夏休みの前から夏休みの終わりまでの話。 − 【34】 BACK | INDEX | NEXT 2015/09/26 update |
「たしかに年を取っている。龍のお母さんよりも十歳くらい年上かもしれないけれど、それでも見た目ほどお婆さんじゃないんだ」 「トラ」はうつむいた。 涙の粒が二つ、ぽとんと腿の上に落ちた。 龍は尖らせていた唇をくるりと引っ込めた。 小学生にとって、自分の母親が高齢だということは、とても恥ずかしいことなのだ。 たとえば、クラスの誰かがクラスの誰かの母親を『若くて美人』と言ってくれたなら、言われた方はおそらく自分が褒められたみたいに喜ぶだろう。 当然、逆のことを言われたら、自分がバカにされたみたいに思えて、怒るか悲しむかするだろう。 そうやって喜んだり怒ったりしている当人に、「若くてきれい」がなぜ嬉しくて、「年を取っている」がなぜ悔しいかを聞いたところで、明確な理由などは返ってこないに違いない。 「仕方のないことなんだ。お母さんは結婚するのも遅かったし。それに病気になってひどく痩せてしまったり、強い薬のセイで髪の毛が白髪になってしまったりしたものだから、余計に年を取って見える」 鼻水をすすり上げると、「トラ」はゆっくり顔を上げた。 それからさっき指を全部折って、げんこつになった手の甲で、目の周りをごしごし拭いた。 「ごめん」 龍は下唇を咬んだ。 彼女は小さく首を横に振り、ふわりと笑った。そうして、 「お母さんがボクを『トラ』と呼ぶのは、お母さんに取ってボクは『トラ』だから」 さっき折ったばかりの人差し指をピンと伸ばした。 そのすぐ後、今度は中指がピンと伸びた。 「用具室の鍵が外から掛かっていたのは、ボクが中に入っている間に、外から鍵が閉められたから」 言い終わると同時に「トラ」が薬指を伸ばそうとしたので、龍は慌てて彼女の手を覆うように握った。 「閉められたら、開けてくれって叫べばいいじゃないか」 彼は顔を思い切り「トラ」の鼻先に寄せた。 彼女は龍の目をじっと見て、小さな声で答えた。 「狭いところが怖いんだ。暗くて狭いところに長くいると、怖すぎて何もできなくなる。用具室はとても暗くて、狭くて、暑苦しかった。だから怖くて……怖すぎて、心臓がバクバク脈打って、息が苦しくなって、叫べなかった」 龍は唾を飲み込んだ。 暗くて狭くて暑苦しい場所。半地下の、穴蔵の中で、座り込んでいる「トラ」のすがたが、目玉の裏側に浮かんできた。 「じゃあなんで、わざわざ用具室になんか入ったりするのさ」 言った後で、龍は 『きっと「トラ」は用具室に掃除用具かなにかを取りに入ったに違いない』 と思いついた。それ以外に怖くて仕方がない場所に入る理由なんてないのだから。 そこで彼は、おずおずと小さな声で付け加えた。 「ほうき? モップ? バケツ? ワックス?」 「トラ」は四回首を横に振った。 「そこで待っていろと言われたから」 消え入りそうな小さな声で、彼女は答え、うつむいた。 「誰に?」 当然、龍は訊いた。「トラ」は首を横に振った。 誰だか知らない人だったのか、それとも知っている人だけれど答えたくないのか、それは龍には分からない。 「そいつは『トラ』が狭いところが嫌いって知ってた?」 龍は続けざまに訊く。「トラ」の返事はさっきと同じだった。 やっぱり知らない人だったのか、知っている人だったのか、分からない。 「トラ」はうつむいたまま黙り込んだ。龍の手の中で、彼女の手が小石のように硬く冷たくなってゆく。 龍は両手を開いた。そして真っ白に固まった「トラ」の手の、薬指をぎゅっと引っ張った。 「何で学校にいたのさ」 できるだけ優しく聞いたつもりなのだけれど、「トラ」にはそう聞こえなかったようだった。 すぼめていた肩が、びくりと跳ねた。 「一応、生徒だから」 下を向いて彼女はようやっと答えた。 龍は仰天して、思わず大きな声を上げた。 「クラスは? 学年は?」 「トラ」の顔がゆっくりと持ち上がった。 青白くて小さな顔は、寂しそうに怒っていた。 |
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