夏休みの前から夏休みの終わりまでの話。 − 【26】


 副担任のY先生の家は、いわゆる兼業農家というヤツで、先生も先生の旦那さんも、そして息子さんも、畑仕事をしながら学校や会社で働いている。
 学校で花壇を作ったり、植物観察用のヘチマ畑や、焼き芋大会用の芋畑を作ったりするときには、先生の畑の知識がとても役立つ。
 ドアからY先生の手が伸びる。龍は両手でそれを掴んだ。
 先生が腕を曲げると、龍の体はふわりと軽くなった。
 トラックの運転席には、やっぱり農協の帽子をかぶった男の人がいた。龍の目には、年齢が先生と同じか少し上に見えるから、多分先生の旦那さんだろう。
 龍はY先生の膝の上を這って、運転席と助手席の間の、ヘッドレストのない場所にちょこんと座った。(普段は荷物置き場になっている席だから、シートベルトを探すのが一苦労だった)
 三人掛けがぎりぎりのトラックの中は、よだれが出そうなほど良い匂いで満ちていた。
 龍の頭の中には、皮むきして切られて皿の上に乗って、プラスチックの柄の付いた二股の金属の楊枝が刺さった状態の、白くて赤くて甘くてとろりとした大きな桃が、はっきりと浮かんでいた。
 匂いの元は、とっくに農協の集荷場でベルトコンベアの上に載せられているのだけれども、先生と旦那さんの体にその香りが染みついているものだから、狭い車内は桃缶を開けっ放しにした台所よりも桃臭かった。
「今年は特に雨が少なかったから、実は大きくならなかったけれど、甘さはぎゅっと濃縮されているのよ。ウチで食べる分がまだ残っているから、着いたら剥いてあげましょう」
 期待していても口にできなかった事をY先生の方から言われて、龍は踊り出しそうなくらい喜んだ。
 実際は腰の所だけ止めるシートベルトのせいで、お尻が五ミリメートル位浮かんだだけだけれど。 龍は、あの池から離れられるという安堵感と、好物をご馳走してもらえるという期待感がごっちゃに混ざった、恍惚とした幸福感に満たされていた。
 それは生乾きの服の気持ち悪さなんかすっかり忘れてしまえるほどの幸せだった。
 でも、脳みその片隅か、心の裏側か、気持ちのどこかに小さな暗闇のような影が残っている。だから本当に手放しで喜んでいるわけではなく、小指の先だけが何かに引っ張られている感じは、相変わらずある。
 龍は「引っ張っているモノ」の事は絶対に考えないことにした。無理にでも喜んで、無理矢理にはしゃぐことにした。だって、そのことを考えたら、池に落ちたときのようにずるりと沈んでゆきそうな気がするから。
 トラックはやがて太い広域農道から狭いトラクター道に折れた。車体ががたがたと揺れたのはほんのわずかな時間だけだった。
 果樹園と稲田がまだらに広がった場所の真ん中あたり、石垣のある古い二階建ての建物の前で、Y先生の旦那さんはブレーキを踏んだ。
 龍とY先生を降ろすと、旦那さんはトラックを、三角形の屋根を小豆色のトタンで覆った母屋と瓦屋根で変な形の木の窓枠のある別棟の間の、そこだけぴかぴかに新しいステンレスのシャッターが付いた車庫に入れた。
 Y先生は龍の手を引いて、玄関ではなく母屋の脇の細い通路を抜けた先の、中庭の縁側に連れて行った。
 池にはまってずぶ濡れになった龍の服は、確かにもう乾きかけてはいた。でも、猛烈になアオコの匂いと、少しばかりのヘドロの匂いを発し続けていたのだ。
 しかも、実はその匂いは服だけでなく、龍の髪の毛やら体やらにへばりついていた。当人はだけは慣れて鈍感になってしまい、まるで気にならくなっていたのだけれど、周りの人間にとってその悪臭は、鼻がむず痒くなるくらいに酷いモノだ


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まろやか連載小説 1.41
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