意外な話 或いは、雄弁な【正義】 − 【9】 BACK | INDEX | NEXT 2015/07/28 update |
あの建物は何のための物なのか。なぜ古いまま残されているのか。あの中に何があるのか。 知りたいと思った。 しかし大人達は言葉を濁し、口を噤み、答えてはくれない。 唯一、御子と年の近い乳母子が 「殿様がお国入りする前から、得体の知れぬモノが憑いていると噂する者がおるのです。莫迦々々しい話ですが、それを信じる愚か者者が居るので、殿様は近付かぬようにと仰せなのでしょう」 と答えてくれたとは言え、この程度答えでは、御子は納得できなかった。 ならば自分の目で確かめたいと思うのは必定でしょう? しかし毎日の日課が酷く詰め込まれていて、昼間はあの建物に近付くことすらできない。 ある夏の夜、御子はそっと寝所を抜け出しました。 裕福でない殿様とその家臣たちは、夜を照らすための燭台の蝋燭や油を節約していましたので、お城の中も外も、闇に包まれていた。 御子は星明かりと記憶を頼りに離宮へ向かい…………。 君の期待を裏切って悪いのですけれど、この夜、子供は幽霊屋敷にはたどり着けなかった。 何分にも父親からは「決して近付いてはならない」と言われ、母親からはその影の見える所にすら行くことを許されない場所なのですよ。 大凡の方角がわかっていたからと言って、闇夜に子供一人が迷わずにたどり着けるはずがないじゃありませんか。真面目な子だからといって、賢い子供だとは限らないのですよ。 と言うわけで、御子は夜明けの前にどうにか寝所へ戻っりました。ほとんど寝ていないものだから、昼間は眠くて仕方がなかった。その日は学問でも剣術でも、それぞれの師匠に酷く怒られたようです。 この御子に美点があるとすれば、あきらめの悪さでしょう。一度失敗したからといって、興味のある事柄を諦めることなどできなかった。 御子は何度かその場所へ行くことを試み、何度目であったか定かでありませんが、漸くその場所の近くまでたどり着くことができました。 その日、御子は短い佩剣を下げた簡単な「武装」をしておりました。 殿様と奥方が「近寄ってはならない」と命令しているのだから、警備の者、見張りの者が幾人かいて、見回りをして目を光らせていて当然でしょう。 ですから、勇ましい格好をしたつもりの、自分は賢いと思いこんでいる、しかし好奇心旺盛な、小さなお国の幼い跡取りは、茂みの中から、剣に縋るようにして、「武者震い」をしながら周囲を窺ったというわけです。 それは全くの暗闇でした。目を凝らし、耳をそばだてて、御子は人の気配を探りました。 しかし御子が「当然いる」と考えていた、古い離宮を警備する者や、近付いてはならぬ場所に入ろうとする者がおらぬか見張っている者の姿は、そこにはなかった。人も、犬も、猫の子一匹すらも、その辺りには生きているモノはまるでいなかったのです。 御子は不思議に思いました。 『この場所を見張らなくて良いのだろうか』と。 あるいは、『この場所に近付く者がいないとでもいうのだろうか?』と。 そして『この場所に興味を抱いているのは、或いは自分だけなのだろうか?』とも。 御子の父上である殿様は、外から新しくやってきた殿様であるにも拘わらず、この土地に元から住んでいた人たちにも随分尊敬されていました。殿様が元いた土地の人々の中も、去ってしまった殿様を慕っていた者達がいたそうですが、それ以上に新しい領民は殿様を愛していた。 ああ、たしかにただの判官贔屓かも知れません。贔屓であろうが敬愛であろうが、元の感情などどうでも良い。殿様の領民達は、殿様がおふれを出せば、それをしっかりと守った。それだけのことです。 そんなお国柄のことだから、御子は、殿様の命令があるために誰一人この場所に近寄らない……あるいはそんなことも有り得ると考えもしました。 しかし総ての領民が殿様の命令を守るとは限らないとも考えました。どれ程優れた為政者の元であっても、犯罪は起きるものです。 例えば、畏れ多くも高祖陛下はこの世に二人とない優れた支配者であられましたが、その治世に一人の罪人も出なかったなどと言う事実は、残念なことに無いでしょう? むしろ大勢の「罪人」が牢に入れられ、刻印を押され、切り刻まれ、焼かれ、土に戻された。 どの世にも、どんな土地にも、不心得者は必ずいる。……悲しいことですけれども、これは動かせない真実です。 だから殿様の命令が、それほど硬く、命令が出されてから十年以上時間が経ってなお、守られ続ける筈がない。そう御子は考えました。そして結論づけた。 「あそこには、人を寄せ付けない何かがある」 殿様が「近寄るな」と命令を出さねばならない何かが、誰もがその命令に逆らえない心持ちにさせる何かが、奥方様にその場所のことを口にも出せない気分にさせる何かが、そこにある。 そしてそれは……人ならぬモノに違いない。 子供の考えです。妄想と言っても良いでしょう。 おかしなもので、女子供というのは怖いモノを酷く嫌い、そのくせ恐ろしいものを好むものです。 風にゆられる布簾を幽霊と見て怖がり、怖いなら近寄らなければよいのに、開け放たれた窓に近寄って窓から身を乗り出す。 見るなと言われると見たくなる、やるなと言われるとやりたくなる。 自分の仮想の恐ろしさに、御子の体は震え、胸は期待に膨らんだ。……いくら「子供らしくないよい子」であってもやはり子供ですから。 そして御子は茂みから出た。目を見張り、耳をそばだてたまま、古い田舎の百姓屋のような離宮へ近付いた。 そこは人気の無い、薄ら暗い、寂れた古城。閉ざされた窓辺に青白い明かりが揺れているように思え、風の音の裏になにかの「声」が聞こえる感じる屋形。 御子は震えながらしっかりと剣を握った。人ならぬモノ、生きていないモノが万一現れたなら、これを引き抜いて闘おうというのです。 そう、おかしな話です。人でないモノ、生き物でないモノならば、剣で切って捨てることなどできようものですか。 いや、たとえ「それ」が斬りつければ倒れてくれる手応えのある体を持つようなモノであっても、国中の人々が、屈強な衛兵ですら、近付くのを怖れるような存在であれば、子供の膂力では適うはずがない。 よく考えれば解りそうなことなのですが、そこでよく考えないのが子供というもの。中途に賢かったり、半端に武術を修めているような子供は、特にその傾向があります。 往々にして根拠のない自信を持っているのです。 学友の中で優れているとしても、それは学問所の中でのこと。道場の中でそこそこ勝てると言っても、それは道場の中でのこと。 世の中には「上には上」の存在があることを想像だにしない。 自分がいる場所の外のことを知らないモノだから、自分は間違いをしないと思い込み、しくじりなど微塵も考えない。 御子はそんな子供でした。 だから、父の命令を破っても、母のいいつけを守らなくても、自分が「恐ろしい何か」を倒せば、むしろ褒められる。単純にそう考えた。 いや、そう考えて、自分の中の恐怖心を消そうとしたのです。 何分にも優れた殿様になることを定められた子供故、父親を越える功績が必要だった……実際に必要と言うよりは、御子にとっては必要なものだった、と言った方が正しいかも知れません。 そして、今日がその手柄を立てる日だと御子は信じた。信じ込んで、それを勇気の支えとしたのです。 しかし子供の勇気というものは、すぐに萎んでしまうモノです。御子は茂みから出手すぐに、眼前を仄暗い一筋の光が横切ったのを見て、悲鳴も上げられないほど肝を冷やし、剣を投げ出して尻餅をつきました。 ……いいや、生憎なことにその光は君の思うようなもの、つまり、鬼火やら人魂などと呼ばれるものではありません。 臆病な蛍火虫が仲間を求めて灯す幽かな光でした。 御子はそのことにすぐに気付きました。そして尻餅をついたまま、気恥ずかしげに辺りを見回しました。その直前までに、散々人気のないことを確認し尽くしているというのに……。 蛍火虫がふらふらと飛んで、ある一点に留まった。御子は闇に目を凝らして、動かずに点滅する光を見つめました。 そして蛍火虫の小さな明かりの中に、扉の木目を認めた。決して近寄ってはならない、あの幽霊屋敷の扉です。 御子はゆっくりとにじり寄りました。尻餅をついたままですから。立ち上がれなかったのですよ。這い進むより他にありません。 ひどく長い距離のように思えたようですよ。実際にはほんの数十歩ほどでした。ただ何分にも気持ちばかりは前へ進むのに、腰はすっかり抜けきって、頭の後を付いてきてくれないのですから、時間が掛かって仕方がなかった。 当の本人は至極真面目に「ひたすらに前進している」つもりだったでしょうが、人から見れば相当に滑稽な様子だったに違いありません。ずるずると体を引きずって、それでもどうにか蛍火虫が飛び立つ前に扉の前にたどり着きました。 御子は質素な木の扉に縋り付いて、崖でもよじ登るかのようにして漸く立ち上がり、扉に耳を押し当て、中の気配を探りました。 何かが聞こえるはず。音か声か。不気味な唸り声か。 もし聞こえたなら、これほど恐ろしいことはないはずです。誰もいない廃屋の中から、何者かの存在を匂わせる音がするなどとは! 恐ろしくて、恐ろしくて、心の臓が飛び出るほどに恐ろしくて。しかしそれほど恐ろしいのに、その音を聴きたい。そこに何者かがいるということを確かめたい。 御子は期待していました。大きな期待でした。 しかし期待は裏切られました。 どれ程強く耳を押し当てようとも、御子には、どっどっと打つ自身の心臓の拍動と、ざぁざぁと流れる血潮のざわめき以外は、何も聞こえなませんでした。 御子は大きく息を吐き出しました。安堵の息であり、同時に落胆のそれでした。肺臓の中身が全部抜けるほどの息を吐き出すと、体の力も抜けてしまったようで、御子はその場に座り込んでしまった。 そして扉にもたれかかるようにして、空を見上げましたた。暗闇の中に小さな星がちらちらと瞬いています。星はあくまでも冷た輝いていた……。御子には星々が自分を 「見栄っ張りの小心者よ、己の力量を知らぬ愚か者よ」 と責め立てているようにさえ感じました。 御子はまた息を吐いきました。体の力は益々抜け、首がかくりと後ろに落ちました。 脳天が扉の板に当たる軽い音がした。その直後、蝶番が小さな悲鳴を上げました。 ――いや違う。錆び付いた金属の重く湿ったような軋みではない。 良く磨かれて、油を差された、ちゃんと手入れがされている、良く動く蝶番の音です。 例えば、人々の喧騒のある昼間のお城の中では少しも気にならない程の小さな音。人気のない夜の幽霊屋敷であったからこそ、聞き取れたのであろう、かすかな音。 御子は固唾を呑みました。この扉は、果たして開くのであろうかと、そっと考えました。 見張りも置かれず、見回りもされない、しかし近寄ってはならない場所……戸も窓も鍵が掛けられて当然です。入り口が易々と開く筈など、あり得ない。 御子はゆっくり、振り向きました。 この扉は閉まっているはずだと自身に言い聞かせながら、扉に手を掛けた。 この扉が閉まっていて、開けることが出来ないと判ったら、すぐにこの場を離れよう、そして自分の寝室に戻って眠ってしまおう……。つまり、それをその場から逃げ出す理由としたかったのです。 御子は心臓を高鳴らせて、引き手を引きました。蝶番が滑らかな音を立て、扉は……開きました。 御子の、驚きよう、そして怖れようと言ったら、他に比べるものがありませんでした。 飲み込んだ息を吐き出すことが出来ぬくらいに驚愕していました。 本来ならば、不信に思いはしても、恐ろしくなど思わぬはずでしょう? むしろ喜ぶべきです。 何分にもこの幽霊屋敷の謎を解き明かして見せようと、そして殿様に相応しい立派な人間であることを知らしめようと、大望を抱いてこの場に来たのですから。 子供らしい? 確かに考えの甘いところは子供そのものですが、この場合は、単に浅はかで愚かしくて情けないだけのことです。 |
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