沈黙を破ったのはハンナである。
「私は反対よ」
 傍らにいたカリストを押しのけるようにして前へ進み出、エル・クレールから革袋を奪いあげつつ、彼女の手を握る。
「優秀な人材だったら、ここで働いてもらえばいいのよ。命の恩人を、わざわざ村から追い出すようなこと、しちゃいけないんだわ。この村を何とかする方が先決なのよ! この方には、この方だけは、どうしても残ってもらいます!」
 熱のこもったハンナの言葉は、聞きようによっては確かに「正論」だった。
 しかし。
 指先が白くなるほどにエル・クレールの手を握りしめ、頬を紅色に上気させて、瞳をぎらぎらと輝かせているその様で、傍目にも熱のこもり方の方向性が違っているのが見え見えなのである。
 エル・クレールのため息を押し殺した苦笑いを見、ブライトは堂々とため息を吐く。
 カリストがばつが悪そうに頭を下げた。
「こちら様の、都合という物だってあるでしょうから、あまり無理を言っては、いけないと思います」
 遠回しにたしなめる夫に、ハンナは恨みがましいまなざしを向けた。
 その顔つきと来たら、まるきり『おもちゃを買うことに反対する傅《めのと》をにらみ付ける童女』そのものだ。
「聞き分けのないお嬢さんだ」
 無理矢理に手を離させようとするブライトにも、彼女は同じ視線を突き立てる。
 ハンナは最終的な「命の恩人」がブライトであることを認識していないのだ。
 エル・クレールに助けられたあとの……化け物に丸飲みにされた彼女が臓物ごと吐き出された……あのグロテスクな光景を見、正気を失っていたのか、あるいは命の恩人と仰ぐなら美しい者の方がよいと思ってなのかはわからないが。
 ともかくも、エル・クレールには自身のそばに居て欲しく、ブライトには消え失せてもらいたいのは確かのようだ。件の革袋を彼の胸元に投げつけて、
「貴方はどこへでもお行きなさいな」
 と乱暴に言い放った。
「ハンナ!」
 大声を出したのはカリストだった。
「お二人とも、この土地の恩人であることは、変わりないのだよ。それに、お二人とも、この土地から、すぐにでも離れないといけないのだよ。……そうでしょう?」
 彼ははっきりとした口調で言うと、部屋にいた者すべての顔を見回した。
「ほう」
 シィバ老人は感嘆し、エル・クレールとブライトは訝しんで、異口同音に声を上げた。
 三人の口から次の言葉が出るより早く、カリストが言った。
「大公殿下のご家族は、数日前に、皆さん亡くなったことに、なっているそうですから」
 彼は、はにかんだ視線をエル・クレールに向けた。
「あなたが、それを否定しないということは、むしろ、それを利用しようと考えているからだと、僕は思いました。……違いますか?」
「ちょっと待て」
 今度の異口同音は、ブライトとハンナの口から発せられた。
 しかし彼らの次の発言が、調和と同調を見ることはなかった。
「あんた、初手からこいつの素性が判ってたってのかい?」
 ブライトが目を見開いて言い、同時にハンナがエル・クレールから手を離して、
「まるで、この方と古くからの知り合いみたいなこと言うじゃないの!」
 夫に詰め寄る。
 カリストは脂汗を拭き拭き、妻ではなく、その肩越しに見えるエル・クレールに視線を注いだ。
「お名前を聞いたときに、もしかしたらと、思ったのです。なぜなら僕は、肖像画を、見たことがあるからです。それは、僕の家に職を求めてきた、旅の絵描きが、腕試しにと描いたものです」
 エル・クレールは首を傾げた。どうにも話が掴めない。
「画家?」
 エル・クレールの疑念の声を聞いたカリストは頬をぱっと赤く染めた。
「実を言うと、それを見て僕は、あなたのお国に、僕の肖像画を送っても良いと、思ったのです。ただ、あまりにすてきな肖像画だったので、この方はたぶん、僕に良いお返事をくださりはしないと、最初から、あきらめていましたけれど」
 一同、目を見開いた。カリストはむしろ楽しそうな笑顔で続ける。
「それで、あなたのお国から、断りのお返事がきて、そのとき、あなたのお年もうかがって、あわてて彼との契約を、打ち切ることにしました。なぜかというと、どんな人物を描いても、年齢などお構いなしで、スレンダーで、小悪魔のように、とても魅力的な、大人の女性になってしまうのでは、たとえ技術が巧みであっても、肖像画家には、向いていませんから」
「は、そいつは違ぇねぇや」
 ブライトがげらげらと笑い、エル・クレールがくすくすと吹き出した。
「でも、彼が『個性的な芸術家』だったおかげで、変装しているあなたが、誰であるのか、想像ができたのですから、僕はとても感謝しています。もっとも、父は少しも、気づいていないのですけれど」
 シィバ老人もけたけたと笑い出した。
「じゃろうな。あやつは自分の見た物しか信じられぬ性分じゃと、自分で言うくらいじゃからのう」
 相変わらず自分のことは棚の上の様子だ。
 皆が笑う中、ただ一人ハンナだけが憮然としていた。
「何のことだかちっとも判らないわ!」
 金切り声をあげて、夫の胸元をつかみかかる。
 カリストはあわてた風もなく、静かに言った。
「君が、あの方を愛人にしたいと、思っている気持ちは、よくわかります」
 愚鈍と思いこんでいた夫が、自分の心の内を読んでいたことを知り、ハンナは愕然とした。
 彼女は、まるで毒蛇から逃げ出すような勢いで彼から離れた。
 体中をがたがたとふるわせ、彼女は部屋中を見回した。その場にいる者全員が、彼女に軽蔑の視線を注いでいる気がする。
「何よ! 女であるなら、美しい男の人と結婚したいと思って当然でしょう!?」
 歯の根の会わぬ唇を必死で動かして弁明をした。するとカリストが落ち着いた口調で言う。
「それを、否定するつもりは、僕には、ありません。僕のように冴えない男と、一緒にいるよりは、あの方のように清しい方が、伴侶の方が、ずっといいでしょう。でもあの方は……」
 彼はほんの少し躊躇した後で、
「あの方は、ようするに、女の方ですよ」
 と結んで、エル・クレールに視線を送った。
 ハンナはコルセットが吹き飛びそうなほど大きく息を吸い込み、目玉がこぼれ落ちそうな勢いで目を見開いて、夫の視線を追いかけた。
 エル・クレールが夫の言葉を否定することなく微笑するのを見た彼女は、バタンと豪快な音を立てて卒倒した。

「詰まるところ、あの若様は自分の親爺や岳父よりも、よっぽど優秀な官僚だった訳だ。少なくとも、人を見る目に関しては、な」
 土埃の舞う田舎道の端、ちょうど大人一人が腰を下ろすのに具合の良い大きさの石の上で、ブライト=ソードマンは大きく背伸びをした。
 エル・クレール=ノアールから返事が返ってくることはなかった。彼女は、田舎道の先をぼんやりと眺めている。
 その寂しげで名残惜しげな横顔に、ブライトは再度声をかけた。
「とりあえず、しばらくの間おまえさんの故郷のことをあの若様に任せておいても、大丈夫だと思うぜ」
 「しばらくの間」のところにアクセントを置く彼に、エル・クレールは少々怪訝な表情を投げかけた。
「いつかは帰ぇって来るつもりだろう?」
 彼はにやりと笑うと、石から飛び降りた。大きな掌が、エル・クレールの小さな頭を乱暴になでる。
「痛い」
 言いながら、彼女は笑い、うなずいた。
「じゃあ、出かけるとしようかね」
 くるりとミッド公国に背を向けて、彼はためらいもなく歩き始めた。
 あわてて後を追ったエル・クレールは、大きな背中に向かって呼びかけた。
「あの、お伺いしたいことがあるのですけれど」
 彼は立ち止まらずに、
「ん?」
 わずかに振り向いた。
「シィバ先生のホムンクルスの『中身』を私が浴びたときに、なぜあんなことをおっしゃったのですか?」
 エル・クレールは真剣なまなざしで問う。
 ブライトの足が止まった。
「それはだな……本物のホムンクルスの材料がだな……」
 言いよどんだ彼の頬が、わずかに赤みを帯びた。
 腕を組み、首をひねり、足先で地面を数度蹴った後、彼は、
「……今は講義するのにちょいと難しい成分でな。おまえさんがもうちっと大人になったら教えてやるさ」
 言い捨てて、猛然と駆けだした。
「あ、待ってください!」
 エル・クレールはあわてて彼の後を追い、故郷から旅立って行った。
−了−

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