魅惑の【剣の女王】
「おまえ、ドレスってヤツを、上から下まで正式に着たことがあるか?」
昼前、不意にいなくなったと思っていたら、日がとうに暮れてから唐突に戻ってきて、いきなりこれだ。
木賃宿の壊れかけたベッドの上で膝を抱えていた、エル・クレール=ノアールは顔をしかめた。
ブライト・ソードマンは、両手に一杯、なにやら布の固まりを抱えている。
真剣に、何かに悩んでいるようだ。
「上から下まで、というのは、どういう意味ですか?」
「コルセットからナニから、全部女物を着たことがあるか、ってことさ」
「ありますよ」
エル・クレールの「女装」を一度も見たことのないブライトだった。芳しい答えを期待していなかった無精ひげ面が、ぱっと明るくなった。
「じゃ、訊く」
抱えていた布の固まりを、エル・クレールが乗っているベッドの上に放り出した。
衣服であった。下品なデザインのドレスと、胴鎧のようなコルセットと、襞(ひだ)だらけのペチコートと、品の悪い靴下と、しわの寄ったリボン類。
彼はその布の山をかき回して、ようやく何かを見つけると、まじめな顔で訊いた。
「ドロワースってのは、みんなこんな風に股ンところを縫ってないものなのか?」
ごわごわした、縫製の良くないその肌着の、腰から突っ込んだ手を、両足の間に大きく開かれたスリットから突き出している。
「ふっ不潔……!」
二の句が継げない。その前に、右のストレートが繰り出されていた。
「そりゃ、あまり上品な行動じゃなかったとは、思う。だからって、頬桁をグーで殴るな。おまえさんのグーパンチは、すんごく痛いンだぞ」
そっぽを向いたエル・クレールの、恥ずかしさで紅潮した顔をのぞき込み、ブライトは必死で弁明する。
「それに、俺はホントーに解らないから訊いてるンだ。女の……いや、男にとっても同じだが……一番守らないといかん股ぐらを、守るどころか隠しもしないこのおパンツの構造が、俺にはどーしても理解できん」
のぞき込む視線をかわすようにそっぽを向き直しながら、エル・クレールはさらに顔を紅くして、
「お城のご不浄は大概、舞踏会の開かれる広間からも控えの間からも、遠く離れたところにあるものです」
「あン?」
「つまり、生理現象が……限界を迎えたからと言って、はしたなく駆けていっては……その、それにドレスやペチコートをたくし上げて、ガーターをはずして、あ、あの……しゃがんで……そんな余裕はありませんし、第一、裾が汚れてしまっては大変ですから」
「じゃ、どーやって小便垂れるのさ?」
ブライトにとっては、純粋な知的好奇心である。それはエル・クレールにも解る。だから、恥を忍んで説明しているのだ。
「従者が、スカートの中に……容器を差し入れて、そこに……」
「立ち小便かよ! ……って、大きい方はぁ!?」
エル・クレールの紅潮は耳先を通り越し、膝を抱え込んでいる指の先まで達した。
そのおかげでブライトは「貴婦人達の用の足し方」を察することができた。
「ですから、私はドレスが嫌いです。小さな頃から、年に一度袖を通せばよい方でした。表面上は美しく着飾っていても、中は『垂れ流し』なのですから」
「でもな、今回ばかりは着てもらわンと困るしなぁ」
ブライトが顎で指した先に、あの布の山がある。
「私が、これを!?」
「おう」
腕組みをして、下唇を突き出す。
「何故ですか?」
「死霊に取り憑かれた伯爵夫人が、仮面舞踏会って名前の乱痴気騒ぎを、今夜開くンだとさ」
「『仕事』ですか……」
エル・クレールは大きく息を吐いた。
「『仕事』ですよ、姫様」
ブライトはニッっと笑い、
「コルセットを締めるお手伝い、不肖ながらこのわたくしめがいたします」
深々と頭を下げて見せた。
「ドロワースの構造は知らぬというのに、コルセットの付け方はご存じなんですか?」
右の拳を、白くなるほどに握りしめて、エル・クレールは引きつった笑顔を浮かべた。
信じられないくらいの速さで、エル・クレールは「身支度を整えた終わった」と、ブライトの部屋にやってきた。
しかし、女は化ける、とは良くも言ったり。普段、少女歌劇団の立て役者が演ずる「美少年」といった風貌のエル・クレールが、すっかり別人になっていた。
雪を頂いた山のような髪型は、プレゼントの箱のようにリボンで巻き結ばれている。
ゴブラン風で紅い薔薇模様のドレスときたら、想像以上に襟刳りが胸側に大きく開いていて、いつ乳房がこぼれてもおかしくない。
コルセットの締め付けが多少弱く「蜂のようなウエスト」の演出は不足しているが、そのかわりスカートは傘の開き始めたベニテングダケよろしく大きくふくらんでいた。
髪を結い上げると大人びた顔になるタイプと、逆に幼く見えるタイプがあると言うが、エル・クレール・クレールは前者だった。
自分がわざわざ選んできた「猥雑」なドレスを、その妖艶妙齢な姫君が着て現れたのだ。ブライトが無精ひげを剃りかけていた剃刀は、彼の手から落ち、節穴の開いた床に突き刺さった。
「作戦、中止」
痙攣のように瞬きをしたかと思うと、ブライトが言った。
「何故ですか? 『仮面舞踏会は入場者の身元確認をしないが、それにしても男女連れだって行った方が怪しまれない』と、あなたが言うから、わざわざ着替えたのに」
エル・クレールは少々不服そうに訊いた。
「自分で見立てをしておいて言うのもナンだが、おまえのその衣装は危険過ぎる。蟻の巣に砂糖を放り込むようなもンだ」
「ご心配、痛み入ります。……ですが、あなたがこの衣装を買いあさっている間に、私もこの領国のことを少々調べていたのですよ。それで、面白いことが解りました」
血のように赤く塗られたエル・クレールの唇が、ふっと甘いカーブを描いた。
それを見て“しまった”ブライトの、剃刀を拾い上げる動作や、鏡を凝視して剃り残しを確認している様は、明らかにエル・クレールから視線を逸らすための演技だった。動作がぎこちなく、下手な人形師が操る傀儡さながらである。
「この領国、人口の男女比が、四対六だそうですよ。……ふつうは同数か、むしろ女性の方が多いというのに」
「……ここ最近になって、男の数が減った、か?」
小さくうなずいたエル・クレールの仕草に、思わず息を飲む。
どうしても視線をそこに注ぎたいという欲求が抑えられなくなり、ブライトは横目で、エル・クレールの顔と、その四寸ばかり下の二つの丘陵をちらりと見た。
その視線の熱さに気づかぬまま、エル・クレールは続ける。
「この地の領主は代替わりしたばかりで、まだハタチ前のダヴランシュ伯爵ですが、実質的には姉さん女房な奥方のアーデルハイド夫人が権力を掌握している。 ……何しろ、アーデルハイド夫人はフェンリル皇帝の異母妹ですから」
「ちっ!」
ブライトは「フェンリル」と聞いた途端、顔をしかめ、せっかく整えた髪を掻きむしった。
オーガハンターは、一応「皇帝直臣」である。しかしブライトは、臆面もなく『あのヒヒ野郎の名前を聞くと頭痛と吐き気がする』という。それも、どうやら比喩ではなく、本当に発作的な頭痛がするようだ。
「坊やな旦那じゃ満足できねぇんで、男漁りの舞踏会を開いてやがる訳だ。集まってきた男共を『喰う』ために」
「ですから砂糖はむしろ、そうやってひげを剃って、髪を梳り、夜会服を着て、貴公子然としているあなたの方だと思います」
エル・クレールはにっこりと笑い、櫛をブライトの手元に差し出した。
「髪を梳いて、ひげを剃ると、普段より十歳くらい若く見えますよ」
それを受け取りながら、ブライトは……照れた勢いで……失言をしてしまった。
「自分の通り名に父親の名前を流用するようなファザコン姫に、『若い』って言われても、あんまり嬉かねえな」
本日二発目のグーパンチは、舞踏会に響かぬように顔を避け、レバーに決まった。
舞踏会の開かれている「プチ・メゾン(小離宮という本意の他に、愛人の家をも指している)」には、数十種類の香水が混じり合ったむせかえるような臭いが、充満していた。
若い娘も、そうでないご婦人もいる。あまり若くない男性と、それ以上に若くない男性もいた。
しかし出席者は、圧倒的に女性が多い。
女達は原色の布地に大振りな花柄を縫い付けたドレスを着、シラミ取り粉を振りかけた真っ白な髪を入道雲よろしく結い上げ、厚塗りが過ぎてひび割れを起こした白壁のような化粧をし、何を話すでもなく、ただくすくすと笑っている。
男共の方は、シャツの胸元をわざと大きく開け、男らしさを演出するために胸毛のある者は油を塗り、無い者・薄い者は付け毛をしている。その上、バレエダンサー以上に股間を強調する「上げ底」のタイツを穿いて、よだれを垂らしながら女性の品定めをしていた。
「仮面」舞踏会のはずなのだが、誰一人としてマスクを付けている者はいない。
この催しものが始まってから数回の内は、おそらく、みな顔や素性を隠していたのだろう。
しかし、領国の中である程度の身分か財力を持っている者のほとんどが出席しているのだ。顔を隠しても、おおよそ正体が知れる。
仮面舞踏会という言葉は、いつしか「無礼講」を意味する符丁になった。
そこに、遠国の貴族、という触れ込みでエル・クレール・クレールとブライトの二人が現れた。
新顔である。
会場に入るなり、好奇のまなざしが注がれた。
「最悪」
エル・クレールとブライトは、期せずして同時につぶやいた。
「帝都風、ちゃぁ聞こえが良いが、ようはエロ妹がヒヒ兄の真似をしてるだけだぜ」
ご婦人方の視線を一心に浴び、仕方なく愛想笑いをしながら、ブライトはエル・クレールにだけ聞こえるように言った。
彼は、エル・クレールをしっかり過ぎるほどしっかりとエスコートしていた。
締め上げられた腰に腕を巻き付け、強く抱き寄せている。
「ギュネイの都のパーティは、こんなに下品なのですか?」
清貧の国「ミッド公国」を十三歳まで出たことのないエル・クレールだった。他方の社交界には少々、いや、かなり疎い。
「さぁて。出たことは“たぶん”無いンでね」
後頭部を撫でながら、ブライトは吐き捨てた。
エル・クレールは、ブライトにしっかり過ぎるほどしっかりとエスコートされていた。
巻き付けられた腕に手を添え、胸元に顔を埋めている。
自分に向けられている男達のおぞましい視線を避けたかった。
しかし鼻を押しつけた安物の襞胸シャツの奥から、汗の匂いがする。
ブライトの顔色が優れない。
「頭痛が……酷いのですか?」
「そうでもない」
力のない否定だった。
エル・クレールは銀色の眉を顰め、彼を見上げた。
「もしかして、熱が?」
心配そうなエル・クレールの視線は、大人びて艶やか過ぎる。
青白かったブライトの顔色が、急に赤くなった。
『こいつは自分の色気をまるっきり自覚してない』
ブライトは口ごもりつつ、
「おまえ、やっぱり今後一切、ドレスを着るな」
「……着たくて着ている訳ではないと、先ほども言ったはずです」
今度は妙に幼い顔で、唇をとがらせた。
ブライトの喉の辺りが、ぴくりと動いた。
生唾を飲み込んだのだ。
『女ってのは、どうして何奴も此奴も“娼婦”と“少女”を併せ持ってやがンのかね』
ちょうどけだるいワルツが流れてきた。
「条件付きなら許す」
ブライトはエル・クレールの右手を強く握り、下手な演奏に合わせないステップを踏み始めた。
「条件?」
巧いエスコートだった。エル・クレールは自然に、優雅なダンスを舞い始めることができた。
踊りながらブライトは、ニヤっと笑い、、
「俺様とふたりきりの時だけは“バースデードレス”の着用を許可しますぜ、姫」
人は生まれたその瞬間には、何も着ていない。つまり裸である。
ブライトの軽口に対する条件反射となっているエル・クレールの“グーパンチ”だが、ブライトはダンスにかこつけて右手を封印することに成功していた。
ブライトの勝ち誇ったような笑顔は、次の瞬間、エル・クレールの柳眉がつり上がるのと同時にしかめっ面に変わった。
ふくらんだスカートの中、外から見えない密室で、その行為は行われた。
彼女は踵に全体重をかけ、彼のつま先に乗った。
「あら、不調法でごめん遊ばせ」
勝ち誇った笑顔は美しい姫の口元に移行し、拗ねた歯ぎしりは逞しげな貴公子の口中に移った。
倦怠な時が、どんよりと流れる。
その間、大勢の女がエル・クレールに対してエスコート役の交換を懇願し、何人もの男がブライトに対してダンスパートナーの交代を依頼してきたが、二人は応じなかった。
断る方法というのは、実に簡単なものだ。
品定めをするのだ。
言い寄ってきた女あるいは男の顔と、自分が抱き抱かれている相手の顔とを見比べて、言い寄ってきた方に薄笑いを投げてやればいい。
それでもだめなら、ブライトがにらみ付ける。
あざけるようなまなざしに女は渋々あきらめ、射抜くような眼光で男はすごすごと引き下がる。
「現れませんね」
二刻も踊り続けたころ、エル・クレールがぽつりと言った。
ブライトは時折顔をしかめながら、辺りに気を配っていた。
「奥の部屋にいるのは確かだが……。銘は……?」
アームの銘はそのアームの能力を表しているものなのだが、普通の者はもちろん、ハンターにすら戦ってみないことには判別ができない。
なにしろ一見すると、みな同様の赤い珠なのである。そして取り憑かれた者はみな同様に醜い化け物だ。
アームの銘は、そのアームと同化した者にしか解らない。それゆえ、銘がそのアームの能力を解き放つキーワードになっている。
……のだが、エル・クレール・クレール=ノアールは、何故か他人の持つアームの銘を高い確率で見抜くことができた。
この不可解な能力のおかげで、エル・クレールとブライトは他のハンターよりも幾分か「仕事」をはかどらせている。
「【剣の女王】……です」
「小さい方、か」
アームは大別して2系統の種類がある。違いは、大きさだった。
大人の拳大の大きさの物は大文字、赤子の拳大の物を小文字と呼ぶ。
どちらも、人に憑いてオーガに堕落させ、人を扶てハンターに成させることに変わりはないが、ミヌゥスケェルの方がやや力が弱い……というのが通説である。
ふと立ち止まり、ブライトは一点を見据えて、言う。
「おまえさんが、やれよ」
やはり、顔色が悪い。脂汗が額に浮いていた。
心配の色を濃くしたエル・クレールの視線だったが、ブライトが顎で指した方に移った直後、厳しく鋭いモノに変わった。
どよめきと共に、ドレープとレースを下品に盛り込んだドレスをまとい、目がチカチカするほど濃い化粧を塗りたくった女が一人、三人の仮面をかぶった者を取り巻きにして現れた。
どよめきは、
「アーデルハイド様よ……」
「ああ、なんて美しいのだろう」
「お側に寄りたいわ」
「私も取り立てていただきたいものだ……」
などという身勝手な言葉の不共鳴が作り上げたものだった。
熟れすぎて腐り始めた桃に小蠅がたかるように、人々は主賓の回りに集まり始めた。
大きな目、通った鼻筋、整った唇。
柔らかそうな頬、尖った顎、細い首。
はち切れそうな乳房、折れそうな腰、弾けんばかりの臀部。
所作自体が官能的で、笑顔は人形のよう、文字通りの猫なで声。
アーデルハイド夫人は、男の目から見た「良い女」の要素を、すべて足し込んだ容姿をしている。
「たしかに、お美しい方なのですが……」
エル・クレールは、こういった「欠点のない美女」が苦手だった。
「どっちかってーと、父親似だ。あのぽってりとしたスケベったらしい唇が、特に似ている」
「帝室がお嫌いなのに……」
『ずいぶんと帝室のことに詳しいのですね』と言いかけて、エル・クレールは口をつぐんだ。
ブライトの額からは、脂汗が玉のように吹き出している。
「グールは、あの三匹だけだ。チビの力で操れる死体は、あの程度だろう」
頬を引きつらせながら、ブライトはゆっくりと、血を吐くように言った。
「あの女のスケベ面を見たら、血が騒ぎだした。まるで自分がオーガにでも堕ちちまったみたいに、何もかもぶち壊したい衝動が、脳味噌をかき回している」
両拳の中から赤い光が漏れている。
ブライトが呼べば、たちまち一対の双剣に転ずる【恋人達】が、手枷さながらの形で、彼の両手の回りに漂っていた。
『この人は、今朝の帝室に酷い怒りを持っている。でも、憎悪が心を支配するのを、わずかな理性と彼のアームが押さえている』
エル・クレールはブライトの両手を握ると、
「解りました。大丈夫です、私一人で倒しますよ」
彼と、彼の持つアームにっこりと笑いかけた。
「悪ぃ。頼む」
唇を引きつらせて笑顔を作り、ブライトは深い息を吐いた。
エル・クレールがうなずいて、アーデルハイド夫人の方を見たその時だった。
夫人が、奇声を上げた。
歓喜であった。
髪を振り乱し人波をかき分けながら、こちらに向かって駆けてくる。
厚塗りの白粉が音を立てて崩れ、溶岩の固まりに似た皮膚があらわになった。
濃茶の髪が、十数本の剣のように尖った形状に変わった。
あっという間の出来事だ。
しかも狭いプチ・メゾンの小さなホールである。
エル・クレールは【正義】を呼び出すこともできず、オーガ【剣の女王】に突き飛ばされた。
《見つけた! 見つけたわ!!》
それは、ナイフ状に尖った爪を生やした両手を大きく広げ、ブライトに飛び付いた。
ブライトは、動かなかった。石柱のように突っ立ったまま、歯を食いしばっている。
【剣の女王】の髪が、彼にまとわりついた。
剣の鋭さを持った髪が、身体を覆い、肉に喰い込みむ
《ずっと、ずっと、捜していたの。だって、貴方じゃなきゃダメなんですもの!》
瞬く間に彼の長身が、うごめくサーベルに覆われてしまった。わずかに、亜麻色の髪が覗いている。
エル・クレールは、突然の凶事に逃げ惑う人々の中から、ようやく身を起こすと、叫んだ。
「……! ブライトぉ!!」
自らの武器【正義】を呼ぶ方が、ハンターとしては正しい選択のはずだ。
その一言が、エル・クレールにはできなかった。
正直、考えも付かなかったのである。
《嫌よ》
【剣の女王】が、首を回した。赤くよどんだ目で、エル・クレールをにらみ付けた。
《私の物。誰にも渡さない。私だけの物にするの》
【剣の女王】は、腕と“髪”とに力を込め、締め付けた。
と。
「離れろぉ!」
大喝と共に“髪”は内側から弾けた。
ブライトは、まだ立ち尽くしていた。両腕、両拳が左右に大きく突き出されている。
肩で息をしていた。目の焦点が合っていない。
武器を失った【剣の女王】だったが、なおも笑いながらブライトにすり寄る。
「寄るな!」
まるきり、子供のケンカだ。ブライトは両手を突き出した。
それは怯えた人間の本能的な行動であり、オーガと対峙しているハンターの所行とは思えない。
当然、そんな攻撃がオーガに効くはずがない。
【剣の女王】はなおもブライトに抱きつこうとする。
《離れない。ずっと、一緒。子供の時から、そう願っていたのだもの》
ブライトは動けなかった。
恐怖という感情だけで彼が動くことを、彼のアームが望んでいないのだ。
【恋人達】は主の両腕に鎖の形で巻き付いていた。
『助けたい』
エル・クレール・クレールは思った。
義務感などではない。切望だ。
エル・クレールはブライトからオーガを引き離す術を必死で考えた。
そして、この時ようやく「自分が、何であるか」を思い出した。
「エゴイスト!」
叫ぶと、再び【剣の女王】の首がぐるりと回り、見開かれた眼がエル・クレールに向けられた。
《エゴ……? 誰のこと?》
「あなた以外に誰がいますか、【剣の女王】!?」
《ナゼ? 私がエゴイストだなんて言うの? ナゼ? 私の銘を知っているの?》
【剣の女王】はずるりと動いた。
彼女が受けたのは、オーガを滅するアームによる攻撃ではなかった。抜けた髪は容易に再生した。
その尖った蛇を、エル・クレールに向けてのばした。
「彼は、あなたを拒絶している。あなたは彼を傷つけている」
《でも私は好きなの。この人でないとダメ。この人は、私の物》
尖った爪が、エル・クレールの頬に触れた。
「人は、物ではありません。誰も他人を『所有』する事などできない!」
《あなた、気に入らない。この人とずっと踊っていた。楽しそうにしていた。あなた、要らない》
手が開いた。エル・クレールの小振りな頭を鷲掴みにしようとする。
一瞬早くエル・クレールは後ろに飛び退いた。
追いかけて来る。
前からはオーガが、そして後ろからグールが。
《サンドイッチよ! あなた嫌いだから、私は食べない。お前達にあげるわ》
グール達は、付けていた美しい面をはずし、涎を流しながらエル・クレールに襲いかかった。
身をかわす。しかし、ドレスの裾を踏んでしまった。その場に尻餅を付く。
三匹のグールが牙を剥いて殺到した。
衣服に爪を立て、スカートを引き裂いた。
「畜生! クレールっ!」
ブライトが動こうとした。全身から血が噴き出す。足がもつれ、倒れた。
と。
裂かれたスカートの中から、ヒールのない靴と、折り目のきれいに付いたズボンをはいた脚が振り上げられた。
あっという間に三発、不利な体勢からではあったが、奇襲の蹴りは見事にグール共のこめかみや眉間に当たった。
目くらましに過ぎない。
エル・クレールはグールがふらついている間に素早く立ち上がると、裂かれたドレスを自ら破り、脱ぎ捨てて、唱えた。
「我が愛する正義の士よ。赫き力となりて我を護りたまえ」
エル・クレールの腰から、紅い輝きがほとばしった。光は一振りの剣の形を成した。
「【正義】!!」
コルセットにズボンという出で立ちである。
大上段に剣を構え、振り下ろす。
「惑うた魂よ、煉獄に戻れ!」
《あああああ》
真っ向両断。【剣の女王】は左右二つに裂け、どう、と倒れた。
《……大好きな……お兄さま》
【剣の女王】の、そしてアーデルハイド・ギュネイ=ダヴランシュ伯爵夫人の、最期の言葉は、肉体の蒸発する薄気味悪い音にかき消された。
そして夜は明ける。
昼食直前になってようやく目を覚ましたブライト・ソードマンは、頭痛もすっかり止んで、体調は万全だというのに、すこぶる不機嫌だった。
理由その一。夕べの「仕事」で、まるっきりイイところが無かったこと。
理由その二。夕べの失態の原因・理由ついて、エル・クレールが追求を“してくれない”こと。
(もっとも、追求されても「判らない」としか説明できないのだが)
そして。
理由その三。夕べ、エル・クレールはあのドレスの下に、ドロワースをはいていなかったこと。
何かの拍子にちらっとスカートがめくれて、中身が自分だけに見える、というハプニングを期待していたし、余裕があればそのハプニングを自作自演してしまおうとまで思っていた。
「コルセットは付けてくれたのに、どーしておパンツは駄目なのさ?」
残念でならなかった。
「あれは、胴鎧の役に立つと思いましたので。……実際、役に立ちましたし」
エル・クレールは普段通りの男装で、普段通りにノーメイク、普段通りの下げ髪をゆらしていた。
「おパンツは?」
「動きにくいですから。それに……」
頬の辺りが、うっすらと赤くなった。
「あんな物、恥ずかしくてはけるモノですか」
「ちぇ」
ブライトは舌打ちすると、
「どーせ一回こっきりの使い捨ての予定だったけど、使わずに捨てるンじゃもったいねーな。 ……よし、俺が穿いてやろう」
「なっ!?」
ブライトはいずこからか件のドロワースを引っ張り出すと、腰のところから右手を突っ込み、股のスリットからこぶしを突き出した。
「おまえさんのトコに夜這うって時に着りゃ、脱ぐ必要が無くって楽じゃねぇか」
耳先まで真っ赤になったエル・クレールの、条件反射右ストレートを、ブライトは左手で弾いた。
しかし、すぐに繰り出された左のカウンターから、身をかわすことができなかった。
終わり