夏休みの前から夏休みの終わりまでの話。 − 【38】

 寅姫が言うと、男の人はまだちょっとだけ不安の混じっている安心顔をした。そうして、深々と頭を下げると、
「では早速、大工に頼んで祠を作ってもらいます」
 と言い、すぐに駆けてどこかへ行ってしまった。
 男の人の背中が見えなくなった頃、寅姫の「トラ」の身体はゆっくりと空中から下り始めた。
 龍神の龍は慌てて後を追いかけようとした。でも、どうやったら空中をすすめるのか判らなくて、とりあえずプールでクロールするみたいに手足をバタバタと動かしてみた。
 バタバタのおかげなのか、そうじゃないのか釈然としないけれども、龍の身体もゆっくりと地面に向かって下り始めた。
 先に地面に付いた寅姫は、後から来る龍の顔を見上げて、にっこりと笑った。それはとても可愛らしくて、とても綺麗な笑顔だった。
 釣られて龍も笑いそうになった、のだけれども、
「笑ろうてなど、おられぬ」
 遠くから聞こえる雷みたいな声が自分の口から出て、その不機嫌さに自分自身が驚いた拍子に、笑顔が引っ込んでしまった。
「怒るより、泣くより、笑ろうたほうが良いではありませんか」
 寅姫は笑顔を益々大きくして言う。
「怒るより、泣くより、笑ろうたほうが良い」
 龍は不機嫌な声で答えて、寅姫の隣にトンと立った。
 途端、大きくて長いトカゲみたいだった龍の身体が、大人の男の人ぐらいにシュっと縮んだ。
 大人の男の人ぐらいになったのは身体の長さだけではなくて、手や足や胴体や、そして自分では見えないのだけれど、どうやら頭や顔も、人間の男の人のように変わっていた。
「凛々しいお顔」
 寅姫は嬉しそうにほっぺたを真っ赤にした。
 龍はとても恥ずかしい気分になった。ほっぺたが熱くなったから、多分自分も赤い顔をしているに違いないと思うと、余計に恥ずかしくなる。
「うぬは、化けた顔の方が良いと申すか?」
 龍は相変わらずの雷声で言った。怒っているみたいな言い振りだったけれど、嬉しいようなくすぐったいような、変な気持ちも混じっているの声だと、言った自分でも思った。
「さて、人の顔も龍の顔も御身の顔でありますれば。すなわちどちらも同じモノでありましょう。されば比べようもなし」
 寅姫は大人っぽく笑った。その顔は、雨の降った翌々日の川原で、龍の疑問に答えてくれたときの「トラ」の笑顔と同じだった。
 龍はなんだかちょっとだけバカにされたような気分になった。そんな気分が妙に懐かしくて、ちょっと嬉しくなった。
 嬉しくて笑いたくなったのだけれども、今の龍の顔や声は、龍の思うようには動かない。
 大人の男の人の顔をした龍は、子供のように唇を尖らせると、乱暴につま先を動かして、地面に二重丸を書いた。
 大人の「トラ」と、大人の龍が、ぴったり並んで立つのがやっとの、狭くて小さな二重丸だった。
 そうして、心配そうな声で言う。
「ここが我らの住処となる。汝が人であった頃に住み暮らした屋敷などとは比べようもない狭い場所ぞ」
「妾は人ではありませぬ故、広いも狭いも知らぬことにございます」
「だが、汝の胎には人が居ろう」
 寅姫の「トラ」は、嬉しそうに笑った。
「人であった妾と、人に化けた龍の子にございますれば、確かにこの子も人でありましょう」
 白い着物の白い帯の上から、彼女は自分のお腹をなでた。
 その白い手の上に、龍は自分の手を重ねた。
「人でないモノは、人の子を育てられぬぞ」
 寅姫の肩が、びくりとはねた。
「そればかりが心残り」
 頬の赤みがすぅっと引くと同時に、目から涙がどっとあふれ出た。
 龍はお腹の底の方がむずむずするのを感じた。む


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まろやか連載小説 1.41
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