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[歴史・史料関連]日本合戦譚 四条畷の戦
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)は、南北朝時代の1348年(正平3年/貞和4年)1月5日、河内国北條(現在の大阪府四條畷市・大東市)における、南朝方の楠木正行と足利尊氏の腹心である高師直との間の戦い。

楠木正行は本拠地である河内国南部から、摂津国南部の住吉・天王寺周辺までゲリラ的に出没。足利方を脅かしていた。
1347年(正平2年/貞和3年)9月、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破る。
足利方は本格的な南朝攻撃を決意。
1348年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、北上する楠木軍と四條畷に対峙した。

楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗北。正行は弟の正時と刺し違えて自決。
勢いに乗った高師直は、南朝の本拠吉野(奈良県吉野郡吉野町)に攻め入り陥落させる。
後村上天皇はじめ南朝は賀名生(同県五條市)に逃れた。
(2009/12/29(Tue) 17:43)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 島原の乱
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

島原の乱は、寛永14年10月25日(1637年12月11日)に勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結した「キリシタン一揆」。島原・天草一揆、島原・天草の乱とも呼ばれる。
一般的に宗教弾圧による戦争と認識されているが、実質は、島原藩・唐津藩による圧政に苦しんだ農民などの諸領民による反乱であった。

年貢の過酷な取り立てや、切支丹への残忍な拷問・処刑に耐えかねた島原の領民は、旧有馬氏の家臣の下に組織化。密かに反乱計画を立てていた。同じ頃、肥後天草でも、大量に発生した浪人を中心に一揆が組織されていた。
両一揆の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行う。
そしてキリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年・天草四郎(益田四郎時貞)を一揆軍の総大将に立てて、決起することを決定。
寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官・林兵左衛門を殺害。ここに島原の乱が勃発する。
島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し一揆軍を迎撃するが敗走。
この戦闘に呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。11月14日に富岡城代を討ち取った。
一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃。落城寸前まで追い詰めるも、九州諸藩から討伐軍に背後を突かれることを嫌って撤退。
一揆勢は島原半島に移動し原城址に篭城。ここで合流した島原と天草の一揆勢は37,000人程(27,000人との異説有)。
原城を包囲した討伐軍は12月10日、20日に総攻撃を行うが敗走。
翌年1月1日(1638年2月14日)に再度総攻撃を行うが失敗。死傷者4,000人以上の損害を出す。
しかし増援を得た討伐軍は12万以上の軍勢に。原城の兵糧が少ないと見ると、兵糧攻めに作戦を切り替える。
討伐軍は2月28日に総攻撃を決定。鍋島藩勢が予定の前日に総攻撃を開始する。
この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、乱は鎮圧された。
幕府軍の攻撃とその後の処刑によって一揆側の死者は37,000人(つまり全滅)。
13万近くを動員した幕府討伐軍側は、一説に8,135人の死者を出したという。
(2009/12/29(Tue) 17:37)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 鳥羽伏見の戦
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月3日-6日(1868年1月27日-30日))は、京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた戦闘。戊辰戦争の緒戦となった。

慶応3年末に発せられた王政復古の大号令により、前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられた。
慶喜は新政府(明治政府)に恭順の意思を示すため、12月13日、京都の二条城を出て大坂城へ退去するも、その後、政府への連絡が途絶える。
12月25日(1868年1月19日)、薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行うと、慶喜の周囲で「討薩」を望む声が高まり、慶喜は薩摩征伐を名目に事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始。幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。
慶応4年正月3日(1868年1月27日)夕方、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と旧幕府軍戸の間に軍事的衝突が起こる。鳥羽での銃声が聞こえると伏見でも衝突が起き、こうして戦端が開かれることとなった。

5日、明治天皇が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗(錦の御旗)を与えた。(岩倉具視による偽造説も)こうして新政府軍は「官軍」となる。
旧幕府方は立て直しを図ろうと淀城に行くが、淀藩は入城を拒否。仕方なく淀千両松に布陣し、政府軍を迎撃した幕府軍だが、惨敗を喫する。
さらに津藩が新政府側へ寝返るなどしたため、戦意を喪失した旧幕府軍は総崩れとなる。

7日に慶喜に対して追討令が出た報を聞くと、大阪城にいた慶喜は密かに城を脱し、8日には開陽丸で江戸に退却した。

政府軍の砲兵力を見せつけられ、また総大将が退却したことから、多くの藩が旧幕府軍を見限った。

旧幕府方は当初15,000人の兵力を擁しながら、5,000人の新政府軍に敗れたのだった。
(2009/12/29(Tue) 16:31)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 大阪夏之陣
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

大阪の陣/大阪の役は、慶長19年(1614年) - 慶長20年(1615年)、江戸幕府が豊臣宗家を滅ぼした戦いの呼称。

「冬の陣」
徳川家康は慶長19年(1614年)4月に豊臣家が再建させた方広寺の鐘銘に難癖を付け、これを口実にしてに豊臣を攻撃。
慶長19年(1614年)10月2日、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手。
集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人。著名な浪人として真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登、塙直之、大谷吉治などがいた。
10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発。
慶長19年(1614年)11月19日、戦闘は木津川口の砦で始まる。
数ヶ所の砦が陥落した後、11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収。豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲。苛烈な攻撃を加えつつ、12月3日より和平交渉を行う。
交渉は18日より開始。19日には講和合意。冬の陣は終結。
大阪城は外堀・内堀とも埋立られる。

「夏の陣」
慶長20年(1615年)3月15日、大阪城の修復、京・伏見放火の風聞が家康の耳に届き、4月6日、諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じる。
豊臣方は4月26日に大和郡山城を落とし、28日には堺を焼き打ちする。
5月6日、大和路を大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃。寄せ集めの豊臣方は密な連絡が取れず後退。
同日、河内路を大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃を豊臣勢が迎撃。しかし壊滅状態となる。
豊臣方は大坂城近郊に追い詰められる。
5月7日、正午頃に天王寺・岡山合戦が開戦。例を見ない兵力と火力が集中し、大激戦となる。
豊臣方の真田信繁・毛利勝永・大野治房などにより幕府方の大名・侍大将に死傷者が出、家康・秀忠本陣は大混乱に陥る。
しかし兵力に勝る徳川方は態勢を立て直し、反撃。豊臣軍は午後三時頃には壊滅。
堀を埋められた大坂城には攻撃を防ぐ術はなく、徳川方は城内に続々と乱入。
放たれた火により天守も炎上。5月7日深夜に大坂城は陥落。豊臣秀頼は淀殿らとともに自害。

戦後、大坂城は将軍家直轄となり、跡地に新たな大坂城が建てられた。
(2009/12/23(Wed) 18:42)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 小田原陣
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

小田原陣・小田原の役・小田原攻め・小田原征伐・小田原合戦・小田原平定とも。
1590年(天正18年)に豊臣秀吉が後北条氏の居城小田原城を包囲し、北条氏政・北条氏直父子を降した戦役。小田原城の攻囲戦だけでなく、平行して行われた北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含む。

1582年(天正10年)、後北条氏は織田信長の武田征伐に参加。武田方の諸城を攻略したものの、戦後の恩賞は皆無。北条家は織田家へ不満を抱き、本能寺の変で信長が横死した直後、織田家と断交。
甲斐の支配を目論んでいた徳川家康との間に武田遺領を巡る天正壬午の乱が勃発する。
一時は信濃の大半を支配下に置いたが、徳川方の依田氏の工作により真田氏が離反。
後北条氏は、家康の娘・督姫を氏直に嫁がせ、武田遺領のうち後北条氏が上野、徳川氏が甲斐・信濃を実質領有することで講和。
しかし、徳川傘下となった真田氏は勢力範囲の一つ沼田の割譲が講和条件とされたことに激怒。真田は徳川氏からも離反し上杉家を頼る。
以前から後北条氏を警戒していた豊臣秀吉は、後北条氏と真田氏のを仲裁。
後北条氏が沼田城を領有して紛争地域の大半を後北条領とし、名胡桃城を真田分とし、和解条件として氏政・氏直のどちらかの上洛を要求した。
1589年(天正17年)11月、後北条方の猪俣範直による名胡桃城占領と言う事態が発生。
これに対し秀吉は後北条氏の討伐令を全国の諸大名に通知、同年12月13日朱印状を以って陣触れを発した。
後北条氏側は徴兵を行い、小田原城修築、城砦の整備をするなど、戦闘体制を整えていた。
1590年(天正18年)春頃から豊臣軍主力が黄瀬川周辺に集結。3月27日には秀吉自身が沼津に到着。29日に進撃開始。
後北条氏側の城砦を陥落させつつ進軍。先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着。
小田原包囲戦が始まると秀吉は石垣山に石垣山一夜城を築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。
一方、前田上杉ら北国勢と信州勢を主力とする北方隊、及び徳川勢からの応援部隊が支城を攻略。
後北条側は外部との連絡が不通になり、士気の低下は避けられなくなった。
7月5日、北条氏直が徳川方に己の命と引き換えに城兵の助命を申し出る。家康は秀吉に氏直の降伏を伝えた。
ここに小田原城は陥落。
7月11日、氏政・氏照自害。氏規と氏直は高野山へ追放となった。
戦後、後北条の旧領はそのまま家康に宛がわれることとなった。
(2009/12/23(Wed) 16:58)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 応仁の乱
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

応仁の乱は、室町時代の8代将軍・足利義政のときに起こった内乱。
室町幕府管領の細川勝元と山名持豊(宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し戦国時代に突入するきっかけとなった。
応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、終息したのが文明9年(1477年)のため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。
元々は、守護大名・畠山氏内部の家督争いへの将軍家の調停失敗に端を発している。
(2009/12/23(Wed) 16:11)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 真田幸村 
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

第一次上田合戦から、小田原の役、関ヶ原の役(第二次上田合戦)、九度山流配までをざっとおさらい。
大阪の役での真田信繁について書く。
(2009/10/30(Fri) 14:49)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 山崎合戦 
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

山崎の戦いは、天正10年(1582年)6月に本能寺の変で織田信長を討った明智光秀に対して、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉が、6月13日(西暦7月2日)京都へ向かう途中の摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)で、明智軍と激突した戦い。
「天王山の戦い」とも呼ばれる。
秀吉が、いわゆる「中国大返し」といわれる機敏さで畿内へ急行した事で有名。
(2009/10/30(Fri) 14:40)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 碧蹄館の戦 
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)は、文禄・慶長の役(日本と明との間で行われた戦争:唐入り、朝鮮出兵)における合戦の一つ。
文禄2年(1593年)1月26日に朝鮮半島の碧蹄館(現在の高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り漢城(現在のソウル)めざして南下する提督李如松率いる40,000余の明軍を、宇喜多秀家、小早川隆景らが率いる約41,000の日本勢が迎撃し打ち破った戦い。
明・朝鮮側は、この戦いの敗北によって李如松が戦意を喪失。勢いはそがれ、以降戦線は膠着状態となった。
その一方で日本軍も3月に明軍に漢城近郊・龍山の兵糧倉を焼き払われ、兵糧面で甚大な損失を出したため長期戦が難しくなり、石田三成、小西行長らは明との講和交渉をはじめることを余儀なくされる。
(2009/10/30(Fri) 14:37)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 賤ヶ岳合戦
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

賤ヶ岳の戦いとは天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県伊香郡)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家との戦い。
秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる。
七本槍のメンバーは以下の通り。
福島正則(1561年 - 1624年)/加藤清正(1562年 - 1611年)/加藤嘉明(1563年 - 1631年)/脇坂安治(1554年 - 1626年)/平野長泰(1559年 - 1628年)/糟屋武則(1562年 - 1607年)
なお7人と言うのは後の語呂合わせで、譜代の有力な家臣をもたなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した物であるとも言われる。
(2009/10/30(Fri) 14:27)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 長篠合戦
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

長篠の戦いは、天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦い。
決戦地が設楽原および有海原だったため「長篠設楽ヶ原の戦い」と記す場合もある。
異論はあるが、通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く殲滅させられたとされる。
(2009/10/30(Fri) 14:08)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 田原坂合戦 
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

西南戦争(西南の役)は1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。
田原坂の戦いはその中で、3月1日から3月31日まで、田原坂・吉次峠(現在の熊本県鹿本郡植木町大字豊岡)で繰り広げられた激戦のこと。
田原坂は、標高差わずか80mに、一の坂、二の坂、三の坂と頂まで1.5kmの曲がりくねった道が続く場所。
ここ以外には大砲をひいて通れる幅(3〜4m)の道がないため、熊本目指す官軍の砲兵隊はここを進まざるを得ない。
すなわち西郷軍に取っては絶対に落とせない防衛ラインということである。
この両軍にとって戦略上の重要地で、一日の弾丸使用量は32万発という壮絶な戦いが17昼夜にわたって繰り広げられた。(2009/10/30(Fri) 14:05)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 桶狭間合戦
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に今川義元と織田信長との間で尾張国桶狭間で行われた合戦。
2万5千の大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名・今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が10分の1程の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を潰走させた、日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われている、非常に有名な戦い。
今川軍は様々な方面に戦力を分散させており、義元を守る本隊は5,000〜6,000人ほどに過ぎなかった。更にその大部分は戦闘に不慣れな寄せ集めの兵であった。そのため、精鋭2,000人が一丸となって突撃してきた織田軍の猛攻によって大混乱に陥いり、乱戦となった。
義元の戦死により今川軍本隊は壊滅し、合戦は織田軍の大勝に終わる。
(2009/10/30(Fri) 13:46)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 川中島合戦
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

川中島の戦いは、戦国時代に、甲斐国の戦国大名である武田信玄と越後国の戦国大名である上杉謙信との間で、北信濃の支配権を巡って行われた何回か(五回とするのが現在の通説)の戦争の総称。
最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である「川中島(長野県長野市南郊)」を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総して「川中島の戦い」と呼ばれる。
実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次(犀川の戦い)と第四次(八幡原の戦い)のみ。
一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第四次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)〜10日(18日))を指すことが多い。
(2009/10/30(Fri) 10:09)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 厳島合戦 
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

厳島の戦いは、天文24年10月1日(1555年10月16日)に、安芸国厳島で毛利元就とすえ晴賢はるかたとの間で行われた合戦。
晴賢は天文20年(1551年)に主君であった大内義隆を討つクーデターを成功させ、傀儡とも言える新君主・大内義長を立てることによって大内家の実権を握っていた。
徹底した軍備強化を行なった晴賢に対して反発する傘下の領主も多かった。やがてそれは先主・義隆の姉婿である吉見正頼や、毛利元就の反攻を招く。
厳島合戦の結果、大内氏は急速に弱体化し、かわって毛利氏がその旧領を併合していくことになる。
(2009/10/30(Fri) 09:59)
[歴史・史料関連]日本合戦譚 姉川合戦
作家名:菊池寛(池島信平の下書きに基づくとも)

戦国時代から明治まで、歴史の転換点となった日本の代表的な合戦を活写した歴史随想集「日本合戦譚」収録の一遍。

姉川の戦いは、戦国時代の元亀元年6月28日(1570年8月9日)(ユリウス暦1570年7月30日)に近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町(旧:東浅井郡浅井町野村 域)付近)で行われた合戦。
当時は織田、浅井方ともこの合戦を「野村合戦」と、朝倉方では「三田村合戦」と呼称していた。
「姉川の合戦」は徳川家における呼称。
『信長公記』などに合戦の記述があるが、簡潔な内容にとどまる資料が多く、合戦の詳細については不明な部分が多い。
(2009/10/30(Fri) 09:44)
[▼資料其の一▼]菊池寛
菊池寛(1888年12月26日 - 1948年3月6日)
小説家、劇作家、ジャーナリスト。文芸春秋社の創設者。芥川賞、直木賞の設立者。
筆名は「きくちかん」と読むが、本名は文字を同じくして「きくちひろし」とよむ。
香川県高松市に生まれる。
1923年1月、私費で雑誌『文藝春秋』を創刊。成功し、富を得る。
この財を使い、若手作家に資金的な援助を行い、育てた。
第二次大戦(太平洋戦争)中に公事結社・大政翼賛会の活動の一翼を担っていたため、戦後、公職追放の憂き目に遭う。
昭和23年(1948年)、狭心症により死去。享年59歳。
代表作は「父帰る」、「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」、「恩讐の彼方に」、「真珠夫人」など。
(2008/07/03(Thu) 16:00)
[文学論など]小説家たらんとする青年に与う
作家名:菊池寛

菊池寛アーカイブに依ると、大正12年(1923年)12月、著者34歳の時の文章。
著者の小説観、創作手法の一端が解る。
僕は先ず、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」という規則をこしらえたい。全く、十七、十八乃至ないし二十歳で、小説を書いたって、しようがないと思う。
中略

僕なんかも、始めて小説というものを書いたのは、二十八の年だ。それまでは、小説といったものは全く一つも書いたことはない。紙に向って小説を書く練習なんか、少しも要らないのだ。
小手先の技法に捕らわれず、人生修行に励んでから書きなさい、ということらしい。

底本:半自叙伝 (講談社学術文庫) 初版発行日: 1987(昭和62)年7月10日
(2008/06/30(Mon) 17:57)
[児童文学・童話]小公女
作者 フランシス・ホジソン・エリザ バーネット
翻訳者 菊池寛

裕福な家庭に生まれたセエラ・クルウは父と二人でインドに暮らしていたが、7歳の時に母国英国に戻り、寄宿学校に入学。
裕福で美しく賢いセエラは、あっという間に学校中の人気者となった。しかし、父は事業に失敗し、客死。セエラは地位と財産を失う。
貧しくなった途端に掌を返したかのごとく冷たく当る大人達。
学校を退学になったセエラは、メイドとして寄宿舎の屋根裏に暮らすこととなった。
同年代のメイドやセエラを慕う少女達に支えられ、セエラは辛く苦しい日々を耐える。
やがて学校の近くにインド人の紳士が引っ越して来る。紳士は名も知らぬ貧しい娘を影ながら応援する。
病に倒れた紳士を見舞ったセエラは、この紳士が亡き父の共同経営者であることを知る。
紳士もまた、セエラが友人の娘であることを知り、歓喜する。
父の事業は失敗しては居なかったのだ。
こうして貧困から救い出されたセエラは、紳士と共にインドへ渡ることとなった。
(2006/10/16(Mon) 13:49)
[フェアリーテール]白雪姫
作家名:グリム兄弟
(ヤーコプ・ルードヴィッヒ・カール
 ヴィルヘルム・カール)
翻訳:菊池寛

雪のように白い肌、黒檀の黒髪、深紅の唇を持って生まれた姫は、白雪と名付けられた。
白雪の実母の死後に父王の後添えに入った妃は、自分の美しさに絶対の自信を持っていた。
彼女は不思議な鏡に訊ねる……「世界で一番美しいのは誰?」
鏡は答える……「あなたこそ、お国でいちばんうつくしい」
しかし白雪が成長すると、鏡の答えは変わってゆく……「ここでは、あなたがいちばん。けれども、白雪姫はもっと美しい」
妃の嫉妬はふくれ、やがて継子を殺める決心をした。
そうとは知らない白雪は妃の命ずるままに狩人と共に森へ出かけた。
(2006/10/16(Mon) 13:49)

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