屈狸クズリ


 オヤジ殿は「雷親父」という「前世紀の遺物」だ。
 三度の飯の支度も、洗い上がった下着も、何も言わぬうちに出てくるのは当然。「指示代名詞+もってこい」という呪文を唱えれば自分の希望する物体が目の前に差し出されるのが当たり前と思いこんでいる。
 その上、連れ合いを喰わせているのは自分で、女房は自分がいなければ生きて行けないものだと信じ切っているから質が悪い。
 現役の職人としてバリバリ働いていた頃ならいざ知らず、年金生活の今は、むしろパートに出ている奥さんの方が稼ぎが良いというのを理解していない。
 子供らが成人して、楽隠居暮らしができるようになったのだから、オフクロ様が熟年離婚を言い出してもおかしくない。自分ならそうする。それをしないオフクロ様もまた、「良妻賢母」という「前世紀の遺物」なのかもしれない。

 その日、電話口の義妹の口ぶりは要領を得なかった。早口で聞き取りづらい言葉の中から「倒れた」とか「救急車」とか「精密検査」とか「麻痺」といった単語を拾い、つなぎ合わせて、ようやく状況が把握できた。
 オフクロ様が病気になった。近所の診療所ではなく、遠方の総合病院に入院しなければならないような病気に。
 普段しっかり者の嫁がこんな状況なのだから、オヤジ殿の方は輪を掛けて聴牌テンパっているに違いない。取り乱す老人の様子を想像して、酷く不安になった。
 嫁ぎ先兼勤務先に頭を下げ、車をブッ飛ばしてきた娘は、病室中を開いたままの扉の陰からそっと覗き込んで、卒倒しかけた。
 いや、正確にはずっこけた。
 白とクリーム色しかない病室のほとんど真ん中に、毒々しいまでに真っ赤な色の、腹の丸い喜寿きじゅジジイが鎮座している。
 オヤジ殿はたぶん倅の「コレクション」の中から勝手に引っ張り出したのだろう派手派手しいアメコミ柄のTシャツを着込んでいた。臙脂えんじのジャージズボンはたぶん私が実家に置いてきた高校指定の運動着だ。丈も太さも足りないものを無理矢理はいているものだから、尻が半分出かかっている。広くなった額を隠すように猩々緋しょうじょうひのバンダナを巻いているが、こっちはオヤジ殿自身の趣味だ。
 派手派手しい発色のせいで、手前にいた義妹の姿にすぐには気付かなかった。
「おう、遅いかったな」
 オヤジ殿は、まるで自分の寝床のにいるようにくつろいだそぶりで、ひらひらと手を振る。
「ごま塩禿達磨め」
 喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込めたのは、脇にオフクロ様がいたからだ。
 うす青の検査着を羽織り、車椅子に座っていた。顔色はさほど悪くないが、頬のあたりが酷く浮腫むくんでいる。
 元々小柄な人だったが、無節操に膨張色を着込んだオヤジ殿が側にいるモノだから、余計に小さく縮んでみえた。
「たいしたこと、はないのよ」
 ようやく口を動かして言う。短い言葉だが、聞き取るのに苦労した。
「これがね、入院するのに、要るの。揃うかしら?」
 病人はゆらゆら揺れる手先で、メモを一枚差し出した。赤いボールペンの文字は、胃痙攣を起こした沙蚕ゴカイの群れのようだった。
「慌ててたから、必要なモノが全然わからなくて。わかる分はお父さんに頼んだけども……」
 義妹が申し訳なさそうな顔をしている。頼まれた方がふんぞり返って、
「肌着だのタオルだのが何処にあるかなんて、男親おとこおやが知ってるワケがない」
 平然と言った。
「あんたはこの人の『親』じゃなくて『亭主』でしょうに」
 病人当人が書いた文字を解読しながら、聞こえないように呟いた。
「売店は何階だっけ?」
「二階、でも、何でも、高いのよ」
 答えたのはオフクロ様だった。オヤジ殿は兎も角、しっかり者の筈の嫁もどうやら今に限っては役に立ちそうもない。ただ、おろおろしている。
「すぐ必要なものは、高いの安いの言ってる場合じゃないからね。緊急じゃないのは、あとでホームセンターか何かで仕入れてくる」
 オフクロ様はもぐもぐと口を動かし、別の何かを差し出した。
「これ」
 通帳とキャッシュカードだった。
「一階に、銀行、お金」
 確かに、病室を探すときに見た院内の案内板には、玄関ロビーの隅にを示す場所にATMの文字があった。
「治療費は退院するときでいいんだよ」
 通帳とカードを押し戻されたオフクロ様は、ちらりとオヤジ殿を見た。
「年金、お父さん、お金、出せないの」
 伝えたいことが言葉にならないのがもどかしいらしい。
「暗証番号を知らないの?」
 気を回して聞いた。ところが、
「キャッシュ何とかとか、ワカラねぇよ。銀行なんか行ったことねぇ」
 オヤジ殿は当たり前のように言い切った。
 オフクロ様が息を吐いた。まったく、病人に呆れられてどうする。
 一人親方を張った腕っこきの職人だった。貰った手間賃は、「封の切られた封筒」に入れて女房に渡していた。明細なんか無い。元々入っていないのか、あるいは貰った当人が抜いたのか解りはしない。「明細以外の紙」がどれほど抜き取られたためにオヤジ殿の腹が丸くふくれたのかも、今となっては勘定のしようがなかった。
「……恐れ入りますが」
 静かで、それでいてよく通る声が聞こえた。扉の陰から看護師がのぞき込み、年寄りとその子供らの顔を見回した。若い看護師はオドオドしている「娘」と、落ち着いている(実際は呆れてものが言えないだけの)「娘」とを見比べて、後者の方に声を掛けた。
「治療方針などの説明を……」
「ああ、あっちに説明してください。私は家を出た者だから」
 指さされた義妹は、不安げに何度も振り返りながら病室を出た。
「息子さんもご一緒に」
 看護師はオヤジ殿を見て言った。
「はぁ!?」
 我ながら素っ頓狂とんきょうに声を上げたモノだと思う。看護師が驚いてコッチを見た。瞬きをしている。
「この人は患者の亭主ですよ」
「えっ?」
 今度はオヤジ殿を見、オフクロ様を見る。オフクロ様が頷くと、瞬きが激しくなった。
 慌てる看護師とそれを眺めてにやついているオヤジ殿を見て、オフクロ様は小さく笑った。
「さっきから、否定、しない」
「俺は若いってことさ!」
 オヤジ殿は楽しそうに言い、困惑顔の看護師に付いて、病室を出て行った。
 急に静かになった病室で、オフクロ様が口を動かした。
「服の、場所、知らなから。まだ、乾いてないのに」
 半開きの引き戸の隙から、しけっぽい丸い背中が遠ざかってゆく。
 突然の呼び出しに慌てて、外行きの服を探しあぐね、物干しに行き着いたオヤジ殿の姿が想像できた。
 きっと実家は、箪笥も押し入れも扉や引き出しが全部開け放たれていて、その中身が床一面に散らばっているに違いない。
「困った、人」
 オフクロ殿は、母親の顔で言った。

 幸い軽症だったオフクロ様は、二ヶ月半ほどで退院した。
 リハビリに通う彼女に、オヤジ様は毎日付き合っている。
 手を引いたり、肩を貸したり、荷物を持ったり、と、いつもオフクロ様の側にいる。
 相変わらず、女房は自分がいないと生きていられないと信じているのだ。

 でも実際、付きっきりでいないと生きていられないのは、どっちだというのだろう。
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クズリ(屈狸、貂熊、Gulo gulo)は、哺乳綱食肉目イタチ科クズリ属に分類される哺乳類。

和名のクズリはニヴフ語が語源で、屈狸は当て字である。漢名は貂熊で、これをクズリと訓読みすることもある。
英語名はウルヴァリン (Wolverine)。
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