クレール光の伝説

深林の【魔術師】


 陽が落ちかかっていた。
 深い森を貫く細道の先には、小さな村落があるはずだ。
「騎士様、騎士様方」
 やたらと笑顔をてからせた恰幅の良い農夫が、道行く旅装の二人連れを呼び止めた。
 一人はひょろ長い黒ずくめの男だ。顔色が白いうえ、色彩と言えば胸元を飾る金細工のブローチのみで、さながら闇が人の形を成しているといった姿である。
 もう一人はというと、頭から足先まですっぽりと異教徒のまとうフードとヴェールとマントで覆っている。そのフードも墨を流したような黒で、やはり胸元に金細工がある以外は色がない。
 黒ずくめの男は立ち止まるつもりがなかったようだ。ところが、フードが歩くのを止めたので、その場に留まらざるを得なくなった。
「騎士様方、文字は当然お読めになる?」
 二人連れのどちらも農夫の問いかけに明確な返答をしなかった。しかし農夫は、
「この手紙を読んでくださいな。どうもあたしは無学でしてね。どうやら大事な便りのようなんだが……」
 言いながら二人に近寄った。手には確かに牛皮紙を一巻き持っている。
 二人連れは無言のまま、その場をまるきり動こうとしない。
 農夫はさらに続ける。
「都からの便りなんですよ。どうか読んでくださいな」
「あなた宛ではない手紙を、何故そんなに読みたがるのです?」
 黒ずくめが唇を小さく動かすと、フードとヴェールの下から漏れたかすれ声が、その後を接いだ。
「そいつを運んでいたのが小金を持っていたので、受け取る方はもっとため込んでいるとでも思ったか」
 農夫のてかった顔から笑いが一瞬だけ消えた。
 そいつはすぐに笑いなおしたが、最初の笑顔とは微妙に違っていた。
「読んでくださらないんなら、あんた方には用がないと言うヤツで」
 木々の枝が、悲鳴を上げてざわめいた。
 農夫や猟師、あるいは木こりの格好をした連中が十数名、手に手に鎌やら手斧やらといった柄物を携えて湧き出た。
 ぎらついた目で二人連れを睨め付けるその連中は、圧倒的な「数の優位」に酔っているようだった。
 そいつらの顔つきを一通り見やった黒ずくめは、連中の自信とは対局に位置する別の自信に満ちた声で、連れの人物に話しかけた。
「字が読めないと言うのは本当のようですね」
 フードも全く落ち着く払った声音で応じる。
「つまり、あの手紙が金銭とは無関係だと言うことも、まるきり判っていないという事」
 この二人があまりにも平静でいるので、連中の方が逆に焦り始めた。
 てかり顔が額に血管を浮かせて叫いた。
「何が無関係だ! しこたま金貨を抱え込んだ腐れ貴族が懐深く隠していたんだぞ!」
「緑色のベスト、鵞鳥の白い羽根が付いた赤いフェルト帽、二匹の蛇かがらみ合う紋章の刻まれたバックル付きのベルト?」
 黒ずくめの軽い語尾上げに、てかり顔が目を丸くした。
 確かにこの連中がつい今し方手に掛けた人物は、その通りの服装をしていた。
「その牛皮紙についた封緘を見れば察しが付きます。確かに帝都行政部からの書簡ではありましょうが、簡易な命令書でしょう。と、なれば、それを持って走る使者もまた下級の雑吏……先ほど言ったような服装の、ね。下級勅使が行く先と言ったら、何の利権もない木っ端な行政機関。小金どころか明日のパンにも困った小吏がぽつんと坐っているだけのところですよ」
 黒ずくめはふわりと笑った。
 その笑顔の穏やかさは、連中を逆上させるに充分の凶器であった。
 てかり顔が唾と怒声を吐き出すと、他の連中もわめきだし、てんでバラバラに駆け出した。
 大半は逃げるように森の奥へ。僅かばかりの残りとてかり顔が二人連れへ向かって躍りかかる。
 二人連れも二方向に動いた。ただし、ぴったりと息のあった動きだ。
 黒ずくめが後ろへ跳ね退き、フードが前へ踏み込む。
 三人ほどの有象無象が手斧やら鎌やらでフードに斬りかかった。フードは避けるという動作をしなかった。
 どうも避ける必要はないと判断したらしい。マントの下で左腕がもぞりと動いたかと思うと、次の刹那には有象無象どもの武器が総て弾き飛ばされていた。
 マントから突き出た左手には、長廊下の床板を一枚矧がしてきて柄を付けたような物体が掴まれている。それが鞘に収められた長剣だと一目で解る者は、まずいないだろう。
 息を吐く暇なく、フードはさらに深く踏み込む。
 そして立ち向かってくる者も逃げる者も区別なく、その莫迦長い鉄の塊で殴りつけてゆく。それも泳ぐような、舞うような、華麗な身の軽さで、である。
 地べたが失神者で埋まると、フードはひらりと飛んで、一番最初に殴りつけたてかり顔の鼻面に鞘の先を突き付けた。
 だらしなく尻餅を突いたそいつは、背後から唐突に、
「その勅書を、こちらへ頂けませんか?」
という柔らかな声がしたのに過剰反応を示し、結果として気を失った。
 黒ずくめとフードは顔を見合わせ、殆ど同時に呆れのため息を吐いた。

 地図によると、森を抜けた先にあるのは小さな集落のはずだった。
 確かに狭い。
 その割に、建物が多い。
 立派な見せかけだが急作りの建物の群と、その間を縫って歩く人々の数を見ると、地図を疑いたくなる。
「やあやあ、よくぞ手紙をお届け下さった。それも封緘を切らずに!」
 急作りの建物の内の一つで、その土地の支配者が頬を紅潮させていた。
「さあ、お客人達をねぎらう席を設けないか! さあさあ、宴席を、楽師を呼ばぬか」
 カイトスの領主であるジャン・ピエール=ポルトス伯爵は、うわずった声を上げている。
 ……幽かに狂気の色を感じる口調だ。
 二人連れの旅人達は呆気にとられるしかない。不安げに立ち尽くしていると、位の高い家臣とおぼしき中年の男が一人、彼らに近付いてきた。
「我が主君には心労が重なり、取り乱しております。どうかお見逃し頂きたい」
 深々と頭を下げる。
「それがしはアンドレイ=マルカスと申します。失礼ながら御貴殿方のお名前を」
 黒ずくめの男はマルカスと同じほどに頭を下げて応じた。
「ご丁寧なご挨拶、痛み入ります。私はレオン=クミン。これは妻のガイアです」
「妻……?」
 マルカスは疑問を露骨に顔へ出した。
 頭から足先まですっぽりと布で覆った、大柄な、その上長大な剣を携えた人物が、貴婦人がするような深く腰を下げる礼をしているのだ。違和感に眉を寄せるぐらいは誰でもやるだろう。
 だが、ホールに響く大声で、
「化け物め!」
 と叫んだのは彼ではない。
 マルカスの背後に別の人物が立っていた。
 やはり高官らしいが、服装から明らかに軍人であることが知れる。神経質に眉をつり上げた痩せた男だ。
 男はつかつかと旅人達に近寄り、やおらガイアの頭上へ手を伸ばした。
「正体を現せ!」
 ヴェールを掴む。
「フランソワ、止めないか!」
 マルカスの制止は間に合わなかった。軍人はその布きれを一息に引いた。
 古いワインの包装紙を矧がしたように、「中身」の上半分が現れた。
 確かに女性である。それも、非現実的な風貌の。
 黒目がちな瞳に、その愛らしさとは少々アンバランスな太い眉が乗っている。細い鼻筋、厚く濡れた唇。美女というよりは、整った顔立ちと評した方が正しかろう。
 少々長く少々太めの首の下には、筋肉質の太い左腕と右腕の殺げ落ちた肩が付いている。
 肉体を構成するパーツの総てが「普通」とはかけ離れている。だが、彼女を現実から遠ざけている一番の原因は、頭だ。
 髪の毛というヤツがないのだ。
 僅かに両耳の上辺りからもみあげに掛けて、漆黒のリボンよろしく、一房ずつぶら下がっている。
 それが決して加齢による禿頭でないと言うことは、地肌を見れば判る。
 頭頂部からうなじ至る皮膚が、赤くケロイドを成している。火傷の痕であることは、誰の目にも明らかだった。
 軍人は目と口をだらしなく開け、しげしげとガイアを眺めた。
 マルカスに手中のヴェールを奪われても、心ない視線を哀れな女性から背けることをしない。
 ガイアは自嘲がかった笑みを浮かべている。
「かつては女性ながら剣術の指南を。しかし数年前に火傷を負いましたので」
 簡潔な説明は彼女の夫の口から発せられた。それにより、ようやっと己の無神経さに気付いたらしい軍人は、何も言わず踵を返した。
「申し訳、ありません」
 ヴェールを女剣士に返しながら、マルカスが頭を下げた。
「フランソワ……ビロトー将軍は、つまり厳格な人物でして。このところ不穏な事件が立て続けなものですから、すこしでも不審な事柄には過敏に反応してしまい……」
「お気になされぬな」
 ガイアは再びヴェールを身にまとった。
「私が顔を覆うのは、私自身が己を恥じているためではありませぬ。私の醜さを見て他人が気分を害することを防がんがため……」
 紗の下に隠された顔がどのような表情を作っているのか、マルカスには知れない。ただ恥ともとれる申し訳なさに胸が詰まった。
「……お部屋に、ご案内いたしましょう。旅の道行きでお疲れのことでしょうから」
 ようやく事務的な言葉を絞り出したマルカスに、レオンはやはり事務的な笑顔で応じた。
「後ほど、便りの内容を漏らしてくだされば、我らの疲れなど吹き飛ぶのですが、いかがでしょう?」
 深いため息の後でマルカスはつぶやいた。
「……内容によります」

 レオン=クミンとガイア・ファテッド=クミンが案内されたのは、狭く暗い部屋だった。
 ベビーベッドのように小さな寝台が二つようやっと並べられており、それだけで部屋の殆どが占拠されている。
 荷物を置くスペースも、外套やヴェールの類を掛けておくフックもない。
 硬い布団の上に、旅人たちは彼らの旅着と古い地図を広げ、膝をつき合わせた。
「カイトスの都はもっと北の筈ですが」
 レオンの細い指が、現在位置よりも僅かに上の辺りを示す。
「遷都の理由は何であろう?」
 ガイアの視線は現在位置に落ちる。
「フランソワ=ビロトーとやらが、我々に対して大層な警戒心を表し、あまつさえ貴女のことを化け物呼ばわりした所を見ると……」
「まあ、一揆が起きて都が焼き討たれた、という訳ではありますまい」
 二人は顔を見合わせた。
 互いの考えが一致していると言うことが、口に出さずとも判る。
 レオンは唇の端をほんの少し持ち上げた。見知らぬ者であれば、それが彼の笑顔だと気付かないだろう。
「しかし困った事になりました。お殿様があの様子では、情勢を伺うことも叶いません」
「……まあ、どこの支配者も物事を知らないという点では大差ないのだけれど」
 大きなため息を吐きながら、ガイアは右肩口を撫でさすった。
「痛みますか?」
 レオンは妻の傍らに座り直し、彼女の肩にふわりと手を回した。
「痛みではなく……疼くのです。でも心配しないで。いつものことゆえ」
「習慣性の痛みであるから、逆に心配なのです。私は貴女がいないと生きてゆけない情けない男だと……貴女が一番よく知っているでしょう?」
 細い腕に力を込めて、レオンはガイアを抱き寄せた。屈強な女剣士は、その力強い体躯に見合わぬしなやかさで、脆弱ですらある夫の胸に顔を埋めた。
 と。
 ドアの開く音がした。そして小さく
「あ」
 と声がした。
 声の主は慌てて戸を閉めようとしたようだが、むしろ部屋の中の人物達がそれを制した。
「マルカス殿」
 二つの声が小気味よく重なって響いた。
「その、勅書の内容が喜ばしい事柄でしたので、急ぎお知らせした方がよいかと思いまして……。慌てていたもので、ノックもせずに……その、失礼を……」
 中年男は慌てふためいている。どうにも「男女の機微」というヤツを苦手としているらしい。
「では、便りの内容を教えてくださるのですか?」
 レオンがにこやかに笑ってみせる。
 先ほどガイアにのみ見せた笑みの幽かさとは対極にある、はっきりとした表情だ。ところがこちらの笑顔はといえば完全な「作り笑い」だった。
 ガイアは夫のこれを「営業用スマイル」と呼んで嫌っており、それゆえレオン自身もできうる限り彼女の前では作らないよう心がけている。
 とは言うものの、人間関係を円滑にするために必要な表情である。例えば今、彼の作り笑いは恐縮しきりのマルカスの緊張感を解すに役立った。
「ミッド公国をご存じでしょう?」
 マルカスは、レオンとガイアの顔色が一瞬白ばんだことに気付かなかった。
 もっとも彼を責めるのはお門違いであろう。レオンは「営業用スマイル」を崩さずにいたし、ガイアは来客と同時に素早くヴェールの奥へ身を隠している。
「火山が噴火し、国民の過半数と大公ご一家が命を失った。四年ほど前のことですが……。ところが、亡くなったと思われていた姫君が、生きておられる、と」
「それは……正式な発表ですか?」
 笑ったままのレオンの問いに、マルカスは首を横に振った。
「内々のお達しです。公表されるのは、姫君が帝都に到着なさってからだそうです。……なんでもお怪我を召されているとかで、皇弟殿下が御領地のガップで保護なさっているのだと」
「皇弟フレキ殿下が、ミッドのクレール=ハーン姫を……保護?」
 復唱の語尾を上げ、レオンは確認の視線をマルカスへ向ける。今度は首が縦に動く。
「その内々のお達しと言う代物が、なぜこちらのお国に届けられたのでしょう? 大変申し上げにくいのですが、カイトスは帝室と近しい土地柄ではないと認じておりましたが」
「実は、我が主君の甥御たるデートリッヒ=ユリアン卿が、帝都ヨルムンブルグ行政府の末席におりまして」
 マルカスは誇らしげに言った。
 デートリッヒ=ユリアンは、カイトス始まって以来の逸材だそうだ。
 優秀な人材の名は賞賛と妬みをまとって市中に流布するものだ。
 ユリアンなる「カイトス始まって以来の逸材」の名前は、少なくとも、帝国を広く旅して見聞を広げてきた二人の耳には、入ってきていない。
 で、あるから、その逸材とやらが帝都でどんな仕事をしているか……あるいはどんな仕事も与えられていないか……レオンにもガイアにもおおよその想像が付く。
「ではそのユリアン卿が都の様子などをお知らせ下さるのですね。この度の便りも?」
「ええ。もっとも『急に休暇が取れたから里帰りする』というのが手紙の本文だったのですが……。到着日はどうやら今夜か明朝当たりになりそうです」
 マルカスは饒舌になっていて、聞きもしないことまで答えてくれる。
「なるほど……。ああ、一つ伺ってよろしいでしょうか?」
 レオンは笑顔を大きくした。
「ポルトス伯はなぜこの様な僻地の仮宮においでるのですか?」
「それは……」
 マルカスの紅潮した顔が、一気に青黒く変じた。
「都に……天災が……ありまして。致し方なく……」
「左様でしたか。一日も早い復興が成されますよう、お祈りいたいします」
 彫刻のようなレオンの笑みを見ながら、マルカスは脂汗を拭いた。

 質素な夕餉の席に、浮かれた領主の鼻歌が響き渡る。
 席に着いているのはポルトス伯と二人の旅人のみ。伯爵の左右にはマルカスとビロトーがしかめ面で突っ立っており、さらに食卓の周囲をぐるりと兵士達が取り囲んでいた。
 レオン=クミンとガイア・ファテッド=クミンは、突き刺すような視線を四方から受けながら、無言で食物を口に運んでいた。
「デートリッヒが帰ってくる、帰ってくる。デートリッヒがぁ帰ってくるぅ」
 ポルトス伯は出鱈目な節を付けたその言葉だけを繰り返している。
 居心地の悪い食卓と言うほかない。
 早いところ退席したいのだが、どうやらそうもゆきそうにない雲行きだ。
 ドアが小さく開き、小吏が一人入ってきた。こそこそと壁沿いを歩いたそいつは、ビロトーの足下にしゃがみ、顔だけぐいと上に向けて、なにやら口元を動かした。
 ビロトーのしかめ面が、さらに渋くなった。
「伯爵」
「んーんんー?」
 ポルトス伯は鼻歌を止めずにいるが、一応は「聞く姿勢」ではあるようだ。ビロトーの方へほんの少し身体を傾けた。
「デートリッヒ様が、森の入り口までお着きになったと」
「おお、おおお!」
 陽気な伯爵はいきなり立ち上がって椅子を蹴倒すと、猛然とドアへ向かって駆け出した。
 慌てたのはビロトーとマルカスだ。
「伯爵!」
「我が君!」
 口々に言いながら、ポルトス伯に追いすがり、彼の手がドアノブに届く寸前に、その前に立ちふさがった。
「出迎えねばならんだろう。デートリッヒはあの森の暗闇が、小ぃぃさい頃から大嫌いだったのだぞ。昼間でも暗いから、怖い怖いとよく泣いていた」
 泳ぐ眼差しの先には、おそらく甥の幼い頃の姿が浮かんでいるのだろう。
「デートリッヒ様は、もう赤子ではあられませんぞ」
「それを子供扱いなさっては、むしろユリアン卿に笑われまする」
「んんーんー?」
 ポルトス伯は不服そうに突っ立っている。
 二人の家臣は、なだめすかし、どうにか主を席に連れ戻した。
 座りはしたものの、伯爵殿はホークの先でスープの浮き実をつついてみたり、ナプキンを丸めてみたり、とまるきり落ち着きがない。
 来客があきれ果て、形ばかりの挨拶を残して退室したのにも、まるで気付かない。……いや、客と食卓を共にしていた事そのものを、忘れきっているのだろう。
「申し訳ありません」
 食堂のドアを背に、マルカスが今日何度目になるか知れない謝罪をした。
「お気になさらずに」
 レオンも今日何度目かの「営業用スマイル」で応じた……後、
「残念でなりません。ぜひユリアン卿にお話を伺いたかったのに……」
「話……とは?」
「ミッドの姫君の事ですよ。ミッドが火山……魔物に襲われたという噂もありますが……ともかく、あの国が壊滅して、もう四年以上経っている。姫君が無事ならば、それは奇跡以外のなにものでもない」
 マルカスはレオンの言葉を一通り聞き終わって、さらに二呼吸ほどした後でようやく、彼が相当に不穏な発言をしたのだということに気付いた。
「ミッド公国が魔物に襲われた?」
「どのような武具を持ってしても決して『死ぬ』という事のない魔物の群が現れて、あらかた国を破壊尽くした後に山が火を噴いたのだと……」
 相変わらずの笑顔でいうレオンに、ガイアがそっとすがりついた。
「……レオン殿、滅多なことは……」
 妻の忠告を受け、彼は最後に一言付け足した。
「あくまで噂ですが」
「噂……死なない魔物……」
 マルカスの額に、ぬるりとした汗が湧いた。指先が白くなるほど拳を握り、その拳を小刻みに震わせている。
「どうか、なさいましたか?」
 レオンがうつむき加減の彼の顔をのぞき込んだ時だった。
 廊下の奥がざわめいた。
 雑吏が一人、駆けてくる。その後ろにもう一人、こちらは悠然と歩いている。
「ユリアン卿がお戻りです! ユリアン卿が、お戻りになられました!」
 雑吏は叫きながら食堂に駆け込み、その背後の人物は、廊下の端にいる「見知った顔」にゆっくりと近寄った。
「アンドレイ」
 中年男の逞しげな名前が、どろりとした響きを持ってその人物の口から出た。呼ばれたマルカスが慌てて振り返ると、その人物の視線は彼を通り越して二人の旅人を眺めていた。
「ユリアン卿……お早いお着きで……」
 マルカスは生唾で乾ききった喉を濡らし、それでも嗄れた声で言った。
「アンドレイ、相変わらず他人行儀な物言いだな……」
 そのからみつくぞんざいな言葉遣いの人物は、どう見ても三十前の若輩だった。
 青白い顔で、骨張った体つきをし、猫背に曲がった背中が高くない背丈をより低く見せている。
「私は貴君をめのと(教育係)というより友とも思っているというのに」
 マルカスに語りかけながら、視線は見慣れない二人連れに注がれ続けている。
「そちらは……?」
「お客人です。国土を旅して回っておられ、このカイトスにお寄りになられた……」
 マルカスが言うのに合わせ、レオンとガイアは型どおりの礼をした。
「国土を……。ではいろいろなことを知っていらっしゃる?」
「知らぬことのほうが多うございます」
 レオンが答える。
「ご謙遜を」
 デートリッヒ=ユリアンは、生白い頬の薄い肉をぴくりと動かした。……それが彼の笑顔であるらしい。
「領国の中に閉じこもって外を見ようとしない多くの者達よりも、そこもとらのごとき行動派の方が……世界が広い」
 筋張ったユリアンの指が、食堂のドアを示した。
「一緒に食事をしませんか? あるいは美酒などを傾けながら、旅の話を語っていただきたい」
 レオンは彼の指先をちらと見、
「しかし、御貴殿とポルトス伯の水入らずを邪魔する訳にはまいりませぬゆえ」
 頭を下げた。
 ドアの向こうに、確かに人の気配がする。おそらく、ビロトーに羽交い締めにされたポルトス伯爵のものだろう。
「食事は大勢で摂った方が楽しいもの……。で、あろう、マルカス?」
 矛先を向けられたマルカスは、眉間に深くしわをよせ、上目でクミン夫妻を見た。
 レオンとガイアは、肩を数ミリ上下させて表現し……彼ら以外にはその呆れと諦めは伝わらなかったようだが……ユリアンの招きに従った。
 中では、案の定ポルトス伯が狂喜乱舞し、案の定ビロトー将軍が大汗をかいていた。
「ユリアン、ユリアン」
 ポルトス伯爵は白髪交じりの髪を振り乱して甥に抱きついた。ユリアンが困惑の目をマルカスとビロトーに向ける。
 両将軍は互いの顔を見、次いで二人の旅人の顔を見、再び互いの顔を見た。ため息が二つ漏れた後、口を開いたのはビロトーだった。
「得体の知れぬ物がカイトスを壊滅させたのです。伯爵は心痛のあまり心を乱されまして、この様な有様……」
「得体の、知れぬ……?」
 ユリアンは針のような視線をビロトーへ向けた。
「そのような物言いでは理解ができぬ」
「それ以外には申し上げようがありません。形だけならば、首のない死体と表現できましょうが……」
 ビロトーは唇をかみしめた。
 ユリアンの視線はマルカスに移った。マルカスも唇を閉ざしている。
「貴君らがこれほど無能だとは思わなかった。折角お前達を見込んで、私が【皇帝】に言上し、直臣に迎えるとの確約を得たというのに。これでは私が恥をかく」
 ユリアンは吐き捨てるように言った。二将軍の目に驚愕の光が浮かんだ。
 ユリアンは続ける。
「今帝国がどのような危機に瀕しているか、この様な僻地にあっては知り得ぬであろう。【皇帝】は憂いておられる。勅命に従わぬ者が多すぎると。それ故、優秀な人材を募り、無能な者達を排除しておるのだ」
「初耳ですね」
 ぽつりと、レオンがつぶやいた。その幽かな声にユリアンは振り向いた。上得意な笑みを顔に満たしている。
「【皇帝】近くに仕えている者しか知り得ぬこと故、そこもとらの類が耳にしたことがないのは当然のこと」
 無数の棘が聞く者の神経を逆なでする、荊のような言葉だ。
「デートリッヒ様」
 ビロトーが声を震わせた。
「我々が、皇帝陛下の直臣と成れるのですか?」
「貴君らはこのような田舎に埋もれるべき人材ではないからな」
「では、帝都に迎えられると!?」
「当然だ」
 ビロトーは頬を上気させた。一方、マルカスの顔からは血の気が引いてゆく。
「では、このカイトスの地は……ポルトス伯爵の御身は、いかが相成りますか?」
 ユリアンは己にすがって、調子外れの歌を唱っている伯父をちらと見た。
「それは貴君らの出方による」
 ニッと笑い、ユリアンはなにやら取り出し、二将軍の前に差し出した。
「【皇帝】よりの下賜の品だが……貴君らがこの品にふさわしくなければ、直臣の話は無かったことになる」
 ユリアンの手の中から、二人の将軍の手に渡ったのは、紅い珠だった。
 それは赤子の拳ほどの大きさで、ぬるりとした光を放っている。
 二人がその珠を握るか握らないかの瞬間、
「それを受け入れてはいけません!」
 叫んだのは、レオン=クミンだった。
 皆の視線が彼に向けられた。レオンは胸元に手を置いていた。手の中には、小さな金の細工が握られている。
 金細工は、激しく震えていた。その震えは空気を揺るがし、鼓膜を引き裂くような音を生み出している。
 レオンとガイア以外の者達は、思わず耳を塞いだ。
 紅い珠が一つ、床の上を転がった。
 転がって、レオンの足下に達し、その後、物理と自然の法則に反する動きを始めた。
 ふわりと浮かんだのである。
 そしてレオンの手の中に消えた。……正確には、彼の手の中の小さな金細工の中に吸い込まれたのだ。
 音が止んだ。そして新たな音がした。
「ビロトー将軍、それを捨てなさい!」
 ガイア・ファテッド=クミンの叫び声だった。
 ガイアは言うなりビロトーの腕を掴んだ。
 彼の手には紅い珠があった。……しかしそれは真円ではなかった。珠の半分が、掌の中に埋没している。
「チッ!」
 ヴェールの中で舌打ちすると、ガイアはマントの中で左手を動かした。
 と。
《動くな》
 声のする方へ振り向いたガイアの目に映ったのは、彼女の夫と、その傍らに立つ化け物の姿だった。
 枯れ木のような皮膚だった。濁った赤い目をしている。髪の毛は火炎のように逆巻いていた。指の先に尖った爪が生え、その切っ先がレオン=クミンの喉元にぴたりと宛われている。
 化け物の足下には、ポルトス伯爵がいた。
 ぺたりと尻餅を突いた形で床に座り込み、顔を上に向け、化け物の脚にすがりついている。
「デートリッヒ……?」
 伯爵は喉仏をひくつかせた。
 返事はない。代わりに、脚が動いた。
 ポルトス伯爵の身体は勢いよく転がった。
 椅子と机と、幾人もの兵士達を吹き飛ばし、壁に穴を開け、廊下に飛び出して、ようやく止まった。
「我が君!」
 マルカスが矢の勢いで主君を追いかける。
 幾人かの兵士がそれに続き、幾人かの兵士はその場に立ち尽くした。
「ずいぶんなことをなさるものですね。仮にも伯父御でありましょうに」
 レオンは喉元の凶器を気にしながら、しかし平静と変わらぬ声色でつぶやいた。
《有益な人間か、あるいは無益な人間か。それ以外は、あまり必要でない情報なのだよ》
 穀物が腐敗し糸を引いているのを思わせる、耳障りの悪い声で、デートリッヒ=ユリアンであったモノが答えた。
「情報……と、きましたか」
《そう。情報は重要だよ。情報が無ければ、私は貴君らの戦法に対策を練ることができなかったからね》
「私が引き、ガイアが剣を振るう……ということを、どなたからお訊きになったのですか?」
 化け物の頬の肉がぴくりと動いた。
《貴君らが森の賊どもにとどめを刺さなかったことに、感謝している。まあ『旨い』情報は少なかったがね》
 遠くで大きな物音がした。
 悲鳴や叫びが立て続けに起こり、次第に食堂に近付いてくる。
 ドアが開いた。
 幾人もが室内に文字通りなだれ込んで来た。
 血の臭いがするその人間たちには、頭がなかった。
 恰幅の良い農夫の「身体」、猟師や木こりらしき姿をした「身体」。それらがいくつも折り重なり、這いつくばって進む。
 目も耳も鼻もない死体が、いかにして目標物を見つけるのか知れない。だが連中は確実に生きている人間ににじり寄ってゆく。
 足首を掴まれた一人の兵士が、悲鳴を上げ、やたらに駆け出した。連鎖的にほかの者達も駆け出す。
「出た! また、死体が、動く死体が!」
 パニックが起きた。唯一無二の出入り口には首なし死体が群がっている。どこにも逃げられない。
 レオンは動く死体……グールであるとか喰人鬼であるとか呼び慣わされている物体……を見、さらに化け物の口元を見た。
 化け物の口の中には、鋸を思わせる鋭い歯が並んでいる。その歯の間に、髪の毛であるとか面の皮の一部であるとかが挟まっていた。
「なるほど。あなたにとって『食事』と『情報収集』は同義語なのですね」
《で、あるから、できるだけ『旨い』情報が欲しいのですよ……例えば、貴君の脳味噌。【アーム】を封印するその器具の情報などは、一体どのような味がすることだろう》
 尖った爪が、レオンのこめかみにあてがわれた。
「レオン殿!」
 ガイアはビロトーを突き放し、あの長大な剣を引き抜こうとした。
 当然、化け物が彼女の行動を許すはずもない。
《その物騒な鋼を捨てなさい。でないと今すぐこのおとがいを噛み砕いて、ぎっしり詰まった『情報』を残さずいただくことにしますよ》
 レオンのこめかみから、鮮血の滴が一粒、流れ落ちた。
 ガイアの足下で、ガランと、鋼鉄が鳴いた。
《その衣装も捨てなさい。あの剣も最初はそのマントの下に隠していたくらいだから、まだ別な武具を隠しているかも知れない》
 ガイアは無言でヴェールを取り、フードとマントを脱ぎ捨てた。
 布は、確かにその中に金属質のものを包んでいると知れる形状で、床に広がった。
 ガイアは、寸鉄帯びぬ肌着姿でその場に立っていた。
 白い皮膚の下、みっしりと付いた筋肉の鋭角さが、薄く乗った脂の柔らかさですっかりと失せている。
 化け物はにんまり笑った。
《そうだ、フランソワ。【アーム】を手にした感想を聞こう》
 名を呼ばれ、ビロトーは改めて己の両手を見た。
 紅い珠を握った筈の右の手に、珠がない。掌には、赤黒い円があるばかりだ。
 その赤黒い円が、そこに心臓が移ったかのようにズキッズキッと脈を打っている。
 驚愕に痙攣していた頬が、愉悦に引きつりだした。
「ああああああああ」
 血管が浮き出た右の拳から、ミシミシ、ビキビキと音がする。
 筋肉繊維が断千切れる音、骨の砕ける音である……その音を立てている本人は、まるでそれに気付いていないが……。
「力が、力が、漲るっ!」
 網の目に浮かび上がった血管は、拳から腕、肩口からやがて首、顔から頭まで覆い尽くした。
 フランソワ=ビロトーは、化け物になった。
《うぁぁるぁぁぁっ!》
 化け物が遠吠えをあげた。
 腕の五指が一塊りの肉に変じた。更に肉は切っ先を尖らせ、なまくらな剣の形に変わり果てた。
 それを、振り回す。
 椅子が砕けた。テーブルが吹き飛んだ。床を覆っていた安物の絨毯が煽られて裂け、薄い敷石が割れ散った。
 空気も、空気以外のものも構わず薙ぎ払い切り裂く勢いで、ビロトーであった化け物が剣の形をした腕を振り回す。
 その切っ先が、激しくガイアに触れた。
 ガイアは弾き飛ばされ、動く首なし死体の中へ落ちた。
《あはははは、あぁはははぁっ!》
《ふははははぁはははははっ!》
 2つの高笑いが、二匹の化け物の口から溢れ出た。
 そしてもう一つ。
「くくくくく」
 笑っていた。レオン=クミンが、うつむいて、肩を揺すって、地に響く低いうねりで、笑っている。
 彼の妻の身体に、首のない死体どもが群がっている。絹が引き裂かれる音が、確かに聞こえている。
 レオン=クミンは笑っている。
 化け物はレオンの細い顎を掴み、強引に持ち上げた。
《人間という生き物は、おしなべて脆い。大切なものを失うと、例外なく精神が崩れ落ちる。伯父上も、そして貴君も。 ……残念でならない。どれほど知識に満たされていても、狂った脳髄は途端に味が落ちる》
 レオンは逆らわない。ゆっくりと顔を上げた。
 穏やかな笑顔だった。瞳は透き通り、口元は引き締まっている。
 その、いささか薄目の唇が、はっきりと動いた。
「デートリッヒ=ユリアン卿……いや、むしろ、オーガ【魔術師マジシャン】とでもお呼びした方が良いようですが」
 人食い鬼の親玉が顔をしかめた。
 レオンの笑顔は、いっそう強くなった。
「どうやら、間違ってはいなかったようですね。どうにも私は他人様の【アーム】の『なまえ』を読みとるのが下手でして……。どうやらあなたもご同様のようですが」
《何……?》
 【魔術師】のこめかみの皮膚の下で、どろりとした液体が脈を打った。濁った目で、レオンの顔をまじまじと見回した。
 道化の踊りを見ているときのような彼の笑顔のまま、彼は唱えた。
「古の仁者よ、私と共に人を救い給え」
 赤い光が【魔術師】の左目に斜め下から射し込んだ。
 暁の陽光に似た強く暖かなその光は、レオンの右肩から、長い竿状に伸びた。
 レオンはその光を……掴んだ。光の一端がほぼ直角に折れた。
 それは麦を刈る巨大な鎌、絵本に描かれる死神の鎌そのものの形状だ。ただし、鮮血のように赤い。
《貴様っ、人鬼狩人オーガハンター!?》
 目の前にいる痩せた男が、己のような存在を駆逐することを目的としている人種であることを知った【魔術師】は、生きの良い海老の勢いで飛び退いた。
 彼の足先に、赤い光がまとわりついた。
 レオンの振るった巨大な鎌であった。切っ先が【魔術師】のくるぶしを捕らえた。何の手応えもなく、【魔術師】の両足先は脹ら脛から切り離された。
 血飛沫は無い。悲鳴も無い。
 【魔術師】は足の失せたその切断面で着地した。茶色い腐汁が、床の上に広がっている。
 しかし痛みを訴えることも無い。
 ただ、憤怒だけがあった。
 【魔術師】は生臭い息を吐き出しながら、口を大きく開けた。
 口蓋が裂け、顎が外れ、頭は横真っ二つに割れた。舌なのか触手なのか解らないものが真ん中で蜷局とぐろを巻き、鎌首をもたげている。
《ビロトー! 女を捕らえろ! 死骸を引きずり出せ! この下司ゲスの目の前で、頭から喰らってやれ! この末成りを絶望させろ!》
 どこから声が出ているのか知れないが、確かに【魔術師】は喋っている。
 かつてビロトーと呼ばれていた一匹のオーガが、鞭打たれた馬の勢いで、グールが山と群がる一点へ駆けた。
 死体の山は、もそりと蠢いてはいる。が、その動きから包括物に対する攻撃性は感じない。
 新米オーガが死体の山を掻き分けると、その中からガイアがゆっくり立ち上がった。すっかり衣服を剥がされ、すべらかな白い肌を晒してる。
 普通なら、惨めななりであるはずだ。だが彼女からは憐憫さが感じられない。
 さながら大理石の像のようであった。右腕が欠けているところ、そして顔に広がる堂々たる微笑など、古い都から掘り出された気高い狩猟の女神を思わせる。
 女神の左手が、対峙する化け物の背後を指し示した。
「【剣の従者ペイジ・オブ・ソード】殿」
 驚愕した。……グールの群の中から無傷で現れた女が、己のすらまだ実感していない【なまえ】を看破したのだ。
「どうやら、間違ってはいないようだ。全く、他人様が持っている【アーム】は、その人間の身体を変化させなければ正体を表さないと来ている。……兎も角。【剣の従者】よ、私を喰らう前に、そちらとケリをつけた方が良いと思うのだが」
 ビロトー……いやオーガ【剣の従者】は、左の肩口に背後から加えられた衝撃を感じた。
鋭い切っ先の金属の棒切れが、肩に深くめり込んでいる。
 よどんだ目で、その先をたどり見る。脂汗を額に吹き出させたアトスの、蒼白とした顔があった。
《アンドレイ、勅命だぞ。俺が遂行しているのは、皇帝陛下からの命令だ。お前は何故、逆らう?》
「その首なし死体が、我らの故郷にどのような害を加えたか、ビロトー、忘れたとは言わせないぞ。町を破壊し、人々を襲い、主君の心を打ち砕いた化け物を、今誰が操っている!? そいつのもたらしたものが勅命だと? そんな勅命など、知ったことか! そんな勅命に従っている者のことなど、知ったことかっ!」
《この不忠ものめが!》
 【剣の従者】は肩に食い込んでいたアトスの剣をいとも簡単に払いのけ、大上段に振り上げた両腕の剣を、迷い無くアトスの脳天めがけ振り下ろした。
 アトスはその場にすとんと尻餅を突いた。
 何の傷も負ってはいない。
 【剣の従者】は、剣を振るえないでいる。
 理由は、後ろから彼の顔面を鷲掴みにしている屈強な右腕にあった。
 隆と筋肉の付いた逞しいその腕は、紅い光を放っていた。
 【剣の従者】は目玉を極限まで動かして、この紅い腕の正体を探ろうとした。
 視線が背後に回らぬと悟ると、今度は耳をそばだてた。小さな声が、かすかに聞こえた
からだ。
 声は言う。
「我が身を突き動かす怒りよ、我が力となりて我が敵を討て! 【ストレングス】!」
 紅い腕が、高熱を発した。
 肉の焼ける臭いと音が、【剣の従者】の顔面から立ち上った
「と、溶ける! 顔が、溶ける!」
 【剣の従者】はがくりと膝を落とした。
 焼けた鉄棒のような指の間から、彼を見下ろす顔が見える。
 ガイア・ファテッド=クミンであった。殺げ落ちた肩口から、透き通った紅の腕が生えていた。
「助けて、顔が、頭が、融ける!」
 ガイアは腕の形をした武器……ビロトーをオーガに堕としめた、あの紅い珠と同じ【アーム】と呼ばれる、変幻自在な物体……に力を込めた。
「案ずるな。貴公が『生きた人間』の心を失っていなければ、死ぬことはない」
 【剣の従者】の身体が、床に叩き付けられた。
「ひ、人のっ、心ぉっ?」
 床の上をのたうち回る【剣の従者】の身体は、本人がいう「融ける」という状態とはかなり違った変化を始めていた。
 縮んで行くのである。
 見えぬ手が、その掌で出来損ないのパン生地を丸める……そんな変化であった。
「あるいは、揺るぎない信念」
「信……ガッ……念?……ッグァ」
「大切なものを自分の命を懸けてでも守りたいと願う心。理不尽な出来事に決して屈服しない心」
 縮み行く【剣の従者】を見下ろして、ガイアは静かに言う。
「栄達のために故郷を捨て、長年使えた主君を見捨て、友人の言葉に耳を貸そうともしない貴公は、残念だが、両方とも持ち合わせていないようだ」
「がぁっ!」
 声なのか、音なのか、区別の付かない空気の震えを残し、フランソワ=ビロトーは消滅した。
 床に、紅い珠が一つ落ちている。
 ガイアはそれを拾い上げ、投げた。
 金属製の鋭い音がして、珠は、レオンの持つ金細工の小さな孔の中に吸い込まれた。
「さて」
 金細工を胸に止め、レオンは顔を【魔術師】の方へ向け直した。
「あなたに、お訊きしたいことがあります」
 レオンは深紅の鎌を肩に担った。
 【魔術師】の目玉らしきモノは、自分から離れてゆく刃の先を追い、動いている。
「皇弟フレキ殿下が、ミッドのクレール姫を保護しておられるそうですが、本当ですか?」
 答えは返ってこない。
 変わりに、粘膜に覆われた触手が、レオンの眉間めがけて勢いよく伸びた。
 触手はレオンの頭があった場所を突き抜け、壁をぶち破った。
「お答えいただけないのですね」
 レオンの声は、床近くから聞こえた。
 しかし、【魔術師】は彼の姿を完全に見失い、再び見付けることができなかった。
 湾曲した刃が、化け物の身体の真ん中を下から上へ通り過ぎていた。
 そしてやはり、紅い珠だけが残った。

 すっかりと崩れ落ちた仮宮殿のやっと残った屋根の下には、ジャン・ピエール=ポルトス伯爵の横たわるベッドだけが置かれていた。
 胸を覆う毛布が、間欠に、幽かに、上下している。
 この弱々しい呼吸は、恐らく直に止まるのであろう。
「一体……何が起きているのです……?」
 主君の傍らに力無く座り込んだアトスが呼気と一緒に吐き出した問いかけに、レオンは、
「震源の定まらぬ地震」
 と答えた。
「あなたには、海を越えてユミルに渡ることをお勧めします」
 アトスの額に、深いしわが寄った。
「街が壊れたぐらいで、故郷を捨てろと?」
「いくら心が強くても、手足が折れていては自力で立つこともできないでしょう。声が出せる内に助けを求めるべきです」
「しかし……」
「ユミルのギネビア女王には、私の名を出せば、謁見できるはずです」
「貴殿の名前を、ですか?」
「ええ。……ミッド大公の祐筆レオン=クミンの紹介で来た……と言えば、何かしら力を貸してくれるでしょう」
「……ミッド……ですと?」
 レオンは件の「営業用スマイル」でうなずくと、後は口を閉ざしてしまった。
 継ぎを当てたフードとヴェールをまとったガイアが、彼に送った視線を合図に、彼は哀れな主従の側から離れた。

 急作りなまま倒壊したカイトスから、二人は再び森へと戻る道を進まざるを得なかった。
 森を抜ければ辻がある。そこまで戻って、カイトスへ向かわない道を選ばねばならない。
「……」
 カイトスを出てから、ガイアは言葉を一つも発していない。
 元々多弁ではないのだが、この無言がレオンには鉛よりも重く感じられた。
「どうしたのですか? ご機嫌が悪いようですが」
 ガイアの回答は、暗く沈んだ声音で、しかしとても愛らしい内容だった。
「レオン殿の口からギネビア様のお名前が出ると、私は機嫌が悪くなる」
「そうでしたね」
 レオンは彼にしては珍しい悪戯な笑顔を浮かべた。
「できることならご意見を拝聴したいのですけれど」
「帝都とガップ皇弟国と、どちらへ行くべきか……?」
「ええ」
 ガイアはぴたりと立ち止まり、天を仰いだ。
「海岸沿いの街道を行き、ガップを経由して帝都へ」
「同意します」
 レオンは紗の向こうで微笑むガイアの目をじっと見、唇の端をほんの少し持ち上げた。

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