小田原陣

菊池寛




       関東の北条

 天正十五年七月、九州遠征から帰って来た秀吉にとって、日本国中その勢いの及ばないのは唯関東の北条氏あるだけだ。尤も奥羽地方にも其の経略の手は延びないけれど、北条氏の向背が一度決すれば、他は問題ではない。箱根山を千成瓢箪びょうたんの馬印が越せば、すべて解決されるのである。
 聚楽第じゅらくだい行幸で、天下の群雄を膝下しっか叩頭こうとうさせて気をよくして居た時でも、秀吉の頭を去らなかったのは此の関東経営であろう。だから、此のお目出度が終ると直ぐ、天正十六年五月に北条氏に向って入朝を促して居る。
 一体関東に於ける北条氏の地位は、伊勢新九郎(早雲)以来、氏綱、氏康、氏政と連綿たる大老舗おおしにせの格だ。これを除けば、東日本に於て目ぼしいものは米沢城に在る独眼竜、伊達政宗位だけだ。北条氏は、箱根の天嶮で、上方方面からの勢力をぴったりと抑えているのと、早雲以来民政に力を注いだ結果、此の身代を築き上げたのである。
 併し流石さすがの名家も、氏政の代になってようやく衰退の色が見える。家来に偉いのが出ないのにも依るが氏政自身無能である。お坊っちゃんで、大勢を洞察する頭のないお山の大将だからである。
 或る時、若年の氏政が、戦場に在った。あだかも四月末だったので、百姓が麦を刈り取って馬に積み、前を通った。すると氏政は側近の者に、あれで直ぐ麦飯を作って持って来いと命じた。ところが、此の時は武田信玄と両旗であったと見え、同席している信玄が、流石に氏政は大身である、百姓の事は知らないのも無理はないが、麦は乾かしたりいたりしなければ、飯にはけないと云って説明した。
 信玄のことだから、恐らく腹の中ではわらって居たことであろう。
 氏政の頭は、こんな調子である。それだけに名君の誉ある父の氏康の心痛は思いやられる。氏康は川越の夜戦に十倍の敵を破り勇名をとどろかした名将で、向うきずのことを氏康創と云われた位の男である。
 一日、父子で食事をしたところ、氏政が一杯の飯に二度汁をかけて食った。氏康これを見て落涙し北条家も自分一代で終ると言った。食事は毎日のことだから、貴賤に限らずその心得がなくてはならない。初めから足りない様な汁のかけ方をするような不心得では、軍勢の見積りなど出来るか。それでは戦国の世に国を保つことは思いも寄らぬと言って長歎したと云う。昔の食事は、汁椀などはなく、大きな鉢に盛った汁を各自の飯椀にかけるのだった。先日、京都の普茶料理を喰べながら、この逸話を思い出した。普茶料理に昔のおもかげがある。食事の仕方で、人物批判をされたのは、平親王へいしんのうと氏政の二人である。
 子を見ること、父にかず氏康の予言は適中して、凡庸無策の氏政は遂に大勢を誤ったのである。即ち秀吉の実力を見そこなったのである。秀吉に上洛を迫られた時、忙しくて京都まで行って居られぬと断った。尤も氏政にしてみれば徳川家康がその親戚であるから、まさかの時は何とかして呉れる位には楽観して居たのだろう。
 し此の時素直に上洛して、秀吉の機嫌をとっておけば、二百八十万石を棒に振らなくても済んだのである。秀吉にとって北条氏は全滅させなければならぬ程の宿怨があるわけでないからだ。
 もう天下を八分まで握っていた秀吉は一度顔をつぶされたとなると、決して容赦はしない。家康に調停を乞い、一族の北条氏則を上洛させて弁解に努めたけれど、時機は既に遅い。沼田事件に於ける北条氏の不信を鳴らして、天正十七年十一月二十四日には痛烈な手切文書を発して居るのである。沼田事件と云うのは、氏政上洛の条件として上州沼田を真田からいてくれ、と云った。秀吉が真田にさとして、沼田を譲らしめた。だが、真田視秀よしひでの墳墓のある名胡桃なくるみだけは除外した。しかるに、北条氏の将が名胡桃まで略取してしまった。これが、開戦の直接原因である。
「然る処、氏直天道の正理にそむき、帝都に対して奸謀を企つ。いずくんぞ天罰を蒙らざらんや。古諺に曰く、巧詐は拙誠に如かずと。所詮普天の下勅命に逆ふともがらは、早く誅伐ちゅうばつを加へざるべからず云々」
 実に秀吉一流の大見得である。勅命を奉じて天下を席捲せんとする其の面目が躍如として居る。
 この氏直は氏政の子であって此の時の責任者だ。氏直を入れて、のち北条は五代になるのだ。
 此の手切文書を受けとった氏政は、是を地になげうって弟の氏照に向い、一片の文書で天下の北条を恫喝どうかつするとは片腹痛い、兵力で来るなら平の維盛の二の舞で、秀吉など水鳥の羽音を聞いただけで潰走かいそうするだろうと豪語したと云う。上方勢は、柔弱だと云う肚が、どっかにあったのであろう。
 武田信玄でも上杉謙信でも、早くから北条氏には随分手を焼いて居る。つまり箱根と云う天然の要害に妨げられたからである。謙信など長駆して来て、小田原を囲んだが、懸軍百里の遠征では、糧続かず人和せず、どうにも出来なかった。ただ城濠の傍近く馬から下り、城兵に鉄砲の一斉射撃を受けながら、悠々としてお茶を三杯飲んだと云うような豪快な逸話を残している丈だ。
 併し秀吉は、信玄や謙信の様に単なる地方の豪傑ではない。既に天下の秀吉だ。箱根の麓あたりで独り思い上って居る北条は、こんなところで取返しのつかない大誤算を犯したと云うべきだ。

       秀吉の出陣

 天正十八年二月七日、先鋒として蒲生氏郷うじさとが伊勢松坂城を出発した。続いて徳川家康、織田信雄は東海道から、上杉景勝、前田利家は東山道からうしおの様に小田原指して押しよせた。「先陣既に黄瀬川、沼津につきぬれば、後陣の人は、美濃、尾張にみちみちたる」とあるくらいだから、正に天下の大軍である。その上、水軍の諸将、即ち長曾我部元親、加藤嘉明よしあき、九鬼嘉隆等も各々その精鋭をすぐって、遠州今切港や清水港に投錨して居るのだから、小田原城は丁度三面包囲を受ける形勢にある。
 三月朔日ついたち、いよいよ秀吉の本隊も京都を出発した。随分大げさな出立をしたものとみえ、『多聞院日記』に「東国御陣立とて、万方震動なり」とある。
 作り髭を付け、唐冠からかんむりかぶとを著け、金札緋威きんざねひおどしの鎧に朱塗の重籐しげとうの弓を握り、威儀堂々と馬に乗って洛中を打ち立った。それに続く近習や伽衆とぎしゅう、馬廻など、皆善美を尽した甲冑を着て伊達を競ったから、見物の庶民は三条河原から大津辺迄桟敷を掛けて見送ったと云う。
 こんな一種の稚気にも、如何にも秀吉らしい豪快さがあって、鎖国時代以後のいじけた将軍の行列なんかには到底見られぬ図であろう。
 その上途中にひらける東海道の風光が、生れて始めて見るだけにひどく心をたのしませたらしい。清見寺から三保の松原を眺めて、
諸人もろひとの立帰りつゝ見るとてや、関に向へる三保の松原
 と詠んだ。其の他沢山に歌を作って居るが、其の先鋒諸隊に対する、厳重な訓令は怠らなかった。殊に家康の領内を行進するのであるから、こんな点抜け目のある男ではない。くて二十七日には、家康や信雄に迎えられて沼津城に入って居る。
 一方北条方では、此の間どうして居たか。
 天正十八年正月二十日に、氏政、氏直父子は一門宿将を小田原に招集して、評議をやって居る。初めは三島から黄瀬川附近まで進撃し、遠征の敵軍を邀撃ようげきする策戦に衆議一決しようとした。此の時松田憲秀のりひで独り不可なりと反対し、箱根の天嶮にたのみ、小田原及関東の諸城を固めて持久戦をする事を主張した。此は元来北条氏の伝統的作戦であって、遂に軍議は籠城説に決定した。
 そこで直ちに箱根方面の防備は固められた。先ず要鎮の一である韮山にらやま城は、氏政の弟、氏則が守り、山中城には城将松田康長の外に、朝倉景澄かげずみ等の腹心の諸将を派遣して居る。朝倉景澄、この時秘かに心友に向い、山中城は昨年以来相当に修繕はしてあるが、秀吉の大軍にはとても長く敵することは出来ぬ、今我等宿将を此処に差し向けるのは、爪牙そうがの臣を敵の餌食にする積りだろうと云って歎じたと云う。重臣ですらこれである。一般の士気は察すべきだ。
 三月二十八日、秀吉は沼津を発して三島を過ぎ、長久保城に入って家康と軍議を凝らして居る。小田原攻撃の前哨戦は、先ず誰が見ても此の山中、韮山二城の奪取でなければならない。
 山中城に対する襲撃は、三月二十九日の早朝に始まって居る。寄手は秀次を先鋒にして堀尾吉晴等の猛将が息をもつがせずに急襲した。秀吉は此の時、遙か後の山上に立ち、あれを見よ、あれを見よとばかりに指さし、しり引捲ひきまくり小躍りしたと云うから、相当に目覚しい攻撃振りだと思われる。もっとも臀をまくるのは秀吉の癖である。一挙にしてみつぶしてしまった、秀吉の得意思うべきである。此の日、下野黒羽城主大関高増に手紙をやり、
「今日箱根峠に打ち登り候。小田原表行き、急度きっと申付く可候、是又これまた早速相果す可く候」
 と軒昂の意気を示して居る。今、十国峠あたりから見ると、山中は湯河原なんかと丁度反対側の小集落だ。併しとに角、箱根山塊の一端だから「今日箱根峠に打ち登り候」と子供の様に喜んで居るのだ。又それだけに、箱根山脈が如何に当時の武将の間に、戦術上の要害として深刻に考えられて居たかが分ると思う。
 一方韮山城攻囲の主将は織田信雄である。併し城主の北条氏規うじのりは、北条家随一の名将として知られて居る程の人物だから、四万四千の寄手も相当に苦戦である。流石の福島正則みたいな向う見ずの大将も、一時、退却したくらいだ。実際に氏規の韮山城の好防は、小田原役の花とうたわれたものである。
 韮山城が容易に陥ちないときまると、秀吉は一部の兵を以て持久攻囲の策をとり、袋の鼠にして置いて、全軍を以て愈々小田原攻撃の本舞台に乗り出した。

       小田原包囲

 四月五日、秀吉は本営を箱根から、湯本早雲寺に移した。山の中とはことかわり、溌溂はつらつたる陽春の気は野に丘に満ち、快い微風は戦士等のやつれた頬を撫でて居る。ともすればものう駘蕩たいとうたる春霞の中にあって、十万七千の包囲軍はひしひしとひしめき合って小田原城に迫って居る。
 酒匂さかわ川を渡って城東には徳川家康の兵三万人、城北荻窪村には羽柴秀次、秀勝の二万人、城西水之尾附近には宇喜多秀家の八千人、城南湯本口には池田輝政、堀秀政等の大軍が石垣山から早川村に陣をいて居る。その上、相模湾には水軍の諸将が警備の任につき、今や小田原城は完全な四面包囲を受けて居る。此の時北条方にとって憎む可き裏切者が出た。即ち宿老松田憲秀であって、密使を早雲寺の秀吉に発し、小田原城の西南、笠懸山に本営を進むべきことを説いて居る。そこで秀吉が実地検分してみると、小田原城を真下に見下して、本陣としては実に絶好の地だ。よいと思ったら何事にも機敏な秀吉のことだから、直ちに陣営の塀ややぐらを白紙で張り立て、前面の杉林を切払って模擬城を築いた。一夜明けて小田原城から見ると、石坦を築き、白壁をつけた堂々たる敵営がそびえて居るのだから、随分面喰っただろうと思う。
「凡人のさまならず、秀吉は天魔の化身にや」
 と驚いて居る時、秀吉は既に此処に移転して、「なきたつよ北条山の郭公ほととぎす」と口吟くちずさんで、涼しい顔をして居た。
 此れが有名な石垣山の一夜城であって、湯本行のバスの中なんかで、女車掌が必ず声を張り上げて一くさりやる物語りである。
 此の語の真偽はとにかく、戦略上の要点を見付けるのに天才的な秀吉と、錚々そうそうたる土木家である増田長盛や、長束ながつか正家なんかが共同でやった仕事だから、姑息な小田原城の将士の度肝を抜くことなんか、易々いいたるものだったと思う。
 七日、秀吉は総攻撃を命じて居る。全軍一斉に銃射を開始し、喊声かんせいとどろかし、旗幟きしを振って進撃の気勢を示した。水軍も亦船列を整えてかね、太鼓を鳴らして陸上に迫らんとした。城中からは応戦の声が挙ったけれど、此の日は何の勝負もなかった。
 秀吉は此の日、北西二方面の攻撃力の不足を看破し、韮山攻囲軍の過半を割いて救援させて居る。欺くして戦線の兵は次第に増大し、海陸の兵数は実に十四万八千人に上った。併し流石に天下の名城だけに、小田原城の宏大さは一寸近寄り難い。
「此城堅固に構へて、広大なること西は富士と小嶺こみね山つゞきたり。この山の間には堀をほり、東西へ五十町、南北へ七十町、廻りは五里四方。井楼、矢倉、隙間もなく立置き、持口々々に大将家々の旗をなびかし、馬印、色々様々にあつて、風に翻りよそおひ、芳野立田の花紅葉にやたとへん。陣屋は塗籠ぬりこめ、小路を割り、人数繁きこと、稲麻竹葦ちくいの如し」
 と『北条五代記』にある。如何にも五代の積威を擁して八州の精鋭を集めただけあって、上方勢が攻めあぐんだのも無理はない。
 九日には長曾我部元親、加藤嘉明等の水軍は大砲を発射して威嚇に努めて居るが、城内は泰然としてビクともして居ないのである。
 そろそろ此の辺から、戦いは持久戦になって来た。秀吉も攻めあぐんだ。小田原評定なんて云う言葉の起った所以である。一寸緊張がゆるむと、面白いもので、家康、信雄が北条方へ内通して居ると云う謡言が、陣中にたった。尤も火のない所に煙は立たないもので、小牧山合戦以来未だ釈然たらざる織田信雄なんかが策動して、家康を焚き付けたことは想像出来るのである。だから先に秀吉が駿府城に迎えられた時、率直な秀吉は馬から下るやずかずかと進み、信雄、家康逆心ありと聞く、立上がれ、一太刀参らうと、冗談半分に、一本、釘を打って居るのである。此の場は家康の気転で収ったが斯うした空気が常に二人の間に流れて居たことはわかる。
 亦此の陣で、関白が僅か十四五騎ばかりで居たことがある。井伊直政は今こそ秀吉を討ち取る好機だと、家康に耳語したところ、「自分を頼み切って居るのに、籠の鳥を殺すようなむごいことは出来ない。天下をとるのは運命であって、畢竟ひっきょう人力の及ぶ所でない」と、たしなめたと云う。
 強い者に対した時だけ、信義を振り廻すのが一番であると確信して居る家康の処世術のこれが要訣である。つまり、家康は無理はしたくなかったのである。
 とにかく秀吉は、斯んな流言を有害と見做みなして、早速取消運動にかかって居る。自ら巡視と称して刀を従者に預けたまま、小姓四五人を連れて大声をあげて家康の陣に行き、徹宵して酒を飲んで快談した。覿面てきめんに此の効果はあがって謡言は終熄したが、要するに今後の問題は、持久戦に漸く倦んだ士気を如何に作興するかにある。
 此の時小早川隆景進言して言うのに、父の毛利元就が往年尼子義久と対陣した際、小歌、踊り、能、はやしをやって長陣を張り、敵を退屈させて勝つことが出来たと言った。秀吉も此の言を嘉納し、ここに小田原は戦塵の中にあって歓楽場に変ったのである。
 東西南北に小路こうじを割り、広大な書院や数寄屋を建て、庭には草花などを植え、町人は小屋をかけて諸国の名物等を持って来て市をなして居る。京や田舎の遊女も小屋がけをして色めきあったと云うが、恐らく事実は此れ以上に賑ったことと思われる。
 その上秀吉は諸将に、その女房達を招き寄せることを勧め、自分でも愛妾の淀君を呼び寄せて居る。淀君が東下の途中、足柄の関で抑留した為、関守はその領地を没収された様な悲喜劇もあった。或時は数寄屋に名器を備え、家康、信雄等を招待して茶の湯会をやって居る。やがて酔が廻り、美妓が舞うにつれ一座は、一段と浮かれ、「とんとろ/\、とろゝなるかまも、とろゝなる釜も、湯がたぎる、たぎる、たぎるやたぎる」と、謡ったところ、釜の蓋もわきかえり、拍子を合せるようであったと云う。
 此の情景を描いた甫菴ほあんは最後に、「群疑を静め、諸勢を慰め、浮やかにし給ひし才には中々信長公も及ぶまじきか」と批評して居るが、適評である。
 一方小田原方でも負けないで、持久の計を立てて居る。
「昼は碁、将棋、双六を打つて遊ぶ所もあり。酒宴遊舞をなすものあり。炉を構へて朋友と数奇に気味を慰もあり。詩歌を吟じ、連歌をなし、音しづかなる所もあり。笛つづみをうちならし乱舞に興ずる陣所もあり。しかれば一生涯を送るとも、かつて退屈の気あるべからず」と『北条五代記』にあるから、此又相当なものである。見たところ此れ位呑気な戦争は、戦国時代を通じて外にあるまい。こうなった以上根気較べの他はない。

       小田原城の陥落

 戦争のやり方も相手に依りけりだ。いかに籠城が北条の十八番おはこでも、のびのびと屈托のない秀吉に対しては一向利き目がない。それどころか夫子ふうし自身、此のお家伝来の芸に退屈し始めて来た。
 そこで広沢重信は、城中の士気を振作すべく、精鋭をすぐって、信雄と氏郷の陣を夜襲した。蒲生氏郷自ら長槍を揮って戦い、胸板の下に三四ヶ所鎗疵やりきずを受け、十文字の鎗の柄も五ヶ所迄斬込まれ、有名な鯰尾なまずおの兜にも矢二筋を射立てられ乍ら、尚も悪鬼の如く城門に迫って行ったとあるから、兎に角強いものである。小田原陣直後奥州の辺土へ転封され、百万石の知行にあきたらず、たとえ二十万石でも都近くにあらばと、涙を呑んで中原ちゅうげんの志を捨てた位の意気は、髣髴ほうふつとしてうかがわれるのである。
 此の頃になると、関東方面に散在して居る諸城は、相次いで陥落し、小田原城は愈々孤立無援の状態にある。
 六月二十二日には、関東の強鎮八王寺城が上杉景勝、前田利家の急襲に逢ってついえて居る。石田三成の水攻めにあいながらも、よく堅守して居るおし城の成田氏長の様な勇将もあったが、小田原城の士気は全く沮喪して仕舞った。
 此の年の五月雨さみだれは例年より遙かに長かったらしい。霧を伴い、亦屡々豪雨の降ったことは当時の戦記の到る所に散見して見える。
 十重二十重に囲まれ、その上連日の霖雨りんうであるから、いくら遊び事をして居たって、城内の諸士が相当に腐ったのは想像出来る。
 気持ちが滅入って来ると、疑心暗鬼を生じて来る。前には松田憲秀の様なスパイ事件もあるし、機敏な秀吉は此の形勢を見て、盛んに調略、策動をやった。斯くて「小田原城中群疑蜂起し、不和のちまたとなつて、兄は弟を疑ひ、弟は兄を隔て出けるに因て、父子兄弟の間もむつまじからず、いわんや其余をや」の乱脈振りとなった。こうなっては戦争も駄目だ。
 六月二十六日、本普請にかかって居た石垣山の陣城が落成した。その結構の壮偉なるは大阪、聚楽に劣り難しと、榊原康政は肥後の加藤清正に手紙で報告して居るが、多少のミソはあるにしても、其の偉観想い見る可しだ。
 秀吉は同夜の十時に、全軍に令して一斉射撃で城中を威嚇して居た。
 遂に七月五日に、氏直は愈々窮して弟氏房を伴って城を出て、家康を介して降服を申し出でた。そこで秀吉は家康と処分法を議し、氏直の死を許し、氏政、氏照等を斬った。
 思うに氏直の独断的降服は軽率であった。尤も家康なんかの斡旋あっせんを頼りにして居たのだろうが、家康は其の実見捨ての神だ。北条家の肩をもって余計な口をきき、秀吉の嫌疑を受けるのを極度に戒心して居たからである。
 恐らく一番貧乏くじを引いたのは氏政だろう。首は氏照と一緒に、京都一条の戻橋もどりばしさらされて居るのである。
 併し此の戦争で一番儲けたのは家康だ。関八州の新領土がそっくり手に入ったからである。尤も東海の旧領と交換だった。
 これより先の一日、秀吉は家康と石垣山から小田原城を俯瞰した。
「家康公の御手を執て、あれ見給へ、北条家の滅亡程有るべからず。気味のよき事にてこそあれ。左あれば、関八州は貴客にまいらすべし」(関八州古戦録)と言って、敵城の方に向い一緒に立小便をした。
 これは有名な「関東の連小便」の由来だと云うが、どうだか。
 これで見ても、秀吉には早くから家康に関八州を与える意図は有ったらしい。
 尤も徳川方の御用歴史家なんか此の移封を以て一種の左遷と見做し、神君を敬遠したるものとして秀吉に毒づいて居る。安祥あんしょう以来の三河を離れることは相当につらかったであろう。
 併しそれにしたところで、後で考えてみて、駿府あたりに開府するより、広濶な江戸に清新な気を以て幕府を開いた方が、家康にとってどれ位幸福だったか知れやしないと思う。

       余譚

 しかし、この時秀吉が、北条氏を滅してしまったことは、高等政策として、どうだったかと思う。せめて氏直氏規の二人に、七八十万石をやって、関東に北条家を立てさせた方が家康を制肘せいちゅうする役に立ったのではあるまいかと思う。尤も秀吉の腹では、北条家を残して置けば、姻威関係のある家康の無二の味方とでもなると思ったのだろうか。九州の島津に寛大でありながら、北条氏に少し苛酷である。尤も、島津は北条ほど、秀吉に面倒をかけていないが、しかし、北条家が関東の大藩として残っていた方が、徳川の勢力が、あんなにも延びなかったのではないかと思われる。秀吉死後など、北条家はどんな行動をしただろうかなどと考えて見ると、なかなか興味が深い。
 氏政、氏照は殺されたが、籠城の士は凡て、生命を助けられた。ただ忌諱に触れていた連中は、捕えられた。
 裏切をした松田憲秀は、二男の左馬介が氏直に、この事を訴えたので、捕えられて、城中に押し籠められていたが、このとき長男の新六郎と共に黒田如水の所へ預けられていた。秀吉、左馬介を憎んで殺せと、如水に命じた。如水承ると云って、左馬介を殺さずして、長男の新六郎を殺してしまった。秀吉怒って、何とて新六郎を殺せしや、左馬介は父子を訴えし憎き奴なれば殺せと云ったのだと怒ると、如水曰く「新六は父と共に譜第の主人にそむきしものなれば武道に背き、忠孝ともになきものなり。左馬介は、父には背けども、主人には忠なり。左馬介と新六郎と取り違えたりとも損とは申されじ」と、云った。秀吉「ちんばが、空とぼけやがって!」と、苦笑してそのままになった。
 また、北条家の使節として、秀吉の所へやって来た事のある板部岡江雪斎も捕えられて、手かせ足かせを入れられて、秀吉の前に引き出された。
 秀吉怒って、「汝先年の約束に背き、主家を滅し快きか」と面罵した。すると、江雪斎自若として「辺土の将、時勢を知らず名胡桃を取りしは、これ北条家の武運尽くる所なりしかれども、天下の勢を引き受け、数ヶ月を支えしは、当家の面目之に過ぎず」と、云い放った。秀吉「汝は、京に上せはりつけにかけんと思いしが、わが面前に壮語して主家を恥しめざるは、い奴かな」と云って命を助けて、お側衆にしてくれた。爾後、板部を取ってただ岡江雪斎と云った。秀吉の寛大歎ずべしだ。柴田勝家の甥なる在久間安次とその弟は、勝家滅後大和に在って、秀吉に抗していたが、そこも落されて、小田原に籠り、小田原落城後、武州金沢の称名寺にかくれていたが、秀吉之を呼び出し、「勝家の甥として、我に手向うは殊勝なり。然れども今や天下我に帰したれば、汝達の立てこもる場所もなかるべければ、今よりは我に仕えよ」と氏郷の与力として、三千石と二千石を与えた。
 秀吉が、後世まで人気のあるのは、こう云う所にあるのだろう。
 この陣中、奥州の政宗が初て御機嫌伺いに来たとき、大軍の手配を見せてやるとて、政宗に自分の佩刀はいとうを持たせて、後に従えさせてただ二人で小高き所に上り、いろいろ説明をきかせたのは、有名な話しである。政宗を「うごく虫らども」とも思わざる容子である、と書いてあるが、秀吉得意の腹の芸である。政宗も田舎役者ではあるが相当なもので、その後も謀反むほんの嫌疑をかけられたとき、いつも秀吉との腹芸を、相当にやっている。秀次事件のときなど、政宗が秀次と仲がよすぎたと云うので訊問されたときなど、
「太閣がお目利のたがわれたる関白殿を、政宗が片眼で見損うのは当然である」と、喝破かっぱして、危機を逃れている。だから秀吉だって、政宗を虫けらとは、最初から思っていないだろう。
 とにかく、小田原陣は、烈しい戦争はなかったにしろ、今に「小田原評定」なと云う言葉が残るのだから、秀吉にとっても相当苦心の長陣であり、日本中の関心の的であったのであろう。





底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷
※底本は、物を数える際に用いる「ヶ」(区点番号5-86)(「三四ヶ所」)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年11月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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