幻惑の【聖杯の三】 − 【10】

 赤い瞳の若者は、ハンナの腕をさながら雑草でも抜くかのように引いた。ハンナの体は、雑草のようにあっさりと化け物の口の中から引き抜かれた。
 自分をそっと床に下ろしたその若者の脚にハンナは抱きついた。
「ありがとう、助けてくれてありがとう」
 若者は、答えなかった。それどころか、ハンナの顔を見ようともしない。
 若者が見ていたのは、件の化け物の方だ。しかも慈愛に満ちた優しい微笑みを浮かべて。
 見つめられている化け物の方も、どうやら笑っているらしい。
「おまえ、すごくつよい、いのち」
 今まで以上に大きく口を開き、手を使うのももどかしく、獲物に覆い被さるようにかぶりついた。
「いやぁあ!」
 諸共飲み込まれる……ハンナは目を固く閉じた。
 痛みを伴った衝撃が、彼女の身体を吹き飛ばした。
 何か柔らかい物に突き当たって、ハンナの身体は止まった。酷く痛む腹の辺りをそっと見ると、白いドレスの上に小振りな靴の跡が付いていた。
 ハンナを蹴り飛ばした若者の姿は、辺りにはない。
 見回すとと、十歩も先のところに件の化け物の姿がだけが見えた。
 閉じた口の端から、白い小振りな靴が突き出ていた。
「あの人も、食べられちゃったぁ!」
 叫び終わってから、ハンナはあわてて己の口を覆った。
 大声に気付いた化け物が、彼女の側に顔を向けたのだ。
 化け物はしげしげとハンナを見、
「おまえのいのち、いらない。もういのち、たくさん……」
 満足げにニタリと笑った。
 歪んで重なっていた口角が、じわりと開いた。少しずつその隙間は広がって行く。
「おお、おおおおお」
 今度は化け物の方が口を覆った。
 革の弛んだ顔が、苦痛に歪んでいる。
 身体がガタガタと震え、やがては膝の力が抜けた。最後にはどすんと尻餅をついた。
 化け物は口の辺りを掻きむしった。太い指が、口の端から突き出た異物に当たった。
 化け物はその異物……先ほど頭から飲み込んだ人間の脚……を掴み、力任せに引き抜いた。
 ズルリと引き出されたのは、飲み込んだ人間よりも三回りも大きな、赤黒い肉のかたまりだった。
 それは、先ほどハンナが見た、化け物の腹の中で亡者の群れそのものであった。いや、それ以外の肉、つまり化け物自身の臓物も芋蔓に引き出された。
 化け物はあわててそれを体の中に戻そうとした。だが足掻けば足掻くほど、肉は身体の外に出て行く。
 その様は、さながら、袋の口から手を入れて、裏返しているかのようだ。
 骨の砕けるめりめりという音を立てながら、それでも化け物はまだ動いていた。
 しかも外表になった身体でどうにか移動しようとしている。どうやら、自分が引きずり出した「最後に飲み込んだ人間」から遠ざかろうとしているらしい。
 臓物の先にからまりついた亡者の群れのその中心で、「最後に飲み込まれた人間」は相変わらず微笑んでいた。
「おおお、おおおお、おおお」
 声なのか音なのか知れない空気の震えを発しながらじりじりと進んだ化け物だったが、やがて何かに突き当たって、止まった。
 行く手を遮ったのは、薄汚れた靴と、薄汚れたズボンをはいた人の脚だった。
 太く逞しい脚の持ち主、ブライト=ソードマンだった。
 彼の体中には無数の傷があり、無数の血の流れた跡があった。……血はとうに止まり、傷口はふさがりつつあったが。
 ブライトは裏返しになった化け物の、頭であるらしいところに片足を乗せると、
「つまるところお前は、図体がデカくて少々知恵があるのが厄介なだけで、結局シィバじいさんの手袋とかわらねぇって事だろう? とうに死んだはずの人間


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まろやか連載小説 1.41
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