いにしえの【世界】 41
 マイヤーは言葉を続ける。
「聞いた話ですがね。ブライトってのは、帝都より向こうの西の果ての、海を渡った先にあるっていう土地の方の言葉だそうじゃないですか。都の方じゃいくらか名字に使っている家もあるそうですけど、東の方じゃあんまり聞かない言葉なんで、最初は聞き間違いかと思ったくらいですよ。だってそうでしょう? 確か『明るい』とか『輝いてる』とか『冴えている』とか、つまり『ピカッとした光』みたいな、まあそんな意味合いの言葉なんだから。
 つまり、主家のご家名のクレールと言うのと、ほとんど同じ意味だ……若様の方のは、もっと透明な『キラキラっとした光』って感じですから、ちょいと語感が違いますが、でもほとんど一緒ですよ――」
 長々しゃべりながら、マイヤーはブライトの顔色をうかがっていた。
 ブライトは、唇を引き結んでいた。沈黙がマイヤーにプレッシャーを与えている。
 脇にねっとりとした汗がにじみ出た。
 彼は、またあの腕が目に止まらぬ早さで自分の胸ぐらを掴むかもしれないことに恐々としつつも、しかしその不安を表に出さぬよう喋り続けた。
「――兎も角も、旦那は、自分の主の名前と同じ物を名前として使ってる。出来過ぎ……いやいや、ぴったりすぎて吃驚びっくりして、耳を疑っている、という按配です」
 長台詞は最後まで中断されなかった。
 マイヤーの恐怖は、しかし晴れない。
 ブライトが無言のまま彼を見据えている。
 ブライトの名が、クレールの名と同意であることは、偶然ではない。
 ブライト=ソードマンの名は、物忘れの病で己の実の名を思い出せぬ彼が、必要クレールに迫られたために己で付けた「符牒」だ。クレール明るい・光という言葉からの連想が含まれたことは、意図的ではないが、多分に意識的ではある。
 エル・クレールは自身が名乗る名が「仮のもの」であるのと同様に、彼の名前が「本物」でないことを理解している。彼は彼女に偽名を名乗るように忠言したその場所で、自分への命名を行ったのだ。
 ただ、それに自分の名が重ねられていようとは思いもしないことだった。
 故に聞いた。
「そういう意味なのですか?」
「そう言う意味なのですよ」
 ブライトは鸚鵡オウム返しに答え、薄く微笑した。
 小さな笑みは、相合い傘の落とし文を見つけられた少年の照れ隠しに似ていた。
 会話とも言えぬ短いやりとりは、当事者以外には内容の理解ができぬ物だ。
「つまり、どういう意味で?」
 マイヤーが恐る恐る声を出すと、ブライトの微笑に違う色が混じった。
「偶然も必然の内ってことさ」
 言葉と表情に反論を許さぬ圧力がある。
 マイヤーは頬を笑顔の形に引きつらせ、
「と、言うことは、つまり旦那のことは、ブライトの旦那とお呼びすれば宜しいので?」
 語尾が消える前に、ブライトが
「呼ぶな」
 鋭く釘を差し込んだ。
「その名で呼んで良いのはウチの姫若さまだけだ。三文物書きなんぞに呼ばれたら、折角の名前の価値がすり減る」
 マイヤーは身を縮め半歩後ずさりしたが、首だけはむしろ前に突き出すようにして
「ではどの様に?」
 食い下がる。
 マイヤーは言いたいことは言わずにおけない質だった。ただし、大上段に切り出すよりは、斜めからそっと訊ねるという言いようで物を訊ねるの常だ。
 遠回しな物言いは物書きらしい一種の「卑屈さ」ゆえの事でもあるが、彼にとっては他人と衝突しないための策でもあった。
 低い物腰と言葉で相手を懐柔し、相手が築かぬうちに自分の有利に話を進めてしまうことで、彼は世を渡ってきた。
 万一、その遣り口が通用しない相手に出会えば、一目散に逃げるだけのことだ。大道具小道具機材の総てを捨てることも厭わない。尻をまくって遁走する。
 役人共の手の届かない遠く遠くへ逃げ延びてみせる。何ヶ月か地下に潜って暮らすのもいい。ほとぼりが冷めるのを待って、また旗揚げする。それでも不都合があるなら、氏素性を偽って別の人間を演じてしまえばいいだけのことだ。
 話術も逃げ足も、そして何より演技力も自信があった。現に、こうして首がつながっているじゃないか。

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