いにしえの【世界】 76
歪んだ唇からは、みるみるうちに口紅の赤の色が失せた。塗りたくられた顔料が覆った色を覆い隠せぬほど、その下の肉の色が変じたのであろうか。
死んだ血液の黒が、小さく動く。
「赤い、石……」
楽屋の方角から、獣じみた悲鳴が上がった。
女の声にはとうてい聞こえなかった。とすれば、シルヴィーが泣き叫んでいるのではないだろう。地の底から響く、煉獄の業火に炙られる亡者のごとき声が、可憐な「クレールの若様」の声音とも思えない。
マイヤーはめまいを起こした。恐怖や緊張と、胸の悪い臭気が、彼の神経を麻痺させた。
彼の背骨はまっすぐ立つ力を失い、後ろ川へ傾いた。頭が弧を描いて落ちる。引きずられる形で体が楽団溜まりの中へ倒れ込んだ。
白んでゆく脳漿で、しかし彼は必死で考えを巡らせていた。
『まさかにもソードマンの旦那が、あれほど情けなく泣き叫ぶとは思えない。万が一にもあの旦那が絶叫するようなことがあったとしたら、同時に若様の悲鳴だって聞こえて良いはずだ。あの人達はほとんど一心同体なのだから』
案ずることはない、案ずることはない。
彼は自分自身に言い聞かせた。
狭い楽団溜まりの中は蜂の巣を突いた騒ぎになっていた。
笛吹きたちが一度に舞台下へ通じる小さな潜り戸に殺到し、堤琴弾きは命より大事な楽器を抱えてしゃがみ込み、喇叭吹きと指揮者が身を縮めておろおろと辺りを見回している。
倒れ込んできた戯作者の体を受け止めたのは竪琴弾きのユリディスだった。
彼女は古い竪琴を打楽器弾きの胸ぐらに投げつけるように渡すと、開いた両腕を真っ直ぐに差し出して、落ちてくるマイヤーの頭を散らばった椅子への激突から守った。
マイヤーの上半身を抱え込んだ彼女は、白目を剥いたマイヤーの頬を平手で打った。
両頬を数度打っても意識を取り戻さないことに焦りを覚えたユリディスは、拳を握ると彼の顎げたを思い切り殴りつけた。
おかげで彼の魂は現世に引き戻された。その代償が奥歯二本だというのは、むしろ安く上がったと言わねばなるまい。
兎も角も、マイヤー=マイヨールは咳き込みながら口の中の血と虫食いの奥歯を吐き出し、瞼をどうにか見開いた。
霞む目は、細い黒い影を見た。
倒れ込み、仰ぎ見る格好になったおかげで、マイヤーはグラーヴ卿の顔立ち全体を見ることができた。
『この人の顔は、こんなだったか?』
昼間、酒屋で遭ったときとはまるきり別人のような気がした。
顔は青白く、唇は薄く、眼窩は黒く沈んだ色に染まっており、頬にも顎にも髭はない。
それはあの時と同じだ。
しかし、どこかが違う。
顔立ちが僅かに丸みを帯びている。
顎のあたりのラインが、若々しさを感じる曲線を描いている。
そのカーブが、
『誰かに似ている』
マイヤー=マイヨールは、己の脳みそに浮かんだ「想像」を懸命に打ち消そうとした。
そんなことがあってなるものか、そんなことを信じてなるものか。
鼻持ちならない年寄り貴族と、愛らしく愛おしい若い貴族の、まるで違う二つの顔が、ダブって見えるなどと、そんなことがあるはずがない。
鍔の下にぶら下がる、葉脈だけが残った虫食いの枯葉のようなヴェールの中で、青黒い唇が、ゆっくりと動いた。
「そう、やっぱり、そういうことだったようね。うふふ、思った通りだわ……」
独り言だということは明白だ。グラーヴ卿の目玉は、すぐそこにいるマイヤーの姿など見ていない。
灰色の目玉に、くすんだ赤の色が混じっている。赤く濁った球体の表面には、この場には存在しない、小さな光の反射が映っていた。
人の形をしている。不覚を恥じ、苦痛に歪んだ不安げな表情を浮かべている。
マイヤーがその影を見まごうはずはない。
「クレールの、若……様……」
グラーヴ卿は優しげな、しかし冷たい微笑を浮かべ、呟いた。
「つまりは、あなたはアタシだということ……アタシは、二人もいらないわよねぇ」
卿が何を言っているのか、マイヤーにはまるで意味が判らなかった。判らなかったが、直感した。
――卿は、クレールの若様に向かって喋っている。
締め付けられるような恐怖を感じた。
うっとりと笑いながら、グラーヴ卿は喉の奥から獣の悲鳴を絞り出した。