「え?」
 振り返り、立ち止まった彼女の耳に、床板が粉砕される轟音が聞こえた。
「しまった!」
 腰に手を伸ばす。
「お願い、【正義】よ!」
 赤い剣を引き抜きざまに、身体全体で弧を描いて振り向く。
 切っ先は、こちらに背を向けたオークの、たるんだ胴体をすり抜けた。
 エル・クレールの手には、素振りをしたのと同じほどの手応えが伝わってきた。シィバ老が作り出したあの手袋ホムンクルスを斬ったときには、もっと確かな衝撃が感じられたのに、である。
「効かない?」
 全身の力が抜け落ちるのを、彼女は膝あたりで食い止め、ようやく立っている。
 切られたオークの方も、ようやく立っていた。それはぴくりとも動かず、薄っぺらな大理石を粉砕し、床板を打ち抜いている戦斧に寄りかかっている。
 ブライト=ソードマンの身体は、その斧からほんの握り拳二つ分ほど離れた場所に転がっていた。
 シャツの裾とベルトの端が、床板の中に潜り込んでいる以外は、わずかな手傷も負ってはいない。
 彼は力任せに立ち上がった。
 引き裂かれたシャツの裾とベルトの端と下緒と腰袋が、床下のしめった土の上へまき散らされた。
 同時に、ナプキンの端に乗っていたフォークが引きずられて床に落ちるごとく、オークがどさりと倒れ込んだ。
 それは相変わらず獣臭は発している。だが呼吸は止まり、体温も次第に低くなってゆく。
「糞っ垂れめ」
 忌々しげに言い、ブライトは
「初手からこいつをアームで倒せるって知ってたら、余計な骨折りをしなくてすんだものを」
 指先を切った革手袋の中にある赤く腫れた握り拳をさすりながらシィバ老人に目を向けた。
「倒せた、のですか?」
 エル・クレールは不安の瞳でブライトとオークとを交互に見やった。
「ふん」
 ブライトは面倒そうに倒れ込んでいるオークの尻を蹴り飛ばした。
 それは床の上を転がったが、死体特有の無機質でバランスの悪い重さ故、すぐに移動することを止めた。
「こいつらは命令通りにしか動けない。命令した者との『つながり』をぶった切ればただの肉塊だ。もっとも、理論的には、のハナシだがな」
 まだ立っている残り二匹のオークをにらみ付けたブライトは、
「こいつにそんな力があるとは思いもしなかったぜ。……【恋人達】!」
 彼のアームを呼び覚ますと、言葉も気合いも発さずに刃をオーク達の上に振り下ろした。
 床に落ちた矛と剣が、鼓膜をつんざく金属質な轟音を立てた。
「こんな物、ハムにもなりゃしねぇ」
 ブライトは動かなくなった二匹のオークを睥睨したのち、その苛立った視線をゲニック准将に移した。
「新しい玩具で遊ぶときにゃ、『大人のヒト』に使い方を習うようにすべきだと思うんだがね?」
「命令すればいいと聞かされた。命令通りに動くだけだと」
 太った軍人は、窓辺で腰を抜かしていた。
 額と、脇の下と、掌と、足の裏が、脂汗で滑る。
「本来の主人の命令どおりに、ってことだろうさ。そいつに『馬鹿准将が攻撃指令を出したら辺り構わず暴れろ』とだけ命じられてたってトコだろうよ。停止命令無しでな。 大体あんた、このブタが何であるのか、判ってンのかい?」
 ゲニック准将の答えは否だった。最も彼の口からその言葉が出た訳ではなく、ただ真っ白な顔が左右に揺れただけではあるが。
「ケッ。それでよくもまあヌケヌケとシィバの爺さんを師匠呼ばわりしたモンだぜ」
「どういう、意味でしょう?」
 ブライトの罵声を聞き、エル・クレールはシィバ老人の顔を見た。
 老人はうつむき、
「まあ、取っ掛かりを拵えたのは、確かにわしじゃな」
 シワだらけの広い額をなでた。
「何年前だったか、わしがホムンクルスの錬成に成功したらしいという噂を聞いたという若い男が訪ねて来おった。その男は錬成の方法を知りたがっての。理由を聞くと、こんな具合に言いおったよ。
『前線で兵士が命を落とさぬようにするにはどうしたらよいか、その答えを探している』
 わしは、戦なんぞしなければ、臣民が命を落とすことも無いと答えてやったが……。その男はうなずきながらこう言いおった。
『確かにその通りではあるが、現実ではそうも行かない。それでも兵士の命を守りたいから、兵士でないモノを前線に送りたいのだ』」
「兵士でない『モノ』、ですか?」
「優秀な兵士の能力をすべて持っている……主人の命令を理解できる知能、武器を扱える繊細な手先、強大な攻撃力、消耗に耐える持続力……そんな人工物。ふん。随分と欲張ったことを言いおったわい」
「それでまさか先生がアレを!?」
 エル・クレールの視線が泳いだ先には、床に身体半分を埋めて突っ伏している一匹のオークが居た。
「いや。作りもせなんだし、作り方を考えもしなんだよ。アレは、件の男が自力で形にしたものじゃて。
 ま、わしの大昔の著述を首っ引きにして、ということだから、結局はわしが作ったのも同然かも知れぬが。
 ところが男はその後研究から離れざるを得なくなった。それで研究を引き継いだ帝都の軍部があの形で安定させたと言う訳じゃわい。ただし、軍内でも最高機密に値するらしいから、お飾り幹部では詳細を知るよしもなかろうが」
 老人の落ちくぼんだ目は、哀れな准将閣下を眺めていた。
「うかがって良いでしょうか? その『男』というのは一体?」
 あのような説明のされ方では、エル・クレールがそう訊ねたくなるのは当然だった。
「ん。まあ、お主らになら教えても害はなかろうな。……この間、皇帝になり損ねた男さ」
「この間?」
 ギュネイ初代皇帝の急な崩御で今上皇帝が即位したのは二年前の話だが、老人にとっては昨日のことに等しいのだろう。
 そしてその時帝位に就けなかったのは、
「皇弟ヨルムンガンド・フレキ殿下……!?」
 エル・クレールの瞳に小さな驚愕が浮かんだ。しかしそれは、自身の口から母方の……しかし血のつながらない……叔父の名が出たことに対するしてではなく、その名を聞いて
「頭でっかちの末成り瓢箪め」
 と、唾棄しているブライトの態度にでも無かった。
 床に生じた小さな揺れ、そしてその揺れの発生源、それが彼女の驚きの源だった。
「あれは……あの個体はまだ斬っていなかった!」
 早く大きく踏み込んだ彼女の剣先には、床板をぶち抜いて倒れている一匹のオークがいる。
 エル・クレールは、彼女の声に背後を見やったブライトの脇を風のように抜け、赤く光サーベルをオークの背に突き立てた。
 剣先からは「確かな手応え」が感じられた。
 先ほどは感じなかったはずの、である。
 それは違和感と言ってよかった。
 ――これは、先ほどとは違うモノだ――。
 戸惑った彼女の身体は、強大な筋肉の収縮によってはじき飛ばされた。
 宙を舞う彼女の腕を掴んだブライトだったが、彼は碇の役目を充分には果たせなかった。
 彼の背中にもまた、大きな衝撃が加えられたのだ。
 加速によって二人の身体はもつれ合い、そのまま壁に激突した。
 壁板はあっけなく突き破られ、廊下は塵芥で覆われた。
 破壊は、更に廊下の壁にも及んでいる。
 一箇所が突き破られたその衝撃で、鉛ガラスはことごとく割れた。
 埃が舞う中で動いているのは、獣の顔と人の巨躯を持つ物体だけであった。
 それは赤く濁った目であたりを見回すと、新しく開けられた野外への出口に向かって歩き出した。
 新しい出口はしかし、その動く物体には小さすぎた。
 強引に通り抜けた「それ」の背に梁が引っかかり、強引に歩を進める「それ」につられて柱がおれた。
 一部分の倒壊に連鎖して建物そのものが歪み、軋み、崩れ始めた。
 屋敷の主と、メイドと、来客達が悲鳴を上げた。披露宴会場の壁には亀裂が走り、天井からは埃が降り注ぐ。
 人々はドアに殺到したが、ドアは彼らの避難を拒否した。屋敷に生じた歪みが、ドアを開かせないのだ。
 窓も同様だった。開かない上に、割れたガラスを散乱させ、近寄ることすら拒絶している。
 それでもパニックに陥った人々はドアに身体をぶつけ、ガラスで手を切りながら、脱出をはかった。
 ドアを打ち破った者たちの上には天井が崩れ落ちた。
 そして、窓から飛び出した者たちの目の前には、えぐれた大地とボロ雑巾のような二人の人間と小山のような不可解な化け物があった。

前章次章目次
メニュー