夏休みの前から夏休みの終わりまでの話。 − 【44】


 車は三叉路を鋭角に曲がった。龍の身体はドアの方にぐいと引っ張られた。
「伯母さんは寅が死んでしまった悲しいことと一緒に、寅が生まれた嬉しいことも忘れてしまった。
 だって、生まれたことを憶えていたら、死んでしまったことも思い出してしまうからね。
 いろんな事を忘れようとしたセイで、伯母さんの心の中は壊れてしまった。
 タイミングがイイというか、悪いというか、ちょうどその時、伯母さんのお腹の中にはヒメコがいたんだ。
 だから伯母さんは、寅がまだ生まれていなくて、自分のお腹の中にいると思い込んだ。
 だから、伯母さんはお腹の中のヒメコを寅と呼んだんだ。
 そうすると、伯母さんの心のバランスがすこし良くなったんだ。まるで、折れた椅子の脚に、違う棒きれを継ぎ足したみたいな、へんてこなバランスだったけれども、ともかくフツウに暮らして行けるようにはなった。
 ヒメコが生まれたとき、伯母さんは寅を産んだときの『うれしさ』を思い出した。でも『寅のことそのもの』を思い出すと、本当は寅が死んでしまった事も思い出してしまうから、それは思い出せなかった。
 生まれた赤ちゃんは、伯母さんにとっては寅だった。だから生まれた赤ちゃんは寅にならなきゃいけなかった」
「だから『トラ』は僕に自分の名前を『トラ』って言ったのか」
 龍は下を向いて、ぽつりとつぶやいた。するとシィお兄さんはちょっと吃驚した声音で聞いた。
「あの子、君に寅って名乗ってたのかい?」
「うん」
「それは、珍しいな」
 今度はお兄さんがぽつりとつぶやいた。不思議でならないといった調子の声だった。
「珍しいんですか?」
 龍が質問し返すと、お兄さんは小さくうなずいた。
「ヒメコは本を読むのが好きな子でね」
 質問の答えとは違うことを、シィお兄さんがしゃべり始めたので、龍はちょっと吃驚したけれども、お兄さんの顔はすごく真剣だったから、何も言わずに一回小さくうなずいた。
「伯母さんがあの子を外に出したがらがらないから、家にいて本を読むより仕方がないからなんだけれどね」
「外に出して貰えないんですか?」
 今度の質問には、龍が待っていたのとぴったり合う答えが返ってきた。
「伯母さんの目の届く範囲にいないといけないんだ。あの子の姿が見えなくなると、伯母さんは……本当の寅が死んだときのことを思い出すらしくて……パニックになる」
 龍の頭の奥で「トラ」のお母さんは泣き叫んでいた。場所は学校の用具室の前にも思えたし、池の畔のようにも見えたし、ぜんぜん知らない駐車場みたいな場所にも思えた。
「だからあの子は、小さい頃からずっと家の中で本を読んでいた。伯母さんや俺の両親が買った絵本や児童文学は、あっという間に読み尽くした。仕方なく、俺の小学校や中学校や高校ン時の教科書やら参考書やらを読み始めたけれど、それもあっという間に読み終わった。
 百科事典も名作全集も端から端まで、別冊の索引まで読み尽くした。
 俺のオフクロが買ってきた料理の本とか裁縫の本とか、オヤジが好きで読んでる時代劇の小説とか推理小説とか、そういう大人が読む本も読んだ。
 解らない字があれば辞書を引いて読んでた。時々辞書そのものを読むこともある。
 気に入って何度も繰り返して読んでいるヤツもあるし二度と読まない本もあるけれど、とにかく家中の本を読んで、読んで、読みまくった。
 おかげでうんと小さな頃から小憎らしいほどいろんな事を知ってた。……『二度と読まない』クチの本の中身はすっかり忘れるみたいだから、とんでもないところで『何も知らない』事もあるけどね」
 シィお


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