いにしえの【世界】 56
「日暮れまで引き留めとくって算段だったんですよ、本当はね。馬鹿助ときたら、それじゃぁっていうんで酒瓶抱えて行きましてね。それもしみったれたヤツをですよ。こんな辺鄙な田舎の安酒で、仮にも都のお貴族様を接待しようってのがそもそも間違ってますでしょう?
ああいった人たちは、美味い物の味はよく知っていらっしゃるから。……中には『銘柄』が良ければ中身がお酢でも気分良く酔っぱらえるお方もいらっしゃいますけども……。そいつは兎も角。不味い酒でも話がおもしろけりゃ聞いてやろうと思っていただけたでしょうけれど、なにしろ出かけたのがあの学のない迂闊な馬鹿助ですからね。結果は解っちゃいたんですがね……。さりとて私が稽古をおっ放り出して、お屋敷に行くわけにもゆかず」
胸に溜まっていた事を一息に吐き出して、漸く、マイヤーは少しばかり気楽になったらしい。
「全くこちらの手落ちです。若様には本当に申し訳もありません」
ぺこりと下げた頭が持ち上がったときには、力なくではあるが、面に笑みが浮かんでいた。
「で、どう落とし前をつけてくれるってンだ? うちの姫若さまは、自分だって貴族だっていうのに『オ貴族サマ』が大のお嫌いでね。できれば勅使殿の隣にゃ座りたくないって仰せなンだがね」
からかい気味に言うブライトの言葉は、おそらく彼自身の本音でもあろうが、エル・クレールの本心も代弁してくれていた。
『どうにもあの方は苦手だ。どことなく緩く生温い物言いは、皮膚にまとわりつくようで心持ちが悪い。あれが都の気風であるならば……私は帝都に生まれなくて良かった』
小さく息を吐いた。彼女にとっては安堵の息だったが、マイヤーには彼に対する不満の現れに見えた。
『なんてことだ、禿馬鹿の所為で若様のご機嫌を損ねちまうとは! すぐさま外へ案内すれば、これ以上ご不興を買うようなことはないだろうが』
マイヤーはずぶ濡れの犬がするように総身をふるわせた。
歴戦の剣士の強さがあって、直情的であるにもかかわらず、人見知りの激しいか弱い心根を持つ、姫君のように麗しい【美少年】が、自分から離れてゆくのは途方もなく惜しく、途轍もなく恐ろしい。
求め求めてようやっと見つけた格好のモチーフだ。いや、もの書きに名声を運ぶという芸術神ポリヒムニアの化身だ。ここでみすみす逃がしてなるものか。
留めておきたい、留めねばならぬ。
「裏からお出になってくださいな。ただし、街道は運悪く一本道ですから、今外に出てはかえってグラーヴ卿閣下の目につきます。ご不便でしょうが、暫し楽屋にお隠れを」
エル・クレールの手を手ずから引いて案内したいのは山々だが、そんなことをしたら忠実な剣士に斬りつけられる。
出しかけた手を引っ込めるた彼は、くるりと踵を返し、足早に舞台袖へ向かった。
「学習能力のあることだ」
にたりと笑い、ブライトは彼の後に続いた。そのさらに後ろを、エルも追う。
舞台裏は蜂の巣を突いた騒ぎとなっていた。
折角引っ張り出した最終幕のセットを片付け、しまい込んだ一幕の書き割りを引きずり出さねばならなくなった裏方達は、口々に不平を垂れ、罵声を上げながら、それでも的確にやるべき事をこなしている。
踊り子達も同様に文句を言い悪態を吐きながら、汗で崩れた化粧を直し、熱を帯びた肉体を鎮めるストレッチを行っていた。
「彼女らはグラーヴ卿のためにもう一度演技をしなければならないのですね。体は大丈夫なのでしょうか?」
先を行く道連れの背に問いかけるような口調で、エルは一人呟いた。
答えは背後から追ってきた。
「朝から続けてに三,四度もすることもしょっちゅうですから。これからすぐにと言われたとしても、それはすこし間が詰まっていますけれど、それでも、これくらいのことは何でもありません」
鈴が鳴るような愛らしい声の主は無論ブライトではなかった。
歩みながら振り返ると、ゆったりとした白い衣裳をまとった踊り子が、上気した顔をこちらに向けていた。
「……君は、たしかシルヴィーといったね」
足を止めずに、エル・クレールは踊り子に声を掛けた。もとより熱を帯びていた頬を更に赤く染め、彼女は
「はい、若様」
さも嬉しげに返答し、つま先立ちで駆け寄った。