夏休みの前から夏休みの終わりまでの話。 − 【49】 BACK | INDEX | NEXT 2015/10/05 update |
自分の手じゃない、と思うのと同時に、やっぱり頭の上から自分のモノでない別の考えが降って来た。 『全く、どいつもこいつも、どうしてこう龍脈を乱してばかりおるものか』 龍は降ってくる「別の考え」が、何を言いたいのかさっぱり分からなかったけれども、それでもこの考えの主がずいぶんと怒っていて、その上ずいぶんと悲しんでいる様子なのは感じ取れる。 ……この人が一生懸命やっていることを、誰かが邪魔している。この人は邪魔されていることを怒っているけど、邪魔している人のことは怒っていなくて、どちらかというと可哀想だと思っている…… 彼は長い指の間から差し込むまぶしい光を長めながら、耳を澄ました。 水が跳ねる音がする。それは元気が無くて、淀んだ音だ。 天井の水面に丸い水紋が浮かび、ゆっくりと広がっていった。水紋の中心は小さな影だ。 影はやがて人の形に広がった。そして人の形の影は、影ではなく人の姿に変った。 「寅か」 龍の頭と、頭の上の「別の考え」は、同時に思い、同時に言った。 確かにその人は寅姫だった。 元々色白の顔だけれども、今日は一層青白い。 『どうしたんだろう?』 龍は思った。 『何か分かったようじゃな』 「別の考え」の主が思った。 「判ってみれば簡単なことなのですけれど」 寅姫は微笑んだ。でもちっとも嬉しそうじゃない。 「誰ぞが札をせき止めておるようで」 『札って何?』 龍は思った。 『アレはタダの紙切れぞ』 「別の考え」がつぶやく。 寅姫はまた微笑んだ。でも今度の笑顔は苦笑いだった。 「人の思いが乗れば、ただの紙も力を得ます。それに、そもそもあれには妾と、何より貴男様の名の呪が書き込まれておりますれば」 『呪って何?』 龍が思う。 『タダの墨跡に過ぎんがの』 「別の考え」はため息混じりに言う。 ため息は大きな泡になって、ぐるぐる渦巻きながら天に昇っていった。 「守人の所に行っては来ましたが、まだあの娘には自覚がないものですから、妾の声が聞こえたかどうか、判然といたしませぬ」 寅姫もため息を吐いた。それは小さな泡になってくるくる回転しながら天に昇っていった。 『守人って誰?』 龍には判らないことだらけだ。 『じゃがあの女の童、素地はありそうな。案ずることは無かろう』 「別の考え」の方は、全部納得したらしい。 「そうでしょうか」 寅姫はもう一つ泡を吐き出した。 龍に彼女の心配ごとを推し量ることなどできない。これは「別の考え」の方も同様らしい。 『どうした?』 一つの体の中のにある二つの考えが、同時に一つのコトバを思考する。 「年若い、幼い守人は、確かに妾の気配は感じた様子でした。泣きはらしたよな赤い目でを妾の方に注いでおりましたから。 ですが、妾が語りかけてもそれに耳を傾けようとはしませなんだ。 むしろ、あの娘の方が妾に語りかけるのです」 『何と?』 寅姫は龍ともう1人の誰かをじっと見て、柳眉をを八の字に、美しい額に皺を寄せ、困り切ったという調子で答えた。 「雨を賜りたいと」 龍の……いや、龍の心が迷い込んでいる逞しい身体の、凛々しい顔の、大きな口から、大きな泡がゴポゴポと吹き出した。 『龍脈が乱れて水が正しく流れない故、雨を降らせられぬと言うに』 ゴポゴポと一緒に、「もう一つの考え」……いや、この身体の正しい持ち主の声が浅い水面に向かって立ち上る。 彼は心底困り果てている。そしてちょっとだけ怒っている。 「母御が身罷ったのが辛いのでしょう」 寅姫は顔を伏せた。龍の身体は天を仰いだ。 視線は水面を超えて、池のほとりの一隅に注がれる。 石でできた鳥居。 小さな古ぼけた祠。 小さな石塔の一群。 片隅に新しい墓標と。 手向けられた、大きな菊の花束。 |
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