卵 − 興平元年(194年)、徐州・小沛。 【1】

・ゆう ぶんきょ)は孔子から数えて二十代目という儒家。
 共々、徐州では推しも推されぬ『大人(たいじん)』である。
「あのお二人の薦めすらも、お断りに?」
 麋竺の驚嘆に、劉備は応えなかった。
 彼は目を閉じたまま、逆に麋竺に訊ねた。
「子仲殿は元々商人だったそうだな?」
「はぁ。麋家は五代遡ってなお商いをしておりますが」
 麋竺はいぶかし気に、それでも答えるだけは答えた。
「私も昔、商いをしていた」
「左様で……」
 初耳だった。
 麋竺は、劉備の閉ざされた目をじっとみつめた。
「麋家には到底及ばない、ほんの小商いだったがね。それでも家族を養う事はできた。だからよく知っているつもりだ。商人は利の無い事には関わらない、ということをな」
 劉備はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「子仲殿、私を州牧に持ち上げて何の利がある?」
 穏やかな視線と静かな言葉が麋竺を貫いた。
 一拍の間が、重く流れた。
 劉備は、低く言った。
「俺は大店の入り婿には向かんぞ」
 眼光が一転した。
 今までの穏やかさが掻き消えていた。
 その鋭さに刺されて、麋竺は息を飲んだ。
『読まれた』
 彼は、そして彼の同僚達は、劉備をただの傭兵隊長だと見ていた。
 無学な武偏者に過ぎないと思い込んでいた。
 所が、違った。
 劉備は陶謙の遺臣達の目論見を見抜いている。……田舎者に良家の子女を充てがって恩を売り、お飾り殿様を仕立て上げ、州政を思うままに牛耳る目論見を……。
『見誤った。とんだ食わせ者だ』
 麋竺の総身から脂汗が滲んだ。
 上目遣いに劉備を見上げる。
 彼は再び目を閉じていた。
 そうして、静かに言う。
「それに、なぁ……」
 劉備は一息に杯を干した。
「私には女房を二人も養うだけの甲斐性がない」
 澄んだ笑い声が、狭い室内に響いた。
「は?」
 麋竺が言葉を失い、ぽかんとだらしなく口を開けているその眼前で、劉備は傍らの婢を抱き寄せた。
「こいつはな、甘美淑(かん・びしゅく)といって、古くから当家に仕え、母の世話をしてくれていた。母はこれかお気に入りで、後添えにしろ、とうるさく言う」
 頬と耳とを真っ赤に染めた美淑のうれしそうな困惑顔の横で、劉備は笑っている。
 三度開かれた目の中にあるのは、楽しそうな、嬉しそうな、澄んだ笑みだ。
 その笑みで、麋竺の脂汗は一気に引いた。
 そして彼も笑った。心の底から笑った。
「それでは婢がいなくなり、御母堂のお世話にお困りになるはず。我が妹を侍女になさいませ。それから州牧には、やはり使君に成っていただきたい。……いや、あなたでなければ、劉玄徳でなければなりません」
 麋竺は大商いの予感に浮かれていた。
 何が生まれるか判らない、巨大な卵を仕入れた……そんな気がしていた。
〈了〉


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2014/09/20update

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