フツウな日々 39 |
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龍は瞼をぎゅっと閉じ、鼻水をすすり上げた。それから、ヒラヒラした白い着物の袖で、目の周りをごしごしと拭いた。
そうして頭を左右にぶぅんと振って、ぱっと目を開いた。
幼い「トラ」の顔に、絨毯から跳ね返った赤い光が踊っていた。
龍は慌てた。もう一度袖で目の周りをこすろうとした。
眉毛と頬骨に当ったのは、白い着物の袖口ではなく、真っ黒に灼けた腕だった。
龍はその細い自分の「子供の腕」をじっと見た。
子供の腕の先には、子供の手が付いている。
さっき寅姫のお腹の上にあてがった大きな手に比べて、細くて柔らかくて頼りない指が、
頼りない拳を作っている。
『また、「夢」を見てた?』
龍は、訳の解らない世界から戻ってこれたことに安堵しながら、その世界に止まっていられなかったことを寂しく思った。
彼がほぅっと息を吐き出した瞬間、「トラ」が小さく、鋭く言った。
「その赤ちゃんが大きくなって、ボクの家のご先祖様のお婿さんになった。言い伝えだけれども……つまりはボクのご先祖様は寅姫さまでってことになる。だから、似ていてもおかしくはない」
「トラ」言葉の最後の方が龍の疑問の答えだったのだけれども、彼の耳には最初の方しか入ってこなかった。
それで、
「生まれるのは男の子なのか」
と、独り言を、でもかなり大きな声で言った。
言ったすぐ後、龍は変な言い方だと感じた。そして、なんで変なんだろうだろうと考えた。
ちょっと考えた後、赤ちゃんが生まれたのは三百年前なのに、これから生まれるみたいな言い方をしてしまったからだと気付いた。
文集用の作文を提出したあとで間違いに気付いたみたいな、変な気分だった。
『「トラ」にも変な風に思われたかな』
龍はちいさな「トラ」の顔をちらりと見た。
「男の子が生まれるんだ」
彼女は笑っていた。でも、それは嬉しそうで悲しそうな笑顔だった。
「それが三百年くらい前。それからボクの家に生まれた男の子は、ずっと寅姫と龍神の祠を守っている。つまり、その仕事は男の子じゃなきゃやっちゃイケナイってこと。だから、ボクも男の子じゃなきゃダメだったんだ。それで……」
声は尻つぼみに小さくなって、やがて唇から続きが出てこなくなった。
龍は何をどう言ってあげたらよいのか判らなくて、黙り込んだ。
二人とも口をつぐんで、ただお互いの顔を見合っていた。
セミがシュワシュワと鳴いている。
ちょっと遠くて少し近い場所で、誰かが何かを歌っているみたいな声が聞こえる。
黙っている間に「トラ」の顔の悲しそうな笑顔が、フツウの笑顔に変わっていった。
冷えたガラスが流れるみたいに、ゆっくりと、少しずつ。
やがて完全にフツウに戻った笑顔だったけれど、その直後、彼女の眉毛は八の時にゆがんだ。
「最初のは、解らないよ」
困り笑顔の「トラ」は、申し訳なさそうに頭を左右に振った。
「最初の? 何の最初?」
龍が裏返った声で訊ね返すと、彼女は小さく吹き出した。肩が小刻みに揺れる。
「自分で幾つも質問しただろう? その一番最初」
龍は顔を天井に向けて考え込んだ。「トラ」に訊きたかった解らないことの答えは、全部返ってきたような気がしていた。
……答えて貰ったセイで余計にこんがらかったこともあったような気もするけれど。
でも、「トラ」が言うからには、まだ何か質問をしていたのだろう。そして自分は、ほんの少しの間に、質問をしたと言うことを忘れてしまったのだろう。
彼は「トラ」の方が勘違いをしているとはちっとも考えなかった。
『だって、僕より「トラ」の方が頭が良いんだから。今までだって間違ったことなんか一回もなかったから』
だから、大分恥ずかしくなった。
そして、不安になった。
自分の言ったことをころっと忘れてしまったなんて、また「トラ」に笑われるかもしれない。バカにされるかもしれない。
「僕、なんて言った?」
恐る恐る、訊ねる。
「トラ」の肩の揺れがぴたりとやんだ。少しだけ龍をバカにしているみたいだった笑顔も、すっと消えた。
代わりに広がったのは、とても誠実で、とても真面目な、真剣の色だった。
「御札が消えたと言った。でも君は、何の御札が何処から消えたとは言わなかった。だから、解らないと答えるより他にない」