いにしえの【世界】 5
 エルは自身で我が身を「死んだはずの最後の公女」「世が世なら皇太子たる皇女」であると公言しそうになったことに少々狼狽した。
 彼女にとって運の良いことに、周囲の客達は皆、祭り前夜の浮ついた盛り上がりの空気に酔ってた。興奮している彼らの耳には、見知らぬ客の小さな声など入りようもない様子だった。
「ジオ一世陛下はずいぶんと……つまり『気の早いお方』だったと聞いておりますけれど」
 安堵した彼女は、それでも一応は己の言葉尻を訂正し、尚かつ慎重に言葉を選んだ。
 確かに彼女の言うとおり、ジオ一世は何事にも「素早い決断」を第一に重んじる性質だった。
 素早い決断は正しい決断力から下されたものであれば何も問題は起こらない。むしろ即断即決は歓迎されることの方が多い。
 しかし彼の皇帝の決断は実のところあまり歓迎されてはなかった。
 十の決断の内、七つか八つは「重大な問題」を引き起こし、誰かが命がけでその問題を解決しなければならない結果となったのだから。
 詰まるところジオ一世という皇帝陛下は、短気で短絡的という、支配者には不向きな性格だったのだ。
 しかしその事実を口に出して言う訳には行かない。
 エルの歯切れの悪い口ぶりは、むしろブライトに彼女の本心を良く伝えるものとなった。
「両方の言い分を聞く前に領地の没収やら爵位の剥奪やらを決めたのは、確かに『その人』の落ち度だがね」
 彼も言葉を選び、声を潜めて言う。
「それで母は、ハーン家にとっては良くない物語だと怒って……」
「それもそうだが、敵討ちの標的にされた方の登場人物の描かれ方のほうが、むしろ癪に障ったんだろうよ。……ジオ一世のお気に入りの役人学者の、さ」
 ブライトはわざわざ遠回しに言った。しかしエルの顔に浮かんだ疑問符が消えない。
『こりゃ今朝の夢見が余程悪いモンだったらしいな。いつも以上に勘働きが悪い』
 彼は後頭部をゴリゴリと掻きながら足りなかった言葉を補った。
「ギルベルトって言ってな。今のお偉いサンの三代前のご先祖で、お前さんのお袋さんにとっちゃ義理の爺さんの兄弟にあたる」
 途端、エルの瞳からキラキラとした光が消え失せた。
「母は、自分がギュネイの血族であることを重んじていましたから」
 ブライトの呆れの対象は、目の前にいる男のなりをした元公女から、その母親に移った。
「後妻の連れ子だろうに」
 思わず言った直後、彼は黙り込んだエルの瞳に、別の輝く物を見付けた。
 涙だった。
 こぼれ落ちる寸前の量で、蓮の葉の上で転がる露のようにふるふると震えている。
 ブライトは少々あわてて、しかし吐き捨てるように言った。
「この場合は褒め言葉だぜ。何しろ、あの小汚ぇ血が流れてねぇってことだからな」
「フォローになっていませんよ」
 目頭を軽く押さえ、エルは無理矢理に苦笑して見せた。
「名家の苗字を背負わされるのは、それだけで大変な重責なのです。だから母は……むしろ血が繋がっていないからこそ、ギュネイの名を重んじなければならなかった」
 エルの脳裏に、なぜか一枚の肖像画が浮かんだ。
 愛らしい、しかし大人びた少女の像だ。
 それはジオ三世に嫁ぐ四年前に描かれたという、母・ヒルダの姿だった。
 かつて娘は、『いずれ自身もこのように成るのだ』と信じていた。
 だが夢見るお姫様は、十二歳の時に絶望した。
 額縁の中に封印された過去の母は、華奢な肩の下に丸いふくよかな胸を持っている。
 しかし「過去の母」と同じ年齢になったクレール姫は、少年のように痩せていた。
 この瞬間、母はエル・クレール……いや、クレール姫にとって信仰対象となった。
 理性的で、知性的で、夫を立てる良妻で、子を慈しむ賢母で、何より美しい……一番近くにいて、一番自分から遠い存在。
 エル・クレールは小さく頭を振って、自身を現実に戻した。
「あのとき母は、すぐに一座を国外に追放するべきだと主張しました。ですが父は『作り話に過ぎぬ』と言って、笑っていた」
 エルの瞳の中で、思い出の懐かしさと、未だ消えない疑問とが、混然とした充血を生んでいる。
 すると、ブライトが鋭いまなざしで言う。
「外様の殿様のとる態度としては、親父さんのやり方は、小賢しいくらいキレた方法だろうよ」

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