小懸 ―真田源三郎の休日―【本編】 − 【3】

 私たちの一族郎党は四月の半ばに厩橋を出ました。
 父があらかじめ滝川一益様に申し出て(というか、むしろ「手を回して」とでも言い表した方が良い気がするのですが)、皆で一旦は砥石まで戻り、その後各々が行くべき場所へ向かう許しを得ておりましたので、我々は列をなして砥石へ向かういました。
 山の麓では暑いほどの陽気でしたが、高い尾根にはまだ雪が残っております。山肌をひんやりとした風が吹き下ろしてくれば、寒ささえ感じました。
 上州街道を鳥居《とりい》峠を越えて進み、真田郷を経てたどり着いた砥石《といし》の城は、小さな、しかし堅牢な山城でした。
 東太郎山の尾根先の峯の伝いに四つの曲輪があり、これを合わせて砥石城と呼び習わしています。
 細かく言えば、尾根の一段低い所を開いた場所が本城、そこから北側の出曲輪を枡形《ますがた》城、南西の山端には米山《こめやま》城、そして、南の一番高い場所にあるのが砥石城となります。
「相変わらず退屈な城よな」
 砥石の矢沢の大叔父が六十の老顔を綻ばせて言いました。
 天文庚戌(十九年)と言いますから、武田滅亡の天正壬午(十年)からさかのぼること三十と二年程昔、頼綱《よりつな》大叔父は信濃衆の一人としてこの城においででした。……村上義清殿の旗下として、武田と対峙していたのです。
 この頃、武田は、信府の小笠原氏を攻め落とし、南信濃から中信濃を手中に収め、その勢いのまま北信濃まで手に入れようとなさっておいででした。
 これに立ちはだかったのが、村上義清殿でした。
 実を申しますと、その前年に義清殿は上田原という地で信玄公を打ち破っています。
 この戦について語り出すと大変長くなりますので、ここでは詳しい話は出来ません。ただ「武田は散々に負けた」とだけ申しておきます。
 ですから砥石城攻めは、謙信公にとって意趣返しのためにも勝たねばならない戦もありました。
 私の曾祖父・真田幸隆《ゆきたか》はこの頃にはすでに謙信公の旗下に有りましたが、一族の内にはまだ武田に帰順していない者も多くいたのです。
 その筆頭が矢沢の大叔父殿でした。
 大叔父は祖父の直ぐ下の弟でしたが、ある小規模な戦闘に甲冑も着ずに飛びだして行き、敵方を殲滅させたといった(剰りにも無茶な)武勇を、諏訪神氏の流れを汲む矢沢頼昌殿が気に入り、養嗣子にと望まれたため、真田の本家と別れて信濃に残ったのだそうです。
 砥石での戦でも大叔父は「めざましい戦果」を上げられ、その「甲斐」もあって、武田は千余の人死にを出すほどの壊滅的な被害を被りました。
 かくて武田信玄は同じ相手に二度負けて、這々の体で逃げ出す結果となったのです。
「砥石とも戸石とも書くが、どちらにしても切り立ったこの岩場を良くも言い表しておる」
 頼綱大叔父は崖から身を乗り出して山裾を覗き込み、
「この山の所為であの時の戦は退屈きわまりない物となったのだ。武田の兵がこの山肌に貼り付いて登ろうとする所へ、岩の一つ二つ蹴り落としてやれば事済んだからの。まあ、つまらぬ戦であったよ。何分にも城が守るに良すぎて、我が武勇が発揮できなんだ。さても残念なことだ」
 大叔父殿は、カラカラと笑いました。一歩下がった場所に立っていた我が父は、苦笑いして、
「挙げ句に叔父御が勇躍しておったなら、今の我らは此度とは違う算段を立てねばならなんだろうな」
 ここで『今の我は無い』と言わないのが父らしいところです。父としてみれば、例えどんな状況に陥ったとしても、真田の家は残っているのが当たり前のことなのでしょう。
 武田相手に二度も大勝した村上


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