小懸 ―真田源三郎の休日―


  • この物語はフィクションです。
  • 従って、登場する人物・団体・地名などは、歴史上のそれらとは別物と思ってご覧下さいますよう、お願い申し上げます。

登場人物

真田源三郎信幸
永禄9年(1566年)生まれ。
信州の豪族「真田」の頭領・昌幸の嫡男。
幼年期は武田家に人質として預けられ、上野国で過ごす。
武田勝頼の嫡男・武田信勝と同時に元服。
武田家滅亡後は織田家に従属した父に従い、滝川一益の旗下となり、信濃と上野の境近くにある山城・岩櫃城に入る。
母(山之手殿)の縁者からもらった横笛を大切にしている。
背が高いが、それをある種「劣等感《コンプレックス》」としている。
この物語の語り手。

前田宗兵衛利貞
天文10年(1541年)?生まれ。
織田家家臣。滝川一益の一族衆、且つ、前田利家の「義理の甥」。
実父は滝川一益の甥(あるいは従兄弟)の滝川益氏。養父は前田利家の長兄である前田利久。
一流の武人であり、一流の文人でありながら、一流の悪戯者。
体つきは大柄。
年齢は40代だが、大変若々しく(ある意味で子供っぽく)見える。
源三郎を妙に気に入っている。

真田昌幸
天文16年(1547年)生まれ。
源三郎の父。前名は武藤喜兵衛。幼名は源五郎。
信濃の小豪族・真田家の頭領。
父の代から武田家に仕えていたが、その滅亡後、織田家に従属。
体つきは小柄。その風貌は、まだ30代後半であるにも関わらず老成している。
滝川一益にいたく気に入られている様子。
大層な音痴(音程調整の出来ないタイプの「調子外れ」)。
這い寄る混沌。

真田源二郎
永禄10年(1567年)?生まれ。
源三郎の同腹で年子の弟。(諸説有り)
初名を弁丸。元服後の名は信繁。後の世では幸村と呼ばれる……のだが、武田の滅亡などの煽りを食って、天正10年(1582年)現在まだ正式には元服せず。
体が小さく、父親似の風貌をしている。
織田家従属の証人(人質)として、木曾義昌の元(木曽福島城)へ行くことになった。
実は読書家。

真田照
真田昌幸の五女。源三郎の異腹の妹で、昌幸のお気に入りの娘。
羽柴秀吉配下で石田三成の義弟・宇多頼次との縁談が進んでいる。
織田家従属の証人(人質)として、滝川一益の元(厩橋城)へ行くことになった。
※ちなみに昌幸の正室・山手殿には宇多頼次の伯父である宇多頼忠(元は信濃国守護・小笠原氏の家臣)の娘という説がある。(諸説有)
 また、石田三成の正室(三成から「うた」と呼ばれていた)も宇多頼忠の娘とされる。
 つまり、三成の昌幸は義兄弟という関係にある。
※昌幸五女は「於菊姫」というお名前ですが、この物語では「於照姫」とさせていただいております。

望月千代女
甲賀流忍者上忍「甲賀望月氏」の出身の女忍者・くノー。
望月氏本家当主・望月盛時に嫁した。
盛時死後、ノノウ、信濃巫女などと呼ばれる歩き巫女の頭領となる。
武田家の庇護の元、ノノウを使っての諜報活動を行っていた。
武田家滅亡後、真田と手を組む。

垂氷つらら
13,4歳とおぼしきノノウの娘。
源三郎は、武家の出身と見ている。
自称・千代女の秘蔵っ子。
昌幸と千代女の命令で「源三郎の武運長久を祈祷するため」岩櫃城に入る。
健脚を生かして他のノノウや草(忍者)などとの繋ぎ役をつとめる。
若干腐女子気味。

矢沢右馬助頼綱
薩摩守と称する。
昌幸の叔父(父の弟)、源三郎の大叔父にあたる。
老いてなお盛んな猛将。柄物は長槍「小松明」。
滝川益氏の与力として沼田に入る。

矢沢三十郎頼康
頼綱の嫡子。昌幸の従兄で、源三郎にとっては従兄伯父いとこおじにあたる。
一見すると線の細い優男だが、じつは父に似た豪の者。柄物は三尺三寸五分の野太刀。
木曾義昌の証人となった源二郎に従って、木曽へ赴く。

出浦対馬守盛清
もとは北信濃の豪族で、信濃の支配が武田家であった頃はその配下に入っていた。
武田滅亡後は織田に従属し、森長可旗下に。

禰津(祢津)幸直
通称名(?)式部。後に助右衛門尉、志摩守と称する。
真田信幸の乳兄弟。矢沢頼綱配下。後年、矢沢頼康の娘を妻としたので、信幸にとっては「義理の又従兄弟」でもある。
滅多に我が侭を言わない信幸の、滅多に言わない我が侭の最大の犠牲者。

織田上総介信長
天文3年(1534年)生まれ。数えて49歳。
第六天魔王を自称する、戦国の覇者。
宿敵であった武田を滅亡させ、その支配地を関東まで広げる。
武田討伐後、関東・信濃の運営を家臣達に任せ、本領である安土に戻る。
中国討伐に出ている羽柴秀吉から援軍要請を受けると、惟任光秀に出兵を命じた。

滝川左近将監一益
大永5年(1525年)生まれ。
織田信長の寵臣。「先陣も殿軍も一益」と称されるほどの猛将で、鉄砲の達人。
武田家滅亡後、その支配地であった上州を領すこととなり、厩橋城に入る。
昌幸を気に入り、「鉄兵衛」というあだ名を付ける。

滝川儀太夫益氏
大永7年(1527年)生まれ。
滝川一門の武将。一益の甥、あるいは従兄弟とされている。
前田利貞の実父。(利貞の実父とされる人物には諸説あり)
武田家滅亡後、沼田城に入る。

滝川三九郎一積
滝川一益の長男一忠の嫡男。

木曾伊予守義昌
天文9年(1540年)生まれ。
南信濃の豪族。居城は木曽福島城。
武田信玄の娘・真理姫を正室に迎えることによって、武田家の一族衆となる。
信玄の死後、武田勝頼に反旗を翻して織田信長に付く。
この時、証人に取られていた母親と子供たちを処刑されている。

森武蔵守長可
永禄元年(1558年)生まれ。
織田信長の寵臣。
苛烈な武者振りから「鬼武蔵」と呼ばれ、畏れられている。
武田滅亡後は北信濃を領することとなり、海津城(後の松代城)を居城とする。
成利(蘭丸)、長隆(坊丸)、長氏(力丸)、忠政(千丸)、という弟がいる。

北条氏政
天文7年(1538年)生まれ。
後北条氏当主。正室は武田信玄の娘・黄梅院。
当初武田家とは同盟しており、信玄存命中は両家の関係は良好であった。
しかしその死後、織田信長が武田領攻略に乗り出すと、これに呼応して武田領に侵攻。
武田家滅亡に多大な影響力を及ぼすものの、これに対する織田からの報奨が無いに等しく、不満を抱えている。

徳川三河守家康
天文11年(1543年)生まれ。
三河の豪族・松平氏の出身。(良く調べたら、天正10年あたりの官位は「右近衛少将」だったんらしいですが、とりあえず「三河殿」で統一します)
織田信長と同盟を結んで(事実上は客将として仕えて)おり、「共同」で武田攻めを行う。
武田の親族衆であった穴山信君を調略して謀反させるなどして、武田に多大な損害を与える。
武田滅亡後、駿河国を拝領。甲斐の仕置を終えて安土城へ戻る途中の信長を駿府で接待する。
信長はこの接待の返礼として、家康と穴山信君を安土城へ呼び、京・大坂への遊山に誘った。

惟任日向守光秀
享禄元年(1528年)? あるいは永正12年(1515年)? 生まれ。(どちらにせよ、信長よりも年上)
もとは源氏の流れを組む土岐氏の一族である明智氏。通称は十兵衛。
天正3年(1575年)、朝廷より日向守の官職と惟任の氏を賜って以降、惟任日向守を名乗る。
織田信長の重臣で、主に山陰・畿内の支配を行う。
戦上手であり、また築城の名手でもある。
武田討伐後、信長に従い安土へ戻り家康を饗応。饗応役の任を解かれた後に本拠地滋賀坂本城に戻っていた。
なお、信長が付けた仇名の「キンカ頭(禿)」は光秀の漢字を分解し、秀の冠と光の足を重ねると「禿」になる、という高度で遠回しなシャレという説がある。

羽柴筑前守秀吉
天文6年(1537年)生まれ。
始めは木下姓を名乗る。
通称名は藤吉郎。仇名は猿。信長からは「禿鼠」とも呼ばれる。
織田信長の寵臣。
自出は謎に包まれているが、身一つで成り上がった、たぐいまれな才覚の持ち主。
城攻めの名手。
信長の命で中国討伐に出ているが、苦戦しているとして援軍を要請する。

石田三成
永禄3年(1560年)生まれ。
幼名は佐吉。
近江国の土豪の出身で、羽柴秀吉の子飼いの家臣。
妻は宇多頼忠の娘であり、一説に真田昌幸正室の妹とされる。
従ってその説を取れば、源三郎達にとって三成は叔父ということになる。



「不思議な人だ」
 というのが、第一印象でした。
 初めは、その不思議さは主家である織田信長公の影響なのであろうと考えました。ところが、どうもそうではないようです。
 なにしろ、
「それは違う」
 とご当人が仰るのです。それもカラカラと笑いながら。
「そりゃぁ『薫陶』を受けはしたがね。何しろウチの上様は強烈な方だ……御主は一度きりのお目見えだが、その一度であっても、十遍もぶん殴られたくらいの衝動を喰らっただろう?」
 宗兵衛殿は碁盤を睨み付けたまま仰いました。
 その口振りときたら、どうにも織田様の御家中の内でも一、二を争う大大名様に連なるお血筋の……厳密に申せば、その「大大名」に今一歩の所でなり損ねた……お方とは思えないものでしたので、私はどのような顔をしてどのように答えればよいのか判断に困り果て、宗兵衛殿の顔を覗き込んだものです。
 その顔が、相当におかしなモノであったのでありましょう。宗兵衛殿は太い眉を八の字にして、逆に私の顔をじっとご覧になりました。
「源三郎。御主、儂を変わり者のように言うが、御主こそ相当な変人だぞ。大体、普通の若造は年上目上の人間に『あなたは不思議な人ですね』なぞと言いやせんぞ」
「普通の大人であれば、私のような小童に『あなたは不思議な人ですね』と言われれば、碁盤をひっくり返してお怒りになりそうなものですけれども」
 私は思った侭に申し上げました。
 といっても、子供らしい無邪気さのために素直に心根を口に出したのではありません。
 いくら私が愚か者であったとしても、父より年上で、――ということは、後々知ったことで、その時にはもっとずっとお若いのだろうと思っていたのですが――上役でもある方に、そのような軽口を言えば、私自身どころか私の家そのものに良くない影響を及ぼすであろう事は察しが付きます。
 私はこの方を試したのです。
 田舎者の若輩者の無礼な言葉を、この方はどう切り返すのだろうか、それが知りたかったのです。
 その頃の我が家といえば、大変に微妙な立場に立たされた、危険な状態でした。
 勝頼公が武運潰えて御自害なさり、当家が祖父の代から仕えた武田家は滅亡してしまいました。
 禄を失った侍ほど寄る辺ないものはありません。ちりぢりとなった家中の者達は、各々保身を図らねばなりません。
 昨日の敵は今日の友とばかりに、ある者は北条を、ある者は徳川を、そして我が真田家のように織田を頼りました。
 ただ、昨日の敵は、どう足掻いたところでやはり今日も敵なのです。庇護を受けられたとしても、それが表面だけのものであることも、充分に考えられました。
 現に、勝頼公を御自害に追い込んだ、信長公から見ればある種「殊勲者」であるはずの、小山田信茂、武田信光などは、むしろ信長公の不興をかって、磔にされるという無惨な(いえ、武田の遺臣から見れば当然の)最期を遂げました。
 我々も、危うい立場にいます。
 信長公のことですから、我が父が以前から北条氏直殿にも文を送っていたことなど、疾うにお見通しでありましょう。
 まさしく、刃の上を歩いているようなものです。何の拍子に奈落へ落ちるか、あるいは刃に身を裂かれるか知れたモノではありません。
 慎まねばならない事は、重々承知でした。
 それでもそのことをどうしても試さずにはいられなかったのです。それほどにこの方は不思議な方だったのです。
 宗兵衛殿は、恐らくは私の真意を測ろうとなさったのでしょう、私の目玉をじっと、鋭い眼差しでご覧になりました。
 私は脇の辺りからねっとりとした汗が出るのを感じましたが、それを表に出さぬようにと努めました。
 私は宗兵衛殿の目玉を見つめ返しながら、考えました。
『宗兵衛殿が、私を莫迦な若造と思ってくれれば楽なのだが』
 しかし、私は同時に「そんなことはないだろうな」とも思っていました。そんなつまらない人であるはずがないと。
 ガシャガシャという音がしました。
 音は、宗兵衛殿の手元から発しています。
 やがて、パチリという、澄んだ音がしました。
 宗兵衛殿は私の目を見たまま碁笥をまさぐり、黒い石を一つ摘んで、碁盤の上に正確に置かれたのです。
「ほれ、儂の一目勝ちだぞ」
 前田宗兵衛利卓としたか殿は、童子のように明るい顔で仰いました。
 私はてっきり宗兵衛殿が何か私の考えつかないような言葉で私を叱るか、あるいは私の知らない含蓄のある言葉で私をさとそうとなさるに違いないとばかり思っておりましたので、少々驚きました。
 驚きのあまり、目に塵の入ったような瞬きをして、欠伸をするように口を開けておりました。
 その呆けた、阿呆のような私の顔を見て、宗兵衛殿はなんとも嬉しそうに、楽しそうにお笑いになりました。
「源三郎、儂は人の思うとおりに動くのが嫌いなのだ。人は『不思議』と言うが、これは生まれ付いての性分だよ」
 お顔の作りといえば、彫りの深い荒削りで豪快な武辺者そのものな宗兵衛殿ですのに、その笑顔ときたら、すこし気恥ずかそうな、乙女さながに柔らかなものでした。
 御蔭で私は、
『だから人が「白の四目勝ち」と思っていれば、それに逆らうのですね』
 と、言い返す気も失って、碁盤の上から白石ばかり拾い上げ、碁笥にしまうより他になかったのです。
 振られ男が狼狽を隠すかのように、もそもそと、です。
 しばらくして、黒い石ばかり残った盤面を、宗兵衛殿の大きな掌がざっぱりと撫でました。
 一度に取り除かれた石共は、コワコワといったような籠もった音を立てながら、一息に碁笥の中へ落ちてゆきました。
 碁笥の蓋がコパンと閉まったのと殆ど同時に、宗兵衛殿のお顔から笑みが消えました。
「ウチの伯父貴の……あの滝川一益が、御主の父親を大層気に入ったようだ」
 宗兵衛殿は「あの」というところに力を入れて仰いました。

 滝川一益様も不思議な方ではあります。
 一益様は織田様配下の中で一二を争う勇将であられました。当家が元仕えていた武田家を追い詰め、勝頼公を御自害に追い込んだのは、一益様の率いる一軍でした。
 すなわち、我が家にとっては「主の仇」である方です。
 もっと古い話をすれば、父の二人の兄、真田信綱と昌輝とが命を失った長篠設楽原の戦いでも、一益様は先陣を切って戦われたといいます。
 すなわち、この頃は武藤喜兵衛と名乗っていた我が父・真田喜兵衛昌幸とすれば、一益様は兄の敵であると言えなくもないのです。
 尤も父は、あの戦においては滝川様のお働きよりも、また伯父達の部隊と直接対峙しておいでだった……つまり伯父達の命を奪った当人の仙石秀久殿のお働きよりも、遠く離れた場所に布陣しておいでだった徳川家康様のそれを「重要視」しているようですが。
 それはともかくも。
 仇に等しい滝川左近将監一益様であるのに、父、そして私も、どうにもこの方を恨む気持ちが湧いてきません。
 諏訪で信長公に目通りさせていただいた後のことです。父が一益様の与力とされ、信濃衆をとりまとめる役目を承りましたので、父と私、そして私の弟の源二郎も、上役となる一益様に挨拶をせねばなりませんでした。
 このとき拝見した一益様のお顔は、皺は深いとはいうものの頬などはつやつやと赤く、髪はまだ黒々としておいでで、齢六十に近いとはとても思えませんでした。
 一益様は父の前名が「喜兵衛きへい」と言うのを知っておいでで、
「武田の『重臣』でありながら、のうのうと生き残り、こうして我らの前にいる。御主のような珍妙不思議な強か者が『』であるものか。『かね』だ『鉄兵衛かねべい』だ」
 と仰って大いに笑い、以後父のことを『鉄兵衛』とお呼びになったのです。
 その後、一益様には関東の地が新しい領土として与えられましたので、我らも当然付き従って関東に戻ることになりました。かくて、一益様は武田の本拠地である厩橋城にお入りにったのです。
 そして我ら親子と申しませば、元の居城である信州の砥石に移ることを強く望んでおったのです。
 我ら親子は、すぐにでも砥石に戻り、さらにそこから親子兄弟一門を各々それぞれを東信濃と甲州に散らして、危うく失いかけていた領土をとりまとめるつもりでした。
 許可は、簡単にはおりませんでした。
 当然です。
 新しく配下になったばかりの、元々は厄介な敵であった者共を、そう易々と遠く目の届かない所へ放つようなことは出来るはずがありません。
 それでも私たちは、何時でも出立できるよう、密かに旅装などを整えておったのです。
 そんな折、突然に一益様から「茶会をするから、厩橋へ来い」とのお招きが来ました。
 私は一益様のご真意が図りかねました。訝しんでおりますと父が、
「山家の田舎侍の不調法を肴に旨い酒でも飲む御算段やも知れぬな」
 大層な大声で言いました。私は慌てて
「まさかにそのようなことは」
 辺りを見回しました。同じ部屋におりました源二郎などは、障子襖の隙から外を窺う素振りまでして見せたのです。
 我々は「滝川様のお城」の中にいるのですから、言動に気を遣う必要があったからです。
 尤も、父は恐らく、むしろ滝川のご家中の誰ぞがこの声を聴いてくれればよい、と考えていたのでしょう。
「まあ、あちら様のご期待に沿った振る舞いをする気など、更々ないがな」
 と言った父の頬の上に浮かんだ笑みは、戦を前に策略を考え回している時のそれとよく似ておりました。

 お茶席は大層華やかな物でありました。
 武田の家中でも茶をする者がなかったわけではありません。しかし茶道の中心においでの織田様の旗下の方々が催す茶会には比べようがありませんでした。
 茶器は唐渡りの物が多く、事に茶碗は天目の見事な逸品でした。その茶碗で見事な御作法でお茶をお点てになったのが、目の覚めるような紅の利いた辻が花染の小袖を、厭味なく大柄な体に纏った、前田宗兵衛殿です。
 さて、主賓たる一益様といえば、小心な私が恐々として参加したその茶席で、我が父の顔を見るなり、なんと、
「良く聞けよ、鉄兵衛殿。上様は、大層にずるい御方ぞ」
 と言い放たれたのです。満座の者達の……いえ、一益様ご本人と、宗兵衛殿と、それから我が父を除いた方々の顔が強張りました。
 一益様が仰ったのは、大体次のようなことでした。

 かつて織田信長公は一益様に、
「良き武功あれば、かねがねそなたが欲していた『珠光小茄子しゅうこなす』を遣ろう」
 と仰せになったそうです。この茶入は信長公の蒐集品の中でも随一といわれる逸品であったので、一益様は大層お励みになりましたが、なかなかにこれを賜ることができませんでした。
 そしてこの度、信長公から、武田家を滅ぼし、関東を平らげたその褒美を遣ろうとの仰せがあり、一益様は、
「此度こそは、漸く『珠光小茄子』が戴けるに違いない」
 と、心浮かれ、踊るようにして御前に出れば、信長公は、
「上野一国と信濃二郡、関東管領の役を与える」
 と仰せになりました。

「長の宿敵を破ったと言うのに、儂が本当に欲している物をくれぬのだぞ。儂はそのために、常に先陣を切り、また殿軍を守ってきたというのに……。のう鉄兵衛、その方も狡いと思うであろう?」
 一益様は大まじめな顔で仰せになりました。
 上野一国と信濃二郡は兎も角として、「関東管領」はおそらく名前だけで実を伴わないものでしょう。
 私の記憶に間違いがなければ、彼のお役を正当に拝領なさっていたのは、代々上杉家でありました。そして、先代謙信公が没されてからは、足利将軍家はその役務を誰にも下知してはいないのです。
 尤も、信長公が将軍家を「保護」なさっておられるからには、将軍家からのご命令を信長公が代理に下されることも考えられましょう。
 それでも、件の役職に関しては、上杉謙信公の頃にはもう有名無実な名誉職にに過ぎなかったはずです。裏を返せば、これ以上ない名誉の称号であると言うことです。
 ですから、関東管領は兎も角としましょう。
 上野一国と信濃二郡と言えば、武田が失ったものの殆どです。
 そして、大きな声では申せませんが、出来れば当家が手に入れたいと願ったものです。願ってももままならない大きな代物です。
 我らが羨望し垂涎した「それ」が与えられた、そのことが口惜しいと言われては、私などは一体どのような顔をすればよいというのでしょう。
 一益様は、
「狡い、狡い」
 と、拗ねた子供のように、繰り返し繰り返し仰られました。耳順に近いご高齢の方が、です。
 このとき我が父は、両の手に抱いていた天目の黒い茶碗を一益様の前に戻しつつ、
「上様におかれましては、彦右衛門殿には一層励まれよ、という事でありましょう」
 にこりともせずに申しました。一益様が、
「この六十ジジイがまだ励まねばならぬと言うか? 鉄兵衛は冷たいな」
 唇を尖らせたその横で宗兵衛殿が至極真面目な顔をして、
「そりゃぁ、伯父御が鉄兵衛殿と御命名の御方に御座いますれば、ひやりと冷たいのも道理でありましょう」
 などと仰られたのです。
 口ぶりは何とも軽妙なものでしたが、顔つきは大変に忠実やかでした。
 茶席にあった一益様のご家中の方々は、これを軽口と取られたようです。
 下を向き、あるいは奥歯を咬み、あるいは扇を広げて面を隠すなど、それぞれのなしようで、笑いを堪えておられました。
 それでも宗兵衛殿は、律儀者そのもののような顔をしっかりと上げておいででした。
 御蔭で私には、あれが軽口であったのかそれとも本気であったのか、さっぱりわからなくなってしまったのです。
 その時宗兵衛殿が、涼しげな眼をだけをそっと動かして、なんとそれを私の方にお向けになったのです。
 私は始め、宗兵衛殿は、私が茶席に、そして滝川様の「家臣」として相応しくない不謹慎な態度を取っていないかを確かめておられるのかと考えました。あるいは、そのような態度を取るなと諌めてくださっているのだとも思いました。
 私は身構えて、何事も起きていない普通の茶席に畏まって座っている若造がするような、生真面目な顔をして、宗兵衛殿の眼を見つめ返しました。この場で笑って良いのか悪いのか判断しかねているという不安を、この方に悟られてはならないような気がしたからです。
 すると宗兵衛殿は、口角の片側だけをほんの僅かに持ち上げられたかと思うと、片眼をパチリと瞑られたのです。
 まるで私に「笑っても良い、むしろ笑え」と言っておられるようでした。少なくとも私にはそう思われました。
 しかし笑えと言われたからとて、すぐに笑顔を作れるものではありません。作れないとなれば焦りが生じます。私は内心の焦りを人々に、特に宗兵衛殿に知られないようにと考え、視線を反らすために父の方へ顔を向けました。
 父は笑っていませんでした。真面目くさった顔を一益様に向けて、
「そのために、我らが与力として付けられたので御座いましょう」
 などと申し上げているのです。一益様は尖らせた口で
「それはつまり、御主も上様の家臣として今までよりも一層に励むという意味だな?」
 と仰せになりました。
 このお言葉は、先の宗兵衛殿の軽口とはまるで逆の様相でありました。
 お顔や仕草は子供じみたものでしたのに、声は鋭く重いものだったのです。
 ご一同の肩の揺れがぴたりと止まりました。
 下を向き、あるいは奥歯を咬み、あるいは扇を広げて面を隠すなど、それぞれのなしようのままで、一斉に父の顔に鋭い眼差しを突き立てました。
 私は息を呑みました。父の返答次第で、当家がこの世から消え失せかねないのだということが、すぐに判ったからです。
 源二郎も同じ事を察したようです。弟の顔を見ずとも、私にはそれと判りました。膝の上に置いていた汗ばんだ拳から、きつく握りしめた「音」が、はっきりと聞こえましたから。
 誰も動かず、誰も物を言いません。
 茶室は静まりかえりました。私に聞こえたのは、シュンシュンと湯の沸く音、私自身の心の臓の音、弟の抑え込んだ息づかいばかりでした。
 実際には、それほど時が過ぎたわけではありませんでしたが、あの場では長い時のように感じられたのです。
 あるいは日も月も止まってしまったのではないかとさえ思われました。
 この静寂を良い意味で破るには、父が何か言う必要がありました。
 一益様への返答です。
 一番簡単なのは、一言「はい」という事でしょう。織田家のため、信長公のために働くという決意を、ご家中に示すことです。皆がそれを待っていました。
 ところが、父は能面のような顔を一益様に向けたまま、何も言いません。
 答えることを拒んでいるかのようでした。拒むことで、信長公を、ご家中の人々を、その力量を試そうとしている……私にはそう思えました。
 田舎者の小豪族が仕掛けるには過ぎた「試験」です。こんな「物の試し」をしては、命も家名も幾つあっても足りないでしょう。とても私には真似の出来ない事ですし、真似しようとも思いません。
 私は小心者なのです。こんな、四面楚歌の畳の上などで死にたくはありません。
 いえ、例えその場が戦場であって、目の前にいた方々が槍を構えた敵であったとしても、死にたくありません。
 侍の子らしくないと思われるでしょう。それは仕方のないことです。しかし、私はいついかなる時でも、何とでもして生き延びたいと願っていますし、生き延びようと努めています。
 ですから、この時も、生きて帰るためにはどうしたらよいのか、無い知恵を絞って考えました。
 父は、あえて何もしないことを選んだのです。私などには考えの及ばないところですが、父はこれが一番の妙案……いいえ、この場合は企みと言い表した方が良いかも知れませんし、悪巧みと言っても良いかも知れません……と思い、無言を通しているのでしょう。
 思い付いた当人は妙案と信じているから良いのでしょうが、私は父ほど剛胆ではありませんから、無言のまま、針のむしろの上に座り続ける事など、とても出来ませんでした。
 私は、私が生き延びるために、私自身が何かしら行動する必要があると考えました。
 私が生き延びられれば、ここにいる父も源三郎も、それから仮住まいの姉妹や幼い弟、一門、一族、郎党を生き延びさせることもできるはずです。私はそう信じました。
 ですから、この場に充ち満ちている、張り詰めた、刺々しい、苦しい気を取り除く方法を、それこそ必死で考えました。
 湯気の音の中から、キチリという別の音が聞こえました。金具が動く音に間違いがありませんでした。
 咄嗟に『鉄砲』を思い浮かべました。
 滝川一益様は鉄砲の名手です。ご自身ばかりでなく、ご一族やご家中にも名人が多いことでしょう。
 茶室にいるお歴々が銃を構えて居られないからと言って安心できるはずがないでしょう。襖一枚、障子一枚の向こうに、名人がいるやもしれません。
 しかし私はすぐに自分の考えを取り消しました。火薬の匂いには人一倍敏感な私の臆病な鼻が、火縄の気配を感じ取らなかったからです。
 キチリ。
 再びあの音が聞こえました。
 宗兵衛殿の腰が僅かに浮くのが見えました。懐に手を差し入れておられます。頬に薄い笑みが浮かんでいました。
 宗兵衛殿が何故腰を上げたのか、懐に何をお持ちなのか、その時はまるで知れませんでした。
 私は覚悟を決めました。銃以外の別の武器に対する不安はまだありましたが、迷っている暇はないと確信しました。
 ただ、万一宗兵衛殿を相手に一対一で戦ったなら、間違いなく勝てないという、妙な自信があったものですから、少なくとも宗兵衛殿よりは早く動かねばならないと考えました。
 私も懐に手を差し入れました。
 途端、場の気配が、一層に張り詰めた物となりました。
 数名の方の体が僅かに動いたように思われましたが、それに構っている暇はありません。
 私は懐に忍ばせていた物を掴みました。
 同時に、宗兵衛殿の手が懐から引き出されました。

 無骨なお手に握られていたのは、僅かに開かれた一面の扇でした。

 私は安心しませんでした。
 これが武器ではないと、誰が言い切ることが出来ましょうか。
 鉄扇ならば武器に他なりません。あるいは檜扇であっても蝙蝠扇かわほりであっても、天下無双の武辺者が手にすれば、短い棍棒のごとき物と変わりありません。
 私は私のするべき事を、早急になさねばならなくなりました。
 宗兵衛殿が扇を再び懐に戻すか、どうあっても手放さずにはいられないようにするか、あるいは絶対に武器として用いることが出来ない状況に持って行かねばならないのです。
 私は懐の中の細い棒きれを素早く引き出しました。
 幾人かの腰が浮きました。眼差しが幾筋も私の手元に突き刺さりました。
 方々の眼には、一尺強の竹の黒い棒切れが写ったことでしょう。
 私が宗兵衛殿の扇を武器と疑ったように、私が持っている物を武器と思った方がいてもおかしくありません。
 私はその用心深い方々が、私を抑え付け、締め上げ、斬殺するより前に、素早くそれを、口元に宛がいました。
 裏返された女竹の横笛が、甲高い叫び声を上げました。
 その時のご一同の顔を、私は忘れることが出来ません。目を見開いて驚愕する方がおられました。覚えず両の耳を手で覆い塞いだ方もおられました。皆様一様に驚いておいででした。あるいは呆気にとられ、あるいは感心しておいでるようにも思われました。
 私は満足していました。
 会心の「日吉ひしぎ」だったからです。
 私が吹き鳴らしたのは、京に住まう母方の祖父から戴いた、由緒ある能管でした。
 それまでは何度息を吹き込んでも湿った情けない音しか出せませんでした。私は日ごろから、己の技量の無さを恨めしく思っておりました。
 それがこの時、初めて抜けるような美しい高音の「日吉ひしぎ」を出せたのです。
 この音を、実際に音を鳴らさずに伝えるには、一体どのようにしたのならよいでしょう。
 ヒヤウともヒヨウともキイともヒイとも言い表せません。文字に置き換えられようの無い音なのです。
 何でも、この世とあの世を繋ぎ、この世のものならぬものを呼び出す音色なのだそうです。
 能舞台の上での演出としてのことです。為手方シテカタが演じる神仏や鬼神、神獣や亡霊が現れるときに「日吉ひしぎ」は鳴らされます。
 しかし私には、現れた演者が人でない事を観る人々に教える合図でも、人手ある演者を舞台上に呼ぶための合図でもない、と、私は考えています。
 耳障りな高音でありながら、心が穏やかになる不思議な音です。本当に人ならぬモノが降りてくる。……私はにはそう感じられてならないのです。
 私が己の腹を元にして出されたとは到底思えない妙音に心を奪われたその時、テン、と膝を叩く音が、横から聞こえました。
 音の出た方へ目玉を動かしますと、青白い顔をした源二郎が、掌で腿を叩いているのが見えました。
 小さな音は、確かに拍子になっていました。
 私がこれから奏でようとしていた調べに必要な鼓の音と、そっくり同じ拍子でした。
 私と弟とが奏で始めたのは、能楽の「石橋しゃっきょう」でした。
 本当ならば、笛と大鼓小鼓、それに太鼓の四つの楽器が必要な冒頭の「乱序」という曲ですが、私たちは能管と鼓代わりの膝頭二つで、どうにかそれらしく奏じました。
 腰を上げかけた人々の半分は、腰を上げたまま私たちの方をじっとご覧になっていました。残りの半分の方は、浮いていた腰をすとんと落とされました。
 前田宗兵衛殿は前者でした。立ったまま、扇を懐に戻されました。
 どうやら我々の拙い演奏を「聞いて」下さるお気持ちになったのは、間違いないようです。
 私の心配はひとまず消えましたが、同時に別の不安が頭をもたげました。
 私たち兄弟の音の足らない囃子を、宗兵衛殿が「聞く」以上に受け入れて下さるかどうか、です。
 それが杞憂であったことはすぐに知れました。
「考えていたのとは違うが……まあ、良かろうよ」
 宗兵衛殿はニッと笑われると、両腕を各々小袖の袖に引き入れ、袖口を内側から掴んで、そのまま横に引き開きました。
 上背を直立させた宗兵衛殿の長身は、すぅっと前へ滑り出しました。
 腰から上が微動だにしないその立ち振る舞いと来たら、さながら仏師が精魂込めた仁王の像を、床の上に滑らせて運んでいるかのようでした。
 私と弟は各々の楽器を奏でるのを止めました。
 途端に、音はなくなりました。
 無音です。
 ただ衣擦れの音だけが、宗兵衛殿を座の中心まで運ぶのです。
 部屋の殆ど中央で宗兵衛殿がぴたりと立ち止まるのを合図に、私と弟は再び精魂を込めて己の「楽器」を奏で始めました。
 激しい音が鳴り響くと、宗兵衛殿は……いえ、宗兵衛殿の姿をした一頭の唐獅子は、床を大きく踏み鳴らし、旋回し、跳ね上がり、声無くして吠え、縦横に狂い舞ました。
 豪快で大振りで、そしてしなやかな動きでしたが、私には獅子の舞に見とれている余裕がありませんでした。
 私の心は演奏に九分入り込んでいました。そして、残りの内五厘を我が父に、もう五厘を滝川一益様に注いでいました。
 一益様の拗ねた小僧のような表情の顔は、音楽が鳴り、舞が舞われる以前から変わらずに、我らの父に向けられた侭でした。
 しかし目だけは違いました。ぎょろりと剥かれた目玉が、宗兵衛殿の激しく美しい動きを追いかけいたのです。
 私は目を父の方へ向けました。
 真田昌幸という男もまた、音曲演舞の始まる以前の侭に、真面目くさった顔を、一益様に向けていました。
 そして、一益様と同じように、目玉だけをお相手の顔から反らして、声なく猛り吠える獅子の動きを追っておりました。
『二人の顔を宗兵衛殿に向けさせねばならない』
 彼の二人と、場にいる人々総てが私たちの演奏に心を奪われ、耳を向けてくださったなら、ご一同の目はこの楽に乗って舞われている宗兵衛殿に向けられる筈です。
 そうなれば、我らの「勝ち」です。
 勝てばこの場の不穏な空気は消え、負ければ我らの命はない。
 私は完全な勝利のための努力を始めました。
 演奏に全力を尽くすことです。
 些かも邪念があっては、人の心を動かす音色は出せません。
 殊更、見事に舞い踊っておられる宗兵衛殿に私の心の揺れを感じ取られてはなりませんでした。
 そのような事があったならば、宗兵衛殿は途端に舞うことをお止めになるに違いないと、私は確信しておりました。
 私は瞼を閉じました。薄闇の中に身を置いて、ひたすらに良い音を出すことだけを心がけました。
 曲は終盤に近付きました。
 獅子の「狂ヒ」と呼ばれる激しい舞は、やがて終わりを迎えます。
 私の能管、弟の鼓、宗兵衛殿の舞、そこに別の音が加わりました。
獅子しし団乱旋とらでんの舞楽のみぎり……」
 ※獅子や団乱旋の舞楽の演じられるこの時は……
 この石橋という舞の最後を飾る謡です。
 謡は、二つの声が重なり合っていました。
 一つは大層下手くそで、一つは大層上手な声です。
 下手な方は私のよく知った声でした。
 父です。
 真田昌幸は能楽があまり得意でない……というか、大変苦手なのです。
 若き頃、武田信玄公の元で証人(人質)暮らしをしていた父は、幸運にも様々な一流の師匠の元で武士が嗜むべきものを学ぶことができました。
(それはやはり証人暮らしをしていた私も同様ですが)
 書を読み、詩歌を詠み、棋道を楽しみ、歌舞音曲に親しむ。それが武士の常識です。武芸に励むだけでは、真っ当な武士とは言えません。
 ですから父には、謡の知識がありました。節回しの上手下手は別して、詞を間違えることなく謡うことは出来るのです。
 父の外れ調子を聞いた私は、心の中で『一つ、勝ち』と叫んでおりました。無言を通していた父の口を開かせることが出来たのですから。
 そうなると問題はもう一つの声の方です。
「獅子団乱旋の舞楽の砌、牡丹の花房、匂ひ満ち満ち、大筋力の、獅子頭、打てや囃せや」
 ※獅子や団乱旋の舞楽の演じられるこの時は、牡丹の華の匂いが満ち満ちている。力強い獅子頭よ、打ちならし、囃し立てよ。
 幾分粗野なところはありましたが、決して野卑ではありません。艶のある声、しかし年齢を感じるお声でした。
 私は片方の瞼だけを薄く開けました。
「牡丹芳々はうはう、牡丹芳々、黄金こんきんずゐ、あらはれて」
 ※牡丹の芳い香りが漂い、雄蕊雌蕊は黄金の様に見える。
 先ほどまで老顔を拗ねた小僧の様にゆがめていた老将の面から、子供じみた色が消えていました。
「花に戯れ、枝に付しずいび、げにも上なき、獅子王の勢ひ、なびかぬ草木もなき時なれや」
 ※こうして花に戯れ、枝に臥し転ぶ、獅子王のこの上ない勢いに、靡かない草木などないであろう。
 滝川彦右衛門一益様は、晴れやかで楽しげな、さながら好敵手を前にした猛将のそのものの、若々しい笑みを面に満たしておいででした。
 下手くそな父の謡と、お上手な一益様の謡とが、何故かぴたりと調子を合わせておりました。二つの声は、神仏の降臨を悦ぶ神々しい声となって響いていました。
 力強く、心地よい謡が、座に満ち満ち、中心で舞う逞しい獅子の全身を覆い尽くしました。
「千秋万歳と舞ひ納めて、千秋万歳と、舞ひ納め、獅子の座にこそ、直りけれ」
 ※千度の秋、万の年月、何時までも栄えよと、舞を納めて、獅子は神仏の座に納まるのだ。
 謡が終わり、曲が終わり、舞が終わりました。
 辺りは再び、シュンシュンと湯の沸く音ばかりが聞こえる、無音の世界となりました。

 「石橋」の獅子の舞は、曲も所作も、総てがすこぶる激しい舞です。
 舞い踊る仕手は元より、曲を奏で、謡を謡う者も、それがどんな名人であったとしても、最後には息が上がるものです。
 源二郎は口を大きく開け、小さな体を揺らし、喘ぐように息をしておりました。
 その姿が少々情けないもののように思えましたので、私は息づかいの聞き苦しい音をご一同に聞かせまいと努めることにしました。
 唇をきつく綴じました。そのために鼻で呼吸をする羽目になり、むしろ鼻息で激しい音をたててしまいました。
 私は己の顔が真っ赤に染まってゆくのを感じておりました。紅潮の原因と申しませば、気恥ずかしさ七分の息苦しさ三分、と言ったところでありましょうか。
 眼をそっと動かして、父と一益様の様子を窺いますと、両人は流石に我々のような「小童」とは違って、苦しむ姿をさらすようなことはありませんでした。それでも、肩は大きく上下に波打ち、額にはうっすらと汗が滲んでおりました。
 そして座の中央、一番激しく動いていた前田宗兵衛殿はと言えば、確かに厚い胸板を大きく膨らませたり萎ませたりなさっておいででしたが、顔つきは涼しげで、汗一つかいておられなかったのです。
「全く、人の都合を考えもせずに……」
 宗兵衛殿は私の情けない顔を見て、ニタリと笑われました。
「勝手な振る舞いを、お許しください」
 私は漸くそれだけを口に出して、その場に倒れるようにして頭を下げました。
「お主の笛が儂に獅子を取り憑かせた。手足が勝手に動き出したぞ。御蔭で最初に何をしようと思って立ち上がったのか、すっかり忘れてしもうた。面白い戯れ歌を思い付いたまでは覚えて居るが、どんな歌だったか、どんな振り付けをするつもりだったか、思い出せん。残念なことだ。後世に残る名曲であったかも知れぬのにな」
 畳の上に額をすりつけた私の、後ろ頭の上に、からからとした笑い声が振ってきました。
 初めは宗兵衛殿の声だけでしたが、そのうちに笑いの声の輪がその座にいた人々の間で広がり、やがて部屋中に満ち、柱や床を揺らし、建物の外にまで溢れるほどの大きな笑声へとなりました。
 私は藺草の青い匂いを鼻先に感じながら、心の内で「勝った」と叫んでおりました。
 座が和んだ、人の心の棘が取れた。余所者である当家に対する疑念の眼差しは無くなった。
 私は私の家を守ったのだ。
 そう思っておりました。その時の顔と言ったら、きっと増長した「にやけ顔」になっていたことでしょう。
 運の良いことに、その時の私は疲れ果て、起き上がる力を失っておりましたので、その醜く弛んだ顔を他人様に見せることが出来ませんでした。
 その顔の真後ろ、つまり後ろ頭に、何かがこつこつと当たりました。
「お主、儂が獅子を舞えなんだら、どうするつもりだった?」
 宗兵衛殿の声でした。突っ伏していた私には宗兵衛殿の顔が見えません。そして何を持って私を叩いておられるのかも、さっぱり判りませんでした。
 私の頭に当たっている物、つまり、私の首根のすぐ側にある硬い物は、一体何なのか。
 先ほど懐にしまわれた扇か? いや、もっと別の物かも知れない。
 武器?
 私の背に冷たい物が走り、尻の穴がギュッと縮みました。
 どんな武器であろうか。懐剣か? もしかして、噂に聞く短筒という物であろうか?
 おかしな話です。刃物ならばまだしも、鉄砲の類であれば火縄が匂うはずです。大体、つい先ほど、自分の鼻がその匂いの感じ取らなかったことに安堵したではないですか。
 所がその時の私は、そういった真っ当な考えを持てなかったのです。
 私はこの場で死ぬかも知れない。
 私は、心底恐怖しました。
 途端、冷や汗が全身からどぅっと噴き出しました。手足の指先がジリジリと痺れ、鼻の穴の奥がぎりぎりと引き連てゆきました。喉と目玉がバリバリと乾いてゆくのを感じました。
 ああ、死ぬな。
 私はその場にうずくまったまま、情けなくも気を失ったのです。

 後々弟から聞いたのですが、宗兵衛殿は握り拳を結んで、手の甲に固く盛り上がった骨の先で、私の頭を軽く小突いておられたのだそうです。
 拳骨ほど恐ろしいものは無いというのが、私の持論です。
 殴打の武器としても、他のどの道具よりも自分の思うた通りに操れますし、防御の術としても、どのような楯や鎧よりも軽く取り回せます。
 己が痛みを堪えさえすれば(そして、拳一つ潰してでも勝ちたい、生き残りたいとの思いがありさえすれば)これほど扱い易い武具はないのです。
 ただ、この時の宗兵衛殿には、拳を武器として使う気は無かったことでしょう。おそらくは、からかい半分に私の頭を小突いていただけです。
 所がそのからかい相手が、
「むぅん」
 と唸ったかと思うと、突然ゴロリと転がって、そこからぴくりともしなくなったとなれば、驚かないはずがありません。

 いえ、何分私は気を失っていたのですから、実際の所は判りかねるのですが、多分驚かれたことでしょう。
 宗兵衛殿ばかりでなく、一益様も、ご一同様も、そして我が父や弟も、皆驚いたはずです。あるいは、私の小心振りに呆れたことでしょう。
 私は気を失ったまま、我らの仮住まいの館へ戻りました。
 無論、我と我が足で歩いたわけではありません。
 私は背負われて帰ったのです……父の背に。
 そう、父は馬にも乗らず、私を負って歩いた、らしいのです。
 らしい、という遠回しな言い様なのには理由が二つあります。
 当の私がそのことにまるきり気が付かなかったからという、情けない理由が一つ。もう一つは家中の者が「そのこと」について口を閉ざしているということです。
 茶会の翌朝、私は
「どのように戻ったものでしょう?」
 という、至極当然な疑問を口にしました。
 これに答えてくれる者は一人としておりませんでした。皆口ごもったり、うつむいたり、私と目を会わそうとしません。
 ただ源二郎だけは私から目を反らさずに、生真面目くさった顔つきで、
「兄上は父上の『お背な』にぴたりと貼り付くようにして、そふわりふわりと歩いて戻られました」
 と答えてくれました。
 ただ、何度聞いても、返ってくる答えは一緒なのです。一言一句間違いなく同じ答えです。まるで子供が論語を諳んじているかのようでした。
 と、なれば、この言葉をそのままに受け止めることができましょうか。
 疑り深い私は、弟の言葉を信じることが出来ませんでした。そして考えたのです。
 確かに私は父の背中にぴたりと付いていたのでしょう。私の体は間違いなくふわふわと揺れていた筈です。しかし歩いたのは私ではない。
 父に違い有りません。
 亡き信玄公から「我が眼」とまで言われた無双の武士である父のことですから、気を失って手足に力のない者を負って歩くことぐらい、造作もないことでありましょう。
 父は小柄な男です。
 一方私は哀しいかな父に似ず背ばかり高い独活の大木です。
 小柄な父が大男の私の足を地面に引き摺りながら歩いたに違い有りません。
「そうか、私はつま先や足の甲で立って歩いていたか。道理で足袋ばかりか中の足まで塵まみれだ」
 私が少々意地悪く申しますと、源二郎は
「はい、兄上は大層器用なお方にございますれば」
 と、臆面もなく申したものでした。
 途端、私の、事の次第を父に確かめたい、という考えが消えてしまいました。
 元より、訊いたところで本当のことを教えてくれるとは思うておりませんでしたが、答えが出なくても訊くだけ訊きたいという心持ちだけは有ったのです。
 父が何を思うて「莫迦息子」を負って歩いたのか、その胸の内を聞いてみたいとも思っておりました。
 家中の者に口を噤ませたのは、おそらく嫡男の「失態」を恥じてのことでしょう。茶席で失神したなとと、しかもその失神者が親の背に負われて帰ったなどと言うことが広まれば面目が立ちません。
(失神した当人にも黙っている理由は判然としません。あるいは、父に私の口が一番軽いと思われていたのやもしれません)
 私の失態はさておいて。
 茶会が済み、私たち一族は今度こそ砥石の山城へ向かおうと準備を整えておりました。
 ところが、なかなか滝川様から出立のお許しがでないのです。
 私どもは数日厩橋の館に留め置かれました。
 暫くして、滝川様からの……厳密に申しますと、前田宗兵衛殿からの……ご使者が見えたのです。
 呼び出されたのは私一人でした。
「一勝負、お付き合いいただきたい」
 と言われて、恐々として宗兵衛殿の御屋敷に参ったところ、挨拶もそこそこに碁盤と碁石が運ばれてきたのでした。

 一度盤上を埋めた(絶対に私の四目勝ちだったはずの)黒白の石が取り払われ、更地になった「戦場」を前に、宗兵衛殿は
「滝川一益は、ああ見えて好き嫌いの激しい男でね。趣味の合わぬ者とは口も聞かぬ事があるくらい困った奴なんだが」
 ご自分の血の繋がった伯父であり、上役でもある方のことを、まるで同年配か年下の仲のよい友人のように仰いました。
 それが厭味にも増長にも聞こえないから、本当に不思議な方です。
「その伯父御が、お主の父御をたいそう気に入ったんだそうな。なんでも……」
 宗兵衛殿は私の顔をじっと見て、
「特に唄が下手なのがよいそうな」
 と仰り、ニンマリと笑われました。
「はあ、お恥ずかしいことで」
 私は顔から火が出る思いでした。紅潮した顔を伏せようとしますと、ひらひらと手を振って、
「戯れ言、戯れ言。気にするな」
 ひとしきり笑われると、
「出来るだけ自分の近くに置きたいと駄々をこねておるよ。信濃衆の取り纏めのためには、喜兵衛殿は信濃に戻った方が得策なのだがな。困った年寄りだ」
 と、何やら楽しげですらある口ぶりで仰せになりました。
 私が返答の言葉を愚図愚図と選んでおりますと、碁盤の中央に描かれた天元の星の辺りに、黒い石が一つ落ちました。
 
 今度は私が白を持って、後手となり、もう一局と云うことか、と、私は慌てて顔を上げました。すると宗兵衛殿は片目を瞑り、碁盤の一点を睨んでおられました。
 その険しい顔で、宗兵衛殿は黒い碁石を摘み、それを碁盤の端に置き、右の中指と親指とで輪を作られました。直後、中指が勢いよく起き上がり、碁石がぴしりと音を立てました。
 宗兵衛殿は幼いおなごが手慰みに遊ぶように、碁石を指で弾き飛ばしておいでたのです。
 天元の碁石めがけ、二つ三つと石を弾きながら、宗兵衛殿は私の顔などまるで見ずに、言葉をお続けになりました。
「何分、信濃者は頑固者揃いだ。“余所者”の言うことなど、さっぱり聞き入れぬから、困ったものだ」
 文字にしますれば、その時の宗兵衛殿が思案投首であったかのようですが、実際にはまるで困っていないような口ぶりでした。
 むしろ何やら楽しんでおられる風だったのです。
 何を楽しんでおいでなのかと言えば、「扱いづらい信濃の武士達を切り崩し籠絡する術を思案すること」か、あるいは「碁石のおはじき」か……。
『やはり、両方、かな』
 碁盤の上を滑る石を眺めながら、私は私自身も何やら笑っているようだと気付きました。
 私は白の碁石を一つ、碁盤の端に置きますと、指でぴしりと弾きました。
 石は余りよく飛びませんでした。碁盤の半分の、そのまた半分のあたりで滑るのを止めたにも関わらず、何時までもゆらゆらと揺れ続けました。
「難しいものですね」
 何が難しいのか、私はあえてもうしませんでした。宗兵衛殿も訊ね還すようなことはなさらず、
「ああ、意外に、な」
 鉄砲の撃ち手のように片目を瞑って狙いを定め、黒石をはじき飛ばされました。
 パチリと音がして、揺らいでいた白い石は碁盤の右手の外へ弾き飛ばされました。黒い石は、さながら白い石に突き飛ばされたかのように、碁盤の左の隅へ飛んで行きました。
「父も私も、信濃者でございますれば」
 白い石が先ほどの石よりは少しばかり威勢よく碁盤を滑りました。石は天元よりも二目ばかり手前で止まりましたが、やはりゆらゆらと暫く揺れ続けました。
「うむ、頑固だな」
 黒い石がまた揺れる白い石めがけて滑って、また白い石を弾き出し、それ自身もまた奇妙な方向へ吹き飛ばされて行きました。
「お恥ずかしいことで」
 私が別の白い石を取ろうとすると、宗兵衛殿が
「お主、何処で生まれた?」
 唐突な問い掛けに思えました。顔を上げると、宗兵衛殿は碁盤でも碁石でもなく、私の顔をしげしげと眺めておいででした。
「甲府ですが?」
「甲州生まれの、信濃者か?」
 宗兵衛殿の顔の上には、まるで子供が同輩の揚げ足を取るような、少々意地悪な笑顔が浮かんでいました。
 私は中っ腹になって、
「己が何者であるのかは、生まれ在所によってではなく、周りの者達からの影響で決まるのではありませんか? 私は甲府で生まれましたし、今まで甲州から殆ど出たことがありませんが、父祖が故郷と呼んで懐かしんでいる所こそが我が故郷と思うております」
 口を尖らせて申しましたが、すぐにその言い振りが、あまりに生意気に過ぎたと感じ、座ったまま後ずさって、
「出過ぎたことを申しました」
 畳に額をすりつけました。
 頭の上から、爆ぜるような笑い声が致しました。
 私は頭を伏せたままでおりました。顔を上げずとも、宗兵衛殿が立ち上がり、碁盤をぐるりと避けて私の背中側に回り込む気配は、ひしひしと感じられました。
「全く信濃者は、頑固よな」
 声と一緒に、どすんという衝撃が両の肩に落ちて参りました。
「その上、お主は面白いと来ている」
 私の体は、両肩を掴む宗兵衛殿の両の腕によって前後に大きく揺すられました。私は声も上げられず、ただ宗兵衛殿のなすがままに揺すぶられておりました。
「伯父貴は親を欲しがっているが、儂はやはり倅を連れて行った方が良いと思うと、進言することにする」
「宗兵衛殿?」
 私は漸くそれだけの声を出しますと、殆ど必死の思いで首をねじり、どうやら宗兵衛殿のお顔を拝見いたしました。
 宗兵衛殿はニタリと笑い、
「それからな、源三郎。以後儂のことは『慶次郎』でよい。これはな、儂が『親父殿』が儂に付けてくれた特別な名だ」

 その時から、宗兵衛殿は私がその名でお呼よびすると、酷くお怒りになるようになりました。
 それも口でお叱りになるだけではなく、本気で殴りかかってくるのです。
 拳が風を切って飛んでくる度に寿命が縮む気がいたしますので、私はこの後は慶次郎殿と呼ぶように努めることにしました。
 それでもまだ宗兵衛殿……いえ、慶次郎殿は
「お前は友に対して他人行儀に『殿』付けをするのか」
 などと文句を仰りましたが、どうやら殴られずに済むようにはなりました。
 前田慶次郎殿が、織田の大殿様や滝川一益様にどのような進言をなさったのか、正確なところは判りません。
 進言の如何も、その進言が可否も、私には判らぬことですが、ただ我が家の人々の行き先について、先方から細かい「指示」が出されたのは確かなことです。
 真田昌幸、即ち我が父と主立った家臣達は、希望通り砥石城へ移ることとなりました。妻子を伴っての「帰還」も許されました。
 父は、妻達と子供たち、つまり、元服していない男子二人、私には姉に当たる娘「くに」と「らく」、私と同い年の「きく」を連れて砥石へ行くこととしました。国姉の夫、詰まり私の義理の兄である小山田茂誠も同行します。
 私から見て大叔父にあたる矢沢源之助頼綱は、滝川義太夫殿の下について沼田城へ入ることとなりました。
 矢沢の大叔父殿は家中でも一番の武辺者です。滝川様としてはこれを真田の本体から切り離し、且つ、万一の時の人質にとするおつもりなのでしょう。
 人質は大叔父殿だけではありません。
 まず、私のすぐ下の弟の源二郎信繁は、遠く南の木曾義昌殿の元へ行くことになりました。
 父は口に出すことはしませんでしたが、源二郎を出すことに反対だったようです。
 木曾殿を嫌っていたためです。
 木曾殿は元々武田と敵対する勢力でした。
 木曾殿に限りません。信濃衆は大抵武田勢と敵対していたのです。武田信玄公が版図を広げるために信濃へ攻め入ってきたから、です。
 木曾殿も当初は「侵略者」と戦っていました。しかし、圧倒的とも言える武力差を見せつけられ、お家存続と所領安堵のためにお降りになったのです。
 その後、義昌殿は信玄公の旗下で数々の武勲をお立てになりました。やがて信玄公の姫君を娶られ、ご一族衆に名を連ねらるに至ります。
 ここまでの経緯は、我が真田家も似たようなものです。(木曾殿の方が元の家勢も後のご身分も上ではありますが)
 真田の家も曾祖父・頼昌の頃までは東信濃の小県の小豪族として、武田家と争っておりました。
 結果として僅かばかりの所領を失い、祖父・幸綱は信濃から逃げ出し、関東を放浪することとなります。
 放浪の果てに祖父は、信玄公に仕えることを決めたのです。それが失地を回復する尤も良い手段だと考えてのことでした。
 祖父の考えは正しかったと言うより他にありません。
 信玄公の元で存分に働かせていただいた御蔭で、真田の家は旧領を含む小県を得ることが出来たのです。
 私の父は一時、信玄公のご母堂の系譜である武藤の姓を与えられました。私の母になる女性を妻に迎えるにあたっては、一度信玄公が養女となさったのです。
 信玄公は父を外様ではなく甲斐衆の一員として扱ってくださったのです。
 父も存分に働かせていただき、旧領の上に上州の沼田領を得るに至りました。
 信玄公がご存命の頃は、木曾殿が他家へ走るような事はあり得ないことでした。
 しかし、木曾殿の本領は甲府を遠く離れた木曽谷であり、美濃との国境でした。
 目の前に織田の軍勢が見える場所です。
 ですから信玄公がお亡くなりになったことによって、武田の勢いが弱くなるという不安に取り憑かれたに違いありません。
 武田の後ろ盾がなくなれば、織田軍攻めてくる。そうなればまたしても領地を失う。
 領地を失った侍ほど哀れな者はありません。我々は自ら耕すことも獲ることもしませんから、領地から得られる収入が無くなれば、飢えて死ぬより他にないからです
 勝頼公から無理な城普請を命じられたことも、応じればご自身の国力が削がれるという不安にを大きくさせたのでしょう。
 木曾殿は勝頼公ご存命の内に、織田様に下られました。
 対織田の最前線であった木曾義昌殿が「寝返った」がために武田は滅んだ、と申しても過言ではないでしょう。
 ですから、父は義昌殿をあまり好いておられないのです。
 と言っても、義理の弟でもある主君を売ったと不忠不幸が理由では、恐らくないでしょう。親子兄弟、あるいは主君と家臣が、時に敵対し、騙し合い、あるいは殺し合うことは、哀しいかな「良くあること」です。
 父も必要とあれば、親族を出し抜き、主家を陥れ、戦って討ちとることを躊躇しないでしょう。
 実際この度の戦が起きる前、父は水面下で織田様や北条家と接触していました。
 勝頼公には信濃へ落ち延びるように注進し、その準備を進めながら、同時に、織田様や北条家に文と名馬を贈っています。
 それが功を奏して、今我々は織田様の旗下にあるのです。
 そんなわけですから、父が道徳的な理由で木曾殿を嫌っていることは考えられません。
 勝負をする前に勝負を投げ捨てて逃げたのが気に入らない、というのが本音のはずです。
 ただし、これは私の想像です。父は何ももうしませんので、本当のところは判りません。
 判りませんが、私の想像が大きく的を外したことを行っているとは思えないのです。

 兎も角も、父は源二郎を木曽へ送ることを渋りました。しかし拒否することが出来ないことは判っています。
 そこで源二郎は若年だからと理由を付けて、矢沢頼綱の嫡子で、父の従兄(私から見たなら従伯父いとこおじ)である矢沢三十郎頼康を同行させることを先方に同意させました。
 三十郎伯父が随行者に選ばれたのは、いざと言うとき、包囲網を突き破って逃げ出すためです。……あまり考えたくない状況ですが、必要とあらば、血路を開くことも厭わず、です。
 三十郎伯父は父よりも二歳ばかり年上なのですが、初見でそうと解る人はまずいないでしょう。
 この人は恐ろしく若く見えるのです。
 私が「少し年の離れた兄」と言ったとして、おそらく誰も疑うことがないでしょう。
 慶次郎殿も「若く見える」方ではありますが、こちらは「若武者のように見える」若さです。しかし三十郎伯父の「若く見える」は、慶次郎殿のような頑強な若々しさではありません。
 幼顔で柔和な相貌、背はさほど高くなく、体はむしろ細く、物腰も穏やかなものですから、一見すると文人か公家のようです。
 若輩の文人風、悪く言えば、末生りの青二才じみたその風貌が、三十郎伯父の強力な武器となることがあります。
 馬上で三尺三寸五分の野太刀を振るう剛の者であるとは到底見えないからです。
 三十郎伯父は家中でも三本の指に入る剛の者です。
 因みに申しますと、三本指の筆頭は、先にも挙げましたが、頼綱大叔父です。三十郎伯父の器量はこの「筆頭」の陰に霞んでいます。
 いえ、わざと霞ませているのです。「敵対者」の警戒からは真っ先に外れるようにするためです。
 思惑通り、織田様のご家中からも、三十郎伯父はさほど警戒されませんでした。むしろ当主の血縁者である人質が二人に増えるのですから、先方からは反対意見が出なかったようです。
 そしてもう一人、厩橋城の滝川一益様の元で人質暮らしをすることになった者がいます。
 私の末の妹の「照」です。
 妹は、私の身代わりでした。
「全く、お前の父親は酷い父親だ」
 宗兵衛殿……いえ、慶次郎殿は、私共がそれぞれに出立するというその早朝に、私を御屋敷に呼び出して、茶をお立てになりながら、そう仰いました。
 私はというと、旅装のまま慶次郎殿の真正面にちんまりと座らされておりました。
「猿公ン所の佐吉の所へ嫁に出したんだろう?」
 慶次郎殿が猿公と言ったのは羽柴秀吉殿のこと、佐吉と呼んだのは石田三成殿のことです。
 私は身震いしました。
 真田家が、武田に仕えている身で、宿敵とも言える織田の家臣と縁を結ぼうとしていた、その我が家ながら卑怯、狡猾な振る舞いを、少なくとも滝川様ご一門の慶次郎殿が知っていたと言うことにです。
 秘密の、極内密な縁談だったのです。出来れば話が完全にまとまるまでは誰にも……特に甲州や上州、して信濃の人々には……知られたくないことでした。
 私は慌てて否定しました。
「石田様ではなく、石田様の御舎弟の宇多頼次様です。それに……」
 私は「まだ正式に婚礼をしたのではない」と説明しようとしたのですが、慶次郎殿は一にらみで私の口を噤ませて、
「同じ様なものだ」
 と不機嫌そうに仰せになりました。そして、大振りな茶碗を放るようにしてどすりと置かれたのです。
 茶碗の中では緑色の泡がぶつぶつと音を立てておりました。
「親の都合で、出したり戻したり。挙げ句質にまで出すとは、あまりに不憫ではないか。娘が可哀相だと思わぬのか? 下の男の子が幼いなどというのは、言い訳にもならぬ。幼くても男の子を出せばいい。全く、つくづく酷い男だ。儂ならば娘だけは出さぬぞ。あんな可愛い生き物は他にない。嫁にだって出すものか」
 初めは虎のようなお顔で怒っておいでだった慶次郎殿ですが、最後の方になるとまるで猫のような顔になっておられました。
 この時私は、慶次郎殿に娘御がおられるらしい、と理解しました。その娘御が余程に可愛いくてならないのたど言うこともまた、判った気がしました。
 というのも、この時の慶次郎殿の素振りというのが、我が父が「照の事」になったときのそれ……例えば、良縁が決まったというのにいつまで経っても婚家へ送り届けたがらないところであるとか、そういう所が殆ど同じでであったからです。
 私は妙に可笑しくなりました。そこで、顔が崩れるのを堪えようと、ものも言わず、畏まって茶碗にそっと手を伸ばしました。
 すると慶次郎殿は、
「お前の酷い父親は、可愛い娘を差し出してまで、不肖の倅を砥石へ連れて行きたいと見ゆる」
 またお顔を虎のようになさいました。
「いえ、私は父とは別の……岩櫃いわびつへ参ります」
 岩櫃城は、上野国と信濃との境にある岩櫃山の急峻な斜面に囲まれた岩場の上にあります。
 私は手の内に茶碗を抱いて、じっとそれを見ました。始めは慶次郎殿のお顔を見ぬようにするためではありましたが、暫く眺める内に、この茶碗が何とも美しく思え、目がはなせなくなったのです。
「ほう……」
 慶次郎殿が不思議そうに息を吐いたのを耳にし、私はちらりと目を上げました。慶次郎殿は腕組みして天井の隅に目を向けておいででした。

「岩櫃というは、信濃か? それとも上野……関東か?」
 その問いかけに素直に、そして正確に答えるとするならば、
「岩櫃は上州であり、関東に御座候」
 と言えば事済みます。
 しかし、そのような当たり前の事を、仮にも関東管領・滝川一益様ご一門である慶次郎殿がご存じないわけがありません。
 私は茶碗を抱えたまま、慶次郎殿が見ているのと反対側の天井の隅を見上げました。
 岩櫃は、万一事あらば、関東の軍勢を信濃に入れぬ為の要害です。そして、機会あれば、信濃から関東へ討ち出るための最前線であります。信濃の玄関口ではありますが、同時に上野の裏口でもある場所です。
「さて……。沼田の支城とみれば上野に属するといえましょうが、砥石の支城とみれば信濃に属すると言えなくもありません」
「なんだ、はっきりせぬなぁ」
 慶次郎殿は視線を天井から私へお落しになると、落胆なされたような、それでいて妙に楽しげな口ぶりで仰いました。
 私も視線を天井から外して、
「そう仰せになられましても、私はあそこが信濃なのか上野なのかなどと、改めて考えたことはありませんでしたので」
 私は正直に申しました。腹の内が妙にもやもやしておりました。
 慶次郎殿は太い眉毛を片側だけ持ち上げて、
「考えたことがない?」
 本心不思議そうにお訊ねになりました。
「あえて申しますと、真田の城、と」
 そう言った途端、私は自分がなんとも大胆なことを言っていると気づき、驚きました。
「真田の城だと?」
 慶次郎殿は、私をギロリと睨まれました。眉間に縦皺が一本、深い谷を作っていました。
「はい、我らの城です」
 私は慶次郎殿の眉間の皺の一番深い一点を見つめて申しました。そう言った途端、腹の中のもやもやがすとんと霽れた気がしたものです。
 沼田も、岩櫃も、砥石も、小県の土地も、みな我らのもの。我らが手放してはならぬもの。
 私は自分の言葉が自分自身のをたぎらせるのを感じました。
 同時に、自分の首根に薄ら寒いものを感じました。
 私の言い様は、聞き方に寄れば、
『真田は誰にも従属しない』
 といった意味にも取れるものです。
 武田にも、上杉にも、北条にも、そして織田にも従わず、自立し、己等の土地を守る。
 そう宣言したととられても仕方のない言い振りでした。
 迂闊なことです。
 私は二心有りの胡乱物として、この場で前田慶次郎殿に討ち取られるかも知れません。そして私の一族は、私のきょうだい達は、滝川様に攻められ、捕らえられ、殺されるかも知れません。
 父が苦心して、八方に手を打って、ようやっと織田様の旗下に収まることができ、どうにか所領を安堵出来たというのに、私の一言で総てが水泡に帰すことになりかねない。
 大失言です。
 私の首根が寒くなったのは「失言」そのことそのものよりも、その後に起こりうる「悲劇」のためでした。
 しかし、私は確かに、自らの意思で、本心から、宣言したのです。
 私は肺腑の中に重く溜まっていたモノを総て吐き出し、手の内の茶碗と、鮮やかな緑の液体をじっくりと見つめました。
 これらが、あるいはこの世で最後に見る「美しい物」であるかも知れません。
 抹茶の緑は、萌え出た春の木の芽のように、眩しく輝いておりました。
 寒い冬を乗り越えた、小県の、故郷の山が、茶碗の中にある。そんな気がいたしました。
 茶碗の中で、緑色の泡がぷつりと弾けました。私は不意に、総ての泡が消えてなくなる前に、それを飲まねばならないという気持ちになり、まるで酒か毒杯でも煽るような勢いで、一息に、茶を飲み干しました。
「結構な、お手前で」
 私は空になった茶碗を置き、首を投げ出すようにして、深々頭を下げました。
 このときの私の心持ちと来たら、全く不思議な物でした。どうやらこの首っ玉の上に、慶次郎殿が大脇差を振り下ろしてくれることを期待し、待ち望んでいた、としか思えないのです。
 伏せた頭の上で、衣擦れの音がしました。慶次郎殿がお動きになった気配はあります。
 しかし、私の首は何時までも私の胴体にしがみついたままでした。
 私がそっと頭を上げますと、
「全く、困った高慢ちきめが」
 慶次郎殿は両の手を突き上げて背伸びをしておられました。それから大きな欠伸を一つして、
「朝駆けでもないのに早起きをするもンじゃないと、お主も思わぬか? 寝惚けた友が言わんでも良い『寝言』を言うし、その『寝言』を聞かなかったことにせねばならなくなる」
 そう仰せになると、完爾として笑われました。
 どうやら私の命も、真田の家の命運も、この場で尽きるということは無くなったようでした。
 私はすっかり安堵して、
「全く、その通りのようです」
 と苦笑うて頭を掻きました。
 すると慶次郎殿は、急に険しいお顔をなさって、
「だが、忘れぬぞ」
 酷く重い言葉でした。私は脾腹を撲たれたような心持ちになりました。
 己の顔の色が失せてゆくのが判りました。慶次郎殿は私の紙のように真っ白な顔をじっとご覧になり、仰せになりました。
「聞かなかったのだから他の誰にも言うことはない。だが、儂の胸の内には刻んでおく。お主がどれ程に故郷を愛して居るのか……。儂は忘れぬぞ」
 そう仰ると、前田慶次郎殿はすっくと立ち上がり、
「源三郎。その茶碗はな、儂が焼いた物だ。餞別だ。お前に遣るから、信濃へ持って帰れ」
 また破顔されました。


 私たちの一族郎党は四月の半ばに厩橋を出ました。
 父があらかじめ滝川一益様に申し出て(というか、むしろ「手を回して」とでも言い表した方が良い気がするのですが)、皆で一旦は砥石まで戻り、その後各々が行くべき場所へ向かう許しを得ておりましたので、我々は列をなして砥石へ向かういました。
 山の麓では暑いほどの陽気でしたが、高い尾根にはまだ雪が残っております。山肌をひんやりとした風が吹き下ろしてくれば、寒ささえ感じました。
 上州街道を鳥居とりい峠を越えて進み、真田郷を経てたどり着いた砥石といしの城は、小さな、しかし堅牢な山城でした。
 東太郎山の尾根先の峯の伝いに四つの曲輪があり、これを合わせて砥石城と呼び習わしています。
 細かく言えば、尾根の一段低い所を開いた場所が本城、そこから北側の出曲輪を枡形ますがた城、南西の山端には米山こめやま城、そして、南の一番高い場所にあるのが砥石城となります。
「相変わらず退屈な城よな」
 砥石の矢沢の大叔父が六十の老顔を綻ばせて言いました。
 天文庚戌(十九年)と言いますから、武田滅亡の天正壬午(十年)からさかのぼること三十と二年程昔、頼綱よりつな大叔父は信濃衆の一人としてこの城においででした。……村上義清殿の旗下として、武田と対峙していたのです。
 この頃、武田は、信府の小笠原氏を攻め落とし、南信濃から中信濃を手中に収め、その勢いのまま北信濃まで手に入れようとなさっておいででした。
 これに立ちはだかったのが、村上義清殿でした。
 実を申しますと、その前年に義清殿は上田原という地で信玄公を打ち破っています。
 この戦について語り出すと大変長くなりますので、ここでは詳しい話は出来ません。ただ「武田は散々に負けた」とだけ申しておきます。
 ですから砥石城攻めは、謙信公にとって意趣返しのためにも勝たねばならない戦もありました。
 私の曾祖父・真田幸隆ゆきたかはこの頃にはすでに謙信公の旗下に有りましたが、一族の内にはまだ武田に帰順していない者も多くいたのです。
 その筆頭が矢沢の大叔父殿でした。
 大叔父は祖父の直ぐ下の弟でしたが、ある小規模な戦闘に甲冑も着ずに飛びだして行き、敵方を殲滅させたといった(剰りにも無茶な)武勇を、諏訪神氏の流れを汲む矢沢頼昌殿が気に入り、養嗣子にと望まれたため、真田の本家と別れて信濃に残ったのだそうです。
 砥石での戦でも大叔父は「めざましい戦果」を上げられ、その「甲斐」もあって、武田は千余の人死にを出すほどの壊滅的な被害を被りました。
 かくて武田信玄は同じ相手に二度負けて、這々の体で逃げ出す結果となったのです。
「砥石とも戸石とも書くが、どちらにしても切り立ったこの岩場を良くも言い表しておる」
 頼綱大叔父は崖から身を乗り出して山裾を覗き込み、
「この山の所為であの時の戦は退屈きわまりない物となったのだ。武田の兵がこの山肌に貼り付いて登ろうとする所へ、岩の一つ二つ蹴り落としてやれば事済んだからの。まあ、つまらぬ戦であったよ。何分にも城が守るに良すぎて、我が武勇が発揮できなんだ。さても残念なことだ」
 大叔父殿は、カラカラと笑いました。一歩下がった場所に立っていた我が父は、苦笑いして、
「挙げ句に叔父御が勇躍しておったなら、今の我らは此度とは違う算段を立てねばならなんだろうな」
 ここで『今の我は無い』と言わないのが父らしいところです。父としてみれば、例えどんな状況に陥ったとしても、真田の家は残っているのが当たり前のことなのでしょう。
 武田相手に二度も大勝した村上義清殿ですが、その一年後にはこの城を負われました。
 真田幸隆の調略によって、です。
 祖父は砥石城の中にあった一族縁者に内応させて城を乗っ取ったのです。
 どのような調略が有ったのか、私は知りません。
 父によれば、祖父はその話を三男であった父には直接口伝することがなかったというのです。それ故父は、何も教えてやることができぬ、と言います。
 あるいは話を伝え聞いていたやもしれぬ父の兄たち、すなわち信綱のぶつな伯父、昌輝まさてる伯父も、私が十になる前に長篠の戦で討ち死にしています。
 調略された側でもある頼綱大叔父に聞けば委細が判りそうなものですが、
「なに、ちぃと兄者にそそのかされての。まあ、いくらか味方につくものを集めて、あとは少し戦らしいことをしたまでのことだわい」
 程度にしか話してくれぬのです。
 大叔父が「戦らしいこと」と言うと、それが文字通りの小規模な戦闘だとは思えないのが不可思議ではあります。
 経緯はともあれ、祖父は砥石城を奪い取りました。そしてその褒美として信玄公は、砥石城をそのまま祖父に与えたのです。
 以降祖父はここを居城としました。あるいは本城と考えたのでしょう。
 後年、真田の庄に新たに作った館ではなく、ここの山城で最期を迎えたのは、恐らくそんな理由からだと、私には思えるのです。
 我が父・昌幸はここで生まれ、七つで証人(人質)として甲府へ送られるまで暮らしました。
 父にとってはここが故郷そのものなのです。だからこの度も、どうしてもここへ戻ってきたかった。
 新たな主に仕えるに当たって、初心のある場所に戻りたかった。
 父は私などに心中を悟らせてはくれませんが、私が父のような生い立ちであれば、恐らくそうしたでしょう。
 ところで、「父のように」ではなく、私として生まれ育った今の私は、父のように「生まれ育った所」に戻りたいとは思っていません。
 甲府は懐かしい場所です。帰りたいと思うこともあります。ですが今、あの場所からやり直したい、とは思えません。
 全く我ながら不思議なものです。

 砥石の城櫓に立てば、南には上田平を、北東には真田の郷を一望できます。南東の方角に目を転ずれば、北佐久の土地を眺めることも出来ます。
 西を流れる神川かんがわが南に進んで千曲川ちくまがわと合流している様子が見えます。
 私が四方を見回していると、
「手狭、であろう」
 背後から声をかけたのは、父でした。
「兵も馬も武器も兵糧も水も、止め置ける領が少ない。山城はそこが不便だ。源三郎は、いかが思うか?」
 父は私の顔ではなく、眼下に広がる景色を遠く眺めておりました。
「私は不便というよりは、この城は位置が悪いと思います」
 私は父の、色黒で皺の深い、年相応以上に老けた顔を見ました。栗の渋皮が石塊になったような、固い顔つきをしています。
「そうか?」
「上田の平には近く、塩田の平が遠う御座います。あるいは、真田の庄に近く、川中島には遠い。沼田はまだしも、甲州、振り返って信府、さらに申しませば諏訪、木曽、あるいは、京の都には遠い遠い」
 私が地名を言うごとに、父の顔が歪んでゆきました。頬の辺りがひくひくと攣れ、奥歯でギリギリと音をたてています。そして、目尻がじわじわと下がってゆくのです。
 京の都、の辺りになると、父は堪えきれずに、弾けるように息を吐き出して、山が崩れるのではないかと言うくらい、大きく大きく笑いました。
 腹を抱えてひとしきり笑い終えると、また渋皮顔に戻って、
「さても、源三郎は強欲よ」
「はて、私はただ『遠い』と申したまでです」
 私は空惚けて答えました。その土地が欲しいなどとは……例え淡い憧れのような思いはあったにせよ……一言も発していないのです。
 父は渋皮顔のまま、
「儂もなにがどう強欲とは言っておらぬぞ」
 口元だけ僅かに微笑させました。

 私と弟の源二郎、そして頼綱大叔父は、着いた翌日にはそれぞれ、岩櫃、木曽、沼田へと向かうこととなっておりました。
 於照は、滝川様が厩橋の御屋敷を整備している都合もあって、先方から迎えが来るまでは砥石に留まることになっています。恐らくは、於照を手放したくない父の「手回し」があったためでしょう。
 岩櫃の城には立派な作りの館がありました。と言うのも、父はここに武田勝頼公をお迎えする腹積もりでいたためです。結局、勝頼様は御自害あそばしてしまいましたので、岩櫃の真新しい居館は、暫くは主のない状態でした。

 私が岩櫃に入って三日ほど経った頃のことです。
 信濃巫しなのみこであるとか、ノノウなどと呼ばれる「歩き巫女」の統帥である望月もちづき千代女ちよめ殿と、その弟子の娘達二十人ほどが訪ねてきました。
 巫女言っても、ノノウ達は特定の社寺に属しているわけではありません。ノノウはご神体を携えて各地を遊歴して、その土地土地で雨乞いや豊作を願う祈祷をしたり、あるいは死者や神仏の口寄せをしたりするのです。
 田楽を舞い、傀儡くぐつを操って芸能をしてみせたりと、旅芸人に近い者達もいます。中には神仏に仕えるのではなく、男衆に一夜限りで仕えるような事をする者達もおりました。
 千代女殿は四十歳を少し過ぎた、白髪の多い、ふくよかなご婦人です。
 元は武田信玄公の外甥でもある望月盛時もりとき殿の奥方でしたが、盛時殿が八幡原の戦いでお亡くなりになって後、信玄公から「甲斐信濃二国巫女頭領」の任を与えられ、信濃小県禰津ねづ村でノノウの修練場を営んでおいでです。
 千代女殿の巫女道修練場には常時二〜三百の女衆が居り、巫女道の修練に励んでおります。その多くは、戦の続く世で親兄弟を失った若い娘御でした。
 私は本丸館の新しい床と新しい敷物の上に落ち尽きなく座って、女衆を迎えました。
 まだ十にも満たない童女から、三十に近いとおぼしき者まで、様々年頃の女がいました。
 女衆は、神社の巫女のような一重と袴といった出で立ちではなく、それぞれに様々な柄の、丈の短い小袖を着ております。
 足首辺りがちらりと見えるその出で立ちが、妙に艶めかしく思え、何やらじっと座っていることが出来ない気分になりました。私はその照れを隠そうと、
「新しい館というのは、居心地の良くないものですね。とにかく尻の座りが悪い」
 うわずった声で言いました。その様が無様であったのでしょう。若いノノウの幾人かが、口元も隠さずにクスクスと笑い出しました。
 千代女殿が気恥ずかしげに
「修行の足りない者ばかりで」
 と頭を下げると、流石に娘達は神妙な顔つきとなり、師匠に習って深く頭を下げたものです。
「いや、男の前で笑うて見せるのも、ノノウの役目で御座いましょう。若い娘の笑顔は、男の心を開かせる。心を開かせれば、こちらの聞きたい話を思うままに聞き出せるというものです。……今私も危うく余分なことを言いそうになった」
 私が言いますと、千代女殿は誇らしげに笑われました。
 甲賀望月氏は甲賀忍びの流れを組む家柄です。盛時殿はその甲賀望月氏の本流の当主でした。千代女殿がそのの妻となったのは、千代女殿自身の忍びの術が、すこぶる巧みであったためだと聞き及びます。
 その千代女殿の教えが、加持祈祷、呪術、薬石医術、神に捧げ人を惹き付ける歌舞音曲といった、巫女としての技術知識に留まる筈がありません。
 己が身を守るための武術を学び、並の男共と渡り合っても生き残れるほどの腕前となった者もおります。
 他の歩き巫女のように、夜に男の閨房けいぼうに入る者もおりますが、その房中術と言えば、ただ男を喜ばせる(そして小銭やその夜の食事を手に入れる)ためだけのものではありません。彼女らのそれは、男共を籠絡し、操り、情報を引き出すための術です。
「武藤の若様の……いえ、今は真田の若様であられましたな」
 千代女殿は丸い顔を綻ばせました。
 私が(というか、父が)武藤姓を名乗っていたのは、天正乙亥の長篠の戦の後までです。もう七年も前から真田姓に戻っているのですが、千代女殿にとっては私は何時までも武藤喜兵衛の所の坊やなのでしょう。
「真田の若様の本心を聞き出す機会を逸したとあれば、残念なことでありまする。若様も殿様も、真田の皆様は皆、中々に腹の奥底を見せてくださいませぬ故」
 千代女殿は元々細い眼をさらに針のように細なさいました。
 私は苦笑いして、
「父は元より、私も不誠実ですか?」
「さても……。腹の扉の開閉を己の一存で決め、誠実と不誠実の両方を使いこなすのが、今の世では良い侍ということでありましょう。若様はお父上に似て、良い侍であると言うことで御座いまするよ」
「それが信濃巫女の頭領が降されたご神託とあれば、有難く受けましょう」
 私は土地神の社殿に詣でるとき以上に深く頭を下げました。
「『神託』はまだ他にも御座いまする」
「それは父も聞いた『お告げ』ですか?」
 私が訪ねますと、千代女殿はこくりと頷かれました。
「真田の殿様は、武田の大殿様亡き後、身の置き所に不自由しておりました我らノノウを庇護してくださるとの事で御座います由に。殿様の求めがありますれば、我らは何時でも神懸かり、言葉をお告げいたしまする」
 遠回しな物言いでした。
 千代女殿とその配下のノノウ達が、我が父の命を受けて、「草(忍者)」働きをしてくれている――ということをそのまま言うのは、例え真田の城の中であっても、まだ憚られるのです。それほど真田の「今の立場」は不安定なのです。
 先ほどの私の質問も、正しくは『父も』ではなく『父から』であり、『お告げ』ではなく『指図・命令』を意味していました。
 千代女殿は笑顔を崩さずに、
「禰津村から優れた者を選んで連れて参りました。後は各地に散っております特に腕の良い者達にも繋ぎを付けております。合わせれば百に少し足りない程の人数になりましょうか。……とまれ、連れてきた内の十ほどは、砥石の殿様のご要請にて、砥石のあたりを中心にして歩き働く事になっております」
「では残りの衆は何処へ向かわれましょう?」
「さて、近いところでは善光寺あたり、甲府、沼田、小田原の方ですね。私は草津のお湯にでも浸かろうかと思っておりますよ」
「遠いところでは?」
「諏訪のお社に『御札』を取りに参った者もおりますし、脚を伸ばして木曽の御岳様、岐阜の伊奈波いなば神社、伊勢の神宮へ『祈願』に向かった者もおりますよ。何分にも、あのあたりの『御札』は『法力』が強うございますから……。出来ますれば、北野の天満さまや厳島の本宮、讃岐の琴平、宇佐の八幡さま辺りまで行きたいものです」
 即ち、ノノウ達はすでに、関東から信濃、そして岐阜美濃に進入し、京の都や芸州、四国、九州あたりにまでその「網」を広げようとしている、ということを意味します。
 父は砥石の山頂に座したまま、上杉殿の情勢、北条氏の情勢、関東に残られている滝川様の動き、南信濃の国人の動向、そして織田様の事を知ることが出来るのです。さらには山陰山陽、南海四国、西海九州まで見て通そうとしています。
 あの時「砥石の城は京に遠い」と言っただけの私のことを強欲者と笑った父ですが、なんの私よりもずっと欲深いのです。
 私は貪婪どんらんな父が無性に羨ましくなりました。父が得る事柄を私も知りたいと、猛烈に感じました。
 私は千代女殿に
「この辺りにも信心深い者が居るので、幾人かこちらを回って貰いたいのですが」
 と、遠回しに私にも情報網の一角を握らせて欲しいと頼んでみました。
「もちろん、元より幾人かこの郷を回らせるつもりでございますれば。それから一人は若様の武運長久を祈祷をする役目に、このお屋形に留めおけという『神託』が、高いところから降りました故」
 千代女殿は手を捧げ挙げ、天を仰ぎました。
「なるほど『神様』は何でもお見通し、と言う訳ですか」
 砥石の城の『神様真田昌幸』には到底敵わない――願いが通じたというのに、この時私は少々口惜しく思ったものです。

 岩櫃の城に残ることになったノノウは、年の頃十二、三ほどの娘でした。
 旅から旅の歩き巫女の割りには色が白く、目玉のくりくりとした、子供のような顔の娘です。
 千代女殿と他のノノウ達がそれぞれに出掛けた後、娘は
「わたしは千代女様の秘蔵っ子、垂氷つらら、と申します。若様にはよろしくお見知りおき下さいませ」。
 などと臆面無く申しました。
 
 少々勝ち気な所のある娘ではありますが、確かに『千代女殿配下の巫女』としての技量は優れていたのです。
 祈祷であるとか、医術薬草に関わる事柄であるとかについての知識や技量があるのは、ノノウとして当然のことです。
 それがなければ人に「只のノノウではない」と見透かされ、怪しまれてしまいます。それでは「草」としての働きは到底できません。
 尤も、もっぱら男衆の相手をすることに専念するノノウもおり、そう言う「役目」の者であれば、本来の巫女としての技量を持たない事も有り得るます。ただ、垂氷には其方の「役目」は与えられていない様子でした。
 とは云っても、それは、色町の女衆のような白粉臭さや酒臭さが感じられないといった程度の、私から見たらそうではなさそうだ、という感覚でしかありません。
 確かめようにも、年若い娘子に
「お前は巫娼ふしょうか?」
 と聞くわけにはゆかないでしょう。それに聞いたとして、そしてそれに答えが返ってきたとして、気恥ずかしくなるのは多分私の方です。
 何れにせよ、巫女の仕事の為に必要な事柄のことで優れている事には、感心はしますが驚く必要はないとおもわれます。当たり前のことなのですから。
 私が驚いたことの第一は、垂氷が読み書きが達者なことでした。それも仮名文字ばかりではなく、漢文の読み書きが出来るのです。
 武家や公家娘であれば、仮名文を読み書きすることは出来ましょう。
 それでも、女衆で、それも若い娘で、乎己止点をことてんのない白文を読み下せる者は、武家の中にもそうはいないものです。
 私がそのことに感心しますと、垂氷はけろりとした顔で、
「漢字が読み書きできませんと、『御札』を『頂戴』したときに、その『有難味』が判りませんし、『祝詞の中身』を諳んじることも、それから新しく『御札』作ることを出来ませんでしょう?」
 と申しました。
 つまり「密書や他人の書簡を覗き見て覚え、その内容を主人に伝えたり、時として贋手紙を作るような工作をする為に必要なことだ」と言いたいのでしょう。
「源氏の君の物語を書いた紫式部でさえ、漢文に達者であることを隠していたといいます。読めないフリ、書けないフリをするのが、また骨の折れることなのでございますよ」
 垂氷は己の肩を叩く真似をして、戯けて見せました。小さき山城だとは言えど、一応は岩櫃いわびつ城代である私の前で、実にけろりんかんとこういった振る舞いをしてみせる辺りは、剛胆と言うより他ありません。
「利口者が莫迦者のふりをするのは大変だろうな」
 私がからかい気味に、しかし本心感嘆しますと、垂氷は、
「わたしなどより若様の方が余程にお疲れで御座いましょう」
 などと言って、にこりと笑ったものです。
 しかし黒目がちな目の奥には、探るような光がありました。いえ、あるような気がしたに過ぎないのかもしれませんが……。
 その時の私には、垂氷が私が仕えるに値する男なのかを見極めようとしているのではないか、と思えました。
 品定めされるというのは、あまり気分の良いモノではありません。
 かといって、そういった小心な不機嫌を察されるのもまた面白くありません。
「ああ、疲れる、疲れる。莫迦が利口のふりをしようと努めると、頭が凝って仕方がない」
 私は阿呆のようにケラケラと笑いました。
 垂氷は不可解そうな顔つきで、私を眺めていました。むしろ嗤ってくれた方が幾分か気楽だったのですが、この娘は妙なところで真面目なところがあったのです。
 そんな垂氷のことで私がもう一つ驚いたのは、その脚の丈夫さ、速さでした。
 厩橋の城下で「巡礼」している仲間のノノウと繋ぎ(連絡)を取らねばならなくなった時のことです。
 本来なら特に脚自慢のノノウが繋ぎ専門に仕事をするのですが、その日は頃合い悪く繋ぎ役が皆出払っておりました。
 そこで垂氷がその役を買って出たのです。
 垂氷は岩櫃から厩橋までの、途中険しい山道もある十里以上の道程を、まだそれほど日の長くない季節だったというのに、明るい内に苦もなく往復してのけました。それは徒歩軍《かちいくさ》にも劣らない健脚ぶりでした。
「脚が頑丈なのは当たり前です。何分にもわたしはノノウ。歩くのが商売の歩き巫女の端くれで御座いますよ」
 垂氷は、少々自慢げに申しました。漢字の読み書きの時もいくらかは自負が感じられましたが、脚自慢はそれ以上でした。余程に己の健脚が誇りなのでありしょう。
「歩く仕事が一番好きで御座いますよ」
 垂氷は厩橋のノノウからの繋ぎの書状と、もう一つ別の書状を差し出しました。
 繋ぎの書状は薄い紙を折り畳んで結封けっぷしたものでしたが、もう一方は折紙を切封にした書簡でした。
 細い筆による柔らかい筆致で書かれた宛先の文字は「真源三どの」となっておりました。私宛の物であることは間違いありません。
 差出人の名は「慶」一文字でした。
「私が読んでも良いものかね?」
 結封の方を指して、私が訪ねますと、
「読んでいけない物は、別にして砥石へ送って御座います」
「成る程、それはそうだろう」
 腹の奥にチリチリとしたものを感じました。父に対するくだらない嫉妬です。
「それよりも……」
 そう申した垂氷の目の奥に、幽かな嗤いが見えた気がしましたので、
「それよりも?」
 と重ねるように尋ねました。その声音には、いくらか険があったかもしれません。
「そちらの立派な文の方です。それは厩橋に反故紙ほごし漉返すきかえしを商いにしている者から……」
「もしや、紙座の萬屋のことか?」
「あい」
 反故紙というのは、書き損じや使い古しの紙のことです。
 紙は高価な物ですから、書き損じたぐらいで捨ててしまえば、それは金を捨てるのと同じ事でしょう。古い紙を水に浸してほぐし、出来るだけ墨を抜き、もう一度紙に漉き直せば、それだけ無駄が省けるというものです。
 そういった漉返紙すきかえしがみは、どれ程丁寧に叩いても元の書類の墨が残っているため、薄い鼠色になります。このため薄墨紙などとも呼ばれます。
「あそこは薄墨紙ばかり扱っている訳ではない。三椏紙みつまたがみ楮紙こうぞがみも、麻紙あさがみも、雁皮紙がんぴがみだって扱っている」
 甲州、というよりは、武田信玄公の領していた土地では、信玄公の御意向により、製紙産業に力を入れておりました。
 元より高価な紙を、国外の産地より取り寄せていては、運ぶ手間賃がかさみ、益々値が上がります。それ故信玄公は、領内で三椏や楮といった紙の元となる木々を植えさせ、紙座を置いて、紙の生産を奨励したのです。
「さようですか。わたしどもなどは、安い紙しか使いませんので、てっきりそうなのだとばかり」
 確かに「草の者」が密書に厚手の奉書ほうしょ紙を使うことは少ないでしょう。贋手紙を仕立てるのならば、話は別となりましょうが。
「ともかく、その文は件の紙屋さんからあずかってきたのですが」
 垂氷はニコリというか、ニタリというか、何とも言い様のない笑みを満面に浮かべ、
「何処の娘ごからの付文ですか?」
 紙座の筆頭である萬屋は、元を辿れば信濃者だと称しており、そのため私たちが上州にいた頃から懇意にしておりました。
 何分、我が父は表に裏に、諸方へ様々な文を発するのが『好き』なものですから、紙屋と仲が良くなるのは必然であったとも言えます。
 武田が滅び、甲斐に織田様がお入りになって以降も、萬屋は商いを許されて、滝川様の御屋敷にも出入りしています。
 ですから、萬屋が厩橋にいる真田に縁のある者達からの様々な『文』や『届け物』を――表向きにして良い物もそうでない物も含めて――預かり、使いを立てて届けて寄越すことは、有り得ることです。
 もし万一、本当に私宛に付文つけぶみを寄越そうという女性にょしょうがいたとしたなら、萬屋に頼むのが一番確実なのは確かです。
 しかし残念なことに、そう言った女性は居りません。
「男だよ、この手紙の主は」
 私が苦笑いして言いますと、垂氷の目の奥の嗤いが、艶笑じみたものに……あくまでも私が見たところなのですが……変わりました。
「まあ、そちらの方で」
 垂氷はその笑いを隠しもせずに、顔の上に広げました。
「お前は何を考えている」
 と、口に出して問いましたが、実際の所おおよそのところは判っておりました。
 垂氷はあの文を付文と信じて疑っていないのです。例え、差出人が男であっても、です。
「若様は、おなごが嫌いなのかしら、と」
 にこりと、実に面白げに、垂氷が笑って見せました。
 私はすこしばかり中っ腹になりましたので、狭量にも何も答えずにおりますと
「若様は、若様ご自身がどうこう言うのは別として、殿方から好かれる方なのですよ。つまり、男好きのする良い男」
 恐らく褒めてくれているのでしょう。後にすれば、そう思えます。しかし、その時にはそうは思われませんでした。
「あまりうれしくないな。殊更お前に言われると、何故か面白くない」
 わたしは件の文を、我ながら態とらしく横に避け、結封を開きました。
 厩橋の曲輪の内に大層立派な「人質屋敷」が建てられたこと、わけても立派な一棟は、どうやら我が妹於照の住まいに当てられるらしいということ。滝川様が軍馬の補給に苦労しておられること。駿河を知行することとなった徳川殿が盛んに街道筋の整備をしていること。そして、小田原の北条殿の動きがなにやら活発であること……大体そのようなことが細かい鏡文字で書き連ねられておりました。
 大方は予想通りの事でした。私は文を手焙りの熾火の上に置きました。
 立ち上がった小さな炎が、北条勢の動きに見えました。
 北条殿はこの度の「武田討伐」では一時的に徳川様の旗下に入り――武田方であった我らから見れば口惜しい事この上ない――存分の働きを成されたのですが、織田様からの恩賞は殆ど無かったと言います。
 織田様はあるいは北条殿との「同盟関係の維持」こそが、恩賞であるとお考えなのでかもしれません。
 ですが北条殿にしてみれば、それは目に見える結果ではありません。このために、ご家中には織田様に恨みを抱いている者が多くいる様子でした。
 今北条殿が半ば公然と軍備を整えているのは、あるいは織田様の本隊が離れた甲州・上州を狙ってのことかもしれません。
 炎は、あっと言う間に小さな紙を蹂躙し尽くしました。しかしやがて自らも衰え、一条の煙を以外には何の痕跡も残さず、掻き消えました。
「寒いな」
 私は独り呟きました。誰かに対して呼びかけたわけではありません。それが判っているのか、いないのか、垂氷は何も答えませんでした。
 私は火鉢の中の熾火が静かに揺らめくのを、しばらくの間眺めておりました。
 私がじっとしておられましたのは、僅かな時であったと思います。なにやら腹の奥の方で何者かが蠢いている気がして、長くじっとしていることが出来なかったのです。
 私は徐ろに、あの切封の文に手を伸ばしました。
 文を開きながら、そっと、何気なく、垂氷の顔を覗き見ますと、何を期待しているのやら知れませんが、黒目がちな瞳に好奇の輝きがありました。
 私は開いた文に目を落としました。
 筆跡は、見ようによっては女手にも思えるほど細いものでした。垂氷が女性からの文と思いこんだのも、仕方のないことです。
 これを、前田利益という身の丈六尺豊かな偉丈夫が書いたとは、あの方をまるで知らない者や、知っていても語り合った事のない者であれば、到底信じられないでしょう。それほどに柔らかで繊細な筆運びでした。
 私がもし、宋兵衛……いえ、慶次郎殿に一面識も無ければ、遭ったこともない女性からの文かと思って浮かれ舞っていたかも知れません。
 遭って、語って、一勝負したからこそ、私にはあの方の繊細さが知れたのです。
 細いながらも骨太な筆運びの墨跡からは、腐れ止めに使われている龍脳りゅうのうの香りがしました。
 本当に質の良い骨董品の墨は膠がこなれており、文字が滲むと、筆を運んだ軌跡である芯が美しく強く浮かび上がってきます。
 無論、美しい文字を書くためには、書き手にもそれだけの素養が必要ではあります。
「よい古墨を使っておられる」
 これも誰かに聞いて欲しくて言った言葉ではありません。感心が胸の内から口へとあふれて出たのです。
 さて、肝心の文面ではありますが、表向きは他愛のないものでした。
 曰く――。
 厩橋の紙座で品はよいが店主が頑固に過ぎる萬屋というのを見付けた。
 萬屋の面構えを見ていたら、まるで似ていないのに貴公を思い出した。
 戯れに、
「お主は信濃者だろう?」
 と尋ねてみたなら、果たしてその通りであった。
 聞けば、貴公と萬屋は古馴染みであると言うではないか。これを奇遇と言わずして何と言うのだ。
 今、萬屋の座敷を借りて、この手紙をしたためている。
 特に何かを知らせてやろうとか、何かを聞きだそうとか言うのではない。大体友へ文を出すのに、用事がいる必要はないだろう。
 時に、滝川左近将監はこのところ漸く珠光小茄子の事を口にしなくなったが、今度は儂の顔を見る度に、
「なぜあの時に鉄兵衛にここへ残るようにと口添えしてくれなかったのか」
 と嫌みたらしく言ってくるようになった。
 しぶとい年寄りの面倒を見るのは大層疲れるものだ。さても、貴公の父親も大変な男に見込まれたものだ。可哀相でならない。
 そんなわけで、伯父貴があまりに五月蠅いので、儂は顔を合わせまいと思うて、この頃は出来るだけ外出をすることにしている。
 先の戦で馬を乗り潰してしまったので、その代わりを得たいというのを言い訳にして、馬狩りを口実に出歩いている。
 この辺りの山野では良い野生馬が群れなしているのを良く見受ける。流石に武田騎馬軍を育んだ土地柄といえよう。
 鞍や馬銜の痕が見えるものもいるが、飼われていたものが逃げ出したのか、あるいは攻め手に奪われぬように態と逃がしたのか。
 儂の胸には、悪賢い馬丁がこの土地から去る時に、自ら馬囲いを壊して行った、という景色が思い浮かんでくる。その、我が夢想の中の馬丁の顔立ちが、貴公や貴公の父親の面構えに似て見えるのが可笑しくてならない。
 先日、ある野生馬の群れにそれは見事な青毛を見た。気性が激しく、中々捕まえることが出来ないが、手に入れるための苦労も、手に入れられるものが良ければ良い程、また楽しいものだ。
 あの馬ならば、岩櫃の崖でも苦もなく登るだろう。
 奴を手に入れたなら、遠駆けついでにそちらへ行く事に決めた。良い酒か、うまい茶の飲める碗、それから良い飼葉をたんと用意して頂きたい。
 云々――。

 私は文を眺めながら、思わず肩を揺らして、しかし声に出すことはどうやら堪えて、笑っておりました。
 私の頭の奥には、初めて訪れた萬屋の座敷で、自分の家におられるかのようにくつろいで、文を書いている前田慶次郎殿の姿が浮かんでおりました。
 その傍らにいる萬屋の主が、初めてあった大柄な侍を、まるで十年前からの同居人のようにあしらっている姿も、です。
 慶次郎殿ならば初対面の相手でも気に入れば刎頸の友のように接するに違いなく、萬屋のほうも初めての客であっても「これ」と見込んだ相手なら心を開くはずだ、と思ったからです。
 それから、野山に出て何もしないことを楽しんでおられるような慶次郎殿、欲しいものを見付けて子供のように夢中で眺めている慶次郎殿の姿も、まるで現のように想像できます。
 それと、巨大な黒い馬に打ち跨った慶次郎殿が、今にも庭先にひょっこりと現れる、その光景も、ありありと見える気がしました。
 私は今すぐに筆を取り
『いつ何時でもお越し下さい。門は開け放ち、戸も鍵を開けてお待ちしております』
 と書きたい気分でした。
 その文が先方に届けば、おそらく慶次郎殿は本当に夜半の山道に馬を走らせて、岩櫃のこの山城を訪れてくれることでしょう。
 私はその様子を想像し、楽しさのあまり身震いしました。
 その楽しさを押さえ込むのには大層苦労しました。
 そこへ垂氷は
「御返書は? 若様がお望みでありましたら、今日の内に先方へお届けいたしますよ。わたしは歩くのが得意ですから」
 自信ありげに微笑してみせたのです。私は何故か泣きたい気分になりました。
「その日書いた文の返書がその日の内に届いたら、どうなると、垂氷は思う?」
 こう尋ねると、垂氷は瞬きをしながら小首を傾げました。
 どうやら、自慢の健脚が己自身にとっては当たり前に過ぎるので、その速さが尋常ではない事柄で、ともすれば怪しまれるやも知れぬ代物であることに、思い至らない様子です。
「最初の手紙を持って出た者も、返書を携えて戻ってきた者も、普通の人ではないと思われるぞ」
 私がそう言っても、まだ理解が出来ていない様子でした。
「萬屋には普通でない者が出入りしているとか、その萬屋が真田贔屓だとか、萬屋の主人は店に出入りしているノノウや商人や百姓の格好をした者たちが『草』であることを承知しているだとか、承知しながらそれを滝川様に報告していないとか、そういうことが滝川様のご一門に知れても良いか?」
「そうなるとどうなりますか?」
「こうなる」
 私は自分の首に手刀を当てました。
 垂氷の顔が、僅かに強張った様に見えました。私は薄く笑い、言葉を続けました。
「なにしろ私たちは織田様の家臣になったばかりだ。良い家臣でなければならない。上役に隠し事をすることなどないような、ちゃんとした家来でないとな。でないと私たちだけでなく、お前達ノノウも、それから萬屋も、萬屋に出入りしている者達も全部コレだ」
 私が再び手刀を首元に打ち付けて見せますと、垂氷は首を横に振りました。
「それは困ります。若様はともかくも、千代女様の首が飛んでは、困ります」
 これを真面目な顔で言うのですから参ったものです。
「お前、私を主とも雇い主とも思うておらぬな」
 私は苦笑いするより他にありませんでした。
 結局、私が返書をしたためたのは翌日の昼過ぎで、それを垂氷ではない、繋ぎ役のノノウに託して、萬屋へ届けさせました。
 そして萬屋の者がその又翌日に慶次郎殿の元へ届けてくれるように、と言づてました。
 一瞬、直接前田邸へ届ようとも考えたのです。間に何人もの人手を挟むのがもどかしくてなりませんでした。
 しかし、私の小さい肝がそれを押しとどめさせました。
 私が垂氷に言ったことは、全部私の本心です。
 武田家がノノウを庇護し、彼女らが「信心」を理由に自由に諸国を巡ることが許されていることを利用して「草」として利用していたそのことを、織田様や滝川様、そしてその将である前田慶次郎殿が全く知らぬとは考えられません。
 ノノウの統帥たる千代女殿の婚家「甲賀望月氏」は、甲賀忍びの流れを引いています。
 そして滝川様ご一門は甲賀発祥だと云います。
 同じ源流を持つ者として、武田の庇護を失った千代女殿達の動向を探っていても、不思議でありますまい。
 彼女たちの「網」は有益なモノです。手に入れたいと思うのが当然でしょう。
 そうであれば――あるいはそうでなかったとしても――父がノノウ達のことを秘匿していることが知れたなら、真田の家にどのような御仕置きがなされるか、考えただけでも小便が漏れそうなほど強烈な震えが来ます。
 ですから、出来るだけ「普通の文のやりとり」に近い速さで事を進めたかったのです。
 私は、友との手紙のやりとりまで心の侭にすることが許せないほどの小心者の己自身が、情けなくてなりませんでした。
 私がため息を吐いている所へ、垂氷が興味津津といった顔つきで、
「それで、その『慶』様には、どのような文を送られたのですか?」
「なんだ、覗き見たのではないのか?」
 封印をしたわけではない、しかも私信でありましたが、垂氷のような「優秀な草」であれば、主人……この「優秀な娘」が私のことをそう思っていてくれるかどうかは別として……と誰がしかが交わした文の内容を確認するのが当然なのではないか――と、私は考えていました。
 ですから垂氷が首を横に振ったことは意外でした。
「見なかったと言うことは、見る必要を感じなかったということだろう? それでいて、内容をお前に言う必要があるというなら、理由を申せ」
 垂氷は笑って、
「文を見なかったのは、火急の用件ではなかったからです。急ぐことであるならば、わたしも文の内容を直ぐに知っているべきで御座いましょうが、そうでないなら後から聞いても間に合いましょう」
「では、もしアレを早馬ででも出していたなら、当然封を開けてじっくり見た、ということか」
「あい」
 垂氷には悪びれた様子など微塵もありませんでしたが、ニコニコとしていた頬の肉を、きゅっと引き締めると、
「で、でございます。よしんば、万一、もしかして、それこそ火急の用件で、件の『慶』の所へ若様の筆跡を真似た贋の文を、わたしが書かなければならなくなったときに、それまでのやりとりが判っておりませんでしたら、辻褄の合わないことを書くやも知れません。ええ、つまり用心のためです。そう、用心の」
 真面目振った顔で言いました。
 一応理に適ってはいます。ですが私にはどうしてもこの娘の目の奥に、仕事への責任感以外の光が見える気がしてなりませんでした。
「さて、先方に贋手紙を渡さねばならないような事が起きなければよいが。なにしろ私は友を作るのが下手だ。せっかく先方から友人扱いしてくれたその人との縁を失うのは嫌だな」
「お任せ下さいませ。垂氷めは持てる力総てを注いで、迫真の贋手紙を書きまする。決して若様と『慶』様との仲が壊れるような事にはさせませぬ」
 この時、この娘には皮肉であるとか湾曲した物言いであるとかいうモノが真っ直ぐには通用しないらしいと気付きました。
 私は贋手紙など出されては困ると遠回しに言ったつもりなのですが、私などが予想できないような返答が、想像していない斜め上の方角から返って来てしまいました。
『まあ、それだけ自分の「草」としての能力に自身があるのだ、と言うことにしておくか』
 私は苦笑しながら腹の奥でため息を吐きました。
「どうあっても、文の中身を知りたいか?」
「あい」
 垂氷の目玉が爛爛と輝きました。
「お前の期待しておるようなことは書かなんだよ。ありきたりな文だ、ありきたりな……」
 私は短い文の内容を殆どそのまま言って聞かせました。

 過日の身に余る送別の茶会の御礼を、今日まで申し上げておりませんなんだ事を、どうかお許し願います。
 今私は切り立った山の上で、日がな一日書物に当たる退屈な日々を送っております。
 と申しましても、この山城の蔵の中には米と味噌と柴以外の物はそれほど多くは入っておりません。遠くない日に読む書物もなくなってしまうのではないかと案じておりましたところへ、先の文を頂戴し、涙を流して喜んでおります。
 何れ近い日に件の馬にて山駆けをなさることでありましょうが、この山家にて精一杯のおもてなしをする所存で御座います。
 
 聞き終わった垂氷の目は、針のように細くなっておりました。
「若様のお腹の黒いこと」
「そうかな」
「そうで御座いますよ。『何もない』と言っておきながら、籠城するに十分な兵糧や、夜襲や火攻めのために要り用な柴がたんと備えてあると言っている。そういったことは普通は秘密にしておきたいことなのに、それをことをポロリと零したフリをして、相手を牽制なさっておられる」
 垂氷は細く閉じた瞼の奥から、私に向けて心の臓をえぐるような尖った眼差しを送っていました。
 私は首を振り、笑いました。
「考えすぎだ。私はそこまで策を弄することができるような小利口者ではない」
 この時の己の顔を、己自身の目で見ることは出来ませんでした。
 ただ、想像は容易に出来ます。
 恐らくは垂氷の言ったとおり、腹の黒い笑顔だったことでしょう。

 時というものは忙しいときほど速く過ぎてゆくものです。
 卯月(四月)の末には、異母妹いもうとの於照が厩橋へ向かってゆきました。
 厩橋の人質屋敷が完成したから……という「催促」が滝川一益様直筆の文を持った御使者が来たのでは、流石の父も於照の引き渡しを拒むことができなくなったのです。
 於照は侍女と共侍を一人ずつ、それから琴を一張携えて、上州へ向かいました。
 木曽へ赴いた源二郎と、矢沢三十郎叔父の文が、砥石を経由して私の所へ届いたのは、皐月(五月)の初め頃だったと記憶しております。
 源二郎の文に書かれていたのは、確か次のようなことでした。
 無事に木曾殿の所へ到着した。
 木曾殿が父に「今までもこれからも『同じ主君に仕える者同士』であることは変わらぬから」と、宜しく伝えて欲しいと仰っていると言うこと。
 織田の大殿様は、木曽にはお寄りにならず、古府から駿河へ出て、東海道で早々に安土城へ戻られたこと。
 その安土では、近々、武田討伐において多大な力を貸してくれた徳川蔵人佐くらんどのすけ家康殿をもてなす宴を開かれるらしいこと。
 云々。
 文末には「他にも色々書きたいことがあるのですが、使者の方がお急ぎのようなので、詳しく書くことが出来ません。源三兄上や六左兄、矢沢の大叔父殿にくれぐれも宜しくお伝え下さいませ」などと書き添えておりました。
「しかし、父はどんな顔をしてこれを読まれたか」
 何分にも、父が嫌っているお二方の事ばかり書かれている文でした。殊更、木曾殿からの言づてなどは心中苦々しげにお読みになったかもしれません。
 ただし、顔色は平静と少しも変わらなかったことでしょう。あるいは薄すらにお笑いになっていたかも知れません。
 三十郎殿からの文は、砥石から木曽への道すがらを短くまとめた旅日記のような物でした。
 もしこの後に私が彼の地に向かうようなときが来たなら、見物して回るのにたいそう役に立つに違いない、と思えるものでした。
 私は文を読み終えると、自分の文……いいえ、何ことはない、只の時節の挨拶です……を添えて沼田の頼綱大叔父へ送りました。
 皐月の間中、私は毎日岩櫃の崖の上に立って、厩橋の方角を眺めておりました。
 その方角から文をが来るのを待っていたのです。
 前田慶次郎殿からの文です。
 最初の突然に送られてきたものから先、皐月の間は一通の便りもありません。このことが寂しく思えてなりませんでした。
「私が送った返事が気にくわなかったかな」
 誰に言うでもなく、ぽつりと口にしたその後で、『しまった』と心中舌打ちをしました。
 間の悪いことに、部屋に垂氷がいたのです。
「だからといって、失敗を取り繕うような文を送ってはなりませんよ。しつこい男は嫌われます。とは申しましても、少しも文を送らぬのでは、先方がこちらを忘れてしまいますが。げに恋文は難しゅうございますれば」
 垂氷ときたら、さても楽しげにニコニコと笑って申すのです。
 この娘は、どうあっても私と慶次郎殿の関わり合いを「念友」であることにしたいようでした。
 男同士の友情の尤も強く固い繋がりが衆道の間柄だ、という方々もおいでです。そういう方々から見たなら、私と慶次郎殿は真の友ではないと言うことになるのやも知れません。
 そう考える方々のお考えはごもっともでありましょうが、私の考えはは違うのです。
 友には、肌の触れ合いどころか、言葉の交わし合いすら無用である。
 ただ、何処かの空の下に、互いを友と思い合っている者がいる、そう思うことこそが必要であり、その事実が一番大切なことなのではないか。
 私がそういったことを言いますと、垂氷は急に笑顔を引きました。
「そうお想いならば、返事が返ってこないからと言って、焦れたりなさらなくても宜しい。若様が彼の方を友とお思いならば、ただひたすらに厩橋の空の下におられる方のことを思って差し上げなさいませ」
 真正面の正論が返ってきました。
 このような大上段の攻めを受けた時、私のような小心者に、
「まあ、確かに、その通り、だ、な」
 と口ごもるより他に手立てがあるでしょうか。
 その様子を見た垂氷は、どうやら私が、
『生まれ故郷から引き離され、このような山奥の断崖の上に押し込められたために、懐かしい空の下にいる人々のことを思い出しては、酷く落ち込んでいる』
 のだと思ったようです。本当のところは判りませんが、恐らくそうだったでしょう。
「若様、わたしはノノウでございますよ。他人様ひとさまの悩み事を聞いて、それの助けになるようなことを言って差し上げるのが、わたしの仕事でございますから、何ぞ心に架かることがございましたなら、何なりとお申し付け下さいませ」
 この時、胸の前で手を合わせ瞑目して言う垂氷が、白衣観音菩薩の化身のように見えたのは、今から考えますれば、実際私の心が重く塞いでいたからやもしれません。


 沼田の矢沢頼綱大叔父が岩櫃に来られたのは、皐月(五月)も末のことだったと記憶しています。
 その日私は、運良く……いや運悪しく、やもしれません……出城の「天狗丸」におりました。天狗丸は岩櫃の本丸の北東にあり、普段は兵や草達が詰めている場所です。出城の南側の山下には街道が通っております。
 その道を、三騎の騎馬が疾駆してこちらへ向かって来るのが見えたのです。
 街道の見張番をしていた目の良い者が、少々困ったような顔をして、
「沼田の矢沢様です」
 と報告してくれました。
 大叔父本人がわざわざ出向いてくるとは、余程のことに違いありません。張番が困惑顔をしたのも、そのためでしょう。
 確かに先頭の馬には、大層不機嫌な顔をした矢沢頼綱の姿がありました。
 大叔父は私の姿を見付けると、下馬しながら、
「丁度良い。砥石だ。急ぐ。換え馬」
 必要最低限の言葉だけを発しました。
 沼田から駆けに駆けて来たと見えて、さしもの大叔父も、肩を大きく揺すって荒い息を吐いておりました。差し出された水をゆっくりと飲み干すと、大叔父は私の首根を掴んで、
「大事だ」
 引かれてきた馬の一頭に、私をほとんど無理矢理に乗せたのです。さながら、荷物を載せるように、強引に、です。
 私は大いに慌てました。大叔父が、私がまだ鞍に尻を乗せきらぬうちに、私の乗った馬の尻に向けて鞭を振り上げたのが見えたのです。
 危ういところで私の馬が切り立った山道で奔走せずに済んだのは、大叔父の前に馬が引かれてきたためでした。矢沢の大叔父が私を蹴り出すよりもご自分が馬に乗ることを優先した御蔭で、私は危うく寿命が縮むような想いをせずに済んだのです。
 無言で馬に跨る大叔父に、
「いったい何のご用件ですか?」
 と問うてみました。
 返事は簡潔なものでした。
「火急だ」
 それだけ言うと、馬は猛烈な勢いで駆け出ました。そのまま、後ろを振り返ることもなく、砥石目指して真っ直ぐに駆けていったのです。
 大叔父が行ってしまった頃、沼田から引き連れてきた家臣達は、ようやく馬から滑り落ちるように下りました。
 察するに、余程に苛烈な強行軍であったのでしょう。この者達は地面にへたり込んでしまい、換え馬が用意されても乗り換えることが困難でした。
 私は、
「二人ほど参れ。馬の巧い者なら誰でも良い」
 と怒鳴るように命じて、馬を走らせようとしました。
 そこへ垂氷が飛び出してきたのです。結び文を頭上に掲げておりました。
「若様、砥石の殿様より文が……」
 私は文を受け取るのがもどかしく思えました。大叔父が遙か先を駆けているのです。
「読め」
 垂氷は一瞬驚いたように目を見開きましたが、直ぐに薄い紙を広げ、見開いた目玉をその中へ落としました。そして一言、
「火急」
 とだけ申しました。
「全く、我が一族は性急せっかちな者ばかりだ」
 私は大息を吐きました。しかし、私もその一族の端くれです。垂氷が何か言おうとしているのに構わずに、馬腹を蹴ったのです。

 砥石に着くと、父はいつもの渋皮顔を崩さずに我らを迎えました。ただ、私と大叔父一緒にいることには少々驚いた様子でした。
「叔父御は……儂が呼んだから来た、と言うのではなさそうだな」
「使者なら岩櫃ですれ違うたわい」
 矢沢の大叔父はドカリと座ると、長大息して、
「滝川彦右衛門から厄介ごとを頼まれてな」
 父がきな臭気な顔をしました。
 滝川彦右衛門、即ち滝川一益様は、我らから見れば上官です。必要であれば命令を下す筈です。ところが
「滝川殿が、頼む、とな?」
 父も私も不可解に感じ、二人して大叔父の顔を見つめたのです。
「それがあの男の面白いところぞ。それに相当に面倒なところでもある。こういったことは、むしろ命令であった方が、ずっと気が楽なのだがな」
 大叔父は何やら歯切れ悪く言いました。しかも、歯切れの悪い上に肝心なことは一言も言いません。
 父は珍しく苛ついた様子で、眉根を寄せて、
「で?」
 と催促をました。
 大叔父はもう一度息を吐いてから、
「照を、嫁に、欲しい、と」
「何と!?」
 父と私は、異口同音に声を上げました。
「誰を誰の嫁に、だと?」
 父は脇息を跳ね飛ばし、身を乗り出しました。大叔父はきわめて冷静な口ぶりで、
「お主の娘の於照を、滝川殿のご嫡男一時かずとき殿の長子の三九郎さんくろう一積かずあつ殿の嫁にしたい、と」
 私はこの時、生まれて初めて、そしてこの後の生涯に二度と見ないものを見たのです。
 目を見開いて、口をぽかりと開けたまま、声も出せずに、へたり込むように座って、ただ肩を振るわせるばかりの、真田昌幸です。
 と言っても、その阿呆面を我々に曝していたのは、どれ程の間もありませんでした。
「源五郎にも驚くことがあると見ゆるわ」
 大叔父に幼名で呼ばれた上、部屋どころか城中が揺れるのではないかと思えるほどの勢いで文字通りに破笑されると、父は途端にだらしなく落ちた下顎を上顎にぴたりと填め込むと、目を針のように細くして、いつも通りの渋皮面に戻してしまいました。
 そして、私ならきっとするであろう、己の瞬時の痴態を取り繕ったりするようなこともせず、
「さて、考え物よな」
 何事も起きなかったかのように、腕を拱いて我らの顔を見回しました。大叔父はいぶかしげに父をにらみ返して、一言、
「考えるまでもない」
 その後に何の言葉も継ぎませんでしたが、父にも私にも『喜んで承れ』の意であることが判りました。
 この頃の矢沢頼綱はすっかり滝川様贔屓になっていました。
 大叔父殿自身が武勇に優れた方であったというのが、一番の理由です。「先陣も殿軍も滝川」と称される戦上手の滝川一益様を、大層好ましく思ったのでありましょう。
 於照が三九郎殿と妻夫となったなら、当家は滝川様の御嫡男筋と血縁を結ぶことになるのです。織田の大殿様の覚えも目出度い、仮にも関東管領の、滝川家と、です。
 私も大叔父同様に滝川様が好きです。確証は持てませんが、恐らく父もそうでしょう。
 ですが父は、見るからにこの縁談に前向きではありません。
 それは、男親としての歪んだ情のために、可愛い於照を嫁がせたくないだけ、が理由ではないようでした。
「まず、石田方に断りを入れていない」
 確かに、武田滅亡からこちら、直接石田様並びに義弟の宇多頼次様とは連絡つなぎを取っておりません。いえ、取れていない、と言い表した方がよいでしょう。
 その時、石田様御一党は主である羽柴筑前様と共に、遠く備中国におられたからです。
 滝川左近将監一益様に「武田征伐」を命じた織田の大殿様は、殆ど同時期に、羽柴筑前守秀吉様に「毛利討伐」をお命じになっていました。石田様宇多様はこの遠征に付き従って行かれたのです。
「主は滝川殿と小猿の尻の下の小童とを天秤にかけて、釣り合うと思うておるのかや?」
 大叔父の言葉には憤りと疑念が多分に含まれておりました。
 滝川様は織田家の直臣。羽柴様御配下である宇多様は陪臣というお立場になります。当たり前に考えれば、天秤棒は滝川様の方に傾くこととなりましょう。
「まあ、釣り合うまいな」
「ならば答えは一つであろう」
 大叔父が膝を進めると、父は腕組みのまま、右の一の腕だけを持ち上げで、顎の辺りをぞろりと撫でました。
「さて、釣り合いはせぬのは確かだが……」
 父が薄く笑いました。
 大叔父は……そして私も……怪訝顔で真田昌幸を見ました。次の言葉を待つその僅かな時間が、随分と長く思えたものです。
 やがて大叔父殿は焦れて、
「主は何を考えておる?」
 少々強めに問いました。途端、父の面から薄笑いが消えました。
「傾く側が決まり切っているとは、どうやら限らない様子でな」
「何のことだ?」
惟任これとう日向守のことよ」
「惟任?」
 眉間の皺を深くしした大叔父は、疑問の色濃い視線を、何故か私の側へ向けました。
 私が記憶の糸をどうにかたぐり寄せて、
「あ、織田様ご家中の明智十兵衛光秀様です。随分以前に惟任のかばねと日向守の御官職と御官位を……たしか従五位の下だったかを、賜られたので」
 申し上げますと、大叔父は、
「そんな奴は知らん」
 不機嫌そうに言い捨て、直ぐに視線を父に戻しました。
「それで、そのキンカン頭がどうしたと?」
 私は「惟任様の仇名まで知っておられるではないか」と言いたいのをどうにか堪えて、大叔父殿同様に父の顔を見つめました。
「中国討伐の後詰を口実に、兵を集めている」
「口実? 中国討伐は大殿のご命令であろうに」
「羽柴の猿殿が三万の兵を率いて行ったそうだが、苦戦しているという話は聞こえてこぬ。幾ら相手が戦上手の毛利とは言え、猿殿が援軍を本心欲しがっているとは思えぬな。まあ、今からでも叔父御が槍をひっさげて毛利に荷担なさると言うならば、倍の援軍を貰っても足らぬだろうが」
「面白くもない冗談だ」
 そう言いながらも、大叔父殿はニンマリと笑っておいででした。
 私は笑う気にはなりませんでした。何やらどす黒い澱のような物が、腹の奥に淀み溜まっている、そんな心持ちになってきたからです。
「父上、つまりはどういうことでありましょうか?」
 何も判らぬような口ぶりで、尋ねてみました。
 父は答えてくれませんでした。それが答えでした。
 父が無言でいるということは、私が「惟任日向様と羽柴筑前様が、何か『良くない事』を起こそうとしている」と考えたそのことと同じ、あるいはそれ以上に大きな何かがおきるだろうと、父も考えているに違いないのです。
 しばしの沈黙の後、父は天井を見上げて、
「出来るだけ幸せになれる方に嫁がせたいからな」
 ぼそりと言ったものでした。
 私も大叔父も、暫くは口が利けませんでした。
 織田様ご家中で実力者である惟任様と羽柴様が何か「事」を起こせば、例えその「事」自体は小さいものであったとしても、ご家中に大波として波及するに違いありません。
 あるいはその「事」が「大事」であったなら、波の大きさがどれ程になるのか。
 我らはその波に如何に堪え、如何に乗り越えればよいのか。
 考えるだけで恐ろしくなります。
 ええ、そうです。その時の我ら三名にとって、その波に押し流され、家名が潰えてしまう可能性などは慮外でした。
 この中の誰か、あるいは、この場にいない一族の誰かが死ぬことは有り得ても、真田の家が消えて無くなるとは考えなかったものです。
 尤も、私は死ぬが怖くてならない臆病者です。脳漿の奥の奥では、自分はどうやって生き延びてくれようかと、少しばかりは考えておりました。
 兎も角、男三人、暫し膝突き付けあって黙り込んおりました。ですがそれほど長い時間ではありません。
 何分にも、我が一族は性急な者ばかりです。
 暫くすると、三名の中で特に一番の急っ勝ちが、とうとう堪えきれなくなって、
「それで、主は何故我らを呼びつけた?」
 と唸るように言いました。
 父が僅かに――父のことを良く知らぬ者ならそうと気付かぬほどの小さな――苦笑を口端に浮かべて、発言の主、すなわち矢沢頼綱を見やって、
「滝川方の様子を良く見聞していただきたい。どうやら叔父御も源三も、滝川様御一族、殊更、義太夫殿親子に気に入られているようであるから」
 大叔父が砥石まで出向くことを、沼田城代の滝川義太夫益氏様がお許しになったということは、益氏様が大叔父を信頼していると言うことの証でありましょう。
 そして、私のことを「友」と呼んでくださった前田慶次郎殿の実の父親は、益氏殿でした。
 ――益氏殿のお歳を考えますと、慶次郎殿は益氏殿が随分とお若い時分に生まれたお子と見えます。
「気に入られているという点では、主が一番であろうがな」
 大叔父殿はそう言って笑いました。
 滝川一益様に気に入られ、信頼されているからこそ、父は本領安堵された上に砥石に住むことが許されているのです。
「あの仁は、実に面白い。実に珍しい生き物だ」
 父も笑っていました。
 これを聞いた大叔父は、
「何を抜かす。向こうもお主をそう思うておろうよ」
 大笑しました。
 一頻りお笑いになると、大叔父はは急にお顔の色を険しくなさいました。
「儂は人の胸の内を探ったり内密に調べたりなどというのは苦手だ。故に、義太夫殿と当たり前に付き合うことにする。当たり前に付き合うて、当たり前に知れることを知る。面白きことがあれば、主に知らせる。それで良いな?」
「構いませぬ」
 父はにこやかに答えました。
 これを聞いて大叔父は肯き、立ち上がり、そのまま出て行こうとなさりました。……が、二・三歩歩んだところでふと立ち止まり、父に背を向けたまま問いました。
「於照が事は、如何にする?」
 父の笑顔は途端に消えました。
「厄介ごとを思い出させてくれますな」
「忘れたで済む事でははないぞえ。主は正式な返答を後日送れば良かろうが、儂は帰れば直ぐに義太夫殿に復命せねばなぬでな」
 振り返りもしない大叔父の背を睨み、父は口をとがらせて言いました。
「今於照が三九郎殿に嫁せば、降将が命惜しさのために娘を贄にしたように見る者もおるだろうから、今暫くはお待ちいただきたい、と」
「ふん。で、石田の方へは?」
「この度の事により未だ家内が落ち着かぬ故、輿入れの義はお待ちいただきたい、とでも文を出す」
「そうやって天秤の傾きを見極める、か。比興ひきょうなり、比興ひきょうなり」
 大叔父はカラカラと笑い、歩幅大きく出て行かれました。
 その時私には、苦笑いして大叔父を送り出す父の目が、少しばかり曇っているように見えました。
 不安であるとか、心配であるとか、そう言った心持ちのために生じた曇りではない。何かを隠しておいでるのではないか。何か重要な事柄を、大叔父にも私にも言わずにおられるのではないか――私はそう思うて父の顔を見ておりました。
 父の目を見ることで、何かを読み取れるかも知れない、と思ってのことです。
 そのような私の浅はかな考えなど、直ぐに父に知られてしまいました。
 父は瞼を閉じてしまったのです。そうして、
源三げんざ
 低く私を呼ばわりました。
 身が縮む思いがしましたが、しかしどうやら平静を保ち、
「はい」
 と小さく返答いたしますと、父は小さな声で言いました。
「織田様の使い……いや、織田様の身辺からの正規の使いが重要な知らせを持って滝川様の元へ走り込むのと、ノノウや草達がそれを持ってここへ走り込んでくるのと、お前はどちらが速いと思う?」
 私は暫し考えました。
 父のことですから、本当にどちらが速いかを尋ねているのでは無い、というのは間違いないでしょう。私に聞くまでもなく、父の方が良く知っているはずなのです。
 ではなぜそのようなことを聞くのか。
 父の意向が図りかねました。
 となれば、正直に答えるより他に術がありましょうか。
「どちらとも申し上げかねます」
「小狡い答えだな」
「そう仰せになられましても、私には『場合によると』しか返答できませぬ」
「場合、とは?」
「使者そのものの力量です。岩櫃におります垂氷と申しますノノウの足の速さには大変驚かされました。ノノウ達がみなあれほどに足早で、しかもその網が強く強固であるのなら……当たり前の連絡つなぎであれば、ノノウ達の方が恐らく速いでしょう。されど、事の大きさによれば、正規の御使者が死に物狂いで馬を走らせましょうから」
「事の、大きさ、か」
 父は言葉の一つ一つを、それぞれ絞り出すようにして言い、瞑目したまま天を仰ぎました。
 このような勿体振った有様を見せつけられますれば、幾ら鈍い私でも、父の所に来た連絡つなぎの内容が、実は相当な「大事」であったのだろうと察することが出来ます。
 己が頼みとする叔父に総てを開かすことができず、不肖の倅にもそのまま告げることが出来ないような「大事」です。
「速く届いた知らせが、必ずしも正しい知らせとは限らないのではありますまいか?」
 そのようなことなど父は重々承知でしょう。それでも私は言わずにおれませんでした。
「正しくなければよいが、な」
 父は大きく息を吐き出すと、眼を見開き、天井を睨みました。
 私は不安に駆られました。そして何故か、このまま父を沈黙させてはならない、そんな気がしたのです。
「正しい、と、ご判断なさるに足る知らせで御座いますか?」
「むしろ、有り得ぬ知らせだな」
「ならばそれほど御懸念なさらずとも宜しいのでは?」
「ここが、な……」
 つい先ほど、顎の辺りを撫でた右手の、骨太な親指が、胸板の真ん中当たりを突き刺すようにして指し示しました。
 父の唇の端がくっと持ち上がりました。楽しげに笑っているようです。
 しかし、目は、眼は、暗い色をしておりました。
 いいえ、決して落ち沈んでいたのではありません。
 遠い暗雲の中の雷光のような、暗い、恐ろしい光を放っていたのです。
 心の大半では、大事が起きるのを楽しみに待っている。そして残った僅かなところで、平穏無事を願っている。
 人の心という物は、なんとも複雑な代物です。
 私は父の前に膝行し、その暗く光る眼を見つめ、思い切って尋ねました。
「どのような知らせで?」
「儂がこの『面白き事』を、人に開かすと思うか?」
 父は弾けるように笑いました。
「独り占めになさりまするか?」
 私が拗ねた声で重ね尋ねますと、父は笑声をぴたりと止め、
「照の嫁ぎ先を決めたなら、真っ先にお前に教える」
 渋皮を貼ったような顔で言ったものです。

 私が岩櫃に戻りますと、垂氷つららが出迎えてくれました。
 その時の私といえば、情けなくも、できれば直ぐにでも寝てしまいたいと弱気になるほどに疲れ切っておったのです。ところが、垂氷は私の都合など知らぬ顔で、
「矢沢のお年寄りは、血の氷った鬼のような方ですね」
 口を尖らせました。
「大叔父殿が、なにかなされたか?」
 垂氷の顔には、そう尋ねろ、と、書かれておりました。
「戻ってお見えになるなり、
『沼田だ。急ぐ。換え馬』
 で御座いますよ。それで、沼田からお連れになって、ここで御休息なされていたご家来衆の襟首を掴んで、まるで荷物のように無理矢理馬に乗せて……」
「先刻私にそうされたように、か?」
「はい、先刻若様にそうなされたように、です」
 私の疲れ切った脳漿でも、大叔父のなさりようが、ありありと想像できました。
「それは……可哀相に」
 呟いたその直ぐ後を追って、大きな欠伸が腹の底から湧き出て参りました。
「本当にお可哀相でしたよ。丁度お茶を点じて差し上げた所でしたのに。まだ口も付けないうちに、あの方達は、首根を掴まれて引きずって行かれて。本当に酷いお年寄りです」
 垂氷のむくれた声が、なにやら遠くにから聞こえるような気がしました。
 私は首を横にして、
「違う、あの者達ではなく、大叔父殿だ。父上から厄介ごとを頼まれて、その頼まれごとに急かされている大叔父殿が可哀相だと言ったのだ……」
 と言いました。
 いえ、正しくは「言ったつもり」でありました。
 情けないことに、首を横に振ったその途端に、耐え難い眠気に襲われて、途端、バタリとうつ伏し、そのまま夜が明けるまで、前後不覚に眠ってしまったのです。


 見事な青鹿毛あおかげでした。
「九※2ある」
 前田慶次郎殿はうっとりとした眼差しでたてがみを撫でられました。
 皐月の晦日のことです。私は厩橋におりました。
 呼び出されたのです。

 その日の朝早くに届けられた萬屋の紙には、細くしなやかな文字で「源ざどの」と表書きされており、開けば、
「駒なるや いざ見に来たらむ ふるさとの 厩のはしにぞ 花と咲くらむ」
 という一首と、「慶」の一文字がしたためられておりました。
 私の傍らでは、垂氷つららが好奇の目を輝かせておりました。
「本歌取りだな。多分、
『駒並めて いざ見にゆかむ ふるさとは 雪とのみこそ 花は散るらめ』
 であろう。これは古今和歌集にある。意味合いはな、
『馬首を並べて古里へ花見に行こう、急がねば花は雪が降るように散りきってしまうぞ』
 と云ったところで、すなわち、春の楽しさを詠った歌で――」
 私は、己が古今和歌集にいくらか明るいのだと云うことを少々自慢したかったのですが、垂氷には私の講釈を聞く気など更々なかったようです。
「それで、ご先方さまは何と仰っているのです?」
 上目勝ちにこちらを見て、ニコニコと笑っておりました。
「『予てより手に入れたいと思っていた名馬が漸く我が物になった。見せびらかせてやるから、お前が生まれた厩橋へ来い。件の馬の御蔭で、我が厩舎は花が咲いたように賑やかになっている』
 と仰せなのだよ。土地の名の『厩橋』と、うまやの片隅と云う意味の『厩の端』とが掛詞になっていてだな――」
 言いかけた辺りで、垂氷はすっくと立ち上がりました。
 流石に私も腹に据えかねて、
「人の話は最後まで聞くものだ。そのような態度は、話手に対して礼を欠く。当世、気の短い相手ならば手打ちにされかねない。大体、嗜み心のない娘は嫁に行けぬぞ」
 少々厳しき口ぶりで言いました。
 すると垂氷めは、なんとも無礼な振る舞いですが、立ったまま、
「若様。お言葉お返しいたしますが、元の歌が、早く行こうという意味なら、つまりご先方は、若様に直ちに来いと仰っておいでるということありましょう? でしたら、今直ぐに御出立の準備をなさるべきです」
 口元をきゅっと引き締めた真面目な顔で申したものです。
「それに、砥石のお殿様から、滝川様の様子をそれとなく見聞するようにと仰せつかっておいでなのでしょう? ちょうどよい機会が来たではありませんか。さあ、急いで参りましょう」
 垂氷は言い終わらぬ内にくるりと戸口へ振り返り、飛び跳ねるようにして外へ出ようとしました。
 垂氷の言い分は理に適っております。理に適ってはおりましたが、釈然としない部分がありました。
「一寸、待て」
 声をかけますと、垂氷は立ったままという不作法さで唐紙の引き手に手をかけた、そのままの姿勢でぴたりと立ち止まって、肩越しに私の方へ振り向きました。
「何ぞ……?」
 大きな目が輝いておりました。
「付いて来るつもりではあるまいな?」
 その気でいるだろうというのは分かり切っていたのですが、一応、確認をしてみたのです。答えは想像したものと大差ありませんでした。
「いけませぬか?」
 流石に向き直りはしましたが、まだ立ったままです。
「女房衆や子供であれば女連れでも良かろうが……」
「いけませぬか?」
 口を尖らせました。
「いけない」
「何故です?」
「何故と言って……」
 私は頭の中で言い訳を思いめぐらせました。
 正直を申し上げます。
 垂氷と連れ立って歩くのが気恥ずかしかったのです。
 その頃の私と言えば十六の若造で、垂氷の年は確か十三、四でした。
 年頃の娘を連れ歩く様子を慶次郎殿に見咎められ、
「子供のようだ」
 と莫迦にされるのは嫌でしたし、妙に勘違いされて、
「色気付いた」
 と冷やかされるのも嫌でした。
「ノノウが草の役をしていることがあからさまになっては不味い」
 私は漸くひねり出したこの言い訳を、「我ながら良い言い訳だ。反論の余地もあるまい」と自信満々に思ったものですが、垂氷には全く通じませんでした。
「わたしはノノウの頭の千代女様の秘蔵っ子で御座いますよ? 正体が知れるような鈍重どぢをするものですか」
 胸を張って言ったものです。
 私は何故か米咬みの辺りにキリキリとした痛みを覚えましたので、その辺りを指で押さえながら、
「滝川左近将監様ご自身は伊勢志摩のお生まれらしいが、滝川家というのは、元を辿れば甲賀の出だそうだ。高名な甲賀衆の、だ」
「わたし共も元を辿れば甲賀流ですよ」
 ノノウの総帥である千代女殿は、甲賀望月家から、遠く縁続きで同族の信濃望月家へと嫁いで来られた方です。ご実家は甲賀五十三家と呼ばれる忍びの衆の筆頭格でありました。
「だから、だ。同じ流派であれば、その所作で相手が何者かを察するに容易であろう」
 垂氷めは、
「つまり若様は、わたしが鈍重を踏むと仰るのでしょう?」
 童女のように口を尖らせて申しました。
 米咬みだけでなく、胃の腑の辺りまでキリで突き通すような痛みを覚えました。
「万々が一にも、鈍重を踏んでもらっては困る、と言っているのだ」
「判りました。ようございます。わたしは出掛けません」
 ようやっと、その場にすとんと座りますと、三つ指をついて平伏し、
「行ってらっしゃいませ。ああ、若様がこれほどおつむの堅い方だとは思わなんだ」
 館中に響くほどの大声で言ったものです。
 まあとにかくも、私は独り……といっても、馬丁を一人連れておりましたが……厩橋の前田屋敷へ向かったわけです。

 門前で取り次ぎを頼みますと、ご家人が、
「主が、真田様がお越しになったら、厩へお連れするようにと……」
 困ったような、申し訳なさそうな微笑を浮かべて、私を厩へ案内してくれました。
 その厩で、前田慶次郎殿が四尺九寸の黒鹿毛をほれぼれとして眺めておいでたという次第です。
「良い馬だ。実によい馬だ。しかも馬銜はみの跡も鞍の跡もない、全くの野生馬だ。これほどの馬を野に放っておいて、しかもあれほどの騎馬軍を養っていたと云うから、全く甲斐いい上野といい、武田は恐ろしい土地を領していたものだ」
 慶次郎殿は満面に笑みを湛えて、黒鹿毛の首を抱いて頬をすり寄せました。
 馬の方はと云うと、何とも面倒くさそうに鼻をブルッと鳴らしはしましたが、されるがままにしておりました。
 私には馬の心持ちなどは判りませんが、どうやらベタベタとまとわりつかれるのに辟易とし、しかし拒絶するのを諦めている……そのように見えました。
 一頻り馬自慢をなさった後、慶次郎殿は敷き藁を高く積んだ物を床几しょうぎ代わりに座られました。そして大きなひさごと朱塗りの大盃を取り出されたのです。並のかわらけの五倍はありそうな大杯でした。
 これを私に示した後、慶次郎殿は傍らの敷き藁の山を顎で指されました。そうして、私の胸元に盃を突き付けたのです。
 受け取らないわけには行きませんでした。
 私は厩で酒宴を張ったのはこの時が初めてでした。無論、この後にも一度とてありません。
「樽や銚子から呑むも良いが、やはり冷や酒は瓢で呑むに限る。よく冷えて、味が締まる」
 そう仰って、慶次郎殿が手ずから私の盃へ瓢の酒をお注ぎになりました。
 なみなみと注がれた酒の量と云ったら、徳利一つ分もありそうに見えました。
 私は盃を両手に戴き、大きく息を吐き出しますと、一息に酒を胃の腑へ流し込みました。
 腹の奥から湧き上がった酒精の臭気が、鼻を突き抜けて、脳天を揺さぶりました。
「私などには、まだ酒の味の違いは良く判りませんので」
 それでも何とか空にした盃を、慶次郎殿に差し出しました。
 慶次郎殿がそれを片手で受け取られたので、今度は私が瓢を取って、酒を注ぎました。
 不調法に酌をする私の手元を見て、慶次郎殿が、
「儂はお主があまりに面白い男であるから、すっかり大人だと思いこんでおったが、そう云えばまだ子供のような年であったな」
 と仰ったのを聞いて、私は無性に己が恥ずかしく、口惜しく、悲しくなりました。
 その上、私が両手でようやっと捧げていた大盃を慶次郎殿は片手で煽り、あっと言う間に干されてしまわれたとなっては、益々自分が情けなく思えてなりませんでした。
 慶次郎殿は今一度私に空の盃を差し出されました。私が受ければ、また酒をなみなみと注ぎます。注がれれば呑まねばなりません。
 今度は一息に、とは参りませんでした。何度か息を吐きながら、少しずつ胃の腑に酒を落とし込みました。
 その必死の最中に、慶次郎殿が、
「お主も、お主の親父殿も、大変だな」
 ぽつりと呟くように仰いました。
 あと一口の酒が、傾げた盃に残っておりました。私は盃の縁を噛んで、
「この世に大変でない人間などおりましょうか?」
 言いながら息を出し尽くし、その勢いで最後の一滴をすすり込んだのです。
 その直後、私の目の前から空の杯が消えました。顔を上げますと、慶次郎殿がそれを持っておられました。私が慌てて瓢を取ろうとしますと、慶次郎殿は首を横にして、
「ああ、そうだな」
 と微笑なさりながら、ご自身で酒を注がれたのです。
 慶次郎殿はあっと言う間に盃を白されました。そして今一杯、手酌で酒を注ごうとなさいました。
 この時、私は何を思ったか、そのお手から盃を奪うように取ったのです。それから瓢も同様に、少しばかり強引に取りました。
 私は瓢を盃の上で逆さにしました。
 傾けたのではありません。まるきり逆さにしたのです。
 ああいう口の小さな入れ物は、逆さにしたからといって、勢いよく酒が出てくる物ではありません。斜に傾げた方が出がよいように出来ておるのです。
 逆立ちした瓢の口からは、情けなく酒の雫が垂れるばかりです。私は無気になって、瓢を上下に激しく振りました。そうしたところで出が良くなるわけではありません。
 酒は杯へ落ちるのではなく、益々細かい雫となって、あちらこちらへ飛び散ってしまいました。
 勿体ないことです。折角の銘酒を、殆ど厩の土に呑ませてしまいました。ばかばかしいことこの上ありません。
 私はこの時、物の道理という物が判らなくなっておったのです。おそらく、強かに酔っていたに違いありません。
 ところが不思議となことに、前後不覚になった、と云う覚えがありません。酔いつぶれて記憶が失せるようなこともありませんでした。
 今でも時折思い出してしまいます。思い起こす度に、耳の先まで暑く赤くなります。
 出来れば忘れてしまいたいというのに、何故かこの日の出来事は、何年、何十年経った後になりましても、鮮やかに思い起こされるのです。
 ともあれ、情けない私は、酒の雫の出なくなった瓢を放り出しました。莫迦莫迦しい「手酌」の仕方のために、盃の酒は雨後の水溜まりのように、浅く僅かに溜まったのみです。
 私が一息に飲み干せる程度の、僅かな水溜まりです。
 地べたがぐにゃりとひしゃげて見えました。板葺きの天井も、グルグルと回っています。
 放り投げた瓢を拾い上げようとしましたが、手近にあるように見えるのに、どうにも指が届かないのです。
 私が意地になって、何もない所で手を握ったり開いたりしておりますと、瓢がふわりと浮き上がりました。
「変わりを持たせよう」
 慶次郎殿は瓢の胴を叩きました。空の瓢は魚鼓のような音を立てました。直ぐに控えの方があらわれ、酒の詰まった別の瓢が主人の手に渡されました。
「信濃の冬は、寒いかな?」
 何の挿し穂もなく、慶次郎殿が仰いました。言うと同時に、私の手から盃を取り上げ、空いた手に瓢を持たせました。
 重い瓢でした。冷たい瓢でした。
 途端、私の目玉は回ることを止めました。
「寒いですよ」
 私は当たり前のことをするようにして、慶次郎殿が持つ盃に酒を注ぎ入れました。
 慶次郎殿も当たり前のことをするようにして、それを飲み干されました。
 すると今度は瓢を取り上げ、盃を押しつけます。
 私が盃を捧げ持ちますと、慶次郎殿はそこへちょろりと酒を注ぎ入れました。
「雪は多いか?」
「所によります」
 一口ばかりの酒を呑み干しますと、また盃が取り上げられ、瓢が渡されました。
「所による、か?」
「信濃は広うございます。北の方は雪深ですが、南の方は余り降りません。その代わり、底冷えがします」
「お前の父御のいる所……砥石といったか? あそこはどうだね?」
「たんとは降りませんが、根雪になります」
「長く暮らすには向かぬなぁ」
「住めば都でございますよ」
 瓢を持つ方が酒を注ぎ、注がれた方が飲み干すと、瓢を取り、盃を渡す。渡された方が飲み干せば、盃と瓢とを取り替え、注ぎ、注がれ、飲み干す。
 私の盃には一口の酒、慶次郎殿の盃には一杯の酒が注がれ、消えてゆく。
 一言交わすごとに、私たちはそれを繰り返しました。
「都、な」
「本物の都は、見たことがございませんが」
「見てみたいか?」
「それは……生涯に一度ぐらいは」
「ならば儂と来るがいいさ。飽きるほど見せてやるよ」
「ですが、慶次郎殿は滝川様の御一門様ゆえ、この後は関東にお住みになるのでしょう?」
「織田のお屋形様の腹積もり一つだな。ある日突然、能登の方へ行けと命じられるかもしれぬしな。これでも儂は、あっちに僅かな『田畑』を持っておるのだよ」
 慶次郎殿はニタリとお笑いになりました。能登は慶次郎の叔父君である前田又左衞門利家様が治めておいでです。
 この頃の慶次郎殿は、叔父御とその兄である御養父の蔵人利久様とが「不和になった」ので、「両親、妻子を連れて生家に戻った」ことになっておいででした。ですが、どうやらこの時点では世間が言うほど険悪でな訳でなない様子でした。
「しかし、西の方を羽柴様がお平らげになれば……」
「ああ、猿は『苦戦している』と言ってきたが」
「苦戦?」
 私は危うく盃を落としそうになりました。
 父が仕入れた、羽柴秀吉殿が援軍を要請していると言う「話」は、慶次郎殿の口ぶりからして、どうやら本当らしいと知れたからです。
「滝川様が御助勢に向かわれるのですか?」
「まさか」
 慶次郎殿は手をひらひらと振りました。
 関東は形の上では織田により「平定」されていますが、北条の動きは怪しげであり、また奥州のあたりはきな臭く、
「その上、越後に長尾弾正少弼上杉景勝とかいう辛気臭い若造がおる。儂等としてはが大きく動くわけには行かぬよ。なにしろあれは親の代上杉謙信から『織田信長』というモノを嫌っておるようだからな。……それに」
 不意に、慶次郎殿の眼差しが鋭くなりました。
「此度の猿殿の言い分は信用できぬな。何か魂胆がある。硝煙臭い魂胆だ」
「硝煙……」
 私は空にした盃を、殆ど押しつけるようにして慶次郎殿に手渡しました。
 話を聞きたい。酒で口が軽く回ってくれないだろうか。
 切実に願いました。
 父の命令のため? いえ、確かに話を聞き出せと命じられてはおりましたが、あの時にはそのことなど忘れておりました。
 私よりももっとずっと広くこの世を知っている、この人の話を聞きたい。この先、私が見ることがないかも知れない、広い世の中の話を聞きたい。
 その一念でした。
 ですから私は、慌てて瓢を傾けたのです。
 細い口からは一滴の液体も出ませんでした。
 私は思わず――おそらくかなり情けなげな顔をして――慶次郎殿の顔を見上げました。
 慶次郎殿は顔を真っ正面に向け、厩の窓の外の空を睨み付けておいででした。
 黒い雲の塊が、重そうに、のたりのたりと流れておりました。
「『何事もなく』猿公が毛利を押さえたとしても、西には西のその先がある。我らが関東を巧い具合に治めたとしても、東には東のその先がある」
 四国、九州、あるいは琉球。
 相模、陸奥、あるいは蝦夷。
 私は固唾を呑み、空の瓢を持ったまま身を震わせました。
 己が子供であることを思い知らされた気がしたのです。
 私が、その時までの十六年ほどの生涯で行ったことのある一番遠い場所と申せば、諏訪ということになりましょう。
 織田の殿様に目通りが適ったその時に参ったご本陣です。この厩の宴の、たった数ヶ月前のことでした。
 信濃や甲州の外側のことは、文に読み、話しに聞いて、夢想はしておりましたが、正直な所、想像が付きませんでした。
 私にとって「世間」とは涙が出るほど狭い物だったのです。
「日の本の国は、広うございますね」
 羨望と無力感と酒精とが混ざった吐息が、私の肺臓の奥から溢れました。
「だがな、源三郎……そうとも言い切れぬぞ」
「はい?」
「安土の城で、大殿から面白い物を見せていただいたことがある」
 そう仰った慶次郎殿の目は、星が瞬くようにキラキラと光を放っておりました。
「面白い物、でございますか?」
globo terrestreぐろぼ・てへすとれという代物だ。南蛮伴天連が大殿に献じたものでな、大きな鞠の上に地図が描いてある」
「鞠に、地図?」
 私は阿呆のように申しました。それがどのような物なのか想像が付かず、また、何故わざわざ鞠に地図を描かねばならないのか、その道理が判らなかったのです。
「ぐろぼは蘭語で球、てへすとれは地面のことでな、これを漢語にすると『地球儀』となるそうな。つまり、この地べたの形を球で表している」
 慶次郎殿が地面を踏み付けるような所作を二三度なさると、地面は、トトン、という軽快な拍子の音を立てました。
「この平らな地面を、鞠のような球で? 何故そんな面倒なことをするのでしょう。地図ならば平らな紙に書けばよいのに」
「伴天連共に云わせれば『それこそ正しい地面の形だから』だそうな」
「正しい、とは……つまり地面は丸いと?」
 私は頓狂な声を上げました。慶次郎殿は小意地の悪いような、玩ぶような、子供じみた笑顔を作って、
「まあ、そんな些細なことはどうでも良いわい。要は、そこに描かれていた地図よ」
 やおら右の手を私の前にお出しになりました。
「お前が広いと言った日の本の国はな、その地図ではホンのこれほどの大きさであったよ」
 慶次郎殿の親指が、小指の先を指し示しました。
「件の、辛気臭い上杉のおる越後やら、槍の又三たらいうケチ臭いのがおる能登やらのその向こう側にある海は、あぜ道の水溜まりほどもない。対岸には明がドンと構え、南蛮はどこから何処までが南蛮なのか判らぬほど広い。それを取り巻く外海はさらに広い」
 慶次郎殿は両の手を大きく広げて、海の、私の知らぬ世間の、途方もない広さを示されました。
 私には慶次郎殿の大きな体躯が広い世の中そのもののように思えてなりませんでした。言葉もなく、憮然呆然として、慶次郎殿のお顔を眺めるより、私に出来ることはなかったのです。
 すると慶次郎殿は、突然盃を放り捨てました。
 開いた両手は直後に私の両肩にドンと落ちてきました。
「それを思えば、厩橋も沼田も岩櫃も砥石も真田の郷も、川中島、信府、諏訪、木曽、それに安土、あるいは京の都といったところでさえ、目と鼻の先の近さよ」
 にんまりと笑っておいででした。
 つまり、
「お主が岩櫃から出て、ここに残って儂等と一緒に働いたとして、薄紙一枚の厚さほども動いたことにはならぬのだよ」
 このことを仰りたかっただけなのです。
 私はぐらぐらと揺れておりました。
 いいえ、心持ちが、ではありません。
 私の体がぐらぐらと揺すられておったのです。
 慶次郎殿が私の肩を掴み、前後に揺さぶられたからです。
「父が、何と、申しますか」
 私は揺れながら答えました。
「お前の妹を帰して、変わりにお前をここに残す。一つ足して一つ引くだけのことよ」
 慶次郎殿は更に私を揺するので、私の胃の腑中では酒精が渦を巻き、つられて脳漿もグルグルと回り出しておりました。
「左近将さまが、何と、仰せになりますか」
 どうにか絞り出した直後、私の体がぴたりと止まりました。
「伯父貴が、何を言うと?」
 慶次郎殿の太い眉根の間に、浅い皺が刻まれました。
 私の上半身は慶次郎殿に押さえつけられた格好で真っ直ぐに立たされていたのですが、胃の中と脳漿と目の玉とは中々止まってくれませんでした。
 ゆらゆらと揺れた面持ちで、漸く、
「三九郎様のことです」
 と申し上げますと、慶次郎殿の眉間の皺が少し深さを増しました。
「三九郎殿が、どうした?」
 滝川一益様の従兄弟である義太夫益重様のお子である慶次郎殿と、一益様のお孫様である三九郎一積様とは、いとこ違いの間柄ということになります。歳は大分に慶次郎殿の方が上ですが、三九郎様は一益様御嫡男の御嫡男であられましたので、慶次郎殿よりもお立場は上と言うことになるのでしょう。
 それにしてもご一門の慶次郎殿が、
「三九郎様が、於照を、嫁にご所望だと」
 云うことを、ご承知でないというのは、不可解なことでありました。
 しかし慶次郎殿が、
「そんな話があるものか。証人に預かった娘子を、相手の弱みに付け込むような真似をして、無理矢理に娶ろうなどとは」
 と、大層なご立腹をなされた――ただし、縁談を自分に内緒で進めたと云うことにではなく、強引なやり方であると云うことにお怒りになられて――その辺りからして、於照と三九郎様とのことを本当にご存じなかったのでありましょう。
 慶次郎殿が本心お怒りのように見えましたので、私は慌てて、
「無理にというのでは御座いません。先日我が大叔父、矢沢頼綱を通して、父のところへお申し出が……」
「つまり、我が父を経由して、ということか?」
 大叔父のいる沼田の城代は慶次郎殿の実のお父上である滝川益重様です。
「そう云うことになりましょうや」
「先日というのは、何時だ?」
 慶次郎殿はようやく私の肩を解放してくださいました。支えを失った私の体は、胃の腑と脳漿の揺れのそのままにゆらゆら揺れました。
「つい二、三日前にて」
 慶次郎殿ははたと膝を打ち、黒鹿毛の名馬を指さして、
「では、儂があれを追っておる間か……。どおりで沼田からも厩橋からも『戻れ』『帰れ』と催促が来ておった」
 苦笑いを頬に浮かべられました。
 私が覚えず、
「御身も美馬に目を眩まされ、我が侭をなさっておいでだったのすから」
 などと口を滑らせますと、慶次郎殿は、
「流石に片腹痛い源三郎め。痛いところを突きおるな」
 ケラケラとお笑いになり、
六韜りくとう立将篇に曰く、『国不可従外治国は外より治むべからず軍不可従中禦軍は中より御すべからず』だ。名馬の捕獲は戦そのものだろう? ならば後ろからの声などは聞こえぬ、聞こえぬ」
 両の手で両の耳を覆って見せました。
 このとき私は、織田弾正忠信長という為政者がこの方に前田の本家を継がせなかった理由の「小さな一つ」を見た気がしました。
 大きな理由は言うまでもなくお父上である前田蔵人入道利久様の資質にあるのです。
 慶次郎殿の「文人振り」をみますれば、その育ての親である蔵人入道様が平和な小城一つを治めるに優秀な「領主」であることが良く知れます。
 ですが織田様が能登に置きたかったのは、恐らく主君の命を良く聞く「配下」だったのでしょう。
 それゆえ、子飼いで武勇のある又左右衛門利家様に家督させたのです。女子供さえも含む、武士でない、浄土往生を願うのみの無垢な一揆衆の死兵達を相手にしても、ひるむことなく殲滅という主命を全うでき、平らげた地縁血縁のない土地を運営できる「槍の又三」を、です
 慶次郎殿も確かに武勇に優れた方です。
 ただしそれは、ただ眼前の一点を目掛けて突き進む、征箭そやか弾丸のような武勇です。
 矢が、弾が、撃ち出された後に射手の言うことを聞くでしょうか。その場に留まれと言われて、止まることが出来ましょうか。
 戦場に解き放たれた慶次郎殿は、先陣となって一騎で敵陣に突入し、当たる者総てを討ってゆきます。殿軍となって、寄せ手の一群を切り裂き、押し戻し、四散させます。
 御義父上が「小さな一国を治めるに向いた方」と表せるのと同様、「局地的な一戦に勝利するのに最適」な――あるいは「便利」な――人材と云えましょう。
「於照坊は、お主と同腹か?」
 慶次郎殿は両耳を押さえたまま、お訊ねになりました。
「いいえ」
 私が「何故そのような事をお訊ねですか?」と聞き返すより速く、
「弁坊は?」
「弁丸……源二郎は同腹です。あと同腹は姉が一人」
「ふぅん……」
 慶次郎殿が腕組みをして、口を閉じ、それをへの字に曲げ、思案顔をなさったので、やっと私は、
「何故そのような事をお訊ねですか?」
 と問うことが出来ました。
「なぁに、お主と照殿が同腹で、且つ、照殿がお主同様に父親似にておらぬのならば、三九郎は照殿の美貌に目が眩んで我が侭を言うた気持ちがわかる、と思うたまでよ」
「は?」
「つまり、お主は父親似にておらぬということさ」
「やはり似ておりませんか……」
 私は自分の顔のあちらこちらを自分でなで回しました。
 自覚はしておりました。
 父は顎が張り、目鼻の小さい、小気味の良い顔立ちです。背丈はどちらかと言えば低い方でした。
 私は顔も手足も背の丈も、上下にひょろ長く伸びております。それでいて額などは丸く突き出、頬はだらしなく下脹れに膨らんでいるのです。
「なに、男の子は母親に似た方が幸せと云うからな。……逆に娘は父親に似るが良いと云うが……」
 慶次郎殿は首をひねり、
「儂はお主の妹御の顔は良く知らぬが、つまり、幸せになりそうな顔かね?」
 於照は厩橋城内の人質屋敷とも云うべき館に住み暮らしておりました。完全に拘束されているというのではありませんが、押し込められているに近い暮らしぶりです。屋敷の外へ出ることはほとんど無かったでしょう。
 慶次郎殿も厩橋に御屋敷を与えられているわけですが、察するに本陣には顔を出す事もあまりなさそうなお暮らしぶりの様子ですから、於照との接点は無いに等しかったようです。
「そう云う意味では、不幸顔でしょう。照はあれの母親によく似ております。兄の私が言えば、身びいきだと嗤われましょうが、丸顔で可愛らしい娘です」
「それで引く手数多では、お主の父親も気が休まるまいよ」
 大きな息が慶次郎殿の肺臓から湧き出しました。長い、長い吐息でありました。
 息を出し尽くされると、慶次郎殿は拱んでいた腕をほどき、両の腿をぱんと叩いて、
「よし、決めた」
 満面笑みを浮かべられました。
 理由は知れませんが、私は何やら背筋に寒い物が走った気がしました。
「何を、お決めに?」
 恐る恐る伺うと、慶次郎殿はすっくと立ち上がられ、
「情けない話だが、まだ関東は収まりきっておらぬ。北条はうろちょろするわ、奥州にも気を遣わねばならぬわ、煩いことこの上ない。この忙しさの中で、お主の美しい妹が三九郎殿を惑わせば、滝川の士気が下がる」
 突然、我が妹を侮蔑するような事を仰せになりました。
 流石に私も腹に据えかね、
「於照が三九郎様を惑わすような、ふしだらな娘だと仰られますか!?」
 勢いよくすっくと立ち上がった……つもりなのですが、酒精に足腰を抑え付られて、ふらふらとよろけながら漸う立ち上がりました。
 足元はおぼつきませんでしたが、それでも上背だけであれば、私には慶次郎殿と殆ど違わぬ高さがありました。
 その独活の大木がつま先立って、覆い被さるようにする物ですから、慶次郎殿は相当に驚かれた様子で、
「言葉の綾だ。済まぬ」
 頭をお下げになられました。
 ところが私は落ち着こうとも座ろうともしません。理由は思い出せぬのですが、いずれは、酒のために気が大きくなっていたのでありしょう。
 怒って赤くなったり、悪酔いで青くなったりと落ち着きのない顔が太い鼻先に突き付けたものですから、慶次郎殿は益々慌てられました。
「つまり儂が言いたいのは、だな……。お主の父御には信濃衆への押さえという重い役がある。そのために、当家と婚姻で縁を結ぶのは、確かに良い手段ではあるが、それによって喜兵衛殿のお心を乱してしまっては、こちらも申し訳ない。然らば『照姫』のことは、儂が伯父貴や三九郎殿を説き伏せてやろうと、こう言いたいのだよ」
 先ほどまで「お照坊」などと気安くお呼びだったのに、急に「照姫」などとおう大げさな呼び方をなされた所を見ると、この時の私めは、どうやら常ならぬ恐ろしげな風貌に変わり果てておったようです。
「どのように?」
 私は単純にその手法を知りたかっただけです。しかし、酔い果てて目の座った顔をした泥酔者の回らぬ言い様は、慶次郎殿には家族を思うての上の激しい立腹に思えたのかも知れません。慌てた口ぶりで、
「一度照姫を御家に戻そう。それが良い」
 そう仰って、大きくうなずかれました。
「それでは証人がいなくなります」
「別の証人を出してもらうより他に手立てがあろうか?」
 当然の疑問には当然の答えがかえってくるものです。そして当然の反問への答えは当然「否」です。
「出せる者がおりませなんだから、於照をお出ししたのですよ」
「だから、お主が来ればよい」
「は?」
 流石に私は驚いて目玉を剥きました。
 ……目を剥いたつもりでした。
 強か呑んで、強かに酔った私の瞼は、重く眼球の前に垂れ下がっておりました。
 視界は平生の半分よりも更に狭くなっております。目の前は暗く、ゆらゆら揺れて、グルグル回っています。
「丁度良い。丁度良い」
 慶次郎殿が明るく笑う声が聞こえた途端、私は己の体がふわりと浮いた気がしたのです。
 実際、私の足の裏は地面には付いておりませんでした。
 持ち上げられていました。
 慶次郎殿が私の帯を掴み、片のかいなだけで私の体を吊り上げて、まるで小行李でも持ち歩いている彼の如き気軽さで、私を運んでいたのです。
 私は拒否するとか暴れるとか、そういった動きを取るべきでしたのに、することが出来ませんでした。
 そうしようにも、手足の先どころか髷の先端まで酒精の行き渡った体が、頭の言うことを聞かないのです。
 しかも、その頭ですら、自分自身で何を考えているのかさっぱり判らないという有様でした。
 だらりと垂れた手足の指先が、掃き清められていた厩の地べたに擦れておるのを酔った眼で見て、
『ああ、これでは慶次郎殿が運び辛いであろうに。私はなんて無駄に体が大きいのだろう』
 などと考えるような為体です。
 ゆさゆさと揺れながら、ずるずると手足を引き摺って、私は運搬されておりました。
 そして、その揺れに妙な心地よさを感じた物でありましょうか、運ばれながら、墜ちるように眠ってしまったのであります。
 蒸し暑さを感じて目が覚めたのは、その翌日の、未の下刻を疾うに過ぎた頃でありました。
 無論、目覚めたその時に時刻が判ったわけではありません。後から家人にそう知らされたのです。
 そう。当家の家人からです。
 目覚めた私の頭の下には、慣れた高さの枕があり、目の前の高みには見慣れた天井がありました。

 岩櫃の自室でした。

 合わない兜を無理矢理かぶせられている気分でした。喉の奥には鑢をあて損ねたかのような、気色の悪いざらざらとした感触があり、胸の辺りは焼け付くようでした。
 私が上体を漸くのっそりと起こすと、
「まこと、若様と来たら、肝心なところで無様でおいでで」
 垂氷つららの嗤う声が聞こえました。
 いいえ、確かに「嗤って」おりましたよ。当人がどう思っていたのか、今では知るよしもありませんが、私にはそう聞こえたのです。
 怒鳴りつけてやりたくなりました。
 実際そうしようとしたのです。
 ところが、酷い宿酔の体はこれっぽちも云うことを聞きません。重たい瞼をどうにか細々と開いて、生意気な娘を睨むのが精一杯でした。
 その精一杯の怒りを露わにしたはずの顔を見て、あの娘と来たら、
「まあ、酷いお顔」
 うっすら笑うのです。こちらが苦しんでいるのを見て、
「ご酒が苦手でいらっしゃる?」
 などという言葉の、その言い振りがまた、人を小馬鹿にして……しているように聞こえたのです、私には。
「お前は一斗の酒を開けても真っ当にしておられるのか」
 厭味とも愚痴とも取れぬ、言い訳じみた物を言ってみましたところ、
「さあて。呑んだことがございませんので、判りかねます」
 そう言って垂氷は、茶碗を寄越しました。
「ですが、二日酔いにはこれが良う効くというのは、存じておりますよ」
 茶碗の中身は、何やら甘い臭いのする茶色のモノでした。
「何だ?」
「『玄の実』を煎じたものです」
「玄の実?」
「医者に言わせれば、キグシとかいう、私などには良く判らない名前の薬と言うことになりますが」
「キグ……? ああ、計無保乃梨ケンポノナシか。妙な形をした実のなるあれだな。実は小さいが、喰うと中々に美味い」
「まだ今年の実はなっておりませんよ。そろそろ花の咲くころかと」
 垂氷が突出し窓を開けますと、良い風がふわりと流れ込みました。
 しかしこの時の私の体は、清涼な風ぐらいでは癒されぬほどに消耗しきっておりました。ことさら、焼けるが如き喉の渇きは酷いとしか言いようのないものでありました。
 正直なところを言えば、水けのものであるならば、薬湯でも煮え湯でも何でも構わぬから、とにかく一息に飲み干したい心持ちであったのです。
 しかしどうやら自制の心は残って負ったようです。薬湯を呷るように飲むのは大層品のない事のように思われ、そっと、少しずつ、舐めるようにして喉の奥へ流し込んだのです。
 後から思えば、いかにも小心者と云った風の、情けない有り様でした。その様を見つつ、垂氷は、
「若様は、物知りなのですねぇ」
 などと言いながら、口元を袖で隠してニンマリとまた嗤うのです。
 ええ、まあ、確かに口元は見えませんでしたが、目が、嗤っておりました。
「厭味か?」
「いえ、いえ。本心、感心しております。前田様も大層お褒めでしたよ」
 途端、私の口から薬湯が噴出しました。
 温泉場の源泉の口から湯が噴きこぼれるように、勢いよく、盛大に、です。
「それは慶次郎殿のことか!?」
 言い終わる前に、私の両の鼻の穴から薬湯の鼻水が噴出しました。
 その薬臭い鼻水をすすったものですから、私は今度は咳き込み、息も出来ずに布団の上で悶え転げ回ったのです。
 そんな私のうろたえ振りに、こんどは垂氷のほうが驚いて大慌てとなりました。
 何やら悲鳴じみた言葉を発しつつ、あたふたと慌てふためき、手拭いらしき物を私の手元へ投げ寄越し、自分は直ぐさま私が部屋中にまき散らかした薬湯を拭いて回りました。
 そうして、私の咳がどうやら治まったと見ると、
「若様を背負っておいでになった、背の高いお武家様は、前田宗兵衛そうべえ利卓としたか、とお名乗りでした」
 喉の奥から、
「うあぁ」
 呻くとも叫ぶとも付かない奇妙な声が湧いて出ました。
 情けなく、惨たらしく、恥ずかしく、面目なく、申し訳なく、勿体なく、私は前のめりに布団に突っ伏しました。
「もしかしてあの方が、お手紙の主の『慶』様で?」
 後ろ頭の上から、垂氷の声が降って参りました。
 私は突っ伏したまま頷きました。顔を上げることなど出来ましょうか。
「もしかして、もしかしますると、あの御方はとてもお偉い方だったりするのですか?」
 幾分か不安の色が混じる声でした。
 私は突っ伏したまま、どうにか顔を横に向けて、チラと垂氷の顔を盗み見るようにしながら、小さく頷いて見せました。
「滝川左近将監様のご一族衆で、甥御にあたる。ついでに申せば、能登七尾城主の前田又左衛門様の甥御でもある」
 本来ならば、身を正してきちんと説明すべきなのですが、私は体を起こす力が湧いて来なかったのです。
「つまり、偉い方、と言うことですか?」
 垂氷が目玉を剥いて尋ねます。
「つまり、偉い方、と言うことだ」
 私が答えますと、垂氷は小首を傾げ、眉根を寄せました。
「それで、あんなご立派な馬に乗られて、良いお召し物をお召しであられたのですね」
「お前は外見で人を量るのか?」
 私は少々呆れて申しました。すると垂氷は激しく頭を振って、
「あの方がご自身で『厩よりの使いに御座る』と仰せになったのですよ。ですからてっきり、厩橋に御屋敷のある、どこかの偉いお家の馬丁殿かと思ったのです。つまり、下人に至るまで絢爛な装束をまとえるほどに立派なご家中の……」
馬糞ボロを片付けるのに、わざわざ錦をまとう莫迦は、どんな高貴なご身分の方の家にもおらぬよ」
 私は呆れ果てつつ申しました。
 しかし言う内に、果たして本当にそうであろうか、と不安になったのです。
 何しろ厩の宴の最中に、世の中というのは広い物であり、己という物は小さい物である、と言うことを、強かに思い知らされたばかりです。美しき衣を纏って飼葉を運ぶ者が、あるいはこの世のどこかに居るやも知れません。
 ですから私は言い終わった後で、小さく、力なく、
「……恐らくは……」
 と付け加えました。
 それが聞こえたのか聞こえなかったのか知れませぬが、垂氷は拳を握り天を仰いで、
「ああ、この垂氷めとしたことが、一生の不覚で御座います。あの方が若様の大切な『慶』様であると気付きもせぬとは……。そうであると知っておりましたなら、もっと良くお持てなしをしましたものを。それなのにおもてを良く見ることもなしに!」
 言い終えると同時に、ガクリと肩を落として項垂れました。
 それは、あからさまと云うか、白々しいと云うか、大仰と云うか、鼻に付くと云うか、ともかく下手な地回りの傀儡くぐつ使いの数倍も下手な演技と見えました。
 こちらが面白がるか、あるいは、気付かずに呆けるのを待っているのが透けて見えるたのです。
 私は不機嫌でした。
 自分が情けなくてなりませんでした。
 慶次郎殿にお掛けした迷惑が申し訳なく、それを詫びに行こうとか取り繕おうとかするために身を起こす心持ちになれないことが不甲斐なく、どす黒い吐き気と頭痛とを取り払うことも出来ず、怠惰に悶々と布団の中に居る己に、不機嫌を募らせていました。
 ですから、素直に笑ってやることも、素直に無視してやることも出来なかったのです。
「『おもてなし』と『面なし』を掛詞にしたか。面白い、面白い。笑うた、笑うた」
 私は野茨の棘の如くささくれ立った言葉を垂氷に投げつけると、掻巻を頭まで被りました。
 薄い真綿の向こうで、垂氷は笑っておりました。
「面白うございましたか? 頂上、頂上」
 悪念も邪心も感じられない、穏やかで、心底楽しげな声でした。
 私は己の惨めさに打ちのめされたものでした。

 お恥ずかしい話ではありますが、この後数日の間、私は長々と「不機嫌」で居続けました。
 何事も起きなければ、もっと長く不機嫌の侭であったやも知れません。
 手水を使う以外には布団から出ず、食事も粥の類を布団の中ですすり、書も読まずに、
「不快」
 を言い訳にゴロゴロするだけの日々を、数日どころか一月も二月も過ごしていたに違いありません。

 そうです。何事もなければ。


 その日の朝、一人の「百姓」が砥石へ駆け込みました。直後に一人の「山がつ」が砥石から駆け出しました。
 その者は、人の通わぬ、道とは到底思えぬ木々の間、岩の影を風のように駆け、岩櫃の山城の木塀の間に消え入ったのです。
 老爺でありました。顔には深い皺が刻まれ、手足の皮膚の肌理の奥まで土が染み込んでおります。
 汗と埃の臭気が、汚れた衣服から沸き立っていました。
 砥石から岩櫃まで一息に駆けたその『草』は五助と名乗りました。
 頭を下げると同時に一通の書状、というよりは折りたたんだ紙切れを差し出したのです。
『水無月二日 本能寺にて御生害 惟任日向』
 書いた者は、相当に慌てていたのでしょう。文字は乱れ、読み取るのに難儀しました。
 内容は簡潔にして要領を得ません。
 そのまま読めば、惟任日向という人物が本能寺で死んだかのように取れるかもしれません。
 しかしそれは全くの逆でした。

 本能寺で殺したのです。明智日向守光秀が、織田上総介信長を――。

 不思議なもので、私はその意を汲み取った瞬間、奇妙な……安堵としか云い様のない感覚を覚えました。
 まるで、そのことをずっと待ち続けていた「起こるべき事」がようやく起き、中々に決まらなかった事がとうとう決まった、といった、安堵の心地です。
「沼田へは?」
 五助が父から、「この事」を矢沢頼綱大叔父へ「どのように知らせる」べく命を受けているのか、確かめる必要がありました。それによって、私が取るべき行動が決まって参ります。
「速やかに、そっと、お知らせするように、と」
「ふむ……。では、お前自身、沼田に伝手があるか? 縁者が居るとか……」
「は?」
「恐らくは、滝川様方にも織田上総介様御生害の報は届いておろう。さすれば、街道の役人の詮議もやかましくなっている筈。縁がある者が沼田に居れば、咎められだてすることなく城下出入りできよう」
「『道』は、弁えておりますれば」
 五助は手捻りの土雛の様な顔で申しました。
 私のような若造よりも、余程に人に知られぬ――それはすなわち、滝川様の御陣営の人々、という意味ですが――手段を持っている、と言いたいのでしょう。
『草』には『草』の自負があるものです。
「こちらにて充分に休みました故、これより直ちに走り出しますれば、今日の内には沼田の御城内へ入り込めましょう」
 立ち上がろうとする五助に、
「それで、今日の内に戻ってこれるか?」
 と、尋ねました。
「戻る……でございますか?」
「砥石の、父の所へ復命せねば成るまい」
 五助の顔色が少々鈍りました。
 私は何か言いたげな五助に喋る間を与えぬよう、素早く申しました。
「足の速い者を一人付けよう。大叔父殿の所にも繋ぎを残しておいた方がよい。残るのは其方でも、付け添えの方でも構わぬ」
 言い終わらぬ内に、私は手を叩きました。
 すぐに垂氷がやって参りました。
 五助はこの小娘を怪訝そうな顔で見ました。
「沼田の大叔父殿の『家』は諏訪の神氏であるし、ご当人も鞍馬寺で修行を成された身だ。そう言ったわけであるから、ノノウが大叔父殿を尋ねても不思議はあるまい。むしろ当然のことだ」
 垂氷が旋毛の辺りから声を出しました。
「沼田の、あの鬼のようなお年寄りの所へ行くのですか?」
 全くこの娘は己に正直に過ぎます。私は眩暈を覚えました。
 ところが驚いたことに、五助はこの言葉を聞いて笑ったのです。
 当然、声を上げてのことではありません。口の端を僅かに持ち上げ、目尻を僅かに押し下げただけではありましたが、それでも確かに笑ったのです。
 どうやら五助は矢沢頼綱と云う人を知っており、且つ、垂氷が思うているのと同じような感情でその人物を見ているのでしょう。
 私の目玉の裏側にも、件の酷い老人の顔が浮かびました。
 私は苦笑を腹の底に押し込ました。
 そして、出来うる限り厳しい顔つきで垂氷を睨み付けると、唸るような低い声を絞り出しました。
「火急だ」
 垂氷の顔色が変わりました。かなり驚いております。私の顔が相当に「恐ろしい」ものに見えたのでしょう。
 あるいは、私の顔が「鬼のような誰ぞ」に似ているように思えたのかも知れません。
 雷にでも打たれたような勢いで平伏した垂氷は、
「かしこまりまして御座います」
 などと、普段しないような丁寧な返答をしました。
 こうして二人の、祖父と孫程に年の離れた、すこぶる付きに優秀な『草』は、岩櫃の山城を飛び出して行ったのです。
 私にしてみれば切り立つ崖でしかない場所も坂道と下り、どう見ても通り抜けられそうもない鬱蒼とした木々の間の隙間をすり抜け、あの者達にしか判らない道を駆け抜けて行くのです。私のような度胸のない者には到底真似のできるものではありません。
 知らせは、無事に届く。
 私はその点では確信をし、安堵すらしました。
 問題は……。
「父はどうする? 滝川様はどうなさる?」
 木曾殿の所に居る源二郎と三十郎叔父はどうなるのか。厩橋に居る於照は、果たしてどうなるのか。
 そして私は、どうすべきなのか。
 私は胡座を掻き、腕組みし、天井の木目をじっと見つめました。
 どれ程の間もありません。
「この大事に、私ごときが直ぐに妙案を思い浮かぶようであれば、この世は楽すぎてつまらぬな」
 私は独りごち、そのまま仰向けにゴロリと寝ころびました。
 手足を大きく伸ばし、息を吐き尽くしました。
 勝頼公が御自害なされたのが、弥生の十一日。
 信長公御生害が水無月の二日。
 滝川様が――つまり織田陣営が――関東・信濃を「領有」してから、三ヶ月ばかりです
 そう。たったの三月です。
 わずか三ヶ月ばかりで、占領した土地を治めきることが出来ましょうか。
 降将達が新しい領主を心底主人と認めることが出来ましょうか。
 ことに、充分な「恩賞」を得られなかった者は……。
「北条殿は間違いなく動く」
 北条の兵力は、武田征伐ではさして消耗しなかったはずです。大軍は動かされましたが、実際に戦闘することはほとんど無かったのですから。
 余力は充分にある。
 絶対的な君主の居なくなった織田勢が浮き足立っていると見れば、思惑通りであれば得られていた領地を「取り返す」為に行動を起こすに違いありません。
 甲州を攻めるか、上野を攻めるか。あるいは信濃へ押し込むか。
 甲州の押さえであった穴山梅雪様は、徳川家康様共々織田様に安土へと招かれ、その後大阪に向かわれたと聞いておりますので、今も関西におられるはずです。
 穴山様はどれ程の速さでお戻りに成られるだろうか。いや、無事に関西を抜け出せるかすら定かではない。
 惟任日向明智光秀様が織田遺臣をどのように取り扱うのか、さっぱり知れません。
 例え惟任様が今まで同様、あるいは今まで以上に厚遇しようとお考えであったとしても、方々がそれを受け入れるとは限りません。
 織田様の軍勢が「頭が変われば、素直に新しい頭に従う」ような集団であるとは到底思えないのです。
 従わぬ者、裏切る者は、切り伏せる。
 それが私の見た「織田の戦」です。
 そんな「織田の戦」をする者達が、織田信長を裏切った男に、従うはずがない。
 皆、それぞれに、主君の仇討ちを画策するに違いない。
 各地に散っている織田の遺臣が、己の首級を狙っている……それが判っている筈の知恵者明智光秀は、一体どうするのか。
 惟任日向守様もまた、織田の軍勢の一員です。
 従わぬなら、切り伏せる。
 その考えが染みついておられるのでしょう。
 だから、織田信長をも切り倒し果せた。
 しかし惟任日向守様は……明智光秀は織田信長ではありません。
 魔王とまで呼ばれたあの奇妙な方と、同じやり方をしたとして、同じように大成しえないでしょう。
 黄に永楽銭の旗の下に人々が吸い寄せられるように集まり結束したのと同様に、浅葱に桔梗の旗の下に集う人々が、果たしてどれ程いるのでしょうか。
 たとえば、穴山様、徳川様です。このお二方が惟任様に従うとは、私には想像だにできませでした。
 従わぬなら、切り捨てられる。
 織田信長に倣った惟任光秀が、穴山様も徳川様も、全く無事で済ますことはありえない。
 何か手を打つはずです。何か手が打たれてしまうはずです。
 おそらく、穴山梅雪は甲州に戻れない。
 なれば、北条が攻め入るのは、やはり主の居ない甲州からということになりましょう。
 そして甲州に残る武田の遺臣達も動くはずです。
 恐らくは一揆勢となって北条に、そして織田の「残党」に戦いを挑むことでしょう。彼等が失った物を取り戻すために、です。
 手練れによる小規模で多発的な戦闘ほど、厄介な代物はありません。敵対する者が「中規模」であれば、特に効き目があります。
 軍勢を別けても小勢にならないほどの大規模な軍勢であれば、いくつもの小規模戦闘が同時に起きたとしても、対応することが出来るでしょう。当然、別けられたそれぞれの兵団に、しかるべき統率者がいれば、の話ではありますが。
 しかし兵を別けて使うことが出来ない程度の軍勢では、複数の敵の対処しきれなくなります。
 今、織田信長という偉大な「頭」を失った織田の軍勢は、分断され、細切れになって、中規模な軍勢へと成り下がっているのです。
 織田軍は一揆勢で手一杯の状態に追い込まれる。そこへ北条が攻め来れば、間違いなく崩される。
 ならば、どうする。
 私は手段を二つ思い付きました。
 一つは、織田信長の死を秘匿し、上州・信濃・甲州の諸人を連携させ、北条に当たる。
 ただし、秘密は長く秘密のままにすることは出来ないでしょう。現に、信濃衆の私は真実を知ってしまっている。他の人々にも遅かれ早かれ知られることとなります。
 秘密が秘密である間に北条を討ち果たすか、あるいは……何人かが速やかに惟任光秀を討ち取って、織田家総てを掌握し、織田信長と同等の統率力を発揮する……。
 無理な話です。あの織田の大殿様と同じ事のできる者が、この世にいるはずがありません。
 もちろん、惟任日向様が織田の遺臣団を全掌握するのも、無理でしょう。
 なれば、もう一つの手段。
 秘密が暴かれ、知れ渡る前に、
「撤収する」
 速やかに残存兵力を集め、速やかに旧領へ撤退する。
 あるいは、
「自分一人、尻をまくって逃げる」
 城も領地も見捨て、何もかもかなぐり捨てて、家族や家臣を顧みることもなく、恥も外聞もなく、ただ己の命だけを抱きかかえて、一目散に逃げる。
 巧くすれば命一つは助かるかも知れません。ただその後のことが問題となりましょう。
 一族も家臣も失った「殿様」が、ただ一人生きて行けるものでしょうか。この世にただ一人放り出された「殿様」が、生きるため米を得ることが出来るのでしょうか。
 私のような半端物ですら、美味い飯を炊く火加減を知らないのです。槍一筋、知行一筋に生きてきた「殿様」であれば、米を飯に化けさせる方法を知らないことだって有り得るでしょう。
 自分一人の食い扶持を稼ぐ術を持っていたとして、そう易々と生きて行けるものではありません。
 例えば本人が侍を捨てて帰農したつもりであっても、その「殿様」が「殿様」であったことを知るものから見れば、その者は「殿様」であり続けるのです。
 密告するものがいるかも知れない。
 疑心は暗鬼を生むと云います。
 道を行くあの者は落人狩りかもしれない。あの物売りは敵対勢力の作細に違いない。
 戦に負けた傷心の上に、怯えと猜疑とが塗り重なれば、屈強なもののふの「魂」とて、無事では済みますまい。
 人の目を恐れ、身を隠し、一所に留まることも適わず、結局はまた身一つで逃げ出さねばならなくなります。
 腕に自信の方であって、どこか別の勢力に出仕しようと考えたとしましょう。
 勝負は時の運とも申します。ご本人が次は負けぬと胸張って言ったとしても、大負けに負けた上に、一族家臣を見捨てて逃げた「卑怯者」を雇おうなどという、心の広いお殿様は、そうそういないはずです。
 逃げた「殿様」に相応以上の利用価値があるのなら、あるいは可能性が無いは申せませんが……。
「さて、逃げるというのは難しいものだな」
 私は独り呟きました。
 では、二つ目の手段を取るべきなのか……。
 つまり、
「真っ向、戦う」
 という手立てです。
 この状況では、援軍は期待できません。従って手勢のみで戦を始めることになります。
 では、策は?
 敵が来るのを待ち伏せるのが良いか、攻め手が寄せ来る前にこちらから仕掛けるが良いのか。
 自軍が自領にあるならば、あるいは待ち伏せるのも良いでしょう。
 勝手知ったる「我が家」の中に、事情を知らぬ敵を引き込んで戦うならば、地の利というものが働きます。
 地の利があれば、例えこちらの兵力が相手の三割方であっても勝機を見つけることができる。
 しかし――。
 滝川様が関東にお越しになって僅か三月です。恐らくは、滝川様ご自身もまだ自領の地理に暗いはずです。
 地の利も何もあったものではありません。このまま城に籠もり、待ち伏せをしたとして、ただの籠城する小勢に過ぎないのです。
 ならば、
「打って出る」
 より他にないでしょう。
 それも出来るだけ迅速に、敵方にこちらの大事が漏れ伝わる前に、こちらが小勢と知られぬ間に、攻め掛けねばなりません。
 現状で、それが果たして可能なことなのか否か……。
「さて、戦うというのは難しいものだな」
 私は寝返りを打ちました。肘を枕にして板張りの床に目を落とすと、磨き上げられた床板に一匹の若造の顔が写っておりました。
 嫌な顔をした若造でした。瞼がぼってりと腫れ上がってい、目の下に黒々と隈ができているというのに、頬を紅潮させ、口元には薄笑いを浮かべています。
 どこかで見た薄笑いでした。私はその腹黒そうな笑みに問いました。
「父上はどうなさいますか?」
 床板は無言でした。返事するどころか足音一つ伝えてくれません。城内が静まりかえっていたのです。生きた人間が一人もいないような、そんな恐ろしいほどの静けさでした。
 御蔭で砥石から続く狭い山道を駆けて来る蹄の音が聞こえたのです。
 お笑い召さるな。
 戦場にあると、五感が研ぎ澄まされるのです。
 彼方の敵陣で兵卒が進軍を開始したその足音が聞こえる程に、火縄に火が移されるその匂いが嗅ぎ取れる程に、入り乱れた兵達の中から名のある将のその顔を見いだせる程に、突き入れられた槍の穂先を紙一重でかわせる程に、望気すれば兵の優劣が感じ取れる程に。
 岩櫃の城は、その時すでに、紛れもなく戦場だったのです。
 孤立した、戦場の直中だったのです。
 ですから、私は……私の高ぶった心は、その音を聞き取ったのです。
 砥石からの伝令に違いありません。
 恐らく五助を送り出した直ぐ後に砥石を出立したものでしょう。
 その僅かなときの間に、
『父が、何かを、思い付いた』
 に違いありませんでした。
 私は身を起こしました。
 口惜しくてならなかったからです。
 私自身が幾ら考えを巡らせても思い付かなかった「何か」を、真田昌幸という男はあっと言う間に考え出したのです。
 床を蹴るようにして立ち上がりました。
 大声で喚きました。
「誰ぞある! 具足を持て! 馬を引け!」
 襖の後から、控えていた小者が慌てて走り出す音がしました。
 私は努めてゆっくりと歩き出しました。
 歩いたつもりでしたが、あるいは小走りに、いえ、全力をもって走っていたのかも知れません。
 館を出た私は小具足姿になっていました。
 何処でどう着替えたものか、今となっては思い出すことも適いません。
 ともかく、気がついたときには、兜を被り胴を着込めば、何時でも出陣できる居住まいになっていたのです。
 私は引かれてきた馬の手綱を馬丁から奪い取るようにして掴むと、開け放たれた城門の間際まで進み出て、急使が到着するのを待ちかまえておりました。
 果たして、急使はやって来たのです。
 エラの張った四角い顔の真ん中に、小振りな目鼻と大きな口をギュッと一塊に放り投げたようなその顔は、よく見知ったものでありました。
 譜代の家臣です。しかし普段であれば、早馬に乗せられて使い走りをするような男ではありません。それはつまり、それほど重要な使いであるという意味でありました。
 丸山土佐守は私の出で立ちを見るなり、
「ああ、間に合うた!」
 と、叫んだものです。その声は掠れきっていましたが、声音からは本心安堵しているのが良く判りました。
 土佐は馬から滑り降りると、よろめきながら私の足元に膝をついて、
「若におかれましては、暫しご自重を……」
 荒く激しく息を吐きながら申しました。土佐は誰からの言伝であるとは申しませんでした。しかし、父の命であることは明白です。
「何故動くなと仰せか!?」
 私は、肩で息を吐く丸山土佐を怒鳴りつけました。
 土佐に当たっても仕方のないことであるのは重々承知の上です。それに私は押さえた口調で言ったつもりでした。しかし口から出たのは、憤りや怒りや落胆に塗れた、怒声の様なものだったのです。言った自分が驚くほどの、酷い声でした。
 土佐は声もなく、喘ぎながら、ただ頭を左右に振りました。
 それから幾度も生唾を飲み込んで、漸く呼吸を整えてから、
「木曽の弁丸様の件については、最初から『そのつもり』で矢沢三十郎様を付けてある、と。また沼田のことは矢沢右馬助様に任せる、と」
 父がどれ程矢沢父子を信頼していたか、これで判るというものです。事実、あの親子はその信頼に足る人物でありました。
 私は口惜しくてなりませんでした。矢沢親子は父から信じられ、大任を預けられたというのに、
「では父上は、この源三郎には何も任せられぬと仰せか?」
 拗ねた子供の言い振りでした。いえ、確かにあの頃の私は小僧若造に他なりませんでしたが、恥ずかしながら本人は一端の武将のつもりだったのです。
 私は身を乗り出しておりました。独活の大木の上半身が、土佐の縮こまった体の上に差し出されている様を傍から見たならば、さながら壊れた傘のようであったことでしょう。
 土佐は草臥れた顔をぐいと持ち上げました。細い眼をカッと開いて、口を真一文字に引き締めております。
 私は思わず身を引き起こしました。丸山土佐の顔の後に、真田昌幸の渋皮を張ったような顔が浮いて見えたのです。
 身構える私を見据え、土佐は大きく呼吸をしました。四角い顔の真ん中で、小鼻が大きく膨らみました。
「厩橋のことは一番承知の筈、と」
 言い終えると、土佐の小鼻はしゅるしゅると縮んでゆきました。
 確かに私は厩橋の地理に明るうございました。あそこは私が育った場所です。
 私は、武藤喜兵衛が武田家を裏切らない証として差し出した嫡男ですから。
 正直を申せば、あの頃の私は、地理と言えばあのあたりのこと知らないも同然でした。
 それはともかくも、武田が滅し、甲州・上州・信濃が織田の支配下となってからの厩橋の城内にも、信濃衆が差し出した証人(人質)が留め置かれていました。当然、当家から出されていた証人もおります。
「於照か……」
 背筋に震えが来ました。
 父は「於照を取り戻せ」と言っている――。
 私はそう判断しました。
 差し出した証人を戻すということは、すなわち、父は織田家を見限る決心をした、ということです。
 私は肺臓の息を総て出し尽くしました。そうせねば胸の動悸が治まらぬ気がしたのです。
 総てを吐き出し、吐き出した以上の気を吸い込みました。
「暫しの自重との事であるが、どれ程の時を慎めと仰せだったか?」
 心の臓は踊るのを止めませんでしたが、それでも私は、精一杯落ち着いたふりをして申しました。
 丸山土佐守は小さな目玉を見開いて、
「矢沢右馬助様のご采配を確かめつつ」
「成る程、大叔父殿からの指示を待て……ではないのだな?」
「左様で」
 土佐の口元に、僅かな笑みが浮かびました。
 私自身も笑っていた気がします。
 父が、ここから先は己自身で考えよ、と言っている――。そのことが恐ろしくてなりませんでした。

 日が暮れ、夜が更けました。
 こうなりますと、夜になったからと云って眠れるものではありません。恥ずかしい話ではありますが、私は小具足姿のままで、引き伸べられた布団の上に古座して、悶々と夜明けを待っていました。
 沼田の方からの知らせが来たのは、子の三つを過ぎた辺りだったでありましょうか。
 垂氷つららはげっそりと疲れ果てた顔をしておりました。
「やっぱり沼田のお爺さんは、鬼でございますよ」
 半べそをかきながら申したのは、大凡次のようなことです。
 歩き巫女の垂氷と山がつの五助が、沼田に矢沢頼綱を訪ねると、折悪しく滝川儀太夫益重様がご同席でありました。
 儀太夫様は甚だ顔色悪く、大きな体を縮こまらせておいでだったそうです。
 五助は恐縮しきった風に額を地面にすりつけて、
「矢沢の殿様に有難い御札を頂戴できると聞いて、まくろけぇしてやって参りましやした。どうかオラをすけてやってくださいませ」
 と申すのを聞いた滝川儀太夫様が、
「御札、とな?」
 と、何故か垂氷に向かってお訊ねになりました。
 垂氷は五助同様ひれ伏したまま、
「せんどな、この五助のおっしゃんのとこの一等上の倅が急におっ死んでまいまして、かぁやんがそれはもう泣いて泣いて、とうとう寝付いて起きらんねくなっちまいまして。あんまりおやげねぇんで、オラとが神様にお伺いたてましたら、ぞうさもねぇ、矢沢のお殿様には諏訪の御社宮司ミジャグジ様の神様がへぇっておられるから、お殿様から御札を頂ければ、たちまち治るでごわしょうと仰せになられました。そいで、矢沢のお殿様をさがねたら、こちらにおいでるというので、まくろけぇして参りましたでございます。オラとの神様の言うことに間違いはごぜません。殿様、一枚こさえてくださいませ」
 そう言って、しわくちゃになった「神籤」を差し出しました。
 神籤は薄汚れた紙切れで、確かに何か書かれているのですが、それはミミズをどっぷり墨に浸して、それを紙の上に放って這い回らせた跡にしか見えないものでした。
「また酷い神託よな」
 矢沢の大叔父は眉間に皺を寄せてミミズを睨み付け、それを儀太夫殿にも示して見せました。
 恐らくわざわざそうして見せたのでしょう。つまり、矢沢頼綱は滝川様に対して何も隠しておらず、真田家は織田家に対して二心を抱いていないということを、ごく自然な行いでわかっていただくために、です。
 儀太夫殿は紙切れと大叔父の顔をチラチラと見比べると、
「それでご老体、この娘は何と申した?」
 垂氷めは、内心「しめた」と小躍りしたと申します。わざわざ酷く訛ってみせて、ただの田舎娘と思われようと策を練ってやったことが、まんまと図に当たったと云うのです。
 大叔父殿はからからと笑って、
「過日このノノウが神降ろしをしたところ、五助爺さんの女房の病は、諏訪大社の建御名方神に祈願して護符を頂けばたちまちに治るいう神託が下ったとのことでござる」
「成る程事情は解った。ではその先だ。それがしには、この娘めがご老体を神の化身のように申したと聞こえたぞ?」
「そのことでござるか。なに、当家は諏訪のジン氏の末でござりますれば、信濃巫女の内には、当家を頼って来る者も希に居るのでござるよ……何分にも、諏訪の大宮までは遠うございますれば、な」
「そうか、ご老体は諏訪神氏か……」
 滝川儀太夫様は細い息を絞るように吐き出されました。この時ちらりと顔を上げた垂氷には、儀太夫様が、
「困り果て、精根尽きて、祈祷を頼みに来た水飲み百姓の顔をしていおいでる」
 ように見えたそうです。ですから儀太夫様が矢沢の大叔父に向かって、
「では儂もご老体にご祈祷を願おうか……」
 と力なく仰せになったのを見ても、何の不思議も感じなかったというのです。
 すると大叔父は喜色満面、
「ではそれがしが護符を書き付ける間、そこのノノウに神楽舞をさせましょう。それ娘、舞え! すぐに舞え、ここで舞え!」
 大いに笑ったのです。
「怒る鬼より笑う鬼の方が恐ろしゅうございます」
 垂氷は力なく申しました。
「たっぷり二時辰とき、休み無しに神楽舞をさせられました。謡いもわたしがやるのですよ、舞いながら! その上……」
 矢沢頼綱大叔父は、垂氷が舞い謡う間に数十枚の「護符」を書き上げました。
 内、一枚は五助に授け、一枚は滝川儀太夫様に献じ、残りを束にして、
「これを、城下に住まう諏訪大社の氏子に配って歩け」
 垂氷に持たせたのです。
「そう言われれば、『これこそ草やノノウが待ち望むような密書の類に違いない』と思いますでしょう? ところが、でございますよ!!」
 垂氷は紙切れを一枚差し出しました。
 質のよい真っ白な細長い紙でした。上半分に、四字絶句のような文字の列が書かれております。

 業盡有情ごうじんのうじょう
 雖放未生はなつといえどもいきず
 故宿人身ゆえにじんしんにやどりて
 同証佛果おなじくぶっかをしょうせよ

「鹿食之免、か。確かにお諏訪様の御札だな」
 腑に落ちる、というのはこのことです。大叔父は時に狩猟もするであろう山がつに「諏訪明神の御札」と乞われて、それに相応しい御札をくれてやったのです。
 何の間違いもありません。しかし垂氷にはこの真っ当な御札が気にくわなかった様子です。
「ええ、本当に本当の御札でございますよ。透かしてみても、水に浸してみても、火にかざしてみても、細かい端々まで目を皿にして眺め回しても、なんのお指図も書かれていないのですよ!」
 今にも泣きそうな声音で申しました。
 そもそも鹿食之免と申しますのは、諏訪大社が猟師を始めとする氏子達に出す形式的な「狩猟許可書」です。
 殺生を禁ずる仏教の教えに従えば、獣を狩ってそれを食することは大罪にほかならない。しかし、飢餓の冬などには獣を喰わねば人が死んでしまう。そこで、獣を捕らえ喰うことに、
「前世の因縁で宿業の尽きた獣たちは、今放してやっても生きながらえない。それ故、人間の身に宿す、つまり食べてやることによって、人と同化させ、人として成仏させてやるのだ」
 と理由を付けて、神仏の名において正しいこととして許しをあたえる。
 それが鹿食之免です。
 神罰仏罰を恐れ、来世の幸福を願いながら、現世で生きることもまた願う、そんな人々の心に、僅かな安堵を与えるための方便が、この文言なのです。
 私は大叔父が贋とはいえ護符を書くに当たってこの文言を選んだことに、妙に納得したものです。
 私たち武家の者は、多くの敵兵を殺し、あるいは兵ではない人々からも血を流させ、それを「国家安寧のためやむなし」などと称して生きているのです。
 私は泣きそうになりました。
 矢沢頼綱が件の文言の下に、墨跡黒々とした力強い筆捌きで、
「祈願 家内安全」
 などと書き加えていたものですから、なおさらです。
 私は洟をすすり、目頭に水気を溜め、それが溢れぬように天井を仰ぎました。
 これを見て垂氷は、
「ああ、若様がわたしの為に泣いてくださった」
 などと申したものでした。
 私は否定する気持ちが起きませんでした。涙を堪えながら、別のことを考えていたからです。
「それで、残りの『護符』は他のノノウや草の者達に配って歩いたのだな?」
 洟をすすり上げ、訊ねますと、
「はい、やれと言われれば、やらねばなりませんから……」
 垂氷もグズグズと洟をすすりつつ、
「居場所が分かっていて、近場に居る者に直接渡して、少々遠い者にも回してくれるように頼みました。あ、紙屋の萬屋さんにも届けるように手配しましたよ」
 少々自慢げに申しました。
「ああ、萬屋に繋ぎを付ければ、関東にいる信濃者の殆どに繋ぎが付くのと同じ事だな」
「気が利きますでしょう?」
「ああ、礼を言う」
 私は瞼を閉じました。水溜まりが堪えきれず溢れ、ひとしずくが耳朶の方へ流れ落ちました。
「若様?」
 垂氷は少々驚いたような声を上げました。
「大叔父殿は、家内安全を祈願すると書いた。……願うと云うことは、今は安全ではないと云うことだ。そうであろう?」
「え……? あっ、はい」
 垂氷の声には濃い不安の色がありました。
「事は、逼迫しておるよ」
 私は持ち上げていた顔を元の正面向きへ戻しました。目は明けていたのですが、垂氷の顔も、部屋の壁も、見えた覚えがありません。
 別の、遠い、幻か現か判らぬ、深い闇のようなモノ、あるいは赤い炎の様なモノが見えていた気がします。

 水無月の十三、四日頃の事だったでしょうか。
 上州大泉の辺りをまわっているノノウからの繋ぎがありました。
 砥石の父宛の密書でしたが、岩櫃を通るからには、私にも目を通す権というものがありましょう。
 小泉城主・富岡六郎四郎秀長殿宛の手紙の写しでございました。
 手紙の差出人は、滝川左近将監一益様です。
 富岡殿からの問い合わせに対する返書のようでした。
 おそらくは富岡殿が京都であった「異変」の「噂」を聞いて、その真偽を確かめようとなされていたのでしょう。

 あいや、何故当家がそのようなものを手に入れられたか、などということは申されますな。
 もう遠い昔のことにございますれば……経緯はともかく、我らは「何故か」その中身を覗き見ることが出来た、と云うだけのことでございます。
 返書の中身と申しますのは、
「無別条之由候」
 といったものであったと記憶しております。
 私は文を畳み、砥石行きのノノウに渡しました。
「別条なし、か」
 この時点では、滝川様は織田様の死を秘匿なさるおつもりだということが知れました。
 危うい策としか言い様がありません。これほど大きな秘密を、長く隠し通せるはずありましょうか。
 少なくとも我ら真田は真実を知っております。知らぬふりをしておりましたが、知ってしまっているのです。
 我らのような小勢が知っていることを、強大な北条方が知らぬはずはないでしょう。
 木曽の方で大変な騒ぎが起きていたのですから、なおのことです。
 
 騒ぎの端緒は、木曽福島城の木曾義昌殿に届いた一通の書状でした。
 差出人は「海津城主」森武蔵守長可殿です。
 織田信長の勢力下にあった海津城……すなわち松代城は、重臣・森武蔵殿の所領とされておりました。
 書状の内容は、
『京の変事のため、当方は美濃国金山へ戻ることと相成りました。つきましては、明日そちらにて一晩宿営を願いたく……云々』
 と云うような物だったと聞きます。
 東信濃では我ら信濃衆が滝川一益様にお味方するという形となっておりましたので、どうやら治まっておりましたが、北信濃では各地で一揆勢による反乱が起き、領地運営も「大変」であったようです。
 北は越後の上杉様と直接境を接していたわけですから、なおのことです。
 それ故、森武蔵殿は織田信長横死の報を受け、運営の難しい新しい領地を放棄することに決めたのでございましょう。
 書状を受け取った木曾義昌殿は
「合い判った、と武蔵守殿にお伝えくだされ。くれぐれも、宜しゅうにお伝えくだされよ」
 そう申しつけて使者を帰すと、ご家来衆を呼び集めました。呼び集められた者の中には、質として預けられていた我が弟・源二郎と、従兄叔父の矢沢三十郎頼康も含まれております。
 多くの者共がいるというのに、場は水を打ったように静まりかえっていました。その中で木曾殿は落ち着いた声音で仰せになったそうです。
「聞いたとおりだ。明晩『鬼』が来る」
 この「鬼」と申しますのは、森武蔵守殿のことです。森殿はその剽悍苛烈な、あるいは残酷無慈悲な闘い振りから、「鬼武蔵」と呼ばれておいででした。
 森殿は、出会う敵は総て切り倒すのが信条の方でした。
 一軍を預けられたなら、その軍を文字通りに「率いて」戦われます。つまり、自分が先頭に立って敵陣に切り込み、部下の誰よりも多くの首級を上げる大将であられたのです。
 あの方の戦には作戦も何もありません。どのような方法であっても、相手を「全滅」させればよい、とお考えだったのでしょう。
 立ちはだかる者は敵であれば当然切り伏せ、敵でなくても打ち倒して進む。ただそれだけのことです。
 相手を壊走させ、追撃し、撫で斬りにして殲滅する。あるいは、逃げる人々の背に矢と鉄砲の雨を降らせる。動くもの総てを動かぬようにする。
 その苛烈振りを畏れた在郷の国人は質をしました。ただ、自ら進んで証人を出した者はほとんどいなかったようですが……。
 ともかく、質の数は数千に上り、その人数を、決して大きいとは云えぬ海津城内に押し込めていた、と伝え聞きます。
 そこまでせねば、領国内を治めることが出来なかったのでしょう。それほどに北信濃の国人衆は森殿を……織田信長公を嫌っていたと云えます。
「さて鬼めは、その人々を総て引き連れて城を出たそうな。人々は鬼めの本隊の回りを取り囲むように並ばされた。これでは国人衆も滅多に手を出せぬ」
 木曾義昌殿があくまで静かに仰せになると、諸将は歯軋りをしたそうです。誰も言葉を発しませんでした。
「鬼めは、人々は信府を過ぎた辺りで、解放した……亡骸にして、な」
 場がざわつくのも当然でありましょう。
 かつて武田の配下であった頃、木曾殿も武田に証人を出しておりました。齢七十のご母堂、十三歳の御嫡男・千太郎殿、そして十七歳の岩姫殿は、木曾殿が織田方に恭順したと知れたその時に、新府で処刑されたのです。
「北信濃の人々の悲しみはいかばかりか。証人に出した肉親を殺される辛さ、苦しさは、儂も良く知っている。……皆の者、儂は『鬼』を退治せんと思う」
 どよめきが起きたと云います。木曾義昌殿の意見には皆同意しているのですが、伝え聞く「鬼武蔵」の恐ろしさが、ご一同に不安を抱かせたものでしょう。
「我らは深志よりの退却より間もなく、兵も疲弊しておりますれば……」
 不安を声に出す者も居ったようです。
 義昌殿はご一同の顔を見渡すと、
「遠山右衛門佐友忠殿、久々利三河守頼興殿、小里助右衛門光明殿、斎藤玄蕃助利堯殿……東美濃の御歴々も『鬼』がお嫌いだそうな」
 名が上られたのは、元々森武蔵野守殿の家臣であったり同僚であったりした方々でした。そう云った縁の深い筈の方々にも森殿は酷く畏れられ、憎まれていた、と云うことです。
 それが事実か否か、私には判りません。しかし、義昌殿の言葉を聞いた方々は、そう思ったことでしょう。
「儂は『鬼』の為に大事な家臣、領民を失いたくはない。良いか、明日この城へ来るのは人に非ず。彼の者は『鬼』である。鬼を退治するのに、人とするような堂々たる戦を、兵力を使う戦をする必要はあろうか。使うのは、ココじゃ」
 義昌殿はご自身のこめかみ当たりを指し示しました。
 人々は理解しました。つまり、森長可殿を騙し討ちにするのだ、ということをです。
 陣立てが行われました。
 ですが当たり前の戦のように「城を守るため城の外に敷く」布陣ではありません。
 門の内側、濠の内側、壁の内側、屋敷の内側に、少数の兵を配置する布陣です。
 城の中に居る者が決して外へは出られないようにする構えでした。総てを城の中で済ませる為の準備であったのです。
 兵の実際の配置は翌日に行われることとなっていました。
 当然のことです。
 日本武尊の熊襲討伐の例を上げるまでもなく、奇襲を掛ける相手には充分油断をしてもらわねばなりません。当の「鬼」が入ってきた直後に城内の異様さに気付いてしまっては元も子もあったものではないでしょう。
 ことに、彼の「鬼」は武勇の御方です。企みがばれてしまったなら、包囲網を易々と突き破って逃げられるか、あるいは城ごと落とされるということも無いとは言い切れません。
 運良く逃げられただけであっても、その後に本領で兵力を取り戻し、あるいは増強した「鬼」が、怒りの侭に改めて攻め寄せてくることが考えられます。
 失敗は許されません。
 策は綿密に練られ、準備は万端に整えられました。
 明日「鬼」が到着したなら、歓迎する素振りで迎え入れ、饗応している間に精鋭の兵を配備し、油断に乗じて「退治」する。
 明日、総てを為す――。
 その夜は、流石の木曾伊予守義昌殿も寝付けなかったと見えます。
 大事を明日に控えた夜に、大鼾をかいて眠ることが出来る者はそうはいないことでしょう。私などは戦になるかならぬか判らぬ頃から、寝付きが悪くなるくらいです。
 深夜、義昌殿は灯明の消された真っ暗闇の中、独り広間に座しておられたと云います。
 私にはこの時の義昌殿のお心の内を推し量ることができません。されど、家名を守るためであれば、卑怯者の誹りを受けかねない策を講じ、実行せねばならない家長の、高揚したような口惜しいような、落ち着かない心持ちは、少しばかりは判るつもりです。
 只独り何事かを沈思黙考していたのであろう義昌殿は、その時不気味な音を聞かれた筈です。
 何かを叩く音です。いや、叩くという言い様は生温い。何かが激しくぶつかり合うような、叩き壊されるような轟音です。
 部屋が、いえ城そのものが鳴動したことでしょう。
「何事だ!」
 大声を上げるのと殆ど同時に、小者が一人明かりも持たずに広間へ駆け込み、
「一大事にございます! 鬼が……森武蔵守様が、只今ご到着でっ」
 小者の報告は、義昌殿には理解しかねるものでした。しかしながら、
「それはどういう意味だ?」
 というような、誰であっても当たり前に思い浮かべるであろう言葉を、義昌殿が口に出されるよりも先に、答えの方がご自分からやってこられたのです。
 悲鳴、怒声、床を踏みならす音、そして大きな笑い声を纏って、彼の方は現れました。
「伊予殿、久しいな!」
 暗闇を割って、十六の面が浮き出た……あるいはそのように見えたやも知れません。
 手燭のか細い明かりが顎の下から白い顔を照らしていたのです。炎が揺れ、影が揺れ、その方ご自身も肩を揺して、義昌殿に近寄られました。
「お……に……武蔵、どの……?」
 まごうことなく、森武蔵守長可その人です。
「……これは、一体?」
 義昌殿が驚き、怯み、そして震え上がるのは当然のことでありましょう。
 眉が太く髭の濃いところを除けば、まるで若党かおなごのような優しげな顔に笑みを満たした森武蔵守長可殿は、
「なに、この時節暑さが厳しかろうから、兵の消耗を考えればこちらへ着くのは明日あたりと踏んで、過日はそのつもりでお伝えしたのだがね。ところが今日の日和と来たら、春先の如き涼しさであったろう? 御蔭で道行きが捗ること、捗ること!」
 半ば武装とも云えそうな旅装を解かぬ侭に、義昌殿の真正面にドカリと腰を下ろされました。
「ところが着いてみれば門が閉まっているではないか。致し方なく叩いたと云う次第だ。しかし伊予殿、城主たる貴殿を前にこのように云うのは申し訳ないが、この城はあまり堅固とは云えぬぞ。木槌二つで門扉が壊れるようでは、のう!」
 膝を叩き、さも楽しげに声を上げて笑われたそうです。
 この時義昌殿は、鬼武蔵殿の哄笑と、得体の知れぬ「音」が混じった物を聞いたに違いありません。
 庭と知れず、屋内と知れず、不寝番の者共も、眠っていた者共も、恐慌を起こして走り回っていました。ありとあらゆる場所で、味方、あるいは「客」と鉢合わせが起きていたのです。叫び声、わめき声、泣き声、物がぶつかる音、壊れる音、壊される音が、城内到る処で立ち、到る処から響いていたはずです。
 あるいはしかし、耳にしても聞こえてこなかったのやもしれません。
 義昌殿とすれば、周到に計画し、万全の容易をして、相手の不意を突くつもりが、逆に先方から奇襲を掛けられた格好なのです。
 大いなる決心の上の策略が瓦解してゆく、その恐ろしさが、義昌殿の脳漿の働きを止めてしまったとしても、不思議ではありません。
『何が何やら判らない』
 義昌殿は、ただ眼を明けて、息をしているだけの人形のようになっておいででした。
 慌てふためいた幾人もの家臣が主君へ事態を報告をし、指示を仰ごうと、その元へ駆け付けました。
 しかし彼の者達の主君は、返答も下知もできぬ有様です。
 そんな主君の様子を見て不審に思った彼等は、主君が何も語らぬ理由を探し、辺りを見回したことでしょう。そしてこの時漸く、彼の者達は、主君の眼前に広がる暗がりの中に「鬼」を――完爾として笑う森長可を見出すこととなるのです。
 ある者は息を呑み込み、あるいは悲鳴を上げ、あるいは怯み、あるいは腰を抜かして尻餅を突きました。
 武士が、です。それも元は勇猛果敢な、向かう所敵無しと称された武田武士であった者共がです。
「なんだ、木曽福島には人が居らぬらしいな。なるほど、人のいない城では、門も脆いが道理というものか」
 森長可殿が呵々大笑なさいました。
 反論できる者がいないと言うこともまた、嘆かわしいことでした。
 しかし、その場にもただ一人、声を上げる者が居ったのです。
「なんということだ! もののふとあろうものがなさけないぞ」
 見事な大喝であったそうです。しかし幼く、舌足らずな声音であったことでしょう。
 ふぬけ達が振り返ると、そこには童子が立っておりました。
 年の頃は五、六歳ばかりの男の子でありました。
 幼いながらに眉の凛々しい、勘の強そうなお顔立ちで、小さな体の上に着崩れた寝間着を羽織り、その帯に立派な拵えの小太刀を手挟んで立っていたそうです。
 木曾義昌殿の顔が土色に変わりました。
 餌を求める鯉のように口をぱくぱくと動かされたといいます。
 ご本人は恐らく、
「岩松丸、来るでない」
 というようなことを叫んだおつもりであったのでしょう。しかし回りの者共には聞こえなかったやも知れません。
 森長可殿が、
「なんだ、この城にも人がいるではないか! なんとまああっぱれな武者であろうか! さあ、近う寄られよ!」
 と、仰る大層大きな声に、かき消されてしまったに違いないからです。
 少なくとも、その小童には義昌殿の声が届いては居なかったのでしょう。耳に届いた方の声に招かれるまま、すぅっと、長可殿に歩み寄られたのです。
 松丸殿は長可殿の前に大将のように胡座を組み、座りました。胸を張って、
「きそいよのかみがちゃくなん、いわまつまるにござる」
 堂々と名乗られました。ご立派な振る舞いにさしもの鬼武蔵も瞠目したと見えます。居住まいを正して、慇懃に名乗りを返されたのです。
「承った。それがしは森武蔵守長可にござる」
 その名を聞いて、流石に岩松丸殿も驚いたことでありましょうが、森殿が続けて、
「この騒がしき中、なんと堂々たるお振る舞い。この武蔵、感服仕った。先ほど木曽に人無しなど申したが、なんと我が目の暗いことよ! ここにこうして岩松丸殿が居られるではないか。岩松丸殿こそ木曾家随一の武者であられる。見事なり、あっぱれなり」
 などと持ち上げたものですから、悪い気はしなかったのでありましょう。
「ごこうめいなおにむさしどのにおほめいただき、いわまつまるはかほうものにございまする」
 などと回らぬ舌で……少々正直すぎるきらいはありましたが……返答なさいました。
 さすれば森殿はますます感心して、
「おお、なんと賢い子であろう」
 楽しげに笑い、肯き、手を打って岩松丸殿を褒めちぎるのです。
 子を褒められて嬉しくない親がおりましょうか。
 義昌殿の青白い頬に赤みが差しました。ただし、ほんの一瞬のことです。
 義昌殿が何か言おうと口を開き掛けたとき、森武蔵殿はすっくと立ち上がり、
「気に入った! 岩松丸殿を我が猶子としよう!」
 言うが早いか、岩松丸殿を抱きかかえたのです。
 そして、森長可殿は童子を抱いたまま木曾義昌殿の傍らに進み、その真横にドカリと腰を下ろされました。
 よく、「あっと言う間」などと申しますが、この時の義昌殿には「あ」の声を上げる暇すらありませんでした。
 幼い嫡男が退治するころすつもりのてきの膝に抱きかかえられています。てきはニコニコと笑っております。そればかりか、当の岩松丸殿も笑っておったのです。
 森武蔵守長可という御仁は、その外見だけを見ますれば、それこそ十六の面そのものの美しいお顔立ちで、優しげな方であったと、私めも聞き及んでおります。
 それ故、小さな子供には「鬼」には見えなかったのでありましょう。むしろ自分を褒めてくれた、頼もしい大人に思えたのやもも知れません。
 森長可殿が本心岩松丸殿を買っておられたのか、あるいは、童子の器量など最初から眼中になかったのかは、定かではありません。されどこの時の森殿は、膝に抱いた岩松丸殿の屈託のない笑顔を見るとさも嬉しげに、
「岩松丸はあっぱれな子だ。なんと我はよい子を得たものであろう。イヤ目出度い、目出度い。誰ぞ酒を持て! 肴を持て!」
 まるで自分の屋敷に居られるかのような口ぶりで、他人の家人に物を言い付けられたそうです。
 この振る舞いに、流石に木曾義昌殿も腹を立てたものでありましょう。
「武蔵殿っ……」
 何か言いかけたのですが、次の言葉が出せません。
 森長可殿の膝の上で笑う愛児の首もとで、何かが……鋭い金属の何かが、灯明の光を弾いたのを見た為でありました。
 義昌殿は眼を森武蔵殿の顔へと移しました。
 鬼は静かに笑っておりました。
「伊予殿は、証人人質として預けたお身内を武田四郎めに弑いられたとお聞きするが……?」 
 この言葉に、木曾昌義殿の心胆は凍り付いたことでしょう。
 岩松丸が「証人」にされてしまった。差し出すつもりも、無論差し出したつもりもないのに、すでに「証人」として扱われている。岩松丸の生殺与奪の権を鬼武蔵が握ってしまった――。
 そのことに気が付かぬほど木曾伊予守義昌が……己が一族を守るために妻の実家を「裏切る」ことの出来たほどの男が、鈍物であろう筈がありません。
 義昌殿は震えました。薄闇の中だというのに、傍から見た者がはっきりと気付くほどであったそうです。
「母上……於岩……千太郎……ッ!」
 歯の根の合わぬ口から、漸くその名を絞り出したかと思うと、直後、義昌殿は裏返った声で、叫んだのです。
「岩松丸が目出度い門出だ。酒を持て、肴を持て。さあ、誰ぞ踊れ、謡え!」
 夜を徹しての宴会が開かれました。
 死に物狂いの酒宴です。
 木曾勢にとっては、まさしく宴という名の戦でありました。それも、勝ちのないことが決まっている戦です。
 兵糧蔵が開けられ、食料と酒とが運び出されると、森殿配下の方々は牛飲馬食されました。それこそ、城内の蓄えを総て腹の中に流し込み、落とし込む勢いであったそうです。
 それでいて、その方々が心底楽しんでいるようには見えなかった、というのです。
 森長可殿は終始にこやかに笑っておられたのですが、配下の方々、ことに兵卒足軽の者共は、ただ飯を喰い、ただ酒を呑むばかりで、さながら餓鬼のようでありました。
 眼前の食物ばかりを睨み付けている者達の前に立ち、木曾殿配下の方々は、震えながら唄い、泣きながら舞いました。
 観ていたのは、森殿と、そのご近習が数名ばかりでした。
 ことに森武蔵殿は大層楽しんで居られるように見受けられました。手を打って、
「流石に旭将軍義仲公が嫡流のお家柄だけのことぞある。ご家中皆々芸達者であられることよ」
 褒められれば、返礼しないわけには参りません。義昌殿が奥歯を噛みつつ、
「お褒めに与り……」
 漸く形ばかりの返礼をしました。しかしその言葉尻も消えぬ間に、森武蔵殿は、
「しかし折角の舞い踊りも、こう暗くてはよう見えませぬな」
 何が「暗い」だ。今は真夜中だ。明るいはずが無いではないか。
 義昌殿は胸の奥底ではそのように思われたことでしょう。あるいはそれを思うほどの余裕は無かったかも知れませんが、あったとしても、それを口にするわけにはゆきません。
「……では明かりを増やしましょう」
 暗いのならば、灯明、燭台の類の数を増せば良い、というのが、常人の考えです。義昌殿は家人を呼び、城内の別の部屋にある灯明をこの場に集めさせようと考えられました。
 ところが、森長可という仁は流石に「鬼武蔵」であります。そのお考えは常ならぬものでありました。
「床に炉を開けて焚火をしましょうぞ。さすれば部屋は明るくなり、また酒を温め、米を炊き、魚も肉も焼くことが出来ますぞ」
 木曾のご家中の方が呼ばれるよりも早く、森の近従の方々が立ち上がりました。木曾方が何かを言うよりも早く、森方は動きました。
 床板を割り、剥ぎ取り――無論、床に張られた木材が、簡単に割れるものであったり、剥がれるものであったりするはずが有り得ませんから、造作もなくそれを行ったと云うことが、如何に「恐ろしい」ことであるのか知れるでしょう――見る間に「囲炉裏」のような大穴が開いたかと思えば、剥ぎ取られ割られた床板が炉に放り込まれ、その殆ど直後には炎は天井近くにまで立ち上っておりました。
 この期に及びますれば、木曾義昌殿には悲鳴を上げる力も残っておられなかったようです。
 森家のご家中の方々が件の囲炉裏の回りに集まって、酒を温め肴を炙って、酔いしれ腹を満たし、この宴会を「楽しんでいる」その様を、うつろな眼で眺めるばかりであったそうです。
 夜は更け、夜は明けました。
 木曽福島が焼け落ちなかったのが不思議ではありますが、城内はまさに杯盤狼籍の有様でした。
 木曾勢の方々は衣服も髪も乱れ、眼は濁り、顔色はくすみ、力なく立ちつくしている有様でした。
 木曾義昌殿と申しませば、小姓に両脇を支えられてもなお、ぐらぐらと身の置き所が定まらぬようにして、漸く立っておられるといった具合です。
 森勢の方々は、甲冑軍装身を包み、髪は櫛目鮮やかに整えられ、眼は燦々と輝き、血気溢れ出る顔色をして、威風堂々と隊列を組んでおります。
 先頭には、百段と云う名馬にうち跨った森武蔵守長可殿が、その腕の中にはぐっすりと眠る岩松丸殿がおられました。
「いや伊予殿、馳走になり申した。御蔭で我が勢は本領まで駆け戻る力を取り戻せた。例を申しますぞ! では!」
 森武蔵殿が号令すると、軍勢は整った隊列のまま、打ち壊された門をくぐり、堂々と木曽福島城を出立しました。
 城内の方々も、また城外の方々も、誰一人その行軍を止めることが出来ません。
 隊列の先頭に……鬼武蔵の前鞍に岩松丸殿が居るからです。
 岩松丸殿の体には太い紐が打ち巻かれており、その先は、森武蔵殿の胴の背の合当理がったりに結びつけられていました。
 森武蔵守殿が川中島から「脱出」する道すがらの「出来事」を、多少なりとも小耳に挟んだ者であるなら、手出し口出しすればこの小さく新しい証人がどのような目に遭うか、すぐに察しが付くことでしょう。
 かくて鬼の隊列は悠然と木曽路を進み、国境を越え美濃に入り、何事もなかったかのように金山のご城内へと消えていったのです。

 まるで見てきたように、と、お笑いになりますか? 
 ご不審はごもっともです。私自身がこの出来事を見たわけではありません。
 伝聞です。見てきた者達から聞いた話です。
 すなわち、我が弟・源二郎と従兄弟伯父・三十郎頼康、そして、
出浦いでうら対馬守盛清もりきよにござる」
 出浦盛清は埴科郡坂城は出浦の庄の出で、武田が北信濃まで勢力を伸ばしていた頃はその家臣でありました。
 武田が滅び、織田様が北信濃を押さえて後は、当家が滝川一益旗下となったのと同様に、森長可が旗下に組み込まれたのです。
 盛清は大層小柄で、その上童顔でした。
 丸顔の中にある目は垂れて、鼻は団子のようであり、その上、唇の端が上がっていて、なんとも柔和そうに見えます。
 少なくとも、鬼武蔵が証人達を戻す前に首と胴とに切り分たその様を、眉一つ動かさずに見ておられるような、非情で剛胆な男には見えません。
「あそこで鬼殿に逆らったなら、それがしの一族が同じ目に遭ったでしょうから」
 そう言って、垂れ目を細めつつ、額の当たりを撫でました。
 元々笑っているように見える顔立ちの男です。笑っているように見えたからといって、本心笑っているとは限りません。
「ご苦労であった」
 そう言ってやるより他に、掛ける言葉が思い付きませんでした。
「まあ、あの大騒ぎに乗じて、源二郎様を木曽福島から易々と落とすことができたわけでありますれば……。案外、伊予守殿は未だに真田の証人がいなくなっていることに気付いておられないかも知れませんな」
「まさか、木曾殿はそこまで魯鈍な方ではあるまいよ」
「どうでございましょうかなぁ。あの乱痴気騒ぎの後にございますれば、暫くは消えた証人や逐電した家臣の行方を追うどころではないでしょう。まあ、そろそろ岩松丸殿が無事に戻られる頃合いでありましょうから、正気に戻られたやもしれませんが」
 盛清はしれっと重要なことを申しました。岩松丸殿……後に元服なさって、仙三郎義利よしとしと名乗られるようになったのですが……その安否のことです。
「その方が手を打ったのか?」
 一応訊いてみました。
「それがし自身が何かしたのか、とお訊ねならば、否とお答えするより他ございませぬな。鬼殿とは木曾に辿り着くよりずっと以前、猿ヶ馬場さるがばば峠でお別れ申しました故。鬼殿が信濃衆の証人が非道いことになった後、でございますが。ともかく、それがしが何かしらしたことがあるとするならば……お別れの直前、鬼殿に一言申し上げた、ぐらいでございますよ。
『人質の使い方には二種類あります。つまり、相手の力を奪うために命を取ってしまうか、相手に手出しをさせないために生かしておくか、です』
……とまあ、その程度のことを、でございますが。御蔭で大層褒められましてね。形見にと脇差を頂戴いたしました」
 と、ニッカリと笑った盛清は、その笑顔の侭、
「しかしまああの鬼殿も、京の方の何とか云うお寺の『火事』で、ご舎弟三人を失ったばかりなワケでございますれば、幾分かは身内を失った者の痛みのようなものは知っておられるのではないかと存じますれば」
 などと付け加えたものです。
 しかしながら、何分顔つきが顔つきだけに、腹の底が謀りかねました。ある意味で、至極恐ろしい男と云えるやも知れません。
 第一、奇妙ではありませんか。
「信府に入る前に別れたわりには、その後のことを良う知っておる」
 私は思うたことを思うた侭に言ってみました。
 さすれば盛清めは、やはりしれっと申したのです。
「それがし、忍者にございますれば」


 さても、当家にはおかしな……いや人並み外れて不思議な者達が集まってくるものです。我ながら感心します。
 お手前は、己自身がおかしな者である故だ、と仰りたいのでありましょう? 
 論駁出来ぬのが、何とも口惜しいことです。
 しかしながら、人並み外れた所がどこかになければ、当世生きてゆくことは難しい……そうは思われませぬか?
 森武蔵守長可殿にしてもそうです。人並み外れた非道の力があったからこそ、あの方はあの時生き残ることができたのです。
 先の長湫ながくての戦でお命を落とされたのは、あの方を上回る人並み外れた者に真正面からぶつかったがためです。
 上回る「人並み外れた事柄」は、何も武力とは限りません。
 知恵、胆力、忍耐、あるいは時節、機運。
 人知を越えたところにあるからこそ、「人並み外れた」力、なのではありますまいか。

 さておき。
 あの時私は、出浦盛清から木曽の方で起きた大変な騒ぎ――と云うか森武蔵という奇禍――の話を聞きつつ、別の人並み外れて不思議な御仁を思い起こしておりました。
 前田慶次郎利卓という仁です。
 件の厩の宴から日を数えますと半月ばかりの時が流れておりました。
 たった半月です。その半月の間に色々なことが起き過ぎました。
「慶次郎殿に詫び状の一つも書いておらなんだ」
 何の接ぎ穂もなく突然に零しましたが、盛清は平然として答えました。
「慶次郎様と申されるは、滝川様ご家中の前田宗兵衛様のことでありますな」
「知っていたのか?」
「お噂はかねがね。武勇という点では、件の鬼殿に引けを取らないとか」
「雷名轟く、か。さて今頃どうして居られるかな?」
 私はあくまでも何気なく呟いたつもりでありました。すると盛清はにこやかに見える顔で、恐ろしげなことを申したのです。
「さて、早ければもう北条勢と対峙しておられる頃合いやもしれませぬな。何分あちら様も、京の変事を小耳に挟んで以来、五・六万ばかりのお供を引き連れて、上野国へ遊山においでるご予定を立てておいでだということですから」
「五・六万か」
 圧倒的絶望的な兵数でありました。
 しかしそれを聞いた私の口からは、
「北條殿は大した地力のあることだなぁ」
 などという、どこか他人事であるかのような言葉が漏れました。
 他人事であったのは、間近に迫っているであろうその戦に、参じよ、という命令が下っていないためでありました。
 この時なお、我ら信濃衆にはあくまでも「織田上総介様御生害」を秘匿なさっている滝川様でなのです。味方である筈の北條方が攻め入ってくる理由を明かさないのであれば、我らの兵力を動員するのも憚れる、ということだったのでしょうか。
 理由はどうであれ、信濃衆は動きません。信濃領内に居られる滝川勢も動けません。例えば、小諸に居られる道家彦八郎正栄様、この方は滝川一益様が甥御様であられますが、この方に何かしら動きがあったという報告が、草やノノウから上がってくることはありませんでした。
 沼田にいる矢沢の大叔父からも正規非正規問わず繋ぎがないところをからすると、信濃に近い場所にいる滝川勢も動かない様子です。
 いえ、むしろ、動くに動けないとというのが正しいところやも知れません。
 と、申しますのも、実のところ信濃側にはまだまだ織田勢に反発する者が、僅かながらではありますが、いないでもなかったのです。動き出しそうな者達を睨み付けておく必要がありました。
 あるいは動き出したところを背後を突かれるようなことがあるやもしれません。
 沼田の滝川儀太夫益氏殿は軽々に動くことが出来ないのです。
 ともかく、我らが出ぬのであれば、すぐに動かせるのは近場においでのお手勢と、実際に北條に攻め込まれた上野にいる者、即ち、有無もなく直ぐさま戦わざるを得ない者達のみとなります。
 その兵数は、
「多く見積もって、上州武州勢が間違いなく従っての二万弱。少なければ、お手勢だけの五千余、といったところか」
 私は息を吐きました。やはり他人事のような口ぶりになっておりました。
 それに答える盛清の口ぶりもまた、他人事のようでありました。
「分が悪うございますな。数も数ですが、それよりも、勢いのこともありますから」
 絶対的な君主が逆賊に誣いられたなどと云う大変事が起きたのです。忠臣達の動揺はいかほどでありましょう。そして敵対する者共はどれだけ士気を高めている事でしょう。
「ともあれ、お手勢の殆どを動かしておられるとすれば、今頃ご支配下の城々、ことさら上州の城々などはさぞ手薄になっておろうな」
 先の二つは無意識に他人事のように申したのですが、この度の言葉は意識して他人事のように言いました。
「厩橋には確か左近将監様がご猶子の彦次郎忠征様とやらがおいでるはずですが、証人を逃がさぬようにするのが手一杯といった所ではありますまいか。万一夜陰に乗じて討ち掛けられたならば、あるいは相手が無勢であっても一溜まりもなく……などということもないとはいえぬかと存じますよ。やれ、くわばらくわばら」
 盛清も相変わらず他人事のように重要な機密に当たるであろう事を答えてみせました。
 いや、他人事どころか、まるで人をけしかけるかのような口ぶりであるようにさえ聞こえたものです。
「厩橋、か……」
「はい、厩橋にございます」
 出浦盛清との話しは、そこで終いになりました。
 私がその場から……つまり、岩櫃城から離れなければならなかった為です。

碓氷うすい峠』
 父・真田昌幸直筆の書状……というか、書き付けには、ただそれだけが書かれていました。
 当たり前の指示書であればその後に当然続くであろう、命令を書いた「本文」がありません。
「全く、我が一族は性急な者ばかりだ」
 誰に言うとでもなく、呟きました。
 本文のない命令書の本文に当たる部分は自分で考え、動かねばならぬ。
 その程度のことが出来なければ、あの人の部下や、ましてや倅は務まりません。
 父の考えていることを推察するか、あるいは、その場で己の思う最適な行動を取るか。
「あの親父殿の腹の内など、私ごときに判るはずがない」
 私は僅かに笑ったのを覚えています。
 しかし命令は命令です。私は碓氷峠に向かわなければなりません。
 そして、相手が誰であり、どのように出迎えねばならぬのかを、出迎える相手が眼前に現れるまでに考え、決めねばならぬのです。
 問題は、
「出迎える相手は何処の誰か」
 と云うことでしょう。
 このとき、甲州上州、そして信州を欲し、狙っていた陣営と云えば、
「上杉、北条、徳川」
 に他なりません。
 奥州の方々の中にも食指を動かさんという向きはあったのやも知れませんが、あちらの方々が信濃に入るには、まずご自身の領内の安寧を量った上で、北条と当たる必要がありましょう。ですからこの線は他の三つよりは薄い。
 次に薄いのが上杉です。彼の方々の本拠はは越後にあります。従って攻め込んでくるとすれば境を接する北信濃からということになります。
 あの鬼武蔵森長可殿が放棄した北信濃には、一揆勢を除けば――これが一番厄介ではありますが――あまり障害となる存在がありません。上杉勢は速やかに進入し、彼の地を掌握なされるでしょう。
 ですから更に東信濃をおもお望みであるならば、そのまま千曲川沿いに上田の平へ進むか、あるいは地蔵峠を越えて真田の庄方面へ向かう、というのが筋です。言わずもがな、碓氷峠とは逆方角です。
 次に徳川陣営です。こちらは、本領の三河から入る形となります。
 南信濃から進むか、あるいはまず甲斐から入るか。
 その時徳川の本体が何処にあるのかによりますが、もし甲斐から入った場合、そこには滝川の諸将と兵がおります。また、その旗下と云うことになっている武田の遺臣もおります。
 織田信長ご生害、そのことをまだ知らされていない……であろう武田の遺臣と、元より「同僚」である滝川様と徳川勢が出会ったなら、どうなるのか?
 滝川左近将監一益様と徳川蔵人佐家康様とが不仲であるとは聞き及ばぬ事です。……飛び抜けて良好であるとも聞かぬことですが……それにしても、戦になるとはあまり考えられません。
 恐らくはこの二筋の「川」は、並び流れるか、そうでなければ滝川が徳川に流れ込んで一筋の大川になる。そして北条を飲み込み、碓氷峠と云わずどの山をも越えて、信濃に押し寄せてくる。
 ではそこに北条殿の軍勢しかいなかったなら?
 恐らく戦になるでしょう。この時点では勝敗は判断しかねました。それでも徳川勢が碓氷峠を越えようというのなら、その戦に勝つことが必要でした。
 しかし、織田信長様御生害の折りにはまだ大阪に居られた徳川家康様です。その後、無事ご本領に戻られたとして、次にどのような動きをなさるでしょうか。
 確かに領土拡大の好機ではあります。北条方の不穏な動きも気にかかるでしょう。しかしそれよりも、大謀反人・惟任日向守明智光秀を討つ方を優先するとも考えられます。
 となれば、やはり北条です。
 武田攻めの報奨がなかった北条殿のことです。織田信長という枷がなくなれば、長年欲し続けたこの土地に食指動かさぬ訳がない。
 偉大な主君を失って浮き足立つ滝川も、寄る辺を失った武田の残党も踏みつぶし、怒濤の勢いで攻め込んでくるのに、何の障害もないのです。
 定めし小勢を率いた私は昼なお暗い山の中で、北条の大軍と対峙することになる。その公算が高い。
 背筋の寒いことです。
 多勢を目前に見たならば、戦わぬにしても震えが来るものです。
 ええ、この時私は、真田と北条とがすぐに戦になるとは考えておりませんでした。
 碓氷峠に出張る理由は、来た者を丁重に出迎えるためと確信していたのです。
 考えてもご覧なさいませ。武田が滅びつつあるとき、父は……真田昌幸は何をしましたか。
 武田四郎勝頼公に信濃岩櫃まで撤退するように進言するその裏で、織田様に馬を贈り、北条に割の良い文を送ったのですよ。
 その人が、この時に北条方か、はたまた徳川方か上杉方か、あるいはその総てにか、何らかの手を回していない筈がないでしょう。
 それでも私は、もう一つ、峠を越えようと者がいる可能性も考えておりました。
 出浦盛清が、近々滝川様と北条との間に大規模な戦が起きると申しておりました。そして悲しいかな北条方が勝つことでしょう。
 そうなれば、生き延びた「敗将」や「敗残兵」が信濃へ落ち延びようとするに違いありません。その地に将が目をかけてやっていた土豪がいたなら、それを頼って来ることは想像に易い。
『碓氷峠』
 私は父の寄越した書き付けを、それこそ穴の開くほどじっと見ました。
 たった三文字からなかなか目を離すことが出来ません。私は顔も上げず、どうにか目玉だけを持ち上げて、
垂氷つらら
 呼ばれた垂氷めは、不調法にも白い顔の半分と黒い目玉だけを、僅かに引き開けた襖の隙から覗かせました。
 なにやら奇妙なイキモノでも見るかのような目で、私と向き合いで座っている出浦対馬の柔和そうな丸顔を、ちらちらと見ています。
「父の命で碓氷峠へ行くことになった」
「お供いたしますとも」
 間髪を入れず、応えが返ってきました。
 間髪を入れず、私も返答しました。
「お前はこの対馬と厩橋に向かってくれ」
「はいはい」
 なんとも気楽そうに応えたのは、出浦盛清でした。素早くひょいと立ち上がります。
 襖の向こうでは黒い目が輝いておりました。
「慶様との繋ぎですか?」
 その人の名を聞いて、私は漸く頭を持ち上げる気力を得ました。
「前田宗兵衛殿は厩橋には居られぬ。今頃は武蔵国の当たりまで出張っておいでだ」
 私は意識して硬い口調で、断定的に言いました。
 襖の陰の目の光には、失望のような不安のような色が加わりました。
「では、何を?」
「厩橋に証人がいる」
 垂氷が何か言いかけましたが、その前に盛清が、
「つまり、手薄な城に忍び込むか急襲するかして、厩橋に閉じ込められている於照様をお助けしろ、ということでありますな。承知承知」
 ひょいひょいと歩むと、開き掛けの襖を大きく開け放ちました。
「さ、参ろうかね」
 垂氷は盛清の柔和顔を見上げ、固唾を飲み込むと、頭を振ったのです。
「嫌でございます」
 これを聞いて盛清は私の顔色を窺い見つつ、
「……と、申しておりますが?」
 丸い狸面は、呆れたというでもなく、困ったというでもなく、むしろおかしくてならないといった具合の色をしておりました。
 私は何も言いませんでした。言わぬ侭、垂氷めの目の玉のあたりに視線を投げておりました。
 すると垂氷はブルリと身震いしたかと思うと、急に居住まいを正して、
「私は砥石の殿様から、若様の武運長久を祈祷をする役目を仰せつかったのです。お側に居らねば、祈祷が出来ません」
 真面目な顔をして申したものです。私は少々可笑しく思ったのですが、笑うことは堪えました。
「使いに出ろと言ったときには、走るのが好きだ等と申して、喜々として私から離れて何処までも行くではないか」
 そこまで言うと、一呼吸置いて、
「それとも、慶次郎殿が居らぬ厩橋には興味がないか?」
 意地悪く言い足しました。
 すると垂氷は激しく頭を振りました。
「それは違います。断じて違います」
「では、何故だ?」
「私が若様のお使いに出るのは、行って帰って来いというご命令だからです。『行け』と言うだけのご命令ならば、キッパリ御免にございます」
 垂氷はくちさきを尖らせました。おかめがひょっとこの面を真似しているようでした。これを出浦盛清がしみじみと眺め見て、
「仲のお宜しいことは何よりなんですがねぇ」
 などという事を申しますと、拗ねてそっぽを向いた垂氷の奥襟を矢場やにわに掴んだのです。
「さて、行くよ」
 盛清は掴んだモノを引き摺って歩き出しました。
 その様は、田舎の禅寺に幾年幾十年も掛けっぱなしにされてたっぷりと抹香に慰撫された軸から抜け出てきた釈契此しゃくかいしの様に見えました。
 ただ、狸面の布袋尊が引き摺っているのは頭陀袋ずだぶくろなどではなく、生きた人間です。それも垂氷です。温和しく引き摺られてゆくはずがありましょうや。
 暴れました。
 裳裾がはだけるのも意に介せず、手足と言わず体中をバタバタと振り揺すり、城内隅々まで聞こえるほどの大声でぎゃぁぎゃぁと喚きました。
 まるで駄々を捏ねる童のようでありました。
 喚き声の主は廊下へ出、出口の側へ曲がり、柱やら壁やらの陰に隠れて、私からは姿が見えなくなりました。その後に及んでもまだ声も床を叩き蹴飛ばす音も聞こえます。
 私は、次第に遠くへ去って小さくなって行くその音に、
「頼んだぞ」
 と声を掛けました。
 思わぬ大声でありました。自分でも驚くほどの声量でした。
 途端、音がぴたりと止みました。
 静寂がありました。息が詰まるかと思ったころ、
「承知いたしました」
 泣き腫らした童めが、掠れた声を張り上げてそう答えてくれました。

 山中では余り多くの兵を引き連れていたところで、かえって身動きが取れなくなりかねません。私は雀の涙ほどの兵を選びました。
 その中に、沼田から「偶然」岩櫃に来ていた矢沢頼綱配下の禰津ねづ幸直ゆきなおを、無理矢理組み入れました。
 幸直は私と年が近く、何よりこの男の母親が私の乳母であったこともあり、幼い頃は実の弟よりもなお親しくしておりました。
 そのように気心の知れた者を側に置きたい心持ちだったと云うことは、この時の私は相当に気弱になっていたのでありましょう。
 ああ、幸直は本当に「偶然」岩櫃にいたのか、と?
 そうに違いありません。私が幸直に、
「久しぶりに顔を見たい」
 というような文を送ったのは、父が私に碓氷峠へ行くように命じるよりも「ずっと」前のことですから。
 つまりは、私は「ずっと」心細かったと云うことです。
 さても、私が選んだ者達は、精鋭とも云える者達でありました。さりとて、幾ら歴戦の強者そろいであっても、その時私が選び出した人数で、戦が出来るはずもありません。
 それほどの少数でありました。
 精鋭達は口にこそ出さぬものの、その顔に浮かぶ不安を隠しませんでした。
 しかも私はその少数の兵達に、武装ではなく、山がつのさながらの身軽な装いをさせたのです。率いる私も、無論も同様の出で立ちです。
 身支度した私達の姿は、遠目には猟師か農夫のように見えたことでしょう。
 これには動きやすさと、偽装との両方の意味とがありました。
 鎧や刀の類も、できるだけそうと知れぬように偽装させています。鎧櫃よろいびつなどではなく、ありきたりの行李に入れるか藁茣蓙わらござの様な物に包み、槍をもっこ棒として、あるいは天秤棒として、運ぶのです。
 それではいざと言うときにすぐに戦えぬ、と、お思いでしょう。兵達もそのように申しました。
「いざ、は、ない」
 私は断言しました。
「もし、山中で誰ぞにであったとして、戦にはならぬ」
 この頃の戦線は、信濃国境より離れたところにありました。
 戦をするつもりの侍が戦場でも戦場への道筋でもない山の中に、武装したまま入ることは有り得ません。
 戦をするつもりのない侍ならば……つまり戦場から逃げ出したただ一個の人間であるならば、鉢合わせしたところで畏れる必要はありません。
 武装して「見せる」必要があるのは、峠に着いてからであう人々です。
「それでは変装する必要も無いのではありますまいか?」
 ぬけぬけと申したのは幸直です。他の者達は口を開きませんでしたが、その顔色を見れば、我が精鋭達が私という将を信用していないことが知れるというものです。
 仕方のないことです。
 私は小倅です。しかも小心者です。
 そのことを隠すつもりはありませんでした。
「私は腰抜けだ」
 むしろ胸張って申しました。
 皆、憮然たる面持ちで私を見ました。
「さりとてそのことでそしりを受けるのは口惜しい。誰からも『己が身の保身のために、大仰に兵を動かした』と思われたくないのだ。滝川様の側にも、北条殿の側にも。それから、行けと命じた父上にも」
「一番最後が、一番肝心にございますね」
 幸直が笑んでくれた御蔭で、私も、他の兵達も、幾分か心が落ち着いたものでした。
 準備が総て整い、いざ出立というその前に、さらにそれらしく見えるよう顔に泥や煤を塗ることを提案した者がおりました。私はその案を退けました。
「そのようなことをせずとも、そのうちに汗みどろになって汚れ、疲れ果てて人相が変わる」
 私はつい三月ほど前の事を思い起こしておりました。
 甲斐新府の城が、その主たる武田四郎勝頼様の御命令により焼き払われた時のことです。
 私と弟の源二郎、姉妹とまだ小さい弟達、母や叔母、親戚の女子供は、城を出ることを許されました。
 木曽昌義様が逸早く織田様に「付いた寝返った」がために、その縁者の方々が首を刎ねられたのは、その更に一月ほど前の事でした。
 我々が命を拾ったのは、父が最後まで武田から離反しなかったためです。厳密に申すならば、離反を宣言しなかったため、かもしれません。
 ともあれ私は、親族と、僅かばかりの女中郎党を率いて新府を出、私達だけの力で父がいる砥石へ向かわねばなりませんでした。
 真田の猛者達は、殆ど父に率いられて砥石に籠もっており、そこから出て来ようがありませんでした。
 武田の兵士は勝頼様に従って敵地へ行くか、武田を見限って各々故郷に行くかしました。
 護衛など、頼みようがありません。
 私達は深い山の中を彷徨いました。食料などを持ち出す暇はありませんでしたから、すぐに空腹に苛まれることになりました。何か採ろうにも地面は雪と枯葉に覆われ山菜の芽も出て居おりません。
 致し方なく、唯一枯れていない物を採って食べました。
 杉の葉です。
 いや、ごもっとも。杉の葉などは線香や狼煙の材料であって、まったく人の食べる物ではありませぬ。
 人ばかりか、獣もあのような物に口を付けるものですか。
 鹿や猿めらが冬の最中の木の実も草もない時に致し方なく杉を喰うなどというときでも、葉ではなく木の皮を剥いで、その内側の柔らかい所を食べるのだと云いますから。
 しかし我らは食べました。
 食べるより他になかった。
 一応、人間らしいことはしてみました。火を熾して、煮てみたのです。いくらかは食べやすくなるかと思いましたが……。
 青臭く、油っぽく、渋く、苦く、固い。
 いや、思い出しただけでも口が曲がります。
 その時も私は曲がった口で私の精鋭達に申しました。
「いざとなったら、アレを喰えばいい。一息に十か二十は歳を取ったような渋い顔に変わる。だから、わざわざ出がけに何か細工をする必要はなかろう」
 皆苦笑いしました。
 武田滅亡の折には、その禄を食んでいた者達の大半が、大なり小なり苦労をしたのです。
 父の下にいた者達は混乱の前に砥石まで引いておりましたから、私ほど酷い目を見なかったやもしれません。
 しかし他の所にいた者達は、あるいは私よりも余程辛い目を見たやもしれません。
 皆、そんな思いは二度としたくないと願い、同時に、またあの苦しみを味わうことになるやも知れぬと畏れました。
 この時に誰ぞがぽつりと零した声が、未だ耳に残っております。
「そんなものでも、喰えば腹は膨れる……」
 誰が申したのか、思い出せません。幸直か、あるいは別の者か。
 存外、私自身が言ったのやもし知れません。

 我らが隊の先頭には、禰津幸直が付くこととなりました。
 幸直のみは、農夫の着物の上に古びた腹当鎧を着込んでおりました。腰には拵えの悪そうな刀が下がっております。
 まるで、戦場から落後して彷徨ったその果てに、僅かな粟の粥を口にするのと引き替えに農夫の用心棒なったかのような、哀れな侍崩れのような格好をです。
 好んでそのような格好をしたのではありません。私がその形をさせたのです。
 そう云った哀れな格好を幸直にさせておいて、私自身はどうしていたかと云えば、隊の半ばに隠れるようにしておったのです。
 お笑いなさい。
 袖丈の合わない継ぎだらけの野良着を羽織り、破れ笠を目深に被って顔を隠し、身を縮こまらせていた、情けない私を。
「まるきり、用心深い百姓がどこぞへ何やらを運ぶ風情そのもの、ではありますが」
 幸直は不平を露わに口を尖らせました。
 戦続きの時世でありました。物持ちな百姓の中には財産を別所へ「避難」させる者もおりました。
 ある日突然侍共がやって来て、徴集だなどと言い、米も野菜も家財も、時には人さえも奪って行くからです。
 避難の途中で奪われては困ります。ですから物持ちは、村の力自慢の者が……大抵の男は農夫であると同時に地侍でありますから……戦に出ていなければその者に、そうでなければ、どこかの軍勢から逃げて……いや落ちてきた「侍だった者」を雇うのです。
「何か、不満か?」
 私は幸直のふくれ面に尋ねました。
「誰であれ侍ならば、落人浪人の姿など、嘘でもしたくありませんよ」
 幸直が言うのは当然のことです。誰しも敗残兵などにはなりたくありません。
 大体、この時の我らと申せば、そうなりたくないが為に、必死を持って碓氷峠へ向かおうとしているのです。
「私も願い下げだよ」
 だからこそ小狡い私は農夫のフリをしているのです。幸直は四角い顎を突き出して、
「ご自身がなさりたくないことを、それがしにはさせるのですな」
「ああ、させる。済まぬな」
「謝られても困りまする。と申しますか、若はいつでも誰にでも頭を下げればよいとお思いのようですが、それで大将が務まりましょうか」
「さあて、どうであろうな」
 私が自信なく言うと、幸直は大きく頭を振り、息を吐きました。
「しかし、まあ……。若が侍でない格好をなさっても、まるで似合わぬことで」
「そうかな?」
「百姓の気概奇骨が感じられませぬ」
「うむ。私は弱虫だからなぁ」
「全く、若は昔から物知らずで臆病で泣き虫の狡虫であられるから」
「そうと知っているなら、文句を言うなよ」
「若に向かって文句が言えるほど厚顔無恥でも大胆不敵でもありません。それがしは若に輪をかけた臆病者。これは独り言です」
「よう聞こえる独り言だな」
「若が耳聡いだけです」
「そうか。しかし、お前も私の独り言が聞こえたらしいから、私以上に耳がよいのだろう」
「あれは独り言ですか?」
「ああ、独り言だ」
「左様で」
 言うだけ言うと、幸直は突き出していた顎を引きました。
 農夫の形をした侍達が、肩を揺らして笑いを堪えておりましたが、
「では、参りましょうぞ」
 先導の幸直が号するのと同時に、皆笑うのを止め、静かに荷を担って歩き始めました。

 先導は信濃を指して行きました。上州の側には滝川様方の方々も武田遺臣の者もいるのです。そういった顔見知りの方々に、ばったりと出会ってしまわぬ為の用心です。
 戦に怯えるこの百姓が実は私であると云うことがすぐに知れてしまっては、私が困りますから。
 だからといって道なりに進んで信濃に入ってしまっては、我々の顔をもっと良く知っている者達――例えば真田昌幸であるとか――そういう方々に出会ってしまいます。
 ですから信濃の方向の、山の中に分け入ったのです。
 そうして我らは山の中を進みました。
 本筋の道ではありませんから、歩きづらいことはこの上ありません。もしも鎧など着込んでおったなら、すぐに息が上がってしまっていたことでありましょう。
 私達は……というか、私という一人の小心者は、ちいさな物影が動くにも木の葉が擦れる些細な音にもおどおどと怖じ気づきながら、歩みました。
 ところが、道行きには火縄の臭いも、血の臭いも、死人の臭いもないのです。
 これから戦へ向かおうという軍も、戦場から逃げ帰ってきた人々も、追い剥ぎ山賊の類に堕ちた者共にも、出会うことはありませんでした。
 私は安堵しましたが、殆ど同じくらい拍子抜けも感じたものです。
 わざわざ装いを変えた用心は――山道が殊の外歩きやすく、道行きが思ったよりも随分と捗った以外は――ほとんど無駄と云ってよいものでした。
 こうして、運良く、あるいは運悪しく、私達は何事もなく碓氷峠へとたどり着いたのです。
 ご存じでありましょうが、碓氷峠は大層急峻な山道の果てにある難所です。一年の半分ほどは雪に閉ざされ、残りの半分は霧の中にあります。
 坂東と信濃の境の要所で、古い昔から関所が設けられていた場所でありますが、その時はそんな面倒な代物はありませんでした。
 ほんの半月ほど前まで、信州も上州もただ一人の支配者である織田様の下にあったのです。同じ「家」の中で物を動かすのに、わざわざ荷や人を検める必要がありましょうか。
 確かに織田弾正忠信長という御仁がこの世の人でなくなった後、信濃と上野や甲州は、また別の「家」に別れてしまっておりました。
 小さく別れた「家々」はそれぞれの「玄関」を守るのが手一杯で、関所までは手が回らなかった物と見受けられます。
 ですから、番小屋や柵、門の類は、半ば壊れておりました。
 それでもそういった物が形ばかりはいくらか残っておりましたので、一応我らはその物影に生きた人の姿が無いことを確かめて回らねばなりませんでした。
 隠れている者が信濃の者であるならば、庇護しなければなりません。
 信濃の者でないならば捕虜として……やはり庇護しなければならぬのです。
 我らが調べた時、生きた人の姿はありませんでした。生きていた者の痕跡は僅かに認められましたが――。
 日が経った亡骸を見ると、心苦しくなるものです。その仏が具足などを付けていれば、なおさらです。
 我々は言葉もなく、百姓の装束を脱ぎ、具足を着込んだものです。

 陽が落ちれば辺りには深い霧が巻き、宵闇とも相まって、山中は己の鼻先さえ見えない程でした。
 我らは道筋から山中へ少し入った木々の影に身を潜ませました。
 夜目の効く者に道筋を見張らせ、遠耳の効く者には地面と山中の音に聞き耳を立てさせ、上州から信州へ入る者の気配を探らせたのです。
 そして私はと云えば――。ええ、お察しの通りです。巨樹の根に座り込んでおりました。
 それでも、すぐ側に禰津幸直がいてくれた御蔭で、どうやら大将らしく背筋を伸ばしておられました。
 この期に及んで背を丸め、ガタガタと震えるなどという失態を見せようものならどうなることか、想像に難くありません。
 幸直から矢沢の大叔父を経由して、恐らく豪勢な尾鰭が付いた状態で、父に伝えられることになる。それだけは、どうあっても避けたい。
 と、まあ、いかにも子供っぽい、つまらない見栄ではありましたが、そんなものでもピンと張っておれば、無様に倒れずに済むというものです。
 頼りない見栄の糸にぶら下がって、口を真一文字に引き結び、目は何も見えぬ闇の彼方を睨むように見開いている私の傍らで、幸直は何も言わずにおりました。
 思うに、恐らくは幸直も私と同じように、奥歯を噛みしめた青白い顔で闇を睨め付けるておったのでしょう。
 湿った無音の闇は、人の心も時の流れを包み隠してしまいました。
 突然、闇の中から声がしました。
馬沓うまぐつの音が聞こえます」
 地面に耳を当てていた「耳効き」が、音も立てずに私の足元へ参ったのです。
 夜明けの直前のことでありました。
「いずれから、いずれへ?」
 それまで長く口を閉ざしていた私は、声が喉にへばり付いて、思うように口先へ出てこないような、奇妙な心持ちになったものです。
 問われた「耳効き」の、
「上州の側から、こちらへ」
 という返答は、私の予想と違わぬものでした。
「数は?」
「あの様子では、恐らく十騎もいないやも知れませぬ。あるいは二,三騎、それと歩行かちが十か二十か……」
 これは予想外でした。私は驚くほど素直に、
「少ないな……」
 と口に出しました。
「数には確証がございませぬ。なにせ、地べたが妙に湿気っておりまして、足音が聞きにくうございますれば」
 そう言って「耳効き」は平伏しましたが、私はこの者の「耳」を完全に信頼することにしました。
 多く見積もって三十程、少ない方に見積もれば十二,三名の者達が、上州から信州へ向かっているのです。
 多い方の、三十というのが正しければ、何か――例えば奇襲であるとか――事を起こすための「別働隊」とも考えられます。
 何しろ、我らの員数もその程度でありましたから。
 また、十余と云うのが正しいとするなら、
「本隊からはぐれた……落ち武者の類でしょうか? あるいは、代掻き馬に荷を乗せて逃げ出した百姓家族かもしれませんが」
 禰津幸直が乾いた喉を絞って声を出しました。
 尤もな言です。私も七割方はそうであろうと思っておりました。
 つまりは、三割ほどは違うと感じておった次第です。
 試しに、三割のうちのそのまた三割程度の思いつきを、口へ出してみました。
「逃げ出した百姓の形をした斥候、あるいは忍びの類かも知れぬよ。我々がここへ来たのと、つまり同様の、だ」
 幸直は一瞬息を詰まらせました。霧が撒いているせいであったかも知れませんが、顔色は真っ白であったと覚えます。
 その白い顔の上に、硬い笑みを浮かべると、幸直めは、
「全く若と来たら、冗談が下手であられるから。それではお愛想程度にしか笑えませんよ」
 かさついた声で言ったものです。
 実のところ、私としては全くの本気の言葉で、冗談を言ったつもりなど微塵もありませんでした。
 私が農夫のフリをして山中の獣道を進むような真似をしたのは、偏に他人に不審がられないがためでありました。
 ですから、私でない、人に見咎められるのを畏れた哀れな小心者の誰かが、私と同じようなことを考えついて、同じようにしたところで、何の不思議があるというのでしょう。
 ところが、その場にいた他の者たちはおしなべて幸直の言葉を信じた様子でありました。各々、疲れた白い顔にほんの少し紅をさして忍び笑いをしたものですから、私も「違う」とは言い出せなくなりました。
「そうか、つまらないか。済まぬな」
 どうやらそれだけ言うと、皆と同じように嘘笑いをしたのです。
 不思議なことですが、その途端に、頭の奥に引っ掛かっていた、得体の知れない怖ろしさ、あるいは薄暗闇の様なものが、少しばかり晴れました。
 腹の奥からの哄笑でも、苦笑いでも、空笑いでも、泣き笑いでも、何であっても、笑った者が一番強い。
 幾分か年を重ねた今となればそう思えるのですが、あの頃の子供の私には、そこまでの理解は……恐らく無かったとは思いますが……。
 ともかくも、時を置かずして少なくとも十人を越える人の一団が峠越えをするであろう事は確かでありました。
 このあたりの山中を行く街道は堀割道でありますから、道の両脇は高くなっております。
 我らはその僅かな高みに潜んで、上州側に目を凝らしました。
 夜の暗闇はすっかり払われていたのですが、霧はむしろなお一層濃くなってゆきました。
 鳥の啼き声が枝間を抜けてゆきます。
 枝葉の揺れる音の間に間に、別の音が聞こえた……そんな気がしたとき、件の「耳効き」が、
「馬五頭。内騎馬は三。鎧武者。荷駄に馬丁がそれぞれ一人。二頭とも恐らく荷を負っているでしょう。歩行軽装一五ほど、長持か駕籠のような物を担いで歩く二人一組の足音が二組」
 と、ここまでは淀みなく言ったあと、一呼吸置いて、僅かに不審げな声音となって、
「……女子供らしき足音が五つほど」
 と言い、ちらりと上に眼をやりました。
 見やった先の太いシナノキの枝に、人影がありました。
 人影は「あ」と言う間もなくするりと木を降りると、私の足元に片膝を着きました。
 夜っぴて見張りをしていた「目利き」の眼は流石に赤く、瞼は腫れ上がっておりました。
 頭を垂れ、顔を伏せた「目利き」は、
「女駕籠と長持が一丁ずつ。駕籠に付き添って女房衆が二人、下女が三人」
 と正確な員数を数え上げました。
 つまり、山道を登ってくるのは、少ないとはいえ護衛の侍を付けることが出来る程度の身分のある「貴人」、それも恐らくはご婦人で、上州から逃げ出そうとしているのだ、と見るのが自然です。
 換え馬や、駕籠や長持の担い手の交代要員かえがいないところからすると、遠くへ行くつもりが無いのでしょう。さもなければ、急いでいてそれだけの人数を集めきれなかったのかも知れません。
 問題は、その「貴人」が誰であるか、です。
 信濃へ向かっているからにはその「貴人」は、信濃に何かしかの縁がある方でしょう。
 とは申しても、北条殿に縁のある方である可能性も無いとは言えません。北条に縁のある方が、本心は相模の方へ行くことを願っていたとしても、その願いが叶うとは思えないからです。
 考えてもご覧なさい。滝川様、あるいは旧武田の陣営の者が、北条殿に縁のある方が国外へ出ようとするのを見過ごすことなどできおうものですか。
 それでも、どうあっても上州から出たい。むしろ出ることのみを考える、と云うのならば、幾分か手の薄いであろう信濃を目指す。そんなことも有り得ないとは申せません。
 とは云えど、やはりそうである確率は低い。大体、動くこと自体が大層難しい筈です。
 ですから件の一団は、信濃に縁者がいる方である公算が高い。
 そして、滝川様の陣営がその方を戦場から離脱させても良いと考えている、あるいは離脱させたいと願っている方、つまり、滝川一益様や織田方に縁の深い方ということが想像できます。
 そうであるならば、我らはあの方々を庇護する必要があります。
 父がどのような腹積もりであるかに寄りますが、その方をお助けすることによって、有り体に言えば「滝川様に恩を売る」ことができます。
 あるいは、証人人質とすることができるのです。
 非道と思われましょうや?
 そも、戦など人の道に外れた行いです。それを行うのが武士です。道ならぬ道を通るのが、戦乱の世の侍の役目です。
 少なくとも、我々がここであの方々を「助けて」差し上げれば、その方々は命を拾うことになります。
 例え証人としてであってもです。
 命を拾えば、生きてゆくことが出来れば、そこから先に何かが起きるやも知れません。いや、何かを起こせるかも知れぬのです。
 判っております。言い訳に過ぎません。
 あの時の私も、それが判っておりました。そうやって、言い訳にならぬ言い訳を、心中で己に向かって言い聞かでもせねば、私はその場所に立っていることができなかったのです。
 私は、小心者ですから。
 それでもこの時は、己に言い聞かせるにしても、実際に声に出して言う訳には行きません。私は我が胸の内でだけ己に言葉をかけました。……いや、そのつもりでありました。
 しかし私という鈍遅ドヂの口先は、その主に輪を掛けての粗忽者であったのです。
業盡有情ごうじんのうじょう雖放未生はなつといえどもいきず故宿人身ゆえにじんしんにやどりて同証佛果おなじくぶっかをしょうせよ
 後々幸直らが私に、笑い話として語った事が本当であるならば、初めのうちはそれでもモゾモゾと口の中で言うだけであったようです。
 ところが声音は次第に大きく高くなり、最期に、
「家内安全!」
 と、幸直に、
「訳がわからない」
 と頭を抱え込ませた一言を口にした頃などは、殆ど叫び声に等しいものになっておったのです。
 私はと云えば、名も知らぬ鳥共が一斉に叫び、翼で自分を鞭打つようにしてねぐらから飛び立ち、森の木々の枝が大風にまかれたかのように揺れ、擦れ合う枝葉の悲鳴があたりに響くに至って、漸く己の失態に気付いたという、情けない次第でありました。
 私は倒れ込むようにして地に伏せました。
 一呼吸の遅れもなく、その場にいた者達総てが、私と同じように身を低くしました。
 その鮮やかな隠れ振りを見た私は、火急の事態の最中であるというのに
『我が家のことであるが、真田家中の者共は、全く良く訓練された者共であることよ』
 などと、いたく感心したものです。
 しかしまあ、その時の皆々の視線の痛いことと云ったらありません。ことさら禰津幸直の眼差しときたら、槍で腑をこね回されているかと思われるほどのものでありました。
 自業自得はあります。それはその時の私にも判っていたことです。それでも、私は恐らく恨みがましい目を幸直に向けていたのでありましょう。幸直はギリリと奥歯を軋ませると、
「お覚悟めされよ」
 と低く唸り、腰の刀の鯉口を切ったのです。
「心得た」
 私は、笑っておりました。作り笑いでも嘘笑いでもなく、本心から笑っておりました。
 幸直が斬り掛かろうとしている相手が、自分ではないと確信していたからです。
 ……主に対して刃を向けかねるからか、とお訊ねか?
 いや、禰津幸直は忠義者ですから、私が主だからと云う理由ぐらいいでは、私を殺さずにおくことはないでしょう。
 お解りになりませぬか?
 例え主人であっても、あるいは親兄弟であっても、言動に謬りがあれば、これを正さねばならぬでしょう。
 涙を呑み、歯を食いしばり、血を吐く思いをしてでも、黒い物は黒いと断じなければならぬのです。
 阿附迎合あふげいごうして己の正義を誤魔化すようなことがあれば、元は些細な過ちであっても「二人分」に倍増いたしましょう。その上、回りの者がみな阿諛追従あゆついしょうしたなら、過ちはたちまち数十、数百、数千に膨れ上がるのです。
 膨れ上がったモノは、針の如き小さな力で突いただけでも容易に弾けてしうものです。
 外から突けば血膿が吹き出し、飛び散ります。あるいは内から突き上げる針のために、骨肉露わになるほど大きく皮が裂けることもある。
 そうなってからでは遅いとは思われませぬか?
 過ちは芽の内に摘み取らねばならぬ。腫れ上がる前に潰さねばならぬ。
 それが小さくとも摘み取れず、潰しきれぬほど、根深く、また取り返しのつかぬ事であるなら、例え主人であろうとも、斬ることもやぶさかでない。
 それこそが真の忠義だと、私は思うのです。
 私ばかりか、真田の家にいる「忠義者」は、大体同じように考えているのではないでしょうか。
 あの時私は、一つ部隊の全員の生き死にに関わる、大層な失敗をしでかしました。これは間違いのないことです。「誅殺」されても文句の付けようがありません。
 それなのに幸直が私を斬ろうとしなかった理由は、忠義だ友情だなどという、謂わば情のゆえの事などではないのです。
 ここでこの莫迦者わたしを斬ったなら、こちらの「手駒」が一つ減ってしまうから、です。
 何分にも、この折の我が隊は「少数精鋭」でありました。
 万一戦闘となれば――私は最初からそのようなことはないと踏んでいたのですがそれでも万が一に――全員が兵卒のとして闘うことになります。例え大将格であっても、指揮を執りながら歩行兵《かち》と同じ闘い振りをせねばならぬのです。
 ここで一つでも駒が落ちたならどうなることか、想像に硬くないでしょう。
 禰津幸直は、私のような鈍遅ドヂとはちがって、すこぶる良くできた男です。自分の手で自分の部隊を弱らせる真似が出来ようはずがありません。
 これでも一応は王将の役を負っている駒なのですから、なおさらです。いや、飛車角金銀、あるいは歩の一枚であっても、落とすことが出来ましょうか。
 幸直にはそれが判っている。そのことが私にも判っている。
 それ故、私は笑ったのです。
 申し訳なく、心苦しく、情けない、自嘲の笑みです。
 真の本心からのモノでありましたが、強張った笑顔であった感は否めません。
 己の頬骨の上に本心からの笑顔の皮が貼り付いた、そんな心持ちです。
 私の――作り物じみていながらも命のある、さながら名人の打った猿楽の面のような――奇妙な顔を見て、幸直めは今にも泣き出しそうな顔で、唇を噛みました。
 それきり、誰も動かず、誰も物を言いません。
 私の所為で一羽の鳥もいなくなった森の中は、木々のざわめきさえも消え去り、静まりかえりました。私に聞こえたのは、私自身の心の臓の音、幸直の抑え込んだ息づかいばかりでした。
 実際には、それほど時が過ぎたわけではありませんでしたが、あの場では長い時のように感じられたのです。
 あるいは日も月も止まってしまったのではないかとさえ思われました。
 私はすっと体を起こしました。
 その時の一同の顔を、私は忘れることが出来ません。
 目を見開いて驚愕する者がおりました。覚えず頭を抱えた者もおりました。皆一様に驚いていたのです。
 数名の体の動きは、しかし、私が目を配るとぴたりと止み、皆はまた背を低く伏せた形で岩のように固まりました。
 ただ一つ、無駄に高い上背の私の頭がのみが、灌木の茂みから突き出た格好となりました。
 相変わらずの濃霧の中に、私の目にもその形が認められるほどに近付いてきている一つの騎馬の影があります。
 それが霧に映り込んで大きく膨れた幻影まぼろしでないとするならば、その馬は大層な肥馬であり、打ち跨る人もまた堂々たる恰幅の武者でありました。
 一見すると甲冑は纏っていない様子でしたが、先ほど「耳効き」が、
「鎧武者三騎」
 と申しておったことを疑いなく信用した私には、着物の下に胴鎧か鎖帷子を着込んでいるのだと思われました。
 時折チラチラと鋼が陽を弾く閃光が見えましたので、何か抜き身の武器を携えているに違いありません。
 しかしその光は鋭いとはいえ小さいものでした。さすれば太刀ではなく、槍の穂先でありましょう。
 太刀であれ槍であれ、抜き身を持っているとあらば、あちらの方は当方と闘う意思をお持ちだと云うことになります。……無論、こちらを「敵」と判断なさったその時には、でありますが。
 こちらには目利き耳効きがいてくれた御蔭であちらの人数がはっきりと知れましたが、あちらの方にこちらの伏勢の数がはっきりと判っているとは到底思えません。
 潜んでいるモノがナニであるのか――鼻の効く武将であれば、火縄の臭いをさせていない我々から銃撃される可能性が無いことは判っているでしょうが――正体が殆ど掴めていないものと思われました。
 正体不明のモノが、正体不明の大声を立て、ている。そこに乗り込んでこようという彼の騎馬武者の胸には、一騎当千の自信が満ちているに相違ありません。
 そんな方が、一戦交えてでも守ろうとしているからには、駕籠の中においでの方は、すこぶる大切な方であるのでしょう。
 私は一震えすると、懐に手を差し入れました。
 途端、私の回りの気配が、一層に張り詰めたものとなりました。
 禰津幸直が、太刀の柄に手を添えて身を低く屈めたまま、私の顔を見上げました。唇を噛んでいます。
 私の眼の端の方に、不安とも不審とも呆然とも驚嘆とも安堵とも、何様とも取れ、何様とも取れぬ、一寸言葉に表せぬ、幸直の唇を噛んだ顔がありました。
 恐らく私が、
「行け」
 と言えば、躊躇無くその太刀をすっぱ抜き、土手を駆け下り、馬上の人物に斬り掛かることでしょう。
 それが私には真実まことを見るように想像できます。
 その人の槍の穂先が、幸直の背中から突き出て、ぎらりと赤みを帯びて輝いている、その様子も、です。
 私は何も言いませんでした。息を吐くことさえ忘れていたような気もいたします。
 私は懐に忍ばせていた物を掴み、近付く影を見つめておりました。
 馬上の影の、それが馬に乗っているとは思えぬほど揺れることもなくすぅっと進み来るさまと申せば、さながら仏師が精魂込めた騎象の帝釈天の像を、道に材木を敷き並べた上に滑らせて運んでいるかのようでした。
 私は懐の中の細い棒きれを素早く引き出しました。
 伏せていた幾人かの腰が浮きました。声を上げる者はおりませんでしたが、皆眼差しを私の手元に突きたてました。
 皆の眼には、一尺強の竹の黒い棒切れが写ったことでしょう。
 一同、ぽかりと口を開けました。
 それが何であるか見極められなかった者は、私が何をしようとしているのかも思い当たらぬので、ただ唖然としておりました。
 武器にはならないものらしい、程度のことに気付いた者は、武器も持たずに敵……らしき者の前に出る気ではないかと思ったものでありましょう。そじて「青二才めがとうとうおかしくなったか」と、大いに動揺したのです。
 そしてその「棒切れ」が何であるか気付いた者は、私が「そんな物」を戦場このばしょに持って来ており、それも、敵らしき輩が迫っているこの時に持ち出すという非常識をやらかすのを見て、不安にかられたのです。
 ですから一同、目玉が溢れそうなほどに目を剥いて、顎が外れ落ちそうなほどに口を開いて、私を睨んだのです。
 ただ一人、幸直を除いては。
 そうです。禰津幸直だけは、上顎と下顎とをきっちりととじ合わせておりました。
 私は、幸直以外の者達が、私に飛びかかり、押し倒し、地面に押さえつけるより前に、素早くその棒きれを、口元に宛がいました。
 裏返された女竹の横笛が、甲高い叫び声を上げました。
 耳効きの者が、覚えず、頭を地面のその下まで潜り込ませようかという勢いで伏せ、両の耳を手で覆い塞ぎました。
 他の者……幸直を除いた殆どの者達も、耳効きほどの慌てようではないにしても、あるいは頬肉をヒクつかせ、あるいは鼻の頭に皺を寄せ、あるいは瞼をぐっととじ合わせて、耳の穴に指を突っ込み、頭を抱え込みました。
 私は満足していました。
 会心の「日吉ひしぎ」だったからです。
 ヒヤウともヒヨウともキイともヒイとも言い表せぬ、己の体から何かが飛びだして行くような音が、朝靄で濡れた森の中を抜けて行きました。
 ええ、左様です。
 私が吹き鳴らしたのは、京に住まう母方の祖父から戴いた、由緒あるあの能管であります。
 彼方から山鳥の啼く声が、かすかに聞こえます。
 その向こうへ、あの音が遠く霞んで消えて行くと、それに連れるようにして、霧もまた薄れてれてゆきました。

 木々の枝の隙から、黄色みを帯びた日の光が、幾本もの帯のように差し込み、薄暗かった森と道筋とを明るく照らしました。
 霧の中の大きな人馬の影も、次第にその真実ほんとうの姿へと変じてゆきました。

 前田慶次郎利貞殿と四尺九寸の黒鹿毛です。
 
 慶次郎殿は抜き身の槍を掻い込んで、太い眉の根を寄せ、小高い道脇の茂みを……つまりそこから突き出た私の顔を、鋭い眼差しでじっと見ておられました。
 私の足元で、
「ぐうっ」
 苦しげな鼾のように息を飲み込む音がしました。
 私はあえて幸直の顔を見るようなことをしませんでしたが、恐らくは真っ白な顔で、唇を振るわせていたのでありましょう。
 普段の幸直は矢沢の頼綱大叔父の下におります。つまりは、昨今は沼田にいるのが常でありました。城代は滝川儀太夫益氏様です。即ち、慶次郎殿の実の父上様です。
 確かに慶次郎殿は滝川家から前田家へ養子に出された方です。その上、日ごろ「実家」には寄りつかずに、お屋敷のある厩橋あたりにおいでになるご様子でした。
 それでも滝川陣営でも随一だという槍使いの、苛烈極まりない武者振りを、幸直が全く知らぬというわけはありますまい。
 知っているからこそ、恐怖したのでありましょう。
『あの方が、敵であったなら』
 幸直を小心と嘲るつもりは毛頭ありません。私は、出来るだけ平気そうな素振りで、顔などは努めて嬉しげな笑顔を作っておりましたが、その実、心底震え上がっていたのですから。
『あの方が、敵であったなら』
 私は畏れ戦きながら、しかし、
『それも、また良し』
 とも思っておりました。
 不思議なことでありましょうか。
 人間いずれは死ぬのです。
 死ぬのは怖い。死にたくはない。
 幾度も申し上げたとおり、私は小心者です。常日頃より、出来る限り生き残りたいと願ってやみません。
 生き残れるというのなら、杉の葉の煮込みを食すぐらいのことは何でもありません。石を噛み泥をすすってでも、どれ程情けなく藻掻いてでも、どうあっても生き抜きたい。
 ですが、どう足掻いても絶対に死ぬというのなら、出来るだけ良い死にっぷりでありたいのです。
 親兄弟子孫知友よりもなお長々生き残り、畳の上で親族家臣に看取られて逝く幸福は元より良し。されど、戦場で素晴らしい敵将と堂々渡り合って、槍に貫かれて逝く幸福も、武人であれば願って当然とは思われませんか。
 ともかく、この時の私は、
『前田慶次郎になら殺されて当然であり、それで構わない』
 と思っていたのです。それどころか、
『むしろあの長槍に貫かれて死にたい』
 とさえ考えていたのです。
 ところがそれと同時に、頭の後の方では、
『それはあり得ない』
 とも感じておりました。
 理由はありません。ただそのように思えただけのことです。
 そのように思えただけのことで、私は武器ではなく笛を持ち、息を潜めるのではなく大きく音を立て、睨み付けるのではなく笑って迎えたのです。
 慶次郎殿は渋柿を召し上がったかのような顔をしておいででした。
 光の加減の為でありましょうか、どうやらこちらの顔がよく見えない様子でありました。
 しかしながら程なく、
「矢張り源三郎だ。あの胸に響く笛の音を、この儂が聞き違えるはずがない」
 弾けるように大笑なさったのです。
 前田慶次郎殿は、掻い込んでいた槍を物も言わずに無造作に後方に投げました。それを郎党らしき者が当然のことであるかのように見事に受け止め、すかさず穂先を鞘に収めました。
 主従揃ってなんとも武辺者らしい振る舞いでした。
 私がほれぼれとした面持ちで診ている前で、慶次郎殿が件の青鹿毛の馬腹を軽く蹴られました。ご自慢の駿馬は六尺も跳ね上がり、堀割道の底から灌木の茂みすら飛び越えて、なんと私のやや後方に着地したのです。
 蹄の三寸ほど脇で、禰津幸直が腰を抜かしておりました。
 その幸直の体を器用に避けて下馬した慶次郎殿は、私の顔をしげしげと見て、
「しかし、お主の父親も非道い父親だが、妹も大概だな」
「妹……?」
 一瞬、何の事やら判らずに小首を傾げますと、慶次郎殿はあきれ顔をなさって、
「照姫だよ。あの可愛らしい、お主の妹の」
「於照に、お会いになられた?」
 我ながらおかしな事を言ったものです。慶次郎殿は馬狩りから戻られて以降は厩橋においでだったのです。城内の人質屋敷にいる我が妹の顔を見ても不思議ではありません。
 しかも、慶次郎殿にとっては主君の嫡孫である上にいとこ違いの間柄である滝川三九郎一積様との縁談「らしきもの」が持ち上がった相手でもあるのです。顔つきの一つや二つをお確かめになって然るべきとも言えましょう。
「会うも何もないわい」
 慶次郎殿は少々呆れ気味に道の側を顎で指し示しました。
 あの頃にままだ珍しかった女駕籠の引き戸が開いて、中から見知った、そして今にも泣きそうな幼顔が現れました。
 頭は桂巻で覆い、身には継ぎの当たった一重を着ております。化粧気のない顔は煤にまみれていました。
 遠目から、着ている物だけを見ますれば、お世辞にも貴人とは言い難い装束です。
 その貴人らしからぬ身なりの者が、あのころにはまだそれそのものが珍奇な乗り物であった駕籠の、たいそうに立派な扉から出て参ったのです。
 本当ならば、不釣り合いなはずです。
 ところがちっともそうは見えませんでした
 なにしろ、出てきた娘の頭を覆っている布は、これっぽっちも汗じみたところが無く、晒したように白いのです。
 着物のに継がれた端切れには、使い古した布地の風情がまるで見えなません。
 おまけに、顔の煤の汚れはまるきり手で塗りつけたようでありました。
 すべて取って付けたようで、ことごとくあからさまで、万事嘘くさいときています。
 この扮装そのものが、「私は農婦ではありません」と白状しております。
 私は苦笑しました。
 私たち自身がもここへ来るときにずいぶんと下手な「百姓の振り」をしたわけでありますが、なんの、あの下手な変装と見比べれば、千両役者のごとき化けっぷりであったと云えましょう。
 しかし、百姓のフリをして他人の目を誤魔化そうというのが、於照の考えか、あるいは周りの入れ知恵かは定かでありませんが、
「やれやれ、兄妹そろって似たようなことを」
 私は笑いながら、涙をこらえておりました。
 妹は無事でありました。少なくとも、命はあります。
 それにどうやら、ここへ来るまでの間に杉の葉を喰うような思いはせずに済んだ様子です。
 そして件の偽百姓娘の方はといえば、切り通し道の崖の上に私の姿を認めた途端、こらえることもせずにわっと泣き出したのものです。
 そのまま物も言わず、崖下に駆け寄ったものの、さすがに女の足でよじ登ることが苦労であると見るや、その場にくずおれるようにして座り込んでしまいました。
 あとは顔を覆って泣くばかりです。
 私は灌木を乗り越え、崖を転がるようにして滑り降りました。足が着いたのはなんとも良い案配に、ちょうど泣き虫娘の真ん前でした。
 私がしゃがみつつ、妹の肩を抱いてやろうとしたそのとき、私の耳はおかしな音を聞きました。
 鍔鳴りです。
 そのすぐ後、頭の上で、鉄がぶつかり合う音がしました。
 私は右の腕に「重さ」を感じておりました。
 重さだけです。痛みのたぐいはありません。
 私の右腕めが、勝手に脇差しの鎧通しを引き抜いて、頭上に掲げ持っておりました。
 その太く短い刃に垂直に交わるようにして、長い刀が打ち下ろされていました。
 臆病者の私の身体には、なんとも妙な「癖」が染みついております。刀を打ち込まれたら防ぐという動作を、頭で考えるより先に身体の方がしてくれます。
 いや、便利なようですが、かえって不便なこともありのですよ。
 相手がこちらを襲う気などさらさらないというときでも、こちらが勝手に逃げることが多々あるのですから。
 それはともかくも。
 私の右手が押さえてくれた長い刃の根本には、当然ながらそれを握る籠手がありました。
 籠手の先に黒糸威しの大袖があります。
 その向こうには黒い顔が見えました。
 立派な口髭と頬髭を生やしています。大きく開いた口元には、尖った白い歯が居並んでいます。
 恐ろしい怒形でした。
 一瞬、ぎくりとしましたが、すぐに私は安堵しました。
 怒り狂った猛将の口元の上に、怯え、潤んだ、黒目がちな眼があったからです。
 怒形の面頬めんぽうをかぶっているのは、
『子供』
 に相違ありません。
 確かに一見、立派な鎧を着た大柄な「武将」ですが、おそらくは自分よりも年下で、ともすれば未だ初陣に至らぬ若造あろうと見て取りました。
 第一、打ち込んできたその刀に、刀以上の重さを感じません。すなわち、私を……一人の人間を斬り殺すために必要な力を、まだ身につけていない、未熟な小僧に相違ないのです。
 何分にも、自分も子供でありましたから、そして何分にも自分も小心者でありますから、同類はすぐに判ります。
 私は相手の刀をはじき返すことをしませんでした。
 そうするより前に、私の頭の上と目の前から、声がしたからです。
「三九郎殿、たとえ御身のなさることでも、許しませぬぞ」
 同じ言葉でした。しかし声の色はだいぶん違います。
 頭の上から振ってきたのは、破鐘のような声です。
 目の前からあがったのは、鈴のような声です。
 しかしどちらも大きく、そして大変怒っていました。
 二つの声から「三九郎殿」と呼ばれたその若武者は、忙しく首を上下に振って、二つの声の主の顔を見比べました。
 降ってきた声……すなわち前田慶次郎殿のいる上方を見た時の顔は、確かに恐れてはいるようでありましたが、なんと申しましょうか……そちらから叱られるのは致し方ないという諦観じみたものが混じっておりました。
 ところが、目の前の声の主、つまるところ我が妹の於照の方を見た時と申せば、恐れ慄いた上に、驚愕を塗りこんだような、見ているこちらがかえって吃驚するほど、真っ白な顔色をしておいでたのです。
 このときの於照と申しませば、頭から湯気を噴き出さんばかりの勢いで、煤で汚れた頬を紅潮させておりました。
 かつてないことです。
 何分にも、この我父お気に入りの末娘は、父親が何より大事に、さながら手中の珠のように大切に育て上げた箱入りでありました。
 我が妹ながら、賢く、おとなしく、引っ込み思案で、なにより目上の者には従順な、いわば「これ以上ない良い姫」でありました。
 それが激しく立腹して、耳割くような大声を上げたのです。
 そのさまを例えて申しますれば、さながら竈の中の熾火のようでありました。
 触れたが途端に、己の意思とは無関係に手を引っ込めてしまう、熱い熱い炭火です。
 件の三九郎殿――すなわち、滝川三九郎一積殿も、大慌てで、私めがけて打ち下ろしたあの大刀を引っ込めました。
 若武者はオロオロとしながら於照の様子をうかがいました。さすれば、於照めは、自分よりも大柄なその鎧武者をキッとにらみつけますと、
「敵と味方の区別もつかぬ御身でありますれば、此度の戦も、たいそう危ういものでございましょう。情けのうございます。例えあたくしが御身の御武運を祈ったところで、御手前の御命は無いものとお思い召されませ!」
 大喝といってよいでしょう。怒鳴られる当人ではないはずの私でさえも、肝が縮み上がる思いがいたしました。
「いや、これは主が身を守りたいとの一心でしたことであって……」
 ようやく小さく反論せんとする三九郎殿でありましたが、
「問答御無用にございまする」
 於照はピシャリと言い切りますと、ぷいと顔を背けました。
 その、下唇を突き出した、可愛げな顔を私の方へ向けますと、
大兄おおあに様、大事なお勤めの途中に、女子供の相手をなさる余裕もございませぬでありましょうが、あたくしが喜んでおりますことを、どうかお許しくださいませ。まこと、ここまで参りまする間に、寿命が十年は縮む思いでございました。こうして家族の顔を見ることができて、心が晴れました」
 泣笑しながら申しました。
 その後ろで、三九郎殿が顔を紙のように白くして、
「兄様……照殿の兄上殿……」
 聞こえるか、聞こえぬかというような小さな声で呟きつつ、上目遣いで、少々恨めしげに私の顔を見ておりました。
 そこへ、
「何だ、もう婿になった気でおいでか!」
 頭の上からカラカラと笑う声が振って参りました。
 滝川三九郎殿が顔を上げました。白かった顔色が、見る間に赤く変わってゆきます。
「違うぞ宗兵衛、断じて違うからな! 我はただ、於照殿の兄上、と言ったまでだ」
 その言葉が終わらぬうちに、今度は、樹の枝木の葉が激しく触れる音が振って参りました。
 振り向きますと、私の背後の地面の上で、黒鹿毛の馬の四足の足元にもうもうとした砂塵が巻き上がっているのが見えました。
 ドスンという、重い物が――つまり、肥馬一頭と武者一人が――高みから飛び降りて着地した音が聞こえたは、その後であったような気が致します。
 前田慶次郎殿はさも楽しげな顔で、
「左様で御座るよ、三九郎殿。主は件の茶会の折には厩橋にご不在であったから、その顔をご承知ないのも致し方なかろう。これが噂の真田源三郎信幸殿じゃ。ご無礼の無いようになされませい」
 馬上から私の背を平手で殴るように叩くのです。私は咳き込みそうになるのをこらえながら、
『何が噂か』
 と心中で独り言ちりました。
 良きにつけ悪しきにつけ、私のことを言ったものであれば、その噂とやらの出処は慶次郎殿ご当人より他にありません。
「滝川の方々に妙なことを吹きこまれては困ります」
 私は本心そう思い、そのまま口に出しました。聞かれて困るとは小指の先ほども思っておりませんでした。
 慶次郎殿は不遜にも顎で三九郎殿を指し示すと、
「案ずるな。アレの祖父様ジイサマが主の父親のことをことさら大仰に、面白可笑しく触れ回るよりは、よほどに真っ当なことを言ってやっておるよ」
「よほどに真っ当に、ことさら大仰に、面白可笑しく、ですか?」
 私は覚えず笑っておりました。滝川左近将監一益殿が真田昌幸のことをご周囲に言い散らかしておられるさまも、前田慶次郎利卓殿が不肖私のことを過分な物言いで言い触らしておられるさまも、悲しいかな可笑しいかな、ありありと想像できました。
「うむ、そのとおりに、な」
 思った通りの答えが返って参りました。
 しかしながら、そうおっしゃって大笑なさるであろうという予想は、当たりませんでした。
 フと眼を針のように細くして、
「織田上総介様御生涯で、上方も関東も真っ暗闇だ。多少は明るい話をせねばならん」
 その場にいた者共すべてが息を飲み込みました。
 ようやく血の気が戻っていた三九郎殿の顔色が、また青白く変じてしまいました。
 いえ、顔色を返事させたのは三九郎殿ばかりではありません。
 上州からやって来た百姓に化けた人々の顔色も、信州から百姓に化けてやってきた我々の顔色も、その色の濃さに多少の違いはあっても、押し並べて皆、青くなったのです。
 そうでありましょう?
 慶次郎殿が漏らした「そのこと」は、まだ信濃衆には知らされていない事実です。無論、真田家の者は「知らない事」になっている話です。
 なぜ知らないのか。
 滝川左近将監一益が「明かさぬ」と、お手勢の内にのみ「秘匿する」と決めたことだからです。
 手元に置きたいと願ってやまぬらしい、真田『鉄兵衛かねべえ』昌幸にすらも明かそうとなさらない、秘密中の秘密でありました。
 それを、よりによって一族衆である前田利卓が、漏らした。
 これは左近将監様のご指示があってのことか、あるいは前田宗兵衛利貞の独断か。
 薄く閉ざされた瞼の隙間からは、その奥の眼の色を垣間見ることすら出来ず、いまこの大兵の武将が今何を考えているのかを推し量ることがかないません。
 私にわかったことといえば、慶次郎殿がわざわざ目を閉じてまで、心中を察せられることを避けているのだ、ということばかりです。
 私は慶次郎殿に正対し、じっとそのお顔を見つめました。
 彫りの深い、色艶の良い、しかし旅塵がうっすらとまとわりついた、微かに疲労の見えるお顔でありました。
「それで……慶次郎殿はどうなさるのですか?」
「『儂』がどうするか、だと?」
 そう尋ね返す慶次郎殿の目に、困惑の色が浮かんでいるように思われました。
 それも、疑念や懐疑ではない困惑です。わずかに喜色が混じっているようにも見受けられました。
「今の儂がどう動くかを、今の儂が決められようはずもない。儂は滝川一益の家来だからな……今のところは」
 三度言った「今」という言葉は、その全てが、他の言葉よりも強い音として、私の耳に突き刺さりました。
 薄目の奥の目の玉をわずかに動かすと、慶次郎殿は視線を私から外したのです。細い視線の先には、滝川三九郎一積殿がおいででした。
 私はその視線を追いませんでした。変わらず慶次郎殿の目を見、視線が合わぬのを知りつつ、問いました。
「今のところ、でございますか?」
 努めて穏やかに申したつもりでしたが、少しばかり……ササクレ程度のものではありましたが……棘のようなものがあったやも知れません。
 慶次郎殿はその棘さえも愛おし気に、うっすらと微笑して、
「ああ、今のところ、な」
 しかし、視線を私に戻すことはありませんでした。
 私は己の肩越しに、ちらりと滝川一積殿の様子を窺い見ました。
 面頬の口の隙間から見える紫色に変じた唇が、ヒクリ、ヒクリ、と痙攣をしています。
 何か言いたいのに、言葉にならぬ。それがもどかしく、苦しくて堪らぬのでありましょう。
 喘ぐように、
「宗兵衛……貴様……」
 と声を漏らすのが精一杯といったところでありました。おそらく続くのであろう、
「よもや裏切るつもりではあるまいな!?」
 という、憤りと不安と否定を願う懇願の言葉が出てきません。
「世の中、何が起こるかわかりませぬ故」
 前田慶次郎殿の瞼が、大きく開きました。眼は澄み渡っており、邪心のようなものは針の先ほどもありません。
「三九郎殿の祖父殿が儂を必要となさる限り、儂は付き従いますよ。ただ、儂を『いらぬ者』とおおせなら、儂は喜んで出てゆく。ま、結局それがしがどう動くかは、彦右衛門の伯父御がどう動くかによって決まるということですよ」
「爺様が宗兵衛を手放すはずがないではないか」
 三九郎殿が吐く安堵の息の音は誰の耳にもはっきりと聞き取れたことでしょう。慶次郎殿の眼の色が、わずかに曇りました。
 確かに、滝川一益が戦を続ける限り、天下一の槍使い前田利卓を手放すことはありえません。
 しかし、戦うことをやめてしまったならどうでありましょうか。

 例えば、偉大な主人・織田信長を失ったことによって、己が戦う意義をなくしてしまったなら――。

 滝川一益という武将が、六十という歳相応に老けこんで、どこぞの山中か、あるいは寺社のような静かな場所に引きこもったなら。
 その時、この大柄な槍使いは……前田慶次郎という武人は、人も通わぬ静かな隠れ家に留まり続けることができるでしょうか。
 戦いが絶え滅びてしまった世であるならば、問題はありません。わざわざ自分で火種を起こし、焚き付け、煽るような人ではありません。――むしろ、それ故に「一国の主」には向かないとも云えますが――。
 ともかく、世が太平であるならば、この教溢るる方は、歌を謡い、舞を舞い、茶を点て、書を読み、詩作に耽る暮らしを不満なく送られるに違いはありません。
 しかし、太平の世など、夢の夢の絵空事でありました。
 誰かが誰かと槍を合わせている。
 馬が走り、鉄砲が火を吹いている。
 幾万の命が燃え、そして消えてゆく。
 その中で、この仁がじっと座っていることなど、果たしてできましょうか。
 外には戦がある。
 硝煙が臭い、鬨の声が聞こえたなら、この方はきっと、嬉々として槍を掻い込み、あの黒鹿毛の胴を蹴り、背後を一瞥することもなく、矢のように飛び出してゆくことでしょう。
 前田利卓は戦いができる場所に居続けることを願っている。
 戦がしたいと願っている。
 私は何やら背中に嘘寒いものを感じました。
「それでは、上州に戻られるのですね」
 その時、そこに戦があったのです。慶次郎殿はニカリ、と笑われました。さながら、隣家に遊びに出かける子供のような笑顔でした。
「滝川一益には信濃で戦をするつもりが無いからな。……これは儂が請け負うぞ」
 黒鹿毛がゆっくりと歩み始めました。私の横を通り過ぎ、三九郎殿の眼前で止まりました。
「馬上より失礼。さあて若様、おうちに帰りましょうかね」
 慶次郎殿の大きな手が、滝川三九郎一積殿の襟首に伸びたかと思うと、その消して小さくはないお体がふわりと宙に浮きました。
「嫌だぞ、宗兵衛! 俺は照殿をお父上のところまで送る!」
 三九郎殿は駄々子の如く手足を打ち振るいましたが、その程度のことで慶次郎殿が手を離すことなく、また馬も歩みを止めることがありません。
「どのお父上ですか?」
 からかうような口ぶりでありました。襟首から吊り下げられた三九郎殿が口をへの字に曲げて、
「照殿のお父上だ。真田安房殿は、つまりは俺のお父上でもある」
 すこぶる真面目に答えを返すのを聞くと、慶次郎殿は馬上からチラリとこちらへ顔をお向けになりました。
 申し訳なさ気な苦笑いをしておいででした。私も苦笑いで返しました。
 傍らの於照は、両の袖で顔を覆うようにして、
あたくしは、存じ上げません!」
 などと申しましたが、夕日よりも赤く変じた耳の先までは隠しきれぬものでありました。
 慶次郎殿はカラカラと乾いた声でお笑いになりました。
「先方からは半ばお断りのごときお返事を頂戴して、そのうえお相手の姫君からはあのように呆れられておるというのに、うちの若君のしつこいことといったら! まったく祖父じじ殿によく似ておいでだ」
 三九郎殿のお体は、馬の鼻先を上州に向けた馬の背に載せられています。
「しつこくて何が悪かろうか! しつこいからこそ、爺様は、亡き御屋形様よりお預かりしたこの関東を守り通そうというのだ! そのために、於照殿には暫時戦火の及ばぬ場所へ退いてもらうという事であろうが」
 こちらへ振り返った三九朗殿の顔には、決死の覚悟が浮いておりました。
 泣き出しそうな赤い目を一度固く閉じ、また、握り締める音が聞こえてきそうなほど、手綱を強く握りしめました。
 馬腹を軽く蹴ると、馬は小さく足を前へ出しました。
 上州へ、上州へ。
「暫時だ、暫時! 誠に僅かな間のことだ」
 強情な若武者はこちらへ背を向けたまま、叫びながら峠を下ってゆきました。
 於照の、顔を覆う両の袖の下から、
「殿方は皆、嘘吐きです」
 小さくつぶやく声がしました。
 私は何も言ってやれませんでした。見るのも辛くて堪りません。
 弱虫の私は顔を上げて、歩き出さずにいるもう一人の強情そうな武者を見ました。
 前田利卓という老練な武将は、
「うちの左近将監は、上州の中だけで抑えこむ算段でいるようだが、そう簡単には行かないだろうな」
 他人事のように仰り、ふわっと微笑まれました。
「わが父には、どのように伝えればよろしいですか?」
 私の問いに対して、
「御屋形様後生害のことかね?」
 慶次郎殿は少々意地悪そうな眼差しをされました。私は思い切って、申しました。
「いえ、北條殿との戦のことです」
 つまり、織田信長の死のことなど、我らは疾う知っている、と暗に打ち明けたのです。
 慶次郎殿はわずかにも慌てることなどありませんでした。慶次郎殿も真田が影でコソコソと何やら動き回っていることなど、おそらくは承知だったのでしょう。
 それはつまり、滝川一益様もある程度はご存知であったに違いないということであるのですが、
「そういうことは、伯父御が考えることであるし、それなりの考えがあればそれなりの使者を走らせるだろう。どちらにせよ、儂のすることではないな」
 と慶次郎殿が仰せになったということは、滝川様は知っていて黙認、あるいは黙殺し続けるという判断をなさっておられるのでありましょう。
「では、慶次郎殿のなさることといえば?」
「なぁに、儂は戦しかできぬでな。儂はただ、目の前にいる敵を倒す。それだけしかできぬ、不器用者さ」
 その言葉には、湿っぽさは微塵もありませんが、それでも何やら悲しげではありました。
「目の前の敵が、友であっても……倒されますか?」
 私は心中恐る恐る、しかしそれを出来るだけ表に出さぬようにして、そっと訊ねました。
「ああ、倒すよ」
 前田利卓は冷たく低く言いました。ギラリとした鍛鉄の塊が、音もなく風を切ります。
「敵になるのかね?」
 繰り出された槍の穂先は私の鼻先を指し、その三寸先でピタリと止まっています。
「そういうことは、真田昌幸が考えることでしょうし、考えがあればそれなりの使者をよこすでしょう。どちらにしても、私が決めることではありません」
「だろうな」
 槍先が私の眼前からすぅっと消えました。
 尖った恐怖の代わりに、私の胸に満ちたのは、高らかな笑い声でした。腹の底から溢れ出た呼気で天地が割れるような哄笑でありました。
 一頻り笑うと、前田慶次郎利卓は、ふっと息を吸い込み、真っ直ぐな眼差しで私を見つめました。
「ま、そういう時が来たなら、互いに正々堂々とな」
「はい」
 私はなぜか笑んでおりました。真剣勝負の、命のやり取りをする約定を交わしているというのに、なぜか嬉しく思えたのです。
 恐ろしいことです。実に、恐ろしい。
「では、又な」
 そう短く言い残して、前田慶次郎は峠を下って行かれました。
 戦の只中へ、悠然と進んで行ったのです。
「なんとも恐ろしいお人だな」
 いつの間にやら崖上から降りてきたものか、禰津幸直が私の背で、ポツリとこぼしました。
「そうだな。敵には回したくない」
 私は本心そう思っておりました。そして同時に、あの黒鹿毛に向かって馬を突き進める自分の姿を、憧れに似た妄想に心震わせていたのです。
 そして、私たちも峠を下って行きました。上野へ背を向けて、血の匂いのしない方向へ……。

 その先の話は、又別の折にいたしましょう。
 滝川の方々と北條の方々が如何様に戦い、そして滝川一益が如何様に落ちてゆかれたか……粗方のことは、あなたもご存知でありましょうから――。
 はて、解らぬ事が一つと仰せですか?
 厩橋の事、と……?
 ああ、私が命じて於照を助け出しに向かった者たちのことですか。
 出浦対馬のような種類の男からすれば、
「負けぬ戦での無駄足踏みなどは、むしろ喜ばしきこと」
 といった具合で、
「まあ、それでも何もせぬというのはつまらぬものですから、ついでの事に、他の信濃衆がお預けになった証人の皆様と、ちょっとした遊山をいたしましたよ。行き先は、無論信濃でございますが」
 などと、やはりしれっとした顔で申したものです。
 垂氷つらら三ヶ月みつきばかり口も聞いてくれなかったというのも、言わずもがなのことでありましょう。
 まあ、つまり、そういうような次第だったのですよ。

終わり


※照姫
一般的に真田昌幸の五女は「菊姫」ですが、拙文では「照姫」とさせていただきます。
(猪坂直一先生の「上田城物語」基準、ということで……)
※朝駆け
1:朝早く馬を走らせること。
 2:朝早く敵陣を不意打ちに襲うこと。
 信府
松本。当時「信濃国の国府」であったため、それを略して「信府」と呼んだ。
 八幡原の戦い
永禄四年(1561年)の第四次川中島合戦
 十里
約40km。1里≒39.3km
 六左兄
 小山田茂誠(通称:六左衛門)のこと。  源三郎、源二郎の一番上の姉・於国(後の村松殿、落飾して宝寿院)の夫。
 青鹿毛
 馬の毛色の一種。全身殆ど黒色で、眼及び鼻の周辺、腋、尻等に僅かに褐色が見える。
 九寸
 中世から近世の日本では、馬の体高は四尺(約120cm)が基準とされており、それを越える馬は、越えた部分の長さで体高を表した。
 したがってこの馬の体高は体高四尺九寸(148cm前後)となる。
 床几
 脚を交差するように組み、座面に革や布を張り渡した折り畳み式の簡易腰掛け。
 かわらけ
 素焼きの陶器。この場合は素焼きの盃のこと。
 未の下刻
午後三時三十分ごろ

 計無保乃梨ケンポノナシ
 ※ケンポナシ(玄圃梨)
クロウメモドキ科ケンポナシ属の落葉高木。
花期は6月〜7月で、枝先などに緑白色の小花が固まった状態で咲く。
果実は9〜10月に熟すが、果肉は無いに等しい。しかし果柄部分が肥大して肉厚となる。ここを食すとほんのり甘く、梨に似た味がする。
この果柄を乾燥させたものがキグで、二日酔いの薬とされる。

 山がつ(山賤)
  山中で猟師・きこりなどを生業として生活している、身分の低い者(封建社会的な意味で)。
 子の三つ
深夜零時三十分前後
 五助爺さんと垂氷のセリフ(東信濃訛)の標準語訳

「矢沢の殿様に有難い御札を頂戴できると聞いて、大急ぎで(慌てふためいて)やって参りましました。どうか私を助けてやってくださいませ」

「先日、この五助おじさんのところの一番上の倅が急に死んでしまったので、お母さん(奥さん)がそれはもう泣いて泣いて、とうとう寝込んで起きることが出来なくなってしまいまして。あまりに可哀相なので、私の所で神様にお伺いたてましたら、簡単なことだ、矢沢のお殿様には諏訪の御社宮司様の神様が入っておられるから、お殿様から御札を頂ければ、たちまち治るでしょう、と仰せになられました。そこで、矢沢のお殿様を探したら、こちらにいらっしゃるというので、慌てて参りましたのでございます。私の神様の言うことに間違いはございません。殿様、一枚拵えて(作って)ださいませ」

 二時辰
凡そ四時間
 十六の面

能面の一種。若い武将の顔立ちを表したもの。十六中将とも。
美貌の若武者を演じる際に用いる面で、女面のように上品な顔立ちをしている。
源平一ノ谷の合戦で源氏方の武将・熊谷くまがい直実なおざねに討たれ没した平家の公達・たいらの敦盛あつもり歳の姿を写した面であるため、十六と呼ばれる。
 合当理がったり
 甲冑(当世具足)の胴部分の背中にあって、旗指物(個人識別用の目印となる旗や細工物)を固定するための道具の一つ。
 指物の竿を合当理から受筒というパーツに通し、待受というキャップ状の留め具で胴に固定する。
 金山城
 兼山城とも。美濃国可児郡、現岐阜県可児市兼山の山城。元は斎藤道三の猶子・正義により築城され、名は烏峰城。
 織田信長が美濃を領土としたことに伴い、森可成が城主として入り、可成の死後、次男・長可が継ぐ。
 長可が川中島へ移った後は、弟の成利(蘭丸)が城主となったが、本能寺の変で成利が討ち死にした後、川中島を放棄して戻った長可が再び城主となる。
 なお、長可死後は末弟の忠政が城主となったが、関ヶ原合戦の後、忠政が川中島海津城へ入封(この時「松城」と名称変更)するに伴って石川貞清(ちなみに正妻は真田信繁の七女・於金殿)の所有とななるも、廃棄され、建材は石川氏の本城である犬山城改修に用いられた。
 長湫の戦
 「長湫」は「長久手」の旧表記。
 天正12年(1584年)、秀吉(当時は羽柴姓)と織田信雄・徳川家康との間に起きた「小牧・長久手の戦い」のこと。

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