夏休みの前から夏休みの終わりまでの話。 − 【45】 BACK | INDEX | NEXT

2015/10/05 update
『その瞬間、「トラ」は何を感じたのだろう?』
 吹雪の中みたいに真っ白な脳みその中で、龍は必死に考えた。
 自分がその文字の読み方を知ったときと同じくらい驚いた? 自分がそのお墓を見つけたときと同くらい怖くなった?
 きっと、そんなビックリやブルブルでは足りない。絶対にそんなにちょっぴりなドキドキで済むはずがない。
 だって、自分の名前のお墓なんだから。
 龍は下の唇をぎゅっと噛んだ。血が出る寸前ぐらいに強く噛み締めた。
 そして真っ白な顔をシィお兄さんに向けた。
 お兄さんはまっすぐ前を向いたまま、言った。
「あの子は頭のいい子だから、作り話で説明して誤魔化そうったって通用しないと思った。だから、全部話した。
 多分……多分だけど、あの子は全部理解してると……思う。
 あのお墓が自分のものじゃないことはもちろん、母親にとって自分は死んでしまった『寅』の身代わりだって事も」
 お兄さんは左の手の甲で、鼻の下をごしごしとこすった。龍には、彼の目が少しだけ赤いように見えた。
「だからあの子は、母親から『寅』と呼ばれたら笑って返事をする。自分が『寅』じゃなくなったら、母親は自分のことを子供だと認めてくれなくなるんじゃないかと不安がっているんだと思う。
 同時にあの子は、自分が死んだ『寅』と同じにされるのは嫌だとも思っている。自分が生きているってことを自分でしっかり感じていたいから、母親以外の人から『寅』と呼ばれるのは嫌がる……筈なんだけれどなぁ」
 シィお兄さんは肩こりほぐしの体操をするみたいに首を左右に曲げた。そして、鼻水なのか涙を我慢したヤツなのか解らないものをすすり上げると、不可解そうな、でもなんだか可笑しいみたいな、妙ちくりんな顔をして、龍の方をちらっと見た。
 視線を浴びた龍は、どんな顔で応じたらよいのか解らなくて、困った。
 ここで笑ったら「トラ」に悪いような気がする。だって彼女は、生きている自分と死んでしまった「寅」の間をふわふわと漂って、不安な毎日を過ごしているに違いないのだ。
 だから笑っちゃいけない。でも怒ることは変だし、泣くのはもっとオカシイ。
 どうしたらいいのかまるきり思いつかないから、仕方なく彼は下唇を咬んだまま、ほっぺたをふくらませた。
 フロントガラスの内側に移り込んだ自分の顔は、図工の授業で描いてみんなに変だと笑われた「リコーダーを吹くクラスメイトの顔」とそっくりに見えた。
 そのせいで、ますますオカシイやら悔しやら訳の解らない気分になり、ますます奇妙な顔つきになる。
 龍はシィお兄さんに、そして自分にも変な顔を見せないように、下を向いた。
 だから彼には、
「何で君には『寅』って呼ばせているんだろう……」
 とつぶやいたシィお兄さんの表情は判らなかった。
 龍はそれからずっと下を向き続けた。
 シリョウお兄さんはそれからずっと黙り続けた。
 やがて二人が乗った車は、車通りの激しい太い道から、スクールゾーンの標識が並ぶ細い道へと入った。
 学校の裏門に通じる道に曲がるとすぐ、龍の家の看板が見えた。
その側に、人が立っていた。
「あ、母さん」
 心配そうに足踏みをしながら、道の続く端のその股向こうまで見ようと首を伸ばしている母親の姿を見た途端、龍のほっぺたから力が抜けた。
 怒られるのが怖い。無事に帰ってこれて嬉しい。心配かけて申し訳ない。
 いろんな気持ちが胸に満ち、渦巻き、あふれ、龍のゆがんだふくれっ面は、ゆがんだ泣き顔に変わった。
 目玉と鼻の穴からなま暖かい水分がドバドバとあふれる。目を閉じても、鼻をすすり上げても、洪水は止まらなかった。
 しゃっくりみたいな嗚咽で肩を上下に痙攣させながら、龍は車を飛び降りて母親のお腹の当たりに抱きついた。
 店の奥から父親の怒鳴り声が聞こえ、それがだんだん近づいてくる。
 声は龍のものすごく近く魔できて、ぴたっと消えた。途端、龍のつむじの真ん中に、大きな拳骨の尖ったところが落っこちた。
 すぐ後に、柔らかくてひんやりした掌が、たんこぶ発芽寸前の頭を覆って、なでた。
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まろやか連載小説 1.41

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