みまちがい − 3 【3】

「まあ、彦左殿のことは、どうかお許しくださいませ。あの仁はいつでも誰に対しても無礼にございますから」
 小松が臆面もなく言い、口元を隠すことなく笑った。花が咲いたようであった。
「年若い娘にまでそう見られておられるとは、さても面倒な御仁だな」
 信幸は苦笑いを返した。
 小なりとはいえ大名の嫡男の夕餉の膳であったが、酒肴すらない寂しい物だった。
 もっとも、生来胃腸が弱いと自認する信幸である。子供の頃からこと食べ物に関しては努めて節制していたから、一汁一菜であっても何の不満もない。
 家がある。小さな灯火がある。妻がいる。それで十分ではないか。
 その妻が、小さな灯火の傍らで微笑しつつ小首をかしげて見せた。
「して、どちらが殿様でございましたのですか?」
「どちら、とは?」
 信幸も小首をかしげて返す。
「大薙刀を振り回して攻め掛けた方と、見逃して貰って逃げおおせた方と、どちらが殿様でした?」
「どちらかが私に違いない、とな? その根拠は?」
 若い殿様は幼い新妻の顔をじっと見た。小松は微笑を崩さずに、
「殿様が、名乗りも上げぬままに言いたいことを言い捨てる彦左殿を、大久保彦左衛門と知っておいでだったからです。お顔を見ただけで判ったということは、何処かでお会いになったことがある、ということにございましょう? 徳川の者と真田の者が何処かで出会ったとするならば、その場所は戦場《いくさば》以外にありませぬ。違いますか?」
「やれやれ」
 信幸は頸《くび》の後ろを掻いた。目元に楽しげな微笑が浮かんでいる。
「徳川家中は、おなご衆に至るまで面倒な者がそろっていると見える」
「面倒なのが三河武士と肝にお銘じなさいませ。……して、どちらにございまするか?」
 小松も心底楽しそうに頬笑んでいる。
「私は薙刀は使わない。私は十七、八の倅《せがれ》ではない」
「では両方違う、と?」
 小松が少々残念そうに唇を尖らせる。信幸は首を小さく横に振った。
「三十郎の柄物は大太刀だ。あの人は長柄物は使わない」
「……はい?」
「大久保殿の【見間違い】だ」
『何をどう見間違えたのか』と尋ねようとした小松であったが、夫の顔を見て、やめた。
 信幸は両手を突き上げ、背伸びをしている。
「ああ疲れた。今日は本当に疲れた」
 欠伸一つの後、唇の片方の端が、くっと持ち上がった。
 真田信幸の脳裏には、銀色の蝶が猛烈な勢いで馬を急かせて去って行く景色が思い起こされていた。



2017/12/23update

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