のこり香 − 【1】

テーブルを占拠している年寄りの、投げ出された下駄の歯が、かたかたと鳴るその下に、煙草の灰が積もっている。
 客車の、ことに在来線のそれの通路というものは、もとより広いものではない。ラウンジカーのような、席をゆったりと取った改造車両ともなれば、なおのことである。
 下駄履きのこの脚は、たいそう目障りであった。
 それにテーブルの上を占拠する紙の束も、
「邪魔くさい……」
 そしてなにより、人並み外れて空間を占めているこの年寄りの、それを悪びれもせずにいる態度が、
「気に喰わない」
 M氏は肩を聳やかして、年寄りの足先数センチまで歩み寄った。
 気配を感じ取ったらしい老人が、不機嫌顔を持ち上げて、M氏を睨み付けた。
 M氏は、ニタリ、と笑って見せた。
「爺さん、締め切りはいつだい? それとも、もう何ヶ月もぶっ千切っているのかね?」
 良い笑顔だった。だが、針のように細められた瞼の奥で、眼がぎらりと光っている。
 年寄りは、ギョッとして瞬いた。間、髪を入れず、M氏が、
「どうもそうらしい。だってそうだろう? その手元足下のだらしなさを見れば、時間にも相当にだらしないと、誰にでも判ろうよ。さて、約束事の守れない上に、他人様の通行に迷惑をかけるような、そんな物書きセンセイが、よもやプロであるはずはない」
 大声ではない。むしろ抑えた声であったと言ってよい。
 年寄りの顔が、一瞬赤くなった。怒ったようだ。
 何か言いたげに口を開けた、その鼻先へ、M氏が顔をぐいと寄せた。
 M氏は大柄である。小さな頃から剣道を習わされた御陰で、肩幅は広く、胸が厚い。その大きな体が、傘のように年寄りへ覆い被さっている。
 年寄りは相当に驚いたらしい。
 後ろへ身を引こうとした。
 ところが椅子は固定されている。上半身のみをのけぞらせるような恰好になった年寄りの、瓶底眼鏡は、鼻柱を滑り落ちて、鼻先でどうにか留まった。
 紅潮していた年寄りの顔が、見る間に紙のように白く変じた。
 M氏の笑みが大きくなる。その笑顔を、更に前へ突き出して、
「……爺さん、どこの同人作家だね?」
 と、決め付けたものだ。
 年寄りはぱっとM氏から目をそらした。
 吸い殻が溢れ出ている、備え付けの灰皿に、吸いさしの紙巻きを無理矢理押し込むと、テーブルの上へ手を伸ばした。
 列車に乗り込んだその時から、どれだけ唸っても一文字も書けなかったらしい、筆の遅さからは、信じられないほどの素早さを見せて、年寄りは、打ち広げられていた真っ白な原稿用紙をとりまとめた。
 そうして、それを揃えもせずに抱え込んで、大あわてで席を立ち、転げるようにして、指定席車両の方へ走って行ってしまった。
 ラウンジの中がざわついていた。乗客の中にも、この年寄りの横柄とも言える態度を苦々しく思っていた者がいたのだろう。笑い声さえ起きている。
「下駄履きで、よくもあれほど早く走れるものだ。感心するよ」
 M氏が仲間を見返って言うと、早くも一人が空いた席に陣取り、手招いていた。
 もう一人は青い顔をしていた。
「Mさん、ありゃ有名な作家センセイの……」
 名を言いかけるのを制して、M氏は、
「俺はあんなヤツぁ、これっぽっちも知らないね」
 恐ろしさのかけらもない、本当の笑顔を見せたものであった。

 吸い殻の山になった灰皿に、半分ほども吸わないリトルシガーを押し込んで、M氏は
「だからな、俺はIが嫌いなんだ。あんな迷惑千万なヤツを、誰が好きになれるというのだ。もちろん、アレの書いたものなんぞは……俺は死んだって読むものかよ」
 じろり、と細君の


[1][2]

[4]BACK [0]INDEX [5]NEXT
[6]WEB拍手
[#]TOP
まろやか連載小説 1.41
Copyright Shinkouj Kawori(Gin_oh Megumi)/OhimesamaClub/ All Rights Reserved
このサイト内の文章と画像を許可無く複製・再配布することは、著作権法で禁じられています。