いにしえの【世界】 54
男は強引に、しかし愛おしげに姫をリードする。姫のおびえは徐々に陶酔に変わってゆく。
薄幸な姫を略奪する荒々しい男と、運命に翻弄され続ける非力な娘のパ・ド・ドゥは、ノアール=ハーンが主であり、愛姫クラリスがそれに従う……本来はそのような場面の筈だ。
マイヤー=マイヨールはスタンダードな振り付けを正確に再現しているにもかかわらず、舞台上の男からは支配力が感じられない。
シルヴィーのそれも、約束どおりの形に完全に沿っているというのに、姫には従順さが微塵もない。
「照明が絶妙だな。チビ助には必要以上に光を当てないようにぎりぎりまで絞っていやがる。御蔭で男の影の薄いこと……まるでそこに居ないみてぇじゃないか。こいつは戦乙女ってぇよりゃぁ、嬶天下だぜ」
言いながら、ブライトは隣の席に視線を送った。
エル・クレール=ノアールは舞台を見ていなかった。
青白い顔はおのれの膝の上に向いている。
背を丸め、顔を近づけ、古びた書物の残骸を凝視する。
唇が小さく動いた。指先でかすかなインクの痕跡をなぞり、文字を読んでいる。
「大剣……相反する……逆賊……兵を率いるにおいて……烈火の如く逆上……細やかな配慮……冷徹な処置……甚だしく……波のある……二面は一つ……」
彼女の口から漏れる音は、到底文章とはいえなかった。書かれている文字がその体裁をなしていないのだから、当然だ。
幾ページにも渡り点在する断片的な書き込みは、エル・クレールがどう読んでみても繋がることがなく、意味なす言葉にはならなかった。
心を残したまま、彼女が諦め、顔を上げた時、舞台の上では甘く美しい恋人達のダンスが接吻のポーズで制止していた。
四幕目は、高らかに響く婚礼祝いの鐘の音の中閉じた。
緞帳の裏側で舞台替えの物音がせわしなく響く。
二人きりの観客の内の一人が、残りの一人の耳元に顔を寄せ、
「裏っ側さえ気にしなければ、なかなか『笑える』出し物だと思うが、姫若さまのご意見は如何に?」
捻くれた讃辞の言葉を枕に問う。
抑えた声のが導き出したのは、一層小さな声での返答だった。
「私がこの劇を裏側を気にせずに観ることができるとお思いですか?」
エル・クレールが白い頬を剥くれさせるのを見、
「そりゃぁごもっともで」
ブライトはおくびをかみ殺すのと同じ顔をして、失笑を押さえ込んだ。
彼ら以外の人物が一人として居ないこの場所で、内証話めいた口ぶりで会話する必要などまるでない。しかし彼らはそうせざるを得ない心持ちでいた。
「天井知らずの剛胆か、底抜けの阿呆か。どちらにしろ、褒められたもンじゃあねぇな」
ブライトは小さく伸びをすると、座り直し組み直した脚の上に頬杖を突いた。
「それは誰の事ですか?」
クレールは背筋を伸ばし、閉じられた羊皮紙の束の上に両の拳を並べて置いていた。
「どこにチビ助以外の『そういうの』がいるかね?」
間髪を入れず、彼女は答えた。
「ヨルムンガント・フレキ」
間髪を入れず、彼は吐き捨てた。
「論外だ」
顔を背け、ブライトは緞帳幕を睨み付けた。
この舞台は総じて幕間が短かった。
地面を掘り下げまでして設置した大がかりな装置の威力だ。表で踊り子達が演技している最中に裏側で次の背景を準備し、すぐさま送り出すことができる。場面転換はすこぶる付きに素早い。
裏方達は下品で口が悪いが仕事は早くて正確だった。騒がしい踊り子達も演技が巧みな上に持久力が高い。
彼らは休憩をする必要がないらしい。すぐに次の仕事を始め、こなす。
それがこの演目に限ったことなのか、あるいはこれが通し稽古だからなのか、そもそもこの劇団の特徴なのか、理由は定かでない。
間違いなく言えることは、今日の舞台においては、めまぐるしいほどにテンポ良く事が進み、幕が閉じてはすぐに再開することを繰り返しているということだ。
「小便に行く暇もありゃしねぇよ」
ブライトは戯けて言うと、厳つい掌でエル・クレールの頭を覆うように掴み、彼女の顔を舞台の方向へ向けさせた。
が。
幕は上がらなかった。