夏休みの前から夏休みの終わりまでの話。 − 【22】 BACK | INDEX | NEXT 2015/09/26 update |
龍と、銀色の「龍」と、「トラ」は、金色の水面を突き抜けた。そしてそのまま十メートルくらい飛び上がった。 空は真っ暗だった。 カラカラに乾いた風が、カサカサに乾いた木の葉を巻き上げながら吹いている。 そして足の下には、丸く切り抜かれたような渇いた地面があった。 龍の頭は混乱した。今までいたのは確かに池の中だったのだから、飛び上がれば足の下に見えるのは池の水面の筈なのだ。 でも真下にあるのは、幼稚園の頃に遊んだビニールプールを何十倍にも大きくしたような形に丸くくりぬかれた、平らな地面だった。 黄色く乾燥した丸いへこみの真ん中で、そこだけじっとりとしめった焦げ茶色土が、ほんの少し盛り上がっていた。 その土饅頭の傍らに、呆然と立つ人影があった。 薄い緑の混じった灰色のきれいな着物を着ている。長い灰色の髪はバラバラにほどけている。 顔は見えない。男の人なのか女の人なのかも判らない。泣いているのか、怒っているのかも判らない。 でも、その人はとても疲れていて、とても悲しそうで、とても辛そうなのは判った。 「……」 小さな声がした。龍があわてて振り返ると、「トラ」は寂しそうにその人を見つめていた。 「よく聞こえなかった」 もう一度言ってとせがむと、「トラ」寂しそうに笑った。 「自分の知らないうちに、自分の大切な物を、自分自身で『壊して』しまったということに気付くと、人は自分の心を自分で壊してしまうんだ」 声が聞こえるようになっても、「トラ」が何を言っているのか、結局よくわからない。龍は目を瞬かせた。 ところが、瞼を一回閉じるたびに辺りがぐんぐん暗くなって、「トラ」の顔がどんどんぼやけていった。 龍はあわてて目の回りを腕でこすった。目玉がぐりぐりして、頬骨の上がひりひりする。 しめった、線香の匂いのする風が、ほっぺたの上を通って行った。 目をそっと開けると、ぼんやりと明るい。 「あれ?」 龍の体は、木陰の草むらの上にあった。 シャツとズボンが脱がされていて、変わりに大きめのバスタオルが体を覆い隠していた。 身を起こすと、石でできた鳥居の向こう側で、池の水面がちらちらと光っていた。 周りを見回す。 小さな古ぼけた祠がある。 小さな石塔がいくつも建っている。 小さな菊の花束がたくさん手向けてある。 お墓……そう理解した瞬間、龍はしがみつくようにバスタオルを抱きかかえたまま跳ね起きた。 目玉の端っこで、白い物が揺れたように見えた。 「うわぁ」 幽霊が出た! 恐ろしくて、でも興味がわいて、龍はそうっと白い物が揺れた方向に視線を移した。 木の枝に掛かった濡れたシャツとズボンが、池を渡ってきた重たい風になびかされて揺れている。 「なぁんだ」 龍はわざわざ大きな声で言って、自分を落ち着かせようとした。 見えたのが幽霊じゃないと判っても、他に幽霊が以内とは限らない。何しろここはお墓なのだから。 龍は背中を丸くしてバスタオルを抱きしめ、もう一度ゆっくりと周りを見回した。 動く物は木の枝や草の葉、お墓に供えてある線香の煙、そうでなければ水面に弾かれた太陽の光ばかりで、他には何もない。 薄暗い木陰に自分一人きり。あまりに寂しいので龍は「幽霊でも良いから誰か側にいて欲しい」とさえ思い始めた。 心細さに、彼はすがるように祠に近づいた。 祠の前には小さな浄賽箱と祭壇があった。 祭壇の上には紙の束が置いてある。それは風に舞わないように、とぐろを巻いた龍の形をした文鎮で押さえてあった。 その文鎮に古びた紙がのり付けされている。 「寅姫様御身代札 思い込めて人型に抜きて龍神に祈念し 水にお流し下さい お気持ちは浄賽箱へ 辰寅社禰宜」 龍は文鎮をすこしだけ持ち上げて、紙を一枚引き抜いた。 墨で文字の印刷された四角い紙は、点線に切り込みが入っていて、手で簡単に人型にくりぬけるようになっていた。 「そうか、ここがやっぱり御札が流れはじめる場所なんだ」 誰かがここで何かを念じながら人型の御札を池に投げる。雨が降って池の水が増えると、御札は川に流される。流れて流れて、翌々日ぐらいには、あの川瀬にたどり着く。 一つ謎が解けた気がした龍は、ほんの少しすっきりした気分で池を眺めた。 でもそのすっきりは、すぐに別のもやもやで覆われてしまった。 |
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