」
答えたのはオフクロ様だった。オヤジ殿は兎も角、しっかり者の筈の嫁もどうやら今に限っては役に立ちそうもない。ただ、おろおろしている。
「すぐ必要なものは、高いの安いの言ってる場合じゃないからね。緊急じゃないのは、あとでホームセンターか何かで仕入れてくる」
オフクロ様はもぐもぐと口を動かし、別の何かを差し出した。
「これ」
通帳とキャッシュカードだった。
「一階に、銀行、お金」
確かに、病室を探すときに見た院内の案内板には、玄関ロビーの隅にを示す場所にATMの文字があった。
「治療費は退院するときでいいんだよ」
通帳とカードを押し戻されたオフクロ様は、ちらりとオヤジ殿を見た。
「年金、お父さん、お金、出せないの」
伝えたいことが言葉にならないのがもどかしいらしい。
「暗証番号を知らないの?」
気を回して聞いた。ところが、
「キャッシュ何とかとか、ワカラねぇよ。銀行なんか行ったことねぇ」
オヤジ殿は当たり前のように言い切った。
オフクロ様が息を吐いた。まったく、病人に呆れられてどうする。
一人親方を張った腕っこきの職人だった。貰った手間賃は、「封の切られた封筒」に入れて女房に渡していた。明細なんか無い。元々入っていないのか、あるいは貰った当人が抜いたのか解りはしない。「明細以外の紙」がどれほど抜き取られたためにオヤジ殿の腹が丸くふくれたのかも、今となっては勘定のしようがなかった。
「……恐れ入りますが」
静かで、それでいてよく通る声が聞こえた。扉の陰から看護師がのぞき込み、年寄りとその子供らの顔を見回した。若い看護師はオドオドしている「娘」と、落ち着いている(実際は呆れてものが言えないだけの)「娘」とを見比べて、後者の方に声を掛けた。
「治療方針などの説明を……」
「ああ、あっちに説明してください。私は家を出た者だから」
指さされた義妹は、不安げに何度も振り返りながら病室を出た。
「息子さんもご一緒に」
看護師はオヤジ殿を見て言った。
「はぁ!?」
我ながら素っ頓狂とんきょうに声を上げたモノだと思う。看護師が驚いてコッチを見た。瞬きをしている。
「この人は患者の亭主ですよ」
「えっ?」
今度はオヤジ殿を見、オフクロ様を見る。オフクロ様が頷くと、瞬きが激しくなった。
慌てる看護師とそれを眺めてにやついているオヤジ殿を見て、オフクロ様は小さく笑った。
「さっきから、否定、しない」
「俺は若いってことさ!」
オヤジ殿は楽しそうに言い、困惑顔の看護師に付いて、病室を出て行った。
急に静かになった病室で、オフクロ様が口を動かした。
「服の、場所、知らなから。まだ、乾いてないのに」
半開きの引き戸の隙から、しけっぽい丸い背中が遠ざかってゆく。
突然の呼び出しに慌てて、外行きの服を探しあぐね、物干しに行き着いたオヤジ殿の姿が想像できた。
きっと実家は、箪笥も押し入れも扉や引き出しが全部開け放たれていて、その中身が床一面に散らばっているに違いない。
「困った、人」
オフクロ殿は、母親の顔で言った。
幸い軽症だったオフクロ様は、二ヶ月半ほどで退院した。
リハビリに通う彼女に、オヤジ様は毎日付き合っている。
手を引いたり、肩を貸したり、荷物を持ったり、と、いつもオフクロ様の側にいる。
相変わらず、女房は自分がいないと生きていられないと信じているのだ。
でも実際、付きっきりでいないと生きていられないのは、どっちだというのだろう。