夏休みの前から夏休みの終わりまでの話。 − 【40】 BACK | INDEX | NEXT

2015/09/26 update
 彼女の真面目な顔を見ているウチに、龍の背骨の中は冷たい電気が走り始めた。
「思い出しちゃった」
 頭の中がどんどん真っ白になってゆく。
「なにを?」
 小さな声でで、「トラ」が訊ね返す。龍はカラカラの口の中から唾を絞り出して、無理矢理に飲み込んだ。
「ずっと前。『トラ』が、僕の集めてた紙切れを『人身御供のそのまた代わり』だって教えてくれた次の日。朝起きたら、図書袋の中に突っ込んでおいた御札が全部無くなってて。代わりに君が集めてたのと同じような石が一つ入ってた」
 深い洞窟のような、薄暗い部屋の片隅のような、生ぬるくて寂しい空気が彼の体の回りに充満して、重たく覆い被さる。
 寝汗をかいた夜の布団の中のように息苦しい。
 龍は目を見開いた。目玉がこぼれ落ちるんじゃないかと思うくらい、大きく見開いた。
 もし瞼を閉じたら、真っ暗闇の中に落ちてしまいそうで、無性に恐ろしかった。
 瞬きだってするのが怖い。
 涙が全部蒸発して、目尻の当たりがヒリヒリと痛くなっても、龍は目を閉じなかった。
 そうして、皿みたいに開いた目で、じっと「トラ」を見ている。
 「トラ」は目を閉じた。
 閉じた瞼の下で目玉をぐるりと動かした。吊られてまつげがひくひくと波打った。
 龍は彼女の口から自分を納得させてくれる、安心させてくれる答えが出てくるのを、ひたすら待った。
 どれくらい時間が経ったのか、それともちっとも時計の針が進んでいないのか、二人にはさっぱり解らなかったけれど、ふいに「トラ」は大きく息を吐き出して、
「何で消えたのかは解らないけれど……」
と、小さく力無く言いながら目を開けた。
 龍のカラカラに渇いた喉が、ぎゅっと締め付けられた。
「解らないけれど、あの御札は悪さ何かしない。だって、寅姫さまと龍神様の御札だもの」
 「トラ」はニコリと笑った。
 龍の頭の中で、寅姫さまもニコリと笑った。(その後ろで、龍神が不機嫌そうに立っているような気もしたけれど)
 ともかく、彼女たちが笑ってくれたので、龍の体を覆う重たいモノが、少し軽くなった。
 ところが、ホッとしたのもつかの間のことだった。「トラ」は笑ったままちょっと怖いことを言い始めたのだ。
「あの御札は、何か悲しいことや辛いことがあった人が、それを忘れる為に水に流すものだ。池に沈めて川に流せば、悲しいことや辛いことを、寅姫さまや龍神さまが解決してくれるっていうことになっているからね。
 流す前に御札を流す人は自分の心を御札に込める。だから、御札自体に悲しい気持ちや辛い気持ちが残っている可能性はある」
 龍はまた唾を絞り出さないとならなくなった。喉の奥がキューっと痛くなる。
 恐ろしさから顔中に不安が広がって、ほっぺたの肉がひくひくと痙攣した。乾ききった目玉から、涙がこぼれそうになってきた。
 と。
「だから、むしろ無くなったことを喜ぶべきだと思うよ」
 そう言って、「トラ」は全身で龍に近づいて、彼の両手を握った。
 小さな風が吹いて、彼女の前髪がふわっと揺れた。
 龍のほっぺたに当った髪の毛からは、甘い桃の薫りがした。
「もしかしたら、キミに不幸が及ばないように、寅姫さまか龍神さまが隠してくれたのかもしれない」
「寅姫さまが、僕の所に来て、図書袋から御札を持っていってくれたの?」
 龍は想像した。
 散らかった自分の部屋の中心に、真っ白な着物の寅姫がすっと立っている。彼女は何の迷いもなく部屋の隅に投げ置かれた図書袋を見つけ、その中から御札の束を取り出した。
 散らかった自分の部屋の中心に、不機嫌そうな龍神が立っている。彼はちょっと躊躇した後、床の上に放り投げてあるくたびれたグローブを蹴飛ばして、部屋の隅の玩具箱にドライブシュートで放り込んだ。
 二人は当たり前のように彼の頭の中で行動していた。
 龍は可笑しくなった。背筋を走っていた冷たい電気が、どんどんと暖かくなった。
 こわばっていた顔の氷もぐんぐん溶ける。
 じっと彼を見ていた「トラ」は、彼と同じタイミングでクスリと吹き出した。
 それは、龍の頭の中に浮かんだ風景と同じモノを自分でも見ているみたいに、まるきり同じ拍子だった。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だから、何の心配もない。大丈夫」
 「トラ」ははっきりと言い切った。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だから何の心配もしない。大丈夫」
 龍ははっきりと言い返した。 
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まろやか連載小説 1.41

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