いにしえの【世界】 25
「早々にこの村から立ち去るおつもりだと」
エル・クレールは小さな声を出した。
「最初はそのつもりだったがね……あんな処に妙なモノを見ちまったからには、そうもいくまいよ」
ブライトのあごが、芝居小屋の方を指した。
彼の立ち姿は、相変わらず疲れ果てた下男そのものだったが、しかし口ぶりには普段通りの力強さがあった。
この声音を聞いて漸くエルは、彼の「力ない足取り」が、落胆のためではなかったのだと気付いた。……かれは魯鈍な従者になりきっていたのだ。
そのことはしかし、エルにはどうでも良いことと思えた。
「観劇なさるということは、あの勅使の方と同席すると言うことですよ?」
貴族嫌いのブライトに、エルは念を押す。
「連中が来るのは、宵の口になって『連中に見せるための芝居』の準備ができてからだろうよ。こっちは、その前に床下を覗いて、すぐにオサラバって段取りさ」
「つまり、お芝居は観ないと?」
エルは少々落胆した。同時に少しばかりの不安を感じた。
ブライトは「覗く」などと気軽に言ったが、おそらくその程度では済むまい。
グラーヴ卿の一行が「視察」に来るまでの間に
『事が済めばよいのだけれども』
それを口には出さず、彼女はブライトの顔をじっと見た。
すると、
「芝居に行くとは言いやしたが、観るとは言っちゃいませんぜ、姫若さま」
ブライトは急に口調を変え、恭しげにぺこりと頭を下げる。
その頭がわずかに動いた。彼女に背後を見るように促しているのだ。
エルは体ごとくるりと振り向いた。
背が低く、痩せた「大人の格好をした少年」が一人、立っていた。
いやよく見ればそれは、小柄な「男の格好をした若い娘」だった。
小さく丸い顔にうっすら白粉がのっている。唇にも少々くすんだ色ではあるが、紅を引いていた。
長い黒髪は後ろで丸く結いまとめ、それを黒い絹で包んであった。
娘は、天空から目に見えぬ糸でぴぃんと吊されているような、あるいは、背筋に硬質な芯が一本通っているような、まっすぐな姿勢で立っている。
背筋を伸ばして立ったまま、彼女は驚きに大きく目を見開いて、エルを見ている。
黒い瞳は、エルの足下から頭のてっぺんまでを、何度も往復した。
「なにぞ、ご用か?」
エルが穏やかな口調で声をかけると、娘は耳の先まで紅潮させ、その場に膝を折ってひれ伏した。
「お許しを。どうぞお許しを。若様のお姿がこの世のものとは思われずに、思わず見とれてしまいました」
阿諛追従の言葉はエルのもっとも苦手とするものだったが、目の前の娘にはへつらいのいやらしさは見えない。
エルはため息を一つはき出し、
「確かに私はよく『この世の人ではなく、化け物の同類だ』と言われる。『世の中のことを少しも理解していない、並の人間以下だ』とも」
ちらりとブライトを見た。
エル・クレールらしからぬ、冗談めいた嫌みに、彼は苦笑いした。
顔を上げた娘は、エルの白い顔をじっと見、
「わたしは……本通りの酒屋さんに姫様のように美しくて、将軍様のように強い若君様が居て、こちらに向かってきていらっしゃるはずだから、その方をこの小屋へご案内するようにと。……その方は大変な大男を子供のようにあしらったと言うので、美しいとは言っても多分とてもお強そうな方だと思っておりました。……私が顔を知らないと言ったら、マイヤーさんが、白銀色で亜麻のようにつややかな御髪だから、どこにいらしてもすぐ見つかると教えてくれたので、きっとあなた様がそうだと思いまして、お声をかけようかどうしようかと悩んでおりましたら、あなた様から急にこちらを向かれたので、とても驚きました。それにお顔が、考えていたのとは違っていましたし、足運びが上等の踊り子よりも美しくて……」
しどろもどろに言う。赤い頬はますます赤くなり、最後にはとうとうのぼせて頭がふらつき始めた。
あわててエルが彼女の肩に手を伸ばした途端、娘は体全体を大きく一度だけ痙攣させた。両の手を胸の前で合掌させた格好で、彼女の体は硬直している。
男装した娘の細く軽い体は、棒のように固まった状態で、ふわりとエルの腕の中に倒れ込んだ。