夏休みの前から夏休みの終わりまでの話。 − 【17】 BACK | INDEX | NEXT

2015/09/26 update
 龍が座らされた黒い革張りのソファは、ふんわりと柔らかだった。柔らかすぎて、座った人間が体全体がすっぽりと埋まってしまい、身動きができないくらいだった。
 校長先生の椅子の向こうは校庭に面した窓だ。ガラス窓は開けられてい、青い網戸がぴたりとしめられていた。
 それでも細かい網の隙間から、乾いた砂埃の匂いが流れ込んでくる。
「風が強いねぇ」
 校長先生はのんびりとした声で言う。
 龍は何も答えなかった。下を向いたまま、できるだけ遠くのことを考えようとしていた。
 校舎の外、校庭の向こう、道路の先、川の反対側。
 龍の背筋に電気が流れた。
 石ころだらけの川原。薄茶色く濁った水が、轟々と音を立てて流れている。木も草も皆、川から逃れようと体をねじ曲げて立っている。
 怖いとか、悲しいとか、辛いとか、そういった簡単な一言では表せない感情が、彼の頭の中に満ちた。
 それは雨の日のあの川原の濁流と同じ色をしている。
 あふれた感情が、涙と鼻水になって目と鼻からぼろぼろと流れ出た。
「うわぁああ」
 泣きながら叫んでいるのか、叫びながら泣いているのか、龍自身にも判らなかった。口から出ているのが言葉なのかタダの声なのかも、さっぱり判らない。
 泣いて涙を腕や手で拭き、鼻水をすすり上げ、わめいてよだれを飲み込んで、そしてまた泣いて目をこすって、鼻水を吸い上げて、よだれを飲み込み損ねて咳き込んで。
 ルーチンワークと化した所作を、何度繰り返したのかも、やっぱりさっぱり判らない。
 喉の奥になにかどろりとした異物がまとわりついて、それでいて口の中がからからに乾き、目と鼻の回りが赤く腫れ上がってひりひりと痛む事を自覚しはじめたときには、校長先生の背中から差し込む日の光が、ぎらぎらとしたまぶしい光に変わっていた。
 それををまぶしいと感じた次の瞬間、龍は自分が涙も声もすっかり出なくなっていることに気付いた。
 そして泣けないと判った途端、妙に落ち着いた気分になってきた。
 それでもまだ頭の中では茶色い川が勢いよく流れてはいるのだけれど、水かさは減っていて、瞼だとか鼻の穴だとかの堤防を越えなくなった。
 腫れ上がったまぶたを何回か瞬かせ、目尻の辺りをひりひりさせる残った涙をげんこつでごしごしと拭き、鼻の中でずるずると大きな音を立てながら深呼吸をすると、背筋をピンと伸ばした。
 向かいの一人掛け椅子で、校長先生が微笑んでいた。
「つまり、こういう事だね。
 君はY君……いや、『トラ』君とY川の岸で出逢った。お互い苗字も教えないうちに親友になって、君は『トラ』君のことを先生や両親よりも信用するようになった。
 今まで学校では一切顔を見ていないから、多分違う学校の子だろうと思いこんでいたら、突然校内で逢ってしまったから、とても驚いた。
 その上、『トラ』君は救急車で運ばれてしまったものだから、何がどうなっていて、自分はどうしたらいいのか、さっぱり判らなくなったわけだ」
 龍は目を見開いた。泣いたりこすったりしたせいで、相当腫れて痛いのだけれども、目尻が裂けるほど見開いた。
 自分と『トラ』だけの秘密の筈だった。……いや、秘密にしていたのは自分だけで、『トラ』にとっては秘密のことではなかったのかも知れない。
 だとしても、なぜこのことを校長先生が知っているのだろう?
「校長先生はエスパーですか?」
 校長先生は少しビックリしたようすで、二回ほど瞬きをしたが、すぐに元の優しい笑顔に戻って、言った。
「君が今言ったことだよ。もっとも、泣きながら言ったことだから、ちょっと聞き取りづらかったし、話が前後していたからまとめるのが大変だったけれども」
 頭の中を流れていた濁流が消え失せた。
 後に残ったのは、澄んだ清流の中にぽつんと独り立っている、清々しいような寂しいような妙な気分だった。
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まろやか連載小説 1.41

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