幻惑の【聖杯の三】 − 【8】

「え?」
 振り返り、立ち止まった彼女の耳に、床板が粉砕される轟音が聞こえた。
「しまった!」
 腰に手を伸ばす。
「お願い、【正義】よ!」
 赤い剣を引き抜きざまに、身体全体で弧を描いて振り向く。
 切っ先は、こちらに背を向けたオークの、たるんだ胴体をすり抜けた。
 エル・クレールの手には、素振りをしたのと同じほどの手応えが伝わってきた。シィバ老が作り出したあの手袋ホムンクルスを斬ったときには、もっと確かな衝撃が感じられたのに、である。
「効かない?」
 全身の力が抜け落ちるのを、彼女は膝あたりで食い止め、ようやく立っている。
 切られたオークの方も、ようやく立っていた。それはぴくりとも動かず、薄っぺらな大理石を粉砕し、床板を打ち抜いている戦斧に寄りかかっている。
 ブライト=ソードマンの身体は、その斧からほんの握り拳二つ分ほど離れた場所に転がっていた。
 シャツの裾とベルトの端が、床板の中に潜り込んでいる以外は、わずかな手傷も負ってはいない。
 彼は力任せに立ち上がった。
 引き裂かれたシャツの裾とベルトの端と下緒と腰袋が、床下のしめった土の上へまき散らされた。
 同時に、ナプキンの端に乗っていたフォークが引きずられて床に落ちるごとく、オークがどさりと倒れ込んだ。
 それは相変わらず獣臭は発している。だが呼吸は止まり、体温も次第に低くなってゆく。
「糞っ垂れめ」
 忌々しげに言い、ブライトは
「初手からこいつをアームで倒せるって知ってたら、余計な骨折りをしなくてすんだものを」
 指先を切った革手袋の中にある赤く腫れた握り拳をさすりながらシィバ老人に目を向けた。
「倒せた、のですか?」
 エル・クレールは不安の瞳でブライトとオークとを交互に見やった。
「ふん」
 ブライトは面倒そうに倒れ込んでいるオークの尻を蹴り飛ばした。
 それは床の上を転がったが、死体特有の無機質でバランスの悪い重さ故、すぐに移動することを止めた。
「こいつらは命令通りにしか動けない。命令した者との『つながり』をぶった切ればただの肉塊だ。もっとも、理論的には、のハナシだがな」
 まだ立っている残り二匹のオークをにらみ付けたブライトは、
「こいつにそんな力があるとは思いもしなかったぜ。……【恋人達】!」
 彼のアームを呼び覚ますと、言葉も気合いも発さずに刃をオーク達の上に振り下ろした。
 床に落ちた矛と剣が、鼓膜をつんざく金属質な轟音を立てた。
「こんな物、ハムにもなりゃしねぇ」
 ブライトは動かなくなった二匹のオークを睥睨したのち、その苛立った視線をゲニック准将に移した。
「新しい玩具で遊ぶときにゃ、『大人のヒト』に使い方を習うようにすべきだと思うんだがね?」
「命令すればいいと聞かされた。命令通りに動くだけだと」
 太った軍人は、窓辺で腰を抜かしていた。
 額と、脇の下と、掌と、足の裏が、脂汗で滑る。
「本来の主人の命令どおりに、ってことだろうさ。そいつに『馬鹿准将が攻撃指令を出したら辺り構わず暴れろ』とだけ命じられてたってトコだろうよ。停止命令無しでな。 大体あんた、このブタが何であるのか、判ってンのかい?」
 ゲニック准将の答えは否だった。最も彼の口からその言葉が出た訳ではなく、ただ真っ白な顔が左右に揺れただけではあるが。
「ケッ。それでよくもまあヌケヌケとシィバの爺さんを師匠呼ばわりしたモンだぜ」
「どういう、意味でしょう?」
 ブライトの罵声を聞き、エル・クレールはシィバ老人の顔を見た。
 老人はうつむき、
「まあ、取っ掛かりを拵えたのは、確かにわしじゃな」
 シ


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