いにしえの【世界】 − 黒い月 【14】

 化け物は彼らが舞台から降りたことに気を止めていない様子だった。
「ああ、酷い男……『大切な人』が苦しんでいるのに、そんな言い種するなんて。なんて酷い、なんて酷い、ステキな人」
 甘ったるい粘った声で繰り言を呟き続ける。
 顔の上にあからさまな嫌悪を浮かべ、ブライトは石像もどきから顔を背けた。視線が移った先には、眉をつり上げて「鬼に堕ちた者《オーガ》」を睨み付けるエル・クレールがいる。
「こいつは、何だ?」
 ブライトに問われると、エル・クレールの眼が針のように細くなった。
 赤鉄鉱に似た色をしている。しかし鏡の原料ともなるその鉱石にあるべき金属光沢は、汚れた曇りに覆われてい、みられない。
 人の形をしているが人の息吹は感じられないその「モノ」の銘《ナマエ》が、彼女には読めた。
 その言葉を表す文字が、アレに書かれているわけでも刻み込まれているのでもない。
 見えている光景の他に別の情景が脳裏に浮かび、聞こえている物音の他に声が聞こえる。
 漆黒の空に朔の細い光が赤く滲む人里離れた沼地。遠く聞こえる獣の咆吼――。
「【月《ムーン》】」
 短く言い、エル・クレール=ノアールは武器の柄を握り直した。
 錆の浮いた金属質の触肢《しょくし》が彼女の目の前にあった。直線的に、風を切って、迫ってきた。
 蝕肢の切っ先は、形だけ言えば糸を巻いた紡錘《つむ》に似ていた。突端が鋭く尖り、次第に太さを増した後、また尻つぼみに細くなっている。
 それが多関節の長い触肢の先端にあり、【月】の、人の体で言えば後頭部にあたる部分に、繋がっていた。
 顔面のすれすれにまで伸びたとき、尖った先端が二つに割れた。蟹や蠍の爪の形さながらに開いて、得物を掴み引き千切ろうとする。
 標的は、
『私の、眼球』
 だとエル・クレールは直感した。
 上体を後ろに反らして避けた。
「二つも持っているのだから、一つぐらいアタシに別けてくれても良くないかしらん?」
 エル・クレールはその声を、聞いたことのあると感じた。
 妙に懐かしい音だった。しかし、嘘寒い。
 蝕肢は彼女の顔の上を通り過ぎたかと思うと、直角に進路を変更し、下降した。
 金属音がした。
 床を蹴って跳ね上げられたエル・クレールのつま先が触肢を蹴り飛ばしていた。
 はじき飛ばされた蝕肢は、弧を描いて舞い上がったが、軌跡をすぐに直線的なものに戻し、急速に後退した。
 【月】の背後まで戻ったそれは、またしても垂直に降下した。
「欲張りな子。お前の持っている物は後で全部もらってあげるのだから。それまでは、コッチで我慢ね」
 打ち倒されている旗手の頭に、蝕肢の先端が落下した。
 頭蓋が苦もなく割られ、その中身は周囲にまき散らされた。
 引き上げられた蝕肢の先は、丸い物を抓んでいる。白く、真ん中に茶色の円がある。
 蝕肢の先端が上を向き、大きく開いた。嘴の大きな鳥が餌を飲み込む仕草に似ていた。
 白い丸いものが開かれた中に落ち込み、飲み込まれて消える動きも、それを思わせた。
「この子、視力が良いとか腕力に自信があるとか、いつも言っていたのよ。……本当に嘘吐きで仕様のないこと」
 まるで生きている人間のことを話しているかのごとき口ぶりで【月】は言うが、「この子」と呼ばれた旗持ちは、目も当てられぬ無惨な様の死骸となって地面に転がっている。
 【月】はクスクスと笑いながら、半面を覆っていた掌を退けた。
 無機質な黒い顔の落ちくぼんだ眼窩の中に、そこだけ肉の質感を持った眼球が嵌っていた。
「もっとも、近眼だということには、とっくに、気付いていたのだけ


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