百夜百冊

百夜百冊

読んだ本についての。徒然。

「ほう」
再び老人の顔に戻った魔神は、値踏みするように黒天狐を眺める。突然、凶悪な風の刃が黒天狐に襲いかかった。地面は引き裂かれて土煙をあげ、森の枝が切り飛ばされ突然の嵐に翻弄される。
百の猛獣が襲いかかったような暴風に晒されたにもかかわらず、黒天狐は平然と佇んでいた。詩人が霊感を受け思索にふけっているかのように、静けさを纏っている。
「なるほどの」
蛙の頭に変わった魔神は、少し感心したように呟く。
「その狐のマントには、魔法無効化の力があるようだ。しかしな」
獣の頭となった魔神は、牙を剥き出しにした獰猛な笑みを浮かべ長剣を振り上げる。
「この剣は、飾りではないぞ」
立ち尽くす黒天狐めがけて、豪風を纏った凶悪な剣が鋼の雷となり襲いかかる。だが、黒天狐は静かにそれをみつめるばかりであった。
夜に赤い花が咲くように、魔神の血が飛沫をあげる。斬り落とされたのは魔神の腕であり、剣を手にしたままの腕が夜に横たわった。
「ふむ」
老人の顔となった魔神は、残った腕であたりを探りつつひとり呟く。
「糸だな。魔操糸術、ではないか。そなたに、魔力はない」
老人は、そっと目を細める。
「なるほど、気功というのか。夏の王国にいた仙術師が、使っておったぞ」
魔神は、黒天狐のこころを読むようだ。黒天狐は、口の中で咽喉マイクに届くように呟く。
「ヒース、APHE弾をくらわしてやれ」
ヒースの応えが骨伝導イヤホンに届く。
「おれの加護では、嫌がらせにしかならんぞ」
ふっと黒天狐は、笑う。
「十分だ。五秒、気をそらせればいい」
蛙の口から、魔神は不快気な声をだす。
「そなたのこころは、ノイズが多い。思考を、隠したね。だが、無意味だ。余の身体は、硬気功を纏った程度の糸では裂けんぞ」
魔神は八本の足を蠢かし、黒天狐に迫ろうとする。そのとき、夜を切り裂く轟音が響き蛙の頭が破砕された。
深紅の花が月明かりの下大きく咲き誇るかのように、血が魔神の身体の上で撒き散らされ紅蓮の炎がサラマンダの舌なめずりをみせる。魔神の動きは、一瞬とまった。
黒天狐は、少しため息をつく。
「できればこの技は、使いたくなかったが」
八尾が黒い翼となって夜に翻り、黒天狐の身体は月明かりを浴びながら夜空に浮き上がる。硬気功で強化された糸が、黒天狐の身体を宙に浮かび上がらせていた。
黒天狐は、左手を空に向かって伸ばす。月明かりを浴び、冬の星が宿す冷めた輝きを纏った短剣が黒天狐の左腕から出現する。微かな反りを持つ短剣は、死をもたらす武器に似つかわしくない繊細な美しさを持っていた。
黒天狐は魔神に向かって短剣をかざしながら、叫ぶ。
「吠えろ、鳴狐」

灰色のマントを纏いフードで頭を覆った魔道士は、夜空をみあげていた。無慈悲な女王たる月が冴えた輝きを放つ夜空から、八枚の黒い翼を広げた死の天使がごときおとこが降りてくる。
魔道士は、フードの下で微かに笑みを浮かべた。
「ようこそ、黒天狐。我らの招きに応じて、よくぞ来てくれた」
黒天狐は、ゆうるりと舞台の前にある階段へ着地した。黒天狐は、地の底から響くような声で語る。
「一応、PSSからの依頼なので、投降するように提案しておく。君は、包囲されている。アデプタス・マイナー、君の召喚はテロ行為と判断されている。投降しなければ、君は死ぬことになる」
魔道士は、少し失笑した。
「もう遅いな、召喚は終わった。黒天狐、投降すべきは君だよ。もし、君が」
魔道士は、最後まで言い終えることはできなかった。神の放った落雷のような銃声が轟き、フードの下にある魔道士の頭が夜の中で赤く爆ぜる。魔法結界が巻き起こした風が、黒天狐の八尾を夜に羽ばたかせた。その結界は、加護を受けた十二.七ミリ弾を止めることはできなかったようだ。
黒天狐は舞台の上に崩れ落ちた魔道士の死体を、静かにみおろしていた。召喚は終わったと魔道士が言ったとおり、次元のゆらぎがあたりの景色を歪ませる。死体の周りに、蒼白に輝く魔法陣が出現した。
魔法陣の中から、八本の細長い足が出現する。それは、巨大な蜘蛛の足であった。そしてそれは、魔神バアルの足でもある。
次元のゆらぎが激しくなり、蜃気楼のような地獄の幻影がいくつも浮かび上がっては消えてゆく。その邪悪で幻想的な風景の幻を切り裂くように、漆黒の巨大な塊が魔法陣の中から浮かび上がってきた。それは、巨大な蜘蛛の胴体である。その黒い塊は、おぞましい瘴気を纏いつかせていた。
呪詛が大量に含まれまともに喰らえば普通のにんげんが衰弱死するような瘴気が黒い水のように、森の舞台に溢れおちてゆく。黒天狐はその地獄から送られてきた怨嗟のような風を、春のそよ風ほどにも感じていないというふうに平然としている。
やがて、八本の足で舞台に立ち上がった蜘蛛の身体は、その背中にひとの上半身を出現させた。
正装した騎士のように綺羅びやかな衣装を身に着けた上半身には、老いたおとこの頭が乗っている。老いたおとこは王冠のようなサークレットを頭につけ、手にした長大な剣を杖のように地面へ刺す。
「うむ、奇妙な気配が満ちてはいるが、どうも久しぶりにひとの世に招かれたようであるな」
老人は、端正で彫りが深く気品すらあるかのような顔にそぐわぬ邪悪な笑みを浮かべた。
「折角であるから、万の死をふりまきひとの悲鳴と怨嗟の呻きを堪能させてもらうとするか」
黒天狐は、少し嘲弄するような調子を声に滲ませ魔神に語りかける。
「やめておけ、ここは面倒くさいぞ」
「ほう」
老人の頭が消え去り、今度は巨大な蛙の頭が出現する。粘液に覆われ緑色に光る蛙は、赤い舌をのぞかせてこたえた。
「それは、なぜかね」
「ここの王は、ネクロマンサー・ベリアルだ。やつが率いる死者の軍団は、殺しても死なない。じつに、うっとおしい戦いになる。それと」
蛙の頭がきえ、こんどは大きな獣の頭が出現する。獣は金色に瞳を輝かせ、短剣のように鋭い犬歯を剥き出しにして声を発する。
「それに、なんだね?」
「このおれが、いるからな」

ヒースは、eVTOLの操縦桿を握っている。eVTOLは全長七メートルほどの、自動車に似た姿をしていた。だが、車輪のあるべきところにあるのは、四機のサイクロローターである。
フォーミュラーカーのタイヤにも似た円筒の中でブレードが回転し、気流を制御して揚力を発生させ空を飛んでいる。音は静かで、目立たずに移動できた。
ヒースはロングドウン・ナイト家の館がある島西方の丘陵から、市街へとむかう。車では十分以上かかる道のりを、空からだと一分以内で移動可能だ。
ヒースの隣には、黒天狐の姿に変わったトキオがいる。黒い狐のマスクで顔を覆った黒天狐はトキオとは全く別の人格をもった人物のようだ。
トキオが昼間の明るさをもつ人物とすれば、黒天狐は夜の闇をこころに満たしたおとこである。ヒースは、黒天狐からは常に薄い怒りの波動を感じていた。
eVTOLのコックピットにある通話装置が、着信のランプを光らせる。ヒースは、通話スイッチを入れた。
「こちら、ヒース・レイヴンだ」
「よお、ヒース。なかなかご機嫌なパーティだったみたいだな。おれも招待されたかったぜ」
ヒースは、苦笑する。
「イシガミ部長、プライベート・セキュリティ・サービスのあんたが紛れ込んだら、ぶちのめされるぞ」
イシガミの笑い声が、響く。黒天狐は、夜の底から響くような昏い声をだす。
「戯言はいい。状況を教えろ、イシガミ」
「よくないな、相手は暗闇旅団のアデプタス・マイナーだ。モノホンの、魔道士だよ。まあ、ドラゴンを素手でぶち殺す黒天狐にすれば、大した相手ではないかもしれんが」
ヒースは、軽く口笛をふく。黒天狐は、重い調子で問いをなげる。
「暗闇旅団といえば、秘密結社『真実の夜明け団』のテロ実行部隊だな。グリモワールで魔神を呼び出し、街を破壊するつもりか」
「まあ、それはないな。むしろ」
イシガミは、どこか気楽な調子で語る。
「あんたと話をしたいのではないかな、黒天狐」
ヒースは、驚いて少し黒天狐に目をむける。黒天狐は、憮然とした調子で言葉をこぼす。
「例の魔法省からの打診が、リークしてると思っているのか? イシガミ」
イシガミは、上機嫌にこたえる。
「暗闇旅団は、街を人質としてあんたに例の話を断らせたいんだよ。ま、色々考えが甘すぎるとはおもうけどね」
「例の話?」
ヒースの問に、イシガミは沈黙する。黒天狐は、重い口調で答えた。
「その件は、いずれ話す。ヒース、そこに着地させてくれ」
ヒースは言われるがままに、eVTOLを公園のはずれにある展望台の屋上に着地させた。四機のサイクロローターはボディに収納されてゆき、代わりに4つのタイヤが接地する。その姿はまるきり車ではあったが、七メートルの車長では小回りがきかなさそうだ。
ヒースは、十二.七ミリのアンチマテリアルライフルを手にしてeVTOLから降りる。長大なライフルはダンジョン向けではないが、ヒースはそれを愛用していた。
ヒースの装着した骨伝導イヤホンが、イシガミの声をつたえる。
「現場の近くに配備したドローンの暗視スコープからの映像と、位置情報を送る。スマートグラスをつけなよ、ヒース」
ヒースはスマートグラスを、つける。灰色のマントを纏った魔道士は、今まさに召喚の最中のようだ。地面には蒼白い鬼火のように輝く魔法陣が描かれ、陽炎のような次元の歪みが生じていた。
「わが友、ヒースよ。魔神が召喚される前に、魔道士を撃て」
二脚でライフルを固定し伏射の姿勢をとったヒースは、黒天狐に問をなげる。
「いいのか、やつらはあんたと話しをしたいのだろ」
黒天狐は、感情を感じさせない声でいった。
「テロリストと交渉はしないし、会話も不要だ」
ヒースは頷くとボルトを操作し、チャンバーに銃弾を送り込む。一応知り合いの魔道士に加護の魔法を付与してもらっているので、ある程度の結界は突破できるはずだ。
黒天狐はヒースに会釈すると、夜の公園にむけて跳躍する。漆黒の翼のように、黒いマントが夜空に広がった。その毛皮は、八尾の狐から得られたものだ。八本の尾が、八枚の翼がごとく月明かりの下翻る。
ヒースは、黒天狐を見送るとドローンからの情報に集中した。ドローンは映像の他にターゲットの位置情報や現場の気候状態などの情報も送り込んでくる。ヒースはバーチャルコンソールを操作し、それらの情報を自分の携帯端末に処理させ射出角度や照準の調整を行う。
ターゲットとの距離は、約五百メートルというところか。本来アンチマテリアルライフルなら、目を瞑っても仕留められる距離だ。ただ、相手が魔道士なら話が少し違う。
魔道士は、おそらく魔法結界を纏っている。その情報はドローンからは得られないので、勘まかせとなる。そこはヒースの経験で、見当をつけるしかない。ヒースは照準の最終調整を行いながら、ターゲットが動きをとめるのを待つ。