いにしえの【世界】 22
このときのブライトを表現するのに、
「体中の関節という関節がすべてはずれたような」
という比喩は決して大仰ないだろう。
彼は脱力しきった状態でようやく立っていた。
うつむいて、口の中で
「男の格好をしている娘の方が、世間様じゃよほど『変態』扱いされるってぇのに」
などという繰り言をモゾモゾとつぶやいている。
「自覚してますから、私は」
エルはくすりと笑った。
実際、彼女は自分が「妙な生き物」であると言うことを自覚している。
もし己が男であったとして、エル・クレール=ノアールという娘を妻にせよと言われたとしたら、
「後生だから勘弁してくれ」
悲鳴を上げて逃げ出すに違いない、と確信していた。
彼女にの持つ「婦人」の定義は、
『穏やかで従順で、ふんわりと柔らかな美しさを持った、我が母のような人』
だった。
従って、血の気が多くて強情な化粧気のない自分自身は
『女とも呼べぬ奇妙な生き物』
以外の何者でもない。
なにぶん彼女は封建社会の姫君である。その常識を覆すことはできない。
その常識を持っていながら、しかし、彼女は男装や剣術を止めてしまうことができない。
それは彼女の真面目な性格の故だろう。
女として生きるなら、己の思うところの「理想の女性(つまり母親のような良妻賢母)」であらねばならないと考えている。
しかし自身がその理想に近づくことは
『感情の起伏が激しくて、自己主張が強くて、背ばかり高くなるのに少しも大人と認めてもらえない己には、到底無理なこと』
に他ならなかった。
ブライトは恨めしそうな上目遣いをエル・クレールの含み笑いに向けた。
「耳がイイ上に性格もイイと来てやがる」
彼は幽鬼のごとく両肩をだらりと落とし、身をかがめて大通りへ歩き出た。
あからさまに様子が怪しいのだが、道行く人が彼に気を止める風はなかった。
人々には呑み食い屋が酒を只酒を振る舞っているという「事件」だけが見えている。仮に彼に目を止めた者がいたとしても「振舞酒を飲み過ぎた酔っぱらい」程度にしか見えないだろう。
確かにそう見て取っておかしくないふらふらとした足取りで進むブライトの後を、エル・クレールもまたゆっくりと付いて歩いた。
『この騒ぎに乗じて、村から出てゆくつもりでしょうね』
エルは少しばかり残念に思っていた。おそらくは本人のそれではないだろうが、好意を持っている叔父の名前が掲げられている演劇を、観てみたかった。
たとえブライトが拒んでも、無理矢理に芝居小屋に入ってしまえばいいと(そうすれば、彼は文句を言いながらも一緒に観劇してくれるだろうとも)考えていた。
それもこういう状況になっては無理だろう。
エルが思うに、ブライトはヨルムンガント・フレキ=ギュネイの名以上に、皇帝の勅使達のことを良く感じていない。
この男と来たら、元々ひどい役人嫌いだ。よく働く小吏は別として、虎の威を借る狐のごとく威張り散らすばかりの連中に対しては軽蔑以外の感情を抱くことはない。(だからこそ、そういった連中をからかっては面白がるのだが)
皇帝の勅使などという「特級品の虎の威」を借りているグラーヴ卿の一行と、一緒に芝居小屋の中に入ることなど、彼にとって「もってのほか」の筈だ。
エル・クレールはふらふらと進む男の背中に、小さなため息を投げかけた。
道は村の中心の広場に向かっている。そこは祭りのメイン会場であり、件の旅一座が芝居小屋を架けている場所でもある。
道がそこに向かうことは仕方のないことだ。この街道は村の真ん中、広場を横切って突き抜けて通る一本道なのだから。
脇道はいくらかあるが、くねくねとしたそれをたどってゆけば、結局はこの本通りに戻ってくる。畑の真ん中を突っ切るのでなければ、これを通らないことには村を抜けることができない。
逆を言えば、畑や他人の家屋敷の庭先を突っ切ってしまえば、この道を通る必要はないのだ。いつものブライトであれば、迷うことなくそういうイリーガルなルートを選ぶ。
当然、エルはこれを止めるが、これも普段通りの彼であれば無視して進むだろう。あるいは、抗議する彼女を無理矢理に抱え上げるなり担ぎ上げるなりして、あぜ道や畝の間を駆け抜けたに違いない。
ところが、今日に限って彼はそういう破天荒だが理にかなった道を進まなかった。
『本通りを最短ルートとみておられるのか』
少しばかり疑問におもいながら、エルは彼の後に従って歩いた。