フツウな日々 25 |
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油臭くて黒い煙が目の前に漂っている。
鼻の穴のと喉の粘膜がちくりと痛んだ。龍はくしゃみと咳をほとんど同時にした。どちらも息を強制的に吐き出すようなものだ。彼は肺の中の空気を小出しに吐き出し続け、そのためしばらく空気を吸い込むことができなかった。
もっとも、できることなら吸いたくないほどそのあたりの空気は辛い物だったから、龍の体が示した反応は至極当然だ。
それでもしばらくすると、くしゃみと咳はどうにか収まった。
龍は大急ぎで着込んだばかりのしめったシャツの裾をぐいと持ち上げて、鼻と口を覆った。布越しに吸い込んだ空気からは、排ガスのニオイが少し薄れている。
いつだったか、学校でやった避難訓練の時に、煙を吸わないようにするにはハンカチをしめらせて鼻と口に当てると良いと教わったのが、役に立ったような気がした。
ただ、シャツを湿らせた布が溜池の水だった物だから、排ガス臭の代わりに生臭い水苔のニオイが加わっていて、結局あまり気分の良い呼吸はできないのだけれど。
とにかく、何とか息ができるようになった龍は、あたりをきょろきょろと見回した。
川をたどってたどり着いたこの場所が、一体どこなのかさっぱり判らなかった。
できるだけ早くあのお墓と溜池から離れたいと思っていても、家に帰る道順だって当然のように判らない。
道路沿いに少し進むと(そっちに進んで良いのか悪いのかもちっとも判らなかったのだけれど、とりあえず歩いて)、押しボタン式の信号が一つ立っていた。
信号には見覚えのある市章と、見たことも聞いたこともない地名の書かれた、青い看板がかかっている。
龍は一瞬ホッとして、すぐにゾッとした。
少なくともここが自分の生まれ育った市の範囲のなのは間違いない。
でも、何度か周りの小さな町村を飲み込むように合併したりしているから、同じ「市内」でも「市街」に住んでいる龍の全く知らない場所が、むしろ知っている範囲より広々と広がっている。
端っこの方は相当な山奥で、空気がとんでもなくキレイだから、昔は病気の人が町から離れて入院する特別な病院があったらしい。
そのあたりは今でもトカゲやヘビだけでなく、タヌキやイノシシや、時々クマだって出ると聞いたことがある。
今いる場所の周りを見ると、どうやら家もあるし、第一太い道路を車がびゅんびゅん行き交っているくらいだから、タヌキは兎も角クマは出ないだろう……たぶん。
龍は信号の柱にもたれかかった。クマの出る心配はなくても、家に帰れない心配は残る。
もう一度あの池に戻って、土手を下って、川底に下りて、ちょろちょろした流れと一緒に歩いてゆけば、自分の住んでいる町まで帰れるのは、間違いないし何よりも確実な方法だ。
でも。
龍は今ほんの少し歩いてきた道を振り向いた。トラックが震えながら向かってくる。
あの場所に戻るのは嫌だ。
彼は、あの場所に戻らずにあの川に戻る方法を探して、またあたりを見回した。
道路と、家と、果樹園と、田圃が見える。
川らしい場所は、見えない。
冷静になって考えてみれば、道路と家と果樹園と田圃より一段低いところに水路が造ってあることや、そういった目の高さが合う物の影に埋没して低いところが見えづらくなっていることに気が付いても良いのだけれど、このときの龍は冷静とか沈着さといった性質を求めるのには幼すぎた。
川が消えた。たどってきた「道」が消えた。でもたどり着いた場所はそこにある。そしてそこから逃げ出す方法が判らない。
トラックが通り過ぎる。なま暖かい排気ガスが濡れたシャツとズボンを通り抜けながら、体温を奪ってゆく。
彼の脳みその中で、たどり着いた場所……姫ヶ池は、緑色の呪いになっていた。
膝ががくがくと震える。龍は信号機の柱にすがりついたまま、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
ゼブラゾーンの上に、巨大な黒い車輪が止まっているのが見える。
高い場所から、しわがれた大人の男の声が怒りを帯びて降り注ぐ。
頭を持ち上げた龍の鼻の穴からさらりとした鼻水が流れ出して、粉塵が積もったアスファルトの上に水玉模様を描いた。
緑がかった薄い黄土色が、彼の目の前でゆらゆらと滲みながら揺れていた。
その黄土色の、農協のマークと電話番号が書かれたドアが勢いよく開いて、やっぱり農協のマークの付いた緑がかった薄い黄土色の帽子がそこからぬっと突き出た。
皺のある白い顔が、優しく笑っていた。
「Yセンセエ……」
龍は自分の魂が頭のてっぺんからしみ出てしまったのではないかと思うくらい、体中から力が抜けてゆくのを感じた。