藩主屋敷の御門

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上田藩主屋敷跡の門。

形式としては、薬医門といわれるもの。
前面に四本の太い親柱が並び、中央に大扉を釣り、左右には潜り戸が付いいている。
後ろ側は、左右の控え柱を通し梁でつなぐ。
普通の門では親柱が棟の真下に立っているのに対し、その少し前に親柱が立ち、控え柱が後方にあるのが特徴。

関ヶ原(第二次上田合戦)のあと、上田城は徹底的に破却されたため、
上田領主となった真田信之は、とりあえず三の丸に居館を立てた。
それが「藩主屋敷」。通称「御屋形」。
場所は、現在「長野県上田高等学校」が建っているところで、
御門は学校の正門として現存している。

さて、信之は再三幕府に
「不便だからお城再建させて(概略)」
と申し出たが、中々許可は下りない。
そこでお兄ちゃんってば、
「いいお。幕府に内緒で直すお」
と材料を集めたりする。
これを察知したお隣(小諸藩)の仙石さんが
( @Д@)将軍様に誤注進しチクったとか何とか言う噂があるが、
とにかく、こっそり修繕を始めた矢先、信之に松代へ加増移封の命が下る。
後には、仙石忠政(仙石権兵衛秀久の子)が入るという。

この移封を不服とした信之は、松代へ移る際に
  • 修繕のために用意していた材木やら瓦やらを
    「元の状態で渡さなきゃいけないっていうから、これは要らないよね」
    とぶっ壊して堀割へ捨てちゃう
  • 普通は持ってったりしない灯籠やら庭木やらを
    「これ、お城の付属物じゃなくて、私の『私物』ですから」
    と言い張って全部運び出す
    (もしかしたら、この辺の逸話から「真田石の言い伝え」が出のかもしれぬな)
  • 検地や人口の資料、産業分布の資料といった藩政の重要書類をがっつり焼却処分

てなことをやらかしてくれたので、
忠政は領内の把握に非常に苦労したらしい、
というのはまた別の話。

さて忠政は上田城修築に尽力するが、工事半ばで病死。
長子の政俊が後を継ぎ、改修工事も引き継がれる。
政俊の後を継いだ政明(政俊の長男・忠俊の子。忠俊が早世したため、政俊の養嗣子となる)も城の修繕を続け、上田城は一応の形をなす。
しかし、本丸は結局作られず、仙石氏以降も領主は「御屋形」で政務を執った。

宝永3年(1706年)1月28日、政明が但馬国(現在の兵庫県北部)出石へ移封される。
そして上田には藤井松平氏の松平忠周(暴れん坊将軍・徳川吉宗の頃の老中)が入り、以後幕末まで上田は松平氏が治ることに。
松平氏の時代には、百姓一揆(上田騒動など。「夕立と騒動は青木から来る」でググれ)が起きたり、相続問題が起きたり、幕閣として幕政に一生懸命になりすぎて結果的に藩政が疎かになっちゃったりと、色々あって、お城を立派にすることは出来なかった。

ちなみに六代目の松平忠固は(大雑把に言うと)黒船が来た頃に老中職に就いていた方。
その子・松平忠礼の頃に明治維新。戊辰戦争では、明治新政府(官軍)側に付いたそうな。
ファイル名P7300001.JPGデータ更新日2011/07/30 18:36:42
メーカーOLYMPUS OPTICAL CO.,LTD機種名C730UZ
レンズ F 値F2.8露光制御モード低速プログラム
ISO 感度200撮影日時2011:07:30 18:36:43
露光補正値EV0.0測光モードマルチセグメント
フラッシュフラッシュ強制オフ焦点距離5.90 (mm)
露光時間10/250 (秒)

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