夢想の【戦車】3
 下手な人形師が操る木偶よろしく、ゆっくりと右手を挙げる。水平に伸びた人差し指が俺の背後を指している。
 悪寒を感じた。背の辺りからどんよりとした闇が広がり始めている。
 振り向くと、そこには一人の男が立っていた。
 旅姿の貴族だ。
 チャバネゴキブリの背みたいにテカる髪の毛をしきりに掻き上げ、堅焼きパンのようにかさついた頬をひくひくと痙攣させていた。そうして苔むした朽ち木のような脚で、落ち着きなく床を踏んでいる。
 俺は、ギスギスした殺気を発散するこの男を知らない。壊れた記憶の片隅にすら、コイツのデータは欠片もない。
 男は肩で息をしているが、疲れているって訳でもなさそうだ。
 そいつの眼中には、どうやら俺の姿はないらしい。血走った三白眼で、真っ直ぐにクレール姫を見ている。
「ずいぶんではありませんか、姫。未来の夫を、まるでゴミでも見るような目で……」
 そいつはオールに巻き付いた水藻のようにべったりとした口調で言い、どろりとした笑顔を浮かべた。
「無礼者、下がれ!」
 大喝したのはファテッドだ。どこから引っ張り出したのか、板垣の板を一枚ひっぺがしてきたンじゃないかてぇ位の、馬鹿長い剣を構えている。
 ほとんど同時に、クミンのヤツが大公夫妻の前に立ち、筋張った両手を広げて彼らを庇う姿勢を見せた。
 ジオ3世が立ち上がり、訝しげな妃を腕に抱きつつ、小さく言う。
「ルカ・アスク。貴公には、国外退去を命じたはずだ」
「あなたには私に下命する権限はない」
 アスクと呼ばれた木っ端貴族は、下卑た目でジオ3世を一瞥し、すぐに視線をクレール姫の方へ戻した。
「姫、あなたはこの哀れな土地と運命を共にする必要がない。私と来れば、栄華は思うまま……」
 クレール姫は全身の筋肉を引きつらせ、それでもようやく手足を動かして、俺の背中に張り付いた。
 これでようやく俺の存在に気づいたアスクは、鼻の頭にしわを寄せ、舌打ちし、
「下郎、どけ」
俺を押し退けようとした。
 ま、俺の身体がこんな痩せギスの腕力ごときで、1ミリだって動くことはない。
 逆に俺がほんの少し腕を前に出しただけで、あっさりとアスクの身体は後方に倒れ込んだ。
 視線の横端を、大きな塊が飛んだ。剣を振りかざしたファテッドだ。
 あっという間にアスクの喉元に、鋭い切っ先があてがわれた。
 間髪入れない鋭い攻撃は、クレールのそれとよく似ている。
 ……どうやら相棒の手の早さは、親友を兼ねる親衛隊長の仕込みらしい。
「失せろ、下司め」
 どう考えても己の方が不利であるにもかかわらず、凄味を効かせたファテッドの提案をアスクは鼻先で笑い飛ばした。
「どけ、ブス」
 侮蔑の言葉根が終わらぬ内、ファテッドが剣先に体重を乗せた。
 アスクは土気色の素手で、刃を握った。
 剣は、ぴくりとも動かない。
 ファテッドの眉が吊り上がった。柄を握る手が、小刻みに揺れている。
 空気が、腐臭を孕んだ。
 光に満ちていた室内が一度に暗転した。
 足下に、何かがまとわりついた。
 無数の腕だった。
「グールめ!」
 俺がその動く死体どもを蹴飛ばすのと同時に、アスクがファテッドをはね飛ばした。
 悲鳴がした。
 ジオ3世とその妃の周りにも、やはり無数のグールが群がっている。
 クミンが必死の形相でそいつらを追い払おうと足掻いているが、まるきり歯が立たない。
 倒れ込んでいたファテッドが跳ね起き、愛人に助太刀して、ようやくその場にいたグールどもだけは追い払った。
《無駄、無駄なこと!》
 高笑いしたアスクは、すでに人の形をしていなかった。
 両腕が鎖の形に変形してい、その先に2頭の獣が縛られている。
「オーガか!?」
 腹が立つ。勘がまるで働かなかった。
 俺は背後にいる相棒を顧みた。
 コイツには「正体を現す前のオーガの銘(なまえ)を見抜く力」がある。何より「オーガを倒す力」を持っている。
 エル・クレール=ノアールは、俺が止めても「人ならぬモノ」に斬りかかってゆく、潔癖性のオーガハンターだ。
 ところが。
 クレール姫は瞼を固く閉ざし、俺の背中にしがみついて、ガタガタと震えていた。
 スカートの裾を一匹のグールが掴んでいるってぇのに、クレール姫は造作の悪い人形みたいにぴくりとも動かない。
 いや、動かないンじゃなく「動けない」のかもしれん。ちょうど今の俺が、自分の思ったような行動を上手いこと取れないように、相棒も体の自由が利かないンじゃなかろうか。
「面倒な!」
 俺は舌打ちし、クレール姫の身体を左腕一本で抱き上げた。ろくでもないおまけが彼女のスカートにくっついていやがるが、ソイツの脳天に右の拳を振り下ろして、叩き落としてやった。
 そして、その刹那気付いた。
 身体が動く。自分の思った通りに、スムーズに、あっさりと動く。
 俺は右の拳を開いて、掌を見た。
 使い古した革の手袋の下に、確かに紅い光の塊がある。
「親友(とも)よ! お前達の赤心(せきしん)、借りるぜ!!」
 俺の呼びかけに応じて、光が膨張した。
「出よ、【恋人達(ラヴァーズ)】!」
 膨張した光が、一双の剣に変じた。
 俺はクレール姫を抱えたまま、高く遠く跳んだ。着地した場所は、ミッド大公夫妻の眼前だった。
 俺は、クレール姫を床におろし、両の手におのおの「ドラゴン」と「フェニックス」の双剣に変じた【恋人達】のアームを握り、身構えた。
 アームを振り回す度に、グールどもは消滅してゆく。
 ハンターのアームに罹ったグールどもは、雨上がりの水たまりみてぇに蒸発しちまう定めだ。
 可哀想なことだが、こいつらには「生きていた」痕跡を残すことすら、許されていない。
 俺はやたらとグールを屠り続けたが、その数は一向に減らない。
 それどころか次第に数を増やし、とうとう俺の剣先をかいくぐる連中まで出始めた。
「クレール!」
 俺は背後の相棒を顧みた。
 真っ青な顔をしたクレール姫が、それでも両親をかばって、素手でグールと格闘していた。
 エル・クレール=ノアールは、アーム【正義(ザ・ジャスティス)】の使い手だ。
 腐った死体を素手で触る必要なんかなない。今の俺と同様に、自分の内に秘めている力を解放し、紅い刃を振るえばそれで良いはずだった。
 ところが今、クレール姫はやたらと手足をばたつかせて、両親に襲いかかっているグールを追い払おうとしている。
「お前、何を?」
 唖然とした。
 一瞬、呆けていた俺の目の前を、鎖につながれた獣が駆け抜けていった。
 鋭い爪が、クレール姫を捕らえようとしていた。
「姫っ!」
 ファテッドが弾け跳び出し、クレール姫を突き飛ばした。
「ああぁっ!」
 悲鳴と血煙が同時に上がった。
 長大な剣と逞しい右腕が、女戦士の身体から引き離され、粉々に砕け散った。
「畜生!」
 俺は、慌てて獣に斬りかかった。
 ソイツと本体とをつないでいる鎖を「ドラゴン」で断ち切ると、獣は蒸発して消えた。
 半ば気を失っているファテッドをクミンが抱きかかえた。熱い血の臭いに引き寄せられ、グールどもが彼らに群がった。
「ガイア! レオン!」
 今度はクレール姫が呆けて立ちすくんだ。
 腹が立った。何故か、無性に、腹が立った。
 ……このお人形さんの態度に、だ。
「いい加減にしろ!」
 俺は、クレール姫の横っ面をブン殴っていた。
「クミンとファテッドは、てめぇの命を張って闘ってる。力が及ばないと悟っても、大事なモノを守るために闘ってる。怖がって動けないお前みたいなヤツを守るために、闘って傷ついた! お前のセイだ! 解れ!」
 クレール姫は真っ白な顔で俺を見上げている。何か……多分、自分の心ンなかで渦巻いている不安やら痛みやら……を言葉にして吐き出そうとしているらしい。してはいるらしいのだが、それができないでいる。
「お前には、闘う力があるだろう! 【正義】のアームが……」
 言いかけて、気付いた。
 ちらりと、視線の送り先を変えた。
 鉛のような顔色の、ジオ3世とクリームヒルデ妃が、そこにいる。
 クレールの持つ【正義】のアームは、彼女の「死んだ」父親の魂が変じたものだ。
 ジオ3世が生きてそこに存在しているこの状況では、クレールがアームの力を発動させられる道理がない。
 二の句が継げなくなった俺は、たわけのように、
「【正義】のアーム……」
と繰り返した。
 クレール姫が潤んだ目で俺を見つめている。
 やがて、紅珊瑚色の唇が震えながら動いた。
「我が愛する正義の士(もののふ)よ。赫(あか)き力となりて我を護りたまえ。……【正義(ザ・ジャスティス)】!!」
 エルの腰から、紅い輝きがほとばしった。
 その輝きは、世界を一変させた。
 抱き合って倒れ込んでいたクミンとファテッドが、光に紛れて見えなくなった。
 クリームヒルデ妃も赤に吸い込まれ、ジオ3世の姿も霞の向こうに消えた。
 唯一、一匹のオーガが残った。
「ルカ。いや【戦車(チャリオット)】」
 クレールは右の手に紅い細身の剣を大上段に振りかぶり、振り下ろした。
「惑うた魂よ、煉獄に戻れ!」
 大風の音とまぶしく冷たい光を発し、オーガ【戦車】は消滅した。
「クレール」
 俺が呼ぶと、相棒はその場でへなへなとしゃがみ込んだ。死んだ父親の化身である紅い剣を抱きしめ、肩を振るわせている。
「オーガを倒すためには、アームの力が必要なのは解っていた……。でも、認めたくなかったんです。父が、命を失ったのだということを。私は家族を失ったのだということを」
 俺にはコイツを慰める言葉が浮かばない。仕方なく肩に手を置いた。
 途端、クレールは俺の胸の中に飛び込んできた。
 細い腕を俺の首に回し、抱き付く。
 頬に滝のような涙が流れている。
「お願いです。あなたは……どこへも行かないでください。私はもう独りになりたくない」
 随分としおらしいことを言う。相当精神的に参っているんだろう。
「安心しろ。近寄るなって言われたって離れやしねぇよ」
 俺は応えて、クレールを抱きしめた……。
 と。
 腕が大きく空振りし、掌のヤツがてめぇの肩を掴みやがった。
「んあ?」
 かなり間抜けな自分の声で、俺は目を覚ました。
 窓のない田舎の安宿の、壊れかけたソファの上に、俺は独り横になっていた。
「……夢……かぁ?」
 確かに奇妙で辻褄が合わないが、やけに現実味のある夢だった。
 大体、ミッド大公夫婦だの、若い男女の重臣だの、不細工な【戦車】のオーガだのには、俺は会ったことがないはずだってのに、目が覚めた今でもはっきりその顔形を思い浮かべることができるってのが解せない。
 俺は大きく伸びをして、ソファから降りた。
 部屋のど真ん中、馬鹿でかいベッドの中で、クレちゃんはまだ寝息を立てていた。
 穏やかな寝顔のその頬に、涙の跡があった。
 唇に、笑顔が浮かんでいる。
 そうか。
 クレールはどうやら、いい夢を見ているらしい。
 もうしばらく寝させておこう。
 続きが一緒に見られないのはちょっと残念だが……。

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