下手な人形師が操る木偶よろしく、ゆっくりと右手を挙げる。水平に伸びた人差し指が俺の背後を指している。
悪寒を感じた。背の辺りからどんよりとした闇が広がり始めている。
振り向くと、そこには一人の男が立っていた。
旅姿の貴族だ。
チャバネゴキブリの背みたいにテカる髪の毛をしきりに掻き上げ、堅焼きパンのようにかさついた頬をひくひくと痙攣させていた。そうして苔むした朽ち木のような脚で、落ち着きなく床を踏んでいる。
俺は、ギスギスした殺気を発散するこの男を知らない。壊れた記憶の片隅にすら、コイツのデータは欠片もない。
男は肩で息をしているが、疲れているって訳でもなさそうだ。
そいつの眼中には、どうやら俺の姿はないらしい。血走った三白眼で、真っ直ぐにクレール姫を見ている。
「ずいぶんではありませんか、姫。未来の夫を、まるでゴミでも見るような目で……」
そいつはオールに巻き付いた水藻のようにべったりとした口調で言い、どろりとした笑顔を浮かべた。
「無礼者、下がれ!」
大喝したのはファテッドだ。どこから引っ張り出したのか、板垣の板を一枚ひっぺがしてきたンじゃないかてぇ位の、馬鹿長い剣を構えている。
ほとんど同時に、クミンのヤツが大公夫妻の前に立ち、筋張った両手を広げて彼らを庇う姿勢を見せた。
ジオ3世が立ち上がり、訝しげな妃を腕に抱きつつ、小さく言う。
「ルカ・アスク。貴公には、国外退去を命じたはずだ」
「あなたには私に下命する権限はない」
アスクと呼ばれた木っ端貴族は、下卑た目でジオ3世を一瞥し、すぐに視線をクレール姫の方へ戻した。
「姫、あなたはこの哀れな土地と運命を共にする必要がない。私と来れば、栄華は思うまま……」
クレール姫は全身の筋肉を引きつらせ、それでもようやく手足を動かして、俺の背中に張り付いた。
これでようやく俺の存在に気づいたアスクは、鼻の頭にしわを寄せ、舌打ちし、
「下郎、どけ」
俺を押し退けようとした。
ま、俺の身体がこんな痩せギスの腕力ごときで、1ミリだって動くことはない。
逆に俺がほんの少し腕を前に出しただけで、あっさりとアスクの身体は後方に倒れ込んだ。
視線の横端を、大きな塊が飛んだ。剣を振りかざしたファテッドだ。
あっという間にアスクの喉元に、鋭い切っ先があてがわれた。
間髪入れない鋭い攻撃は、クレールのそれとよく似ている。
……どうやら相棒の手の早さは、親友を兼ねる親衛隊長の仕込みらしい。
「失せろ、下司め」
どう考えても己の方が不利であるにもかかわらず、凄味を効かせたファテッドの提案をアスクは鼻先で笑い飛ばした。
「どけ、ブス」
侮蔑の言葉根が終わらぬ内、ファテッドが剣先に体重を乗せた。
アスクは土気色の素手で、刃を握った。
剣は、ぴくりとも動かない。
ファテッドの眉が吊り上がった。柄を握る手が、小刻みに揺れている。
空気が、腐臭を孕んだ。
光に満ちていた室内が一度に暗転した。
足下に、何かがまとわりついた。
無数の腕だった。
「グールめ!」
俺がその動く死体どもを蹴飛ばすのと同時に、アスクがファテッドをはね飛ばした。
悲鳴がした。
ジオ3世とその妃の周りにも、やはり無数のグールが群がっている。
クミンが必死の形相でそいつらを追い払おうと足掻いているが、まるきり歯が立たない。
倒れ込んでいたファテッドが跳ね起き、愛人に助太刀して、ようやくその場にいたグールどもだけは追い払った。
《無駄、無駄なこと!》
高笑いしたアスクは、すでに人の形をしていなかった。