられ、あるいは何かにぶつかり、あるいは倒れ、大きな破壊音を挙げました。
 肝心な台の上の灯も、クワンクワンといったような、心もとない音を立てて、大きく揺れました。小さな灯は揺れながら、それでもどうにか仄明るい赤を発していましたが、御子にはすぐに消えて当然に思われました。
 小さな光が、己の短慮のために消えてしまう。
 不安はそのまま口から飛び出しました。
「消える!」
 食台の端から手を伸ばす。台の中央で揺れている灯を押さえる。思った通りのことを思ったように成す。
 そして灯の揺れは収まりました。
 否、否、否。間に合いはしなかった。
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まろやか連載小説 1.41

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