瞬間のできごとだった。
紅い剣を降る暇もなかった。
断ち切った「鞭」が、復元したのか。あるいは、隠し球を繰り出したのかも知れない。
モルトケ司祭の形をしたモノの肩口から不自然に生えた、幾筋も赤みを帯びた黒い筋が、エルの細く柔らかな身体を締め上げる。
「あっ……ン……ああ、っく」
苦痛の吐息が漏れる。身をよじり、足掻き、悶える。
息を呑むほどにおぞましく、息を吐くほどに美しかった。
その様子を、ブライトは、鼻の下を伸ばして眺めている。
「クレちゃんってば、相変わらずいい声で鳴くねぇ……。できれば俺様のテクで、ああ鳴かせたいんだがなぁ」
悠長に、まるで危機感無く、むしろ涎を垂らさんばかりに凝視している。
生ける者の肉を求むる死者の腕が、彼自身の足元にからみついてなお、この男はにやけ顔を崩さなかった。
司祭を操るモノは、彼の肺腑の内の気体を全て押し出し、高笑いしていた。
『私の言を入れぬ者には、破滅が訪れるぞ。我が不滅の兵団は敵対する者全てから、この国を護ろうぞ』
エル・クレールの紫に褪せた唇が、笑みを形作った。
苦しみながら、彼女は言う。
「ふっ……不滅……? あれが、不滅……の兵団だ、と言うの……ですか……?」
彼女の潤んだ、しかしハッキリとした視線を、よどんだ、しかもどんよりとした視線が追う。
そこには無数の人影があった。
大半は床に伏している。
立っているのはわずか二人。
ブライト=ソードマンと、尼僧。
「おたくの兵隊さん達、まるで日が経って湿気っちまったバケットみたいだぜ。外はバリバリ、中はグズグズでさぁ」
ブライトは笑む。不敵に、大胆に。
尼僧は失神しかけていた。
『何が起きた? 何時の間に、何をした!? まさか【グール】を……素手で屠っただと!?』
司祭の姿をしたモノは、ピクリとも動かない彼の兵士達を、呆然と見た。
「中途にまじめなヤツは、これだからいけねぇや。自分は完璧だと思い込んで、前にしか進まねぇ」
『莫迦力の下郎が、聞いた口をっ』
ブライトは手を拱むと、それを前に突き出した。
「莫迦はどっちだ? 俺の腕力で【グール】が倒れたとしか見えない……いや、見ようとしないおまえさんじゃねぇのか?」
『うぬっ!』
司祭は拳を握った。左のそれの皮膚が、中から持ち上げられたように、もぞっと動いた。
「見つけたっ!!」
掌に力を入れると、ブライトは叫んだ。
「親友よ! お前達の赤心、借りるぜ!!」
拱まれた指の間から、炎のような赤がほとばしった。
『なにっ? まさか貴様も!?』
「正解!」
結んだ指を解き放つ。
「出よ、【恋人達】!」
叫びと共に、腕はこじ開けられたように広がる。
掌から発する光が、二筋の紅い軌跡を描く。
二つの紅蓮は、一対の剣と成った。
ブライトは身を縮め、踏み込むと、低い弾道の跳躍で、グロテスクな人型に寄った。
左腕を袈裟懸けに振り下ろし、同時に右腕を逆袈裟に振り上げる。
「死人の分際で、生きてる者の足を引っ張ってンじゃねぇ!」
切っ先は、かの「鞭」と、司祭の肩口とを捕らえた。
拘束していた「鞭」が切り落とされた拍子に、エルは膝を落とした。
一方、司祭の肉体は猛烈に床に叩き付けられた。
肩口からドロリとしたものを吹き出しながら、そいつがわめく。
『何故だ、何故だ、何故だ! 我の不死の兵が、我の不死の肉体が! 何故崩れる!?』
「自分の進む道は正しい。自分の考えは正しい。脇道や、他人の考えなど見向きもしない。だから行き詰まった。
……国を護るという遺志には同意したモルトケ殿が、【グール】を作り出すことには反対していたのを、自分の正面しか見えていないあなたは、気付けなかったから……」
ブライトに助け起こされながら、エルが答えた。
『我は……われ……わ……わたし……私は』
床に叩き付けられた肉体が、うめく。
「私は……生きている?」
モルトケ司祭は切り裂かれたはずの肩口に手をあてがった。
傷口などなかった。
衣服にはほつれもない。
赤黒い液体で汚れたはずの床には、一滴の水気すらない。
だが、身を起こし辺りを見回せば、そこは確かに戦禍の跡だった。
見上げれば、二人の剣士が立っている。
赫いきらめきを携え、微笑んでいる。
「最初に言ったはずですがね」
「我々は、人を傷つける道具は嫌いなんですよ」