意外な話 或いは、雄弁な【正義】 − 【14】 BACK | INDEX | NEXT

2015/07/28 update
 汗ばんだ掌の内にすっぽりと収まった小さな湯壺の上、細い灯芯の先の赤い光は、疾うに失せていた。揺れの所為ではありません。
 手の内の灯は、とても軽かった。
 金属の油壺と灯芯以外の重さがなかった。
 燃料が尽きていたのです。揺らされずとも、あの瞬間には消える定めだったのです。
 残ったのは、真の闇。
 右も左も、前も後ろも、何処を見ても、闇。
 机や椅子達は震えることと音を立てることを止めてしまった。
 灯芯がら立ち上っていた煙が絶え、油と煤の匂いも消えた。
 手の中の金属の器は、氷のように冷たく、御子の指先を凍えさせる。
 その冷たさは、あっという間に背筋まで伝わり、脳漿を凍り付かせた。
 見えず、聞こえず、感じず。
 何もない、闇の中に、自分一人。
 振り払ったはずの恐怖が、振り立てたはずの勇気を、あっという間に追い出して、全身を支配しました。
 手の先、足の先がビリビリと痺れ、感覚が失せてゆきました。
 肉体は闇に押し潰されました。
 何も出来ない。声も出ない。
 泣き叫ぶ? 手足をばたつかせて、床を踏み付けて、むずがる赤子のように?
 そんなことが出来るはずがない。
 陸に打ち上げられた公魚のように、ただ口を開けて喘ぐのが精一杯でした。
 息が詰まって、死ぬ。
 いや、もう死んでいるのかも知れない。
 そうだ、そうに違いない。 
 肺の腑は呼気を取り込むことを拒絶し、心の臓は血潮を送り出すことを拒絶し、脳漿は考えることを止めてしまったのだ。
 私は死んでいる。
 懺悔の祈りの間も無かった。とすれば、魂の行く先は辺獄か煉獄か。あるいは一息に地獄の奥底へ堕ちるのか。
 御子は無性に悲しくなりました。
 地獄には知り合い一人いないでしょう。――御子は、自分の周囲にいた人々は皆おしなべて善人だと思っていましたから、例え彼等が死んだとしても地獄に堕ちる筈がないと考えたわけです――永遠の責め苦を、永遠に独りきりで受けるのだ。
 ああ、もしかしたらすでにその責め苦を受けているのかも知れない。誰もいない闇の中に、独り置かれるという責めを。
 この闇の中には地獄の獄卒共がいて、自分を嘲笑い、睨み付けているのだ。
 ブルリと震えたその後で、不意に御子は思いました。
 この闇の中に、本当にそんな者たちがいるというのなら、この目で見てやろう。
 何のきっかけも脈絡もない。正義漢も義務感もない。ただ不意に、本当に不意に思い付いたのです。
 しゃがみ込んでうつむいていた御子は、ただその思い付きのために頭を上げました。震えて瞼を閉ざしていた御子が、その思い付きによってだけ、薄く目を開ける決心をしました。
 怖いもの見たさ? ああ、そうとも言えましょう。
 御子は、目を開けたところで闇以外のものがあるはずはないと……。
 ……いや、違う。逆だ。全くの逆です。
 地獄の住人でも良い、自分以外に何者かが存在していることを確かめたかったのやも知れません。
 あの闇は、それほどに心細く、寂しかった。
 兎も角も、御子は頭を上げ、目を開いたのです。
 とは言っても、凛々しく上を見上げられた訳ではなく、雄々しく目を見開けた訳でもありません。
 そっと頭を上げ、ゆっくり目を開いた。
 縮こまっていた体の中から、針より細く瞼の隙を開けて、自分の体の外側にある世界を、恐る恐るのぞき見た。そんな具合です。
 そしてその世界は、薄暗い闇に包まれていました。
 御子は落胆し、しかし同時に気付きました。
 自分が畏れ、恐怖した、あの真の闇は、そこにない。
 どこからか、僅かに光が漏れてきている。先ほどの机の上の灯の、あの儚げなか弱い光ではない、もっと別の光が、どこかにある。
 そして、ほんのりと、ぼんやりと、何かが見える。
 そう、人影のようなものを、確かに御子は見たのです。
 御子は眼をこれ以上は開かぬと言うほどに大きく開きました。
 婦人でした。
 まるきり見知らぬ顔でした。
 見知らぬご婦人は、凡そ地獄には相応しくない、柔和そうな面差しに、古風に髪を結って、古風な身なりをしていました。
 お顔は真っ白でしたが、これは古風な化粧のためでしょう。唇は黒みのある深い赤で、頬は薔薇の色に塗られていました。
 年の頃はおそらく御子の母君、つまり殿様の後添えの奥方よりも、幾分か年上のように思われました。
 御子はこの婦人に声をかけようとして、はたと気付きました。
 ぺたりと尻餅をついた自分の視線と同じ当たりに、このご婦人の優しげな微笑があるのです。
 このご婦人がしゃがんでいたとしても、その高さに顔があるはずがありません。御子同様に尻餅をついておいでなのだとしても、まだ低い。
 ご婦人が御子よりも遙かに背が低いとも考えられました。それならば、床に座っておいでになれば、その高さにお顔があっても不思議ではありません。
 しかしそのご婦人の身なりは、胸元より上ほどがぼんやりと見えるだけでしたが、豪華で洗練されたものでした。ご身分の高いご婦人であることは間違いありません。
 そんな方が、腰を抜かして立てぬ御子のように、はしたなくぺたりと尻餅をついた状態で、柔和に上品に微笑んで居続けられるとは、考えられないでしょう。
 この高さにお顔があるためには、例えば床がそこだけ一段低くなっているとか、あるいは腰より下が床の下に「埋まって」いるか、あるいは胸より下の部分が「無い」状態でなければなりません。
 御子は自分の考えに驚き、思わず後ろに飛び退きました。
 尻餅をついていたのに、どうやって飛んだのか、不思議なことなのですが、尻餅をついたままの格好で、どうやってか後ろに飛んで下がったのです。
 御子の背や後頭部にぶつかった椅子や机の脚が、床を引っ掻く大きな音がしました。
 ところが件のご婦人は眉一つ動かすでもなく、柔和に微笑んだままでした。
 御子は何度も瞬きをし、幾度も目の辺りを袖で擦り、そのご婦人を見つめ直しました。
 すると、ご婦人の両隣に別の人影を見出しました。
 二人の少年でした。
 御子と同じくらいか、少しばかり年上と見受けられました。
 一人の少年の顔立ちは、薄闇の中でもはっきり見て取れました。顔色がご婦人と見まごうほどに真っ白だったからです。
 彼は額の広い、利発そうな面立ちでした。
 もう一人は目を凝らして漸くその姿をおぼろげに見て取ることが出来ました。どうやらよく日に灼けている様子で、ともすれば闇に紛れるほどに、黒い顔をしていたのです。
 彼は眉の太い逞しげな面立ちと見えました。
 一目見ただけでは、まるで印象の違う少年達でした。
 ところが、御子には彼等はどことなく似ているように見えました。目元口元の形というか、顔の作りというか、雰囲気がどことなく似通っている。
 御子は確信しました。少年達は兄弟に違いない。
 その上で、二人の面差しは件のご婦人によく似ていました。いえ、暗がりではっきり見えた訳ではないのですが、御子にはそう思えてならなかった。
 さすればこの三人は母子に違いない。
 直感です。何の根拠もない。ですが御子にはこの三人が、仲の良い親子以外には見えなかった。それほどによく似ている気がしたのです。
 しかしそれ以上に、この少年たちが別の誰かに似ているようにも思えました。
 どこかで見た、見知っている顔。
 城下の人々の誰かか?
 お城で働く人々の内の誰かか?
 剣友、学友の誰かか?
 否、否、否、否。そうではない。
 もっと、近しい、もっと見慣れた、もっと、もっと……。
 ふっと、御子の脳裏に浮かんだ顔がありました。その顔に御子自身が驚いて、思わず声に出してしまいました。
「御父様」
 途端、まばゆい光が御子の目玉に突き刺さりました。
 御子は思わず身構え、腕をかざして光を遮ると、瞼を細く開いて、光の差してきた方角を見ました。
 光の中に、人の影が立っていました。
 いや、立っている人影が、光を携えていた、と言う方が正しい。
 角提灯が高くかざされ、人影が長く伸び……。
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まろやか連載小説 1.41

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